愛しい君と夢の中
ーーー
ふと目を覚ませば、日の出前の不思議な薄暗さに室内が染まっていた。
窓にかかる好みのデザインのカーテンも、サリアが選んだソファーも、子供の頃に悪戯をしたテーブルもしっかりと視界に映っている。
身を起こそうとしたコウェルズは自分の腕の中でサリアが静かな寝息を立てていることに気付き、肩までかかっている布団を半ば強めに引き剥がしてしまった。
薄手とはいえサリアのお気に入りの寝巻き姿に妙な落胆があり、その理由を思い出す。
「--夢だったわけか」
ぽつりと呟いたのは、あまりにも生々しい夢の内容だ。
昨夜サリアと妙な空気になってしまったせいなのか、あんな夢を見るなんて。
思い返せば思い返すほど、ただただ情けない以外のなにものでもない。
「…夢でよかった」
そして呟く。
昨夜の出来事とコウェルズ自身の欲求不満が見せた夢なのだとしたら、なぜ婚姻当日の夜という設定にしてくれなかったのかと思ったが、布団を捲られたことにも気付かずに安心しきった表情で眠り続けているサリアを見ていると脱力するように気が抜けるだけだった。
夢だとしても、あまりにも生々しかった。
思い出そうと思えばサリアの感触を全て思い出すことが出来そうで、慌てて馬鹿な考えを打ち消す。
もう怖がらせないと約束したばかりなのだから。
夢の中の約束とはいえ。
「…ん……あなた、さま?」
コウェルズの身動ぎに、眠たそうにサリアが目覚めてしまった。
まだ朝の早すぎる時間だというのに。
「すまない。起こしてしまったね」
「……いえ…」
まだまだ眠いのだろう。とろんと溶けてしまいそうな瞳が懸命に起きていようとするようにコウェルズを見つめてくる。その瞳が、ゆらりと歪んだと思った瞬間にコウェルズは強く上半身を起こしてしまった。
「サリア!?」
身を起こしながら彼女の名前を呼んだのは、まるで夢の中の出来事を彷彿とさせるように悲しげな表情で涙をこぼしたからだ。
「あ……ごめんなさい…少しお待ちください…」
サリアも上半身を起こして、自分の頬を伝う涙を手の甲でぬぐう。
今まで眠っていたというのに、泣いてしまった理由に気付いているようだった。それははたしてなぜなのか。
「…なぜ泣いているんだい?」
浅黒い華奢な肩に触れて、サリアの顔を覗き込んで。
「だ、大丈夫ですから!…怖い夢を見てしまっただけなんです…どうか気になさらないでください」
怖い夢を。
その言葉に、血の気が引いた。
夢の中とはいえコウェルズはサリアを犯し、怖がらせてしまったばかりなのだ。もし、もしサリアも同じ夢を見ていたのだとしたら。
「どんな夢を見たの?」
「……お化けの夢です。だから、もう平気です…」
そんな子供騙しに引っかかるほどコウェルズはサリアを見つめていないつもりはない。
涙はすぐには止まる様子を見せずに、コウェルズの目の前でサリアが何度も何度も手の甲で涙をぬぐい続けていく。
薄闇の中で涙の跡の増えていく手の甲が痛ましく感じて、コウェルズはサリアが夢の中でしてくれたように、その小さな両手をコウェルズの大きな手で包み込んだ。
「…私に関係している夢?」
もし本当にコウェルズと同じ夢を見てしまったのだとしたら。
その質問への返答代わりと言わんばかりに、サリアの肩がびくりと少し跳ねた。
「…どんな夢を見たのか教えて。…君を怖がらせたくないんだ」
両の手を握りしめたまま、涙の残る手の甲に口付けて、怖くないよと態度で示して。
サリアは一連の流れに少し呆けたようにコウェルズを見つめていたが、やがて唇を開いてくれた。
その夢の内容は。
「…あなた様が…別の女性と…結婚を」
コウェルズの見た夢とは大きく異なる内容の夢に、一瞬思考が停止した。
その後すぐに安堵してしまい、しかしサリアが涙をこぼすほどの内容なのだと唇を噛む。
その夢の内容は、コウェルズが現実に行い、サリアの大切な人を苦しめてしまったのだから。
あの頃はコウェルズもまだ未成年だった。
まだサリアとの婚約が結ばれる前、コウェルズの最初の婚約者は、サリアの姉だった。
島国イリュエノッドに魔眼の邪神教が蔓延り、その魔眼を抑えるためにエル・フェアリアがイリュエノッドと手を組んだことによる婚約。
邪神教の本尊に祭り上げられたその魔眼は、エル・フェアリアから奪われた幼子だったから。
赤都領主アイリス家から奪われた、フレイムローズの双子の妹。
その子を取り戻すための政治的な婚約。
コウェルズにとってそこに愛など無く、だからサリアの姉が病弱だと知った時、婚約相手を姉でなく妹のサリアに変えるようイリュエノッドに告げたのだ。
コウェルズにとってそれはエル・フェアリア王家の未来の為だった。コウェルズ達の母は病弱だったのだ。そこに再び病弱な母体などいらないと。
あまりに一方的な要望を、イリュエノッド王は受け入れてくれた。
それはサリアとサリアの姉にももちろん伝えられて。
今に至るまで、サリアは姉と和解できていないのだ。
ただ病弱だからというだけで婚約を破棄されて。それがどれほど1人の女性を苦しめたか、今なら少しは人の気持ちが理解できる。
そして代わりに選ばれたサリアもどれほど苦しんだだろう。
そんな過去があるから、サリアはいつでも婚約を破棄される立場であることを受け入れ、苦しんでいたのだ。
--それを選べるのはあなた様の方でしょう
昨夜サリアに告げられた言葉を思い出す。
気丈なサリアが夢にまで見てしまい、目覚めても涙をこぼすほどの内容。
「君を愛している」
心から告げた言葉に、サリアが少しだけ目を見開いた。
夢の中とは違う、現実世界でサリアがコウェルズに対して感じている本物の恐怖を取り除くために。
「私には君だけなんだ。…他の女性じゃ駄目なんだよ。…君じゃなきゃ」
夢の中で、サリアはコウェルズに毎夜の愛の言葉を願ってくれた。
それを現実のこの世界にも引き継ぐのは、コウェルズにとって当然の行いだった。
「あなた様…」
サリアの瞳からまた涙が溢れる。しかし今回の涙は、悲しみの色はなかった。
優しさだけを示すようにそっと抱き寄せて、もう一度「愛している」と告げて。
「毎晩伝えるよ。君が不安にならないように。結婚式の時にも国民達に向けて大きく宣言するし、お互いに年老いたって毎晩伝えるから」
そこまで言うと、コウェルズの腕の中でサリアが小さく吹き出してしまった。
「…本気なんだけどなぁ」
喧嘩しても、政務や公務で一時的に離れてしまう時があっても。
「では…もうひとつお願いしてもよろしいですか?」
そっと腕の中から逃れたサリアは、柔らかな笑顔をむけてくれている。頬には涙の跡が残っていたが、もうコウェルズの心を掻き毟りはしなかった。
「なんだい?」
「…毎晩優しい口付けをください。…私も毎夜、あなた様に思いを伝えますから。…あなた様のお傍にずっといますと」
それは、夢の中で最後にサリアに告げられた言葉で。
「……優しい口付けだけでいいの?それ以上とか」
「調子に乗らないでくださいまし!」
夢との違いは、現実のサリアは気が強いという点だろう。
コウェルズの軽口に、ペシンと胸を叩かれてしまった。そして、ひとしきり小さな声で笑い合って。
「…ねえ、夜じゃないけど、今から君の願いを叶えたいと思うんだけど」
コウェルズの提案に、サリアは少し嬉しそうに微笑んでくれた。
その優しい表情を目に焼き付けてから、今までで一番優しい口付けを交わす。
これから毎日毎晩、昨日よりも優しい口付けをサリアと交わしていこう。
そして愛の言葉を。
「…サリア、愛しているよ」
「私もです…あなた様を愛しています」
言葉の終わりにもう一度口付けた時、朝日が地平線の向こうから顔を出して部屋が光に満たされ、見慣れた室内中の全てのものがコウェルズの交わした約束の証人になったと告げるようにキラキラと輝いてくれた。
愛しい君と夢の中 終
3/3ページ