第84話
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改めて張り直した結界と、人の数に比べて静かすぎる室内。
コウェルズとルリアを隔てるテーブル上に人数分の飲み物を用意するのはジャックだった。
ルードヴィッヒは改めて風呂に向かわせた。理由は、こんなどうでもよいことで気を遣わせる必要はないからだ。
ルリアの後ろにいるイリュエノッド国の者達はここに訪れた方法が良くないとわかっている様子を見せるが、ルリアを止めることをしなかったのだろう。
五人の女官達。誰も彼もが過ちに目を背けるように気まずい表情を浮かべている。
「改めまして。謝罪の場を設けていただき、本当に感謝いたしますわ」
威厳を見せるよう堂々と話す様子に、思わず鼻で笑ってしまう。
ここに謝罪を受けるべきルードヴィッヒとダニエルはいないというのに。
全員分のお茶を用意したジャックもコウェルズの後ろに立ちながら、コウェルズにしか聞こえないほど小さなため息をついていた。
「もう事情を聞いているとは思いますが、今回の件は我が国のテテがスアタニラ国の文化をきちんと理解せずにいたことが原因なので、本当に恥ずかしく思っています」
微笑みながらも申し訳なさそうに眉を下げる仕草は、サリアでは見られない表情だ。
姉妹なので似てはいるが、中身は正反対だと思ってはいたが、間違ってはいなかった。
「テテはサリアの護衛の娘なのですが、どうやらきちんと教育をしていなかった様子で…サリアがきちんと下のものに示しがつくよう行動していれば、護衛も怠惰になることはなく、テテも未熟なまま大人にはならなかったでしょうに……本当にごめんなさい」
最後の謝罪に親しみが込められる。
確かにサリアと共にエル・フェアリアに訪れた護衛達は真面目ではあったが、どこか抜けていてサリアの側を離れていることもよくあった。
しかしそもそもイリュエノッド国ではエル・フェアリアのように四六時中護衛は付かない。
「テテの母親の魔術師がサリアと共に来ているんだったね。女性は二人いてどちらかはわからないが、確かに少し自由だったかな」
コウェルズの肯定に、ルリアの瞳が煌めいた。
「そうなのです!なので本当に申し訳なくて…大切な妹ではありますが、真面目ではあるのに抜けたところも多く…」
テテの話がいつの間にか母親に、そしてサリアにすり替わる。
ジャックから聞いた話を鵜呑みにするなら、ルリアはコウェルズの婚約者に返り咲く為にサリアを貶めたいのだろうか。
「サリアはイリュエノッドにいた頃から、勤勉な姿を人には見せていましたが…あの、あまり言いたくはないのですが…勉強を放棄してしまうことも多く」
「ああ、確かに少し。我が国の財政を学ぶ最中に、別のところに気を取られていたかな」
「ーーそうなので」
「そこが一生懸命な彼女の可愛い所だね」
コウェルズの肯定にさらに気を良くしたルリアが、最後の言葉に表情を強く強張らせた。
「我が国の若い侍女が焼いた菓子を気に入ってくれてね、夢中になって食べている様子がとても可愛かったよ。焼き菓子が無くなった後でようやく勉強中だったことを思い出した様子で顔を真っ赤にしてしまってね」
本当に、可愛かった。
心からそう惚気れば、ルリアは表情を穏やかな笑顔に戻して何事もなかったかのように頷くに留めた。
可愛い妹だと。
だがルリアの周りに控えた女官達の顔色までは戻せなかった。
怯えるように様子を窺う。そしてルリアが落ち着いてくれていることに、安堵していた。
「本当に未熟な子でお恥ずかしい限りです…大国の皆様にもご迷惑をおかけしてしまうかも知れません…」
「ああ、心配しなくていいよ。彼女はもう、立派に我が国の国政に関わってくれているからね」
「え?」
「報告されていないかな?クレアがじきにスアタニラに嫁ぐから、クレアの仕事だった国立児童施設での仕事をもう始めてくれているんだ。子供たちの評判もかなりのものだし、職員達からの信頼もすぐに掴んだ。まだ戦闘の残る地域で孤児となってしまった子達への救貧活動も、じきにサリア主体で新たに始動する。国母として勿体無いほど、我が国の民を愛してくれて本当に感謝しているんだ」
イリュエノッドに報告されているはずのサリアの行動功績を、ルリアはどうやら知らなかったらしい。
知らなかったのか、聞かなかったのか。ルリアと女官達の表情を見れば、どちらかはすぐわかったが。
「…そうですか…あの子は未熟ながらも頑張ってくれているのですね。ですがもし…私だったらもっと早く…」
含みのある言葉に、面倒臭さが勝った。
「もしサリアだったら、今回の件で正式な謝罪を入れたいというなら正規の手続をラムタル側に申請しただろうね」
柔らかく微笑みながら、ルリアの失態を告げる。
「…どういうことでしょうか?」
「まさか…それも知らずにここに?」
呆れてしまい、ため息が出る。後ろからジャックの気配も哀れみに変わった。
「君たちは彼女にそんなことも教えていないのかい?ここはラムタルなんだよ?」
女官達に視線を向ければ、誰もが俯いて言葉を自ら封じた。
その異様な雰囲気に、ルリアも狼狽えた様子を見せる。
そこへ。
「…コウェルズ様」
ジャックは扉に目を向けながら、小声で誰かの来訪を告げる。すぐ後に、扉を叩く音。
「私が」
「頼むよ」
ジャックが扉に到着するより先に結界を解けば、来訪者はラムタルの侍女だった。
ジャックは小声で言葉を交わす様子を見せてから、コウェルズに向き直る。
「イリュエノッド国のホズ様より、現状に対する謝罪をしたいと。時間はエル・フェアリアに、場所はラムタルに任せると」
ラムタル侍女の言伝に頷けば、ジャックはまた侍女と言葉を交わし、彼だけが戻ってきた。
面倒だが改めて結界を張り直して、今のやり取りをルリアがどう思ったかその表情に注視する。
浮かんでいるのは、ただの困惑。
「…君達は?国同士の謝罪の場合の手順は知ってる?」
ルリアではなく後ろの女官に尋ねてみても、誰も答えはしない。
「我が国と我が王家への侮辱と取るが、いいのか?」
強い口調に変えれば、一人が反抗するように睨みつけてくる。その女官を見つめ返した。
そうすれば、ようやく女官は口を開く。
「……開催国の顔を立て、謝罪の場などを設ける時は、開催国を仲介に…」
「それを、ルリア王女に教えた?」
「…………」
返答は無かった。
ルリアの表情が完全に強張る。失態にようやく気付いたのだ。
「ルリア、君はテテ嬢の不備を、サリアの責任と論ったね?」
「それは!…それは確かで…」
「いいえ、違います」
立ち上がり反論しようとしたルリアを言葉で制したのは、ジャックだった。
「宜しいでしょうか?」
「構わないよ」
「イリュエノッド国から内情を伝えられました。テテ嬢はスアタニラ国の文化に対しても、何ら過ちを犯してはいません。スアタニラ国のトウヤ殿が、本来相手に告げるべき告白をせずに宝玉刀をテテ嬢に渡したのだと聞かされました」
「それは!スアタニラ国の者達がテテを庇ったのでしょう!!」
「つまり、その報告は受けていたということだね?」
ルリアの言葉の揚げ足を取る。
黙り込むルリアに、さらに問うてみた。
「報告を受けていながら、自分の都合の良い様に解釈して、思い込みで私に断言していたのかい?」
ルリアの瞳が涙で潤む。
その涙は意地のようにこぼれさせはしなかったが、隠す為に俯いてしまった。
「我が国の大事な出場者の重要な休息中に声をかけて無理やりここまで訪れて、被害を受けた二人がいないのに謝罪?君は何がしたいんだ」
完全に言葉を無くしたルリアに、ため息がまた出る。
「私が大会に訪れていると報告を受けた時点で、エル・フェアリアの現状を見れば何故私がラムタルに来たか想像もつかないのかい?」
エル・フェアリアにファントムの噂が流れ、死んだはずの第五姫リーンが拐われた事実は世界中に広がっている。
今までファントムが奪ってきた各国の古代のガラクタとは訳が違うのだ。
大変な状況に陥ったエル・フェアリア。内密とはいえ大会の為に唯一の王子が自ら出向いたとなれば、道楽でないことくらい少し頭を使えばわかることだ。
「わ…私は…イリュエノッドとエル・フェアリアの絆をさらに強めたくて…」
「絆?間違えないでくれ」
何とか対話しようとするルリアを、鼻で笑った。
「魔眼を持って生まれたエル・フェアリアの赤子を拐ったのは、君たちイリュエノッドだ」
きつい口調に、女官達が憤るように顔を上げる。その恨むような眼差しは、コウェルズからすれば滑稽なだけだ。
「君たちイリュエノッドの民が、我が国の赤都アイリス家に侵入し、赤都の末姫フェアリーローズを奪い去った。そして今や、邪神教の生きる本尊だ。エル・フェアリアとイリュエノッドの間にあるのは絆じゃない。戦争に発展する可能性の方が強い緊張状態なんだよ」
フレイムローズの双子の妹。世界に現存二人しかいない、魔眼を持ったもう一人。彼女は今も、イリュエノッドのどこかにいる。
「わかるだろう?サリアは人質なんだ。それとも婚約なんて綺麗な言葉で隠しすぎて、事実を忘れてしまったのかい?」
大国エル・フェアリアの未来の国母の地位を、どれだけの者が求めていただろう。それこそ“絆”を結ぶ為の政略結婚の相手は世界中に数多くいた。
コウェルズがイリュエノッドの王女と婚約することを選んだのは、争いを回避する為に過ぎない。
攻め込んで、奪われた赤子を取り返してもよかったのだ。そうしない代わりに、婚約という形で両国を繋げることになった。
全ては奪われたフェアリーローズを取り戻す為に。
「…改めて伝えるよ。我が国の邪魔をしないでくれ。サリアを苦しめたくはないだろう?」
苦しめるつもりなど毛頭無い。サリアを愛しているのだから。だが、婚約という形の人質である事実も変えられない。魔眼が戻るまでは。
今まで何度もイリュエノッドに外交として訪れていたが、その間のコウェルズはただ穏やかに徹していた。
初めて見せたもう一つの顔に、ルリアがカタカタと身を震わせた。
浅黒いはずの肌が生気をなくして白くなっていき、呼吸音が乱れ始めて。
病弱なルリアの体調が落ち着いたとはいえ、根本はまだ弱いのだ。
「…連れて帰るといい。君たちが犯した過ちの謝罪は、ラムタルを正式に介したホズから受け取るよ」
にこりと微笑めば、女官達は怯えながらも強くコウェルズを睨みつけ、ルリアを介抱しながら部屋を後にしていった。
後に残されたテーブル上のお茶には、誰も手をつけていないまま。
人数のわりに静かだった室内に、ようやく本当の静寂が訪れる。
「…あのような言い方では、こちらが悪く思われますよ」
「構わないよ。その方が向こうも楽だろ?ルリアがどういう考えで私に近付いたかはわからないけど、穏便に済むならそれでいいじゃないか」
「穏便というには不穏すぎますよ」
ジャックが納得していない様子を見せるのは、自国がまるで悪者であるかのような会話の終わりだったからだろう。
コウェルズだって同じ気持ちだ。サリアは人質だなどと、誰が好き好んで言いたいものか。
「うわ、というか今の話、サリアの耳に入らないだろうね…」
「どうでしょうね」
「うわ…最悪だ…もっと考えて話せばよかった……あーーーー…最悪…」
久しぶりに両手で顔を押さえて後悔する。
強引な来訪と無礼な会話を制する為だったとしても、サリアの耳に残るのは自分が人質であるという裏の事実だけだ。
どれほど愛していると告げても、サリアは自分の立場を理解しているのだから。
左手の薬指にはめられたサリアとそろいの指輪を撫でる。
「…サリアに会いたいよ」
ポツリと呟く心からの本音。
ラムタルに到着する前から、多くの出来事のお陰で気力は擦り切れている。
それでも解決の為に動くのは、コウェルズがエル・フェアリアの王族だからだ。
「あーーもーー最悪だ。今すぐ癒しが欲しい!」
「やけくそにならないでください。それで、ホズ様の謝罪はいつ頃受けますか?」
「……なるべく早く。試合開始までには」
「わかりました。ラムタル側には伝えておきます」
ジャックの淹れてくれたお茶を飲んで、落ち着く為に目を閉じるが。
「それにしても、サリア様を本当に愛されているんですね」
訊ねられた問いかけに、ゆっくりと目を開ける。
「すみません、意外だったものですから」
謝罪するわりに、口調は面白いものを見るかのように軽い。
「ほんと…どうしてだろうね」
自分でも初めての感情なのだ。
「サリアは私の傍にいて当然だと思ってたんだ。…いなくなる可能性もあると知った時、それだけは駄目だって思った」
再び目を閉じて、瞼の裏にサリアを思い浮かべる。
可愛らしく微笑む姿を思い出したいのに、しかめ面ばかりが脳裏に思い起こされて少し笑ってしまった。幼い頃から彼女はいつも、コウェルズの笑顔に騙されることなく毅然としていた。
「結界を解くよ。敬語の方が楽だ」
「わかりました」
瞬きをすると同時にいとも簡単に結界を解いて、何とかサリアの笑顔を思い浮かべようと奮闘してみる。結果は惨敗だった。
「そういえば、準備はもういいんだな?」
コウェルズと代わって常語になるジャックは、重要でありながらほぼどうでもよい件を口にする。
「……ああ、忘れてました。そうでしたね」
ほとんど忘れてしまっていた、今夜起こる騒動。それが広まらなければ、コウェルズがここに来た理由の半分が失われてしまう。
誰が聴き耳を立てているかわからない城内で一切話題にしなかった件をジャックが口にしたのは、それだけ彼の中では重要度が高いのだろう。
いや、本来ならコウェルズこそ気にしなければならない事なのだろうが。
「そんなことどうでもいいので、何かお菓子を用意してもらえませんか?お嬢様がいないと小腹を満たせません」
「……待ってろ」
屈託なく笑えば、呆れた中に、どこか負い目に感じるようなため息を吐かれて。
コウェルズにとってはほぼどうでも良い、だが重要ではあるエル・フェアリアの一大事が、今夜発表される予定だ。
ーー父上、貴方の死は無駄にしませんよ
物心ついた時から見下していた、顔もうろ覚えの父親。
コウェルズと目も合わせようとしなかった父をその手にかけた時も、想像していたような躊躇いなど微かにも存在しなくて。
ただ、もしかしたら有ったかもしれない、父の優しさという名の最後の四年間。
もし父が、王妃となる者は弱っていく事実を知っていたとしたら。
「…………お菓子はまだですか?」
「待っっってろ!!!!」
ジュエルがどこへ直したかわからず探しているジャックの背中に問いかけながら、その考えを振り払う。
サリアの代わりにルリアを王妃にすれば、サリアは健康なままいられるかもしれないと一瞬思ってしまった歪な思考と共に。
「本当に、最悪なことばかりだね…」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟いて、ようやく用意された焼き菓子に手を伸ばして。
甘さを控えたシンプルな味わいに物足りなさを感じたのは、きっと今の気分が最悪だからなのだろう。
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やっと入浴を果たしたルードヴィッヒは、疲れた身体を労わるように深く重いため息を吐きながら、心地よい温度の絡繰り風呂を堪能していた。
身体を洗っている最中に話しかけてきた者達は一同に今日の出来事のとばっちりを労ってくれた。
大会名物らしいスアタニラの強引な求愛に巻き込まれはしたが、頭を占めるのはそんなことではない。
ボーっと全身を脱力させながら、ジュエルを思う。
ミュズとジュエル、他の男に取られた時に、諦められないのはどちらかと問いかけられた。
答えはすぐに出て、自分がジュエルに並々ならぬ思いを抱いていることを思い知らされた。
可愛いかと問われたら、妹のような感覚の可愛さな気がする。
好きなのかと問われたら、正直なところ、まだミュズの方が気になる存在だ。
だが、欲しい。
欲しいと気付いた。
誰かに奪われたくない最たる存在だと。
今までさんざんミシェルに邪魔され続けてきたが、それもここまでにしてやる、と。
訓練場から早く部屋に戻って、早くジュエルと話したかったのに、たどり着いた室内にジュエルはいなくて。
訓練で汚れた身体を綺麗にする為に訪れた大浴場前のホールでイリュエノッドのルリアに捕まり、有無を言わさず強引にコウェルズの元へと戻された。
彼女もまた、コウェルズが欲しかったのだろうか。
『ーールードヴィッヒ』
ふと話しかけられて、視線を無意識に声の方へと向ける。
そこにいたのはスアタニラの数名で、トウヤが仲間達に二、三言話してからこちらへと歩いてきた。
『…トウヤ殿』
彼の頬と肩には殴られたような痣があった。それはルードヴィッヒが絡まれた時にはなかった傷だ。
『今日は悪かったな。巻き込んで』
まるで今日の出来事など夢だったかのように普段通りにカラッと笑うが、周りの国々の目は警戒するようにトウヤに向けられている。
大会名物を引き起こし、トウヤは大会の優勝候補に躍り出たと聞かされていたルードヴィッヒも、思わず警戒の眼差しを向けてしまう。
『悪かったって…テテを取られるかと思ったんだよ』
『取りませんよ……今日まで知らなかった女性ですし…』
『そうか』
ルードヴィッヒの隣に入って、腰を落ち着けて。
『その痣は?』
『これか?クイにやられたんだ。俺の自業自得ってことで、スアタニラから連れてきた治癒魔術師も治してくれなかったんだよな』
両国からさんざん怒られた後の様子で、離れた場所にいるスアタニラの一団もまだ警戒する様子でトウヤを監視している。
『もうちょいイリュエノッドと対話してから、改めてそっちにも謝罪に行く予定だ。後回しで悪いな』
『対話というと…テテ嬢のことですか?』
『そうだ!絶対に連れて帰らなきゃならないからな』
自信満々に連れて帰ると宣っているが、ルードヴィッヒの見るかぎりテテは滅茶苦茶嫌がっていたはずだ。
クイも許さないだろうに、どこからその自信が来ているのだろうか。
『あの、テテ嬢が嫌がっているなら、さすがに無理なのでは?』
『俺のもんにしとけば気持ちなんて後で変えられるさ。時間は死ぬまであるんだからな』
テテはすでに手に入れたとでも言い出しそうなほどの自信だ。
その自信は、少し羨ましかった。
『…卑怯な真似をして手に入れたとしても、あまり男らしいとは思えないのですが』
『ん?…ああ、宝玉刀のことか?』
訊ね返されて、警戒するように頷く。
『仕方ないだろ。大会期間は限られてるんだからな。それに』
口元の傷はまだ少し血が滲む様子を見せるのに、トウヤは痛みなど気にせず笑って。
『愛してる女を手に入れる為に卑怯になって何が悪いんだよ?男らしく紳士気取って時間切れになる方が無意味だろ』
堂々と言い切れるのは、卑怯な手段だったと自分で理解しているからなのだろうか。
トウヤの眼差しに負い目などは存在しない。いっそ開き直った様子は、雄々しくすら見えた。
『ですが…その…たった一晩を共にしただけなのでしょう?』
『ああ。でもそれでわかるんだよ。俺はスアタニラの男だからな』
スアタニラ人は相手に執着すると聞いた。そしてエル・フェアリアの男も、スアタニラほどではないにしても。
トウヤを羨ましく感じ、ふとジュエルを思い出す。
テテとクイは、自分に当てはめればまるでジュエルとミシェルのようだ。
『でもどうやってクイ殿を納得させるつもりなんですか?』
『納得?させる必要あるか?』
『え…ですが』
『なんでクイの了承がいるんだよ。俺が欲しいのはテテだけだ。テテはあいつの大事な家族だから殴られるくらいは我慢するけどな』
あっけらかんと告げられて、口を開けたまま固まってしまった。
『とにかく俺は、卑怯でも卑劣でも、絶対にテテを手に入れて帰る』
『…トウヤ殿がイリュエノッドに行きはしないんですか?』
『それができたらもっと簡単だろうけどな。スアタニラがほぼ内乱状態だって知ってるだろ?ヤマト様の呪いを解いて内乱を鎮める為にも、大会が終わればすぐにスアタニラに戻らなきゃならない。もちろんテテもその時に連れて帰る』
言っていることが勝手すぎてカケラ程度の勝算もあるとは思えないのに、無駄に多い自信がトウヤなら出来るのではないかと思わせてくる。
『…卑怯でもいい……』
誰にも渡したくないほどの感情があるなら、卑怯でもいいのだろうか。
トウヤのように、死ぬまで愛せる自信があるなら、卑怯な行いくらい最初は必要なのではないか。
ジュエルの思い人はレイトルで、彼はミシェルとよく似た落ち着いた男で、二人とも若くして王族付きに選ばれた実力者だ。レイトルに至っては、魔力がほぼ無いはずなのに。
それに比べて自分は、良質な魔力を持っているのに未熟ばかりが目立つ。
ファントムの噂が立ったから王族付き候補なんて特例に選ばれはしたが、今に至るまで怒られてばかりで。
エル・フェアリア王城でジュエルと軽い口喧嘩になった時も、ガウェから「痴話喧嘩なら他所でやれ」と言われ、ジュエルは心底嫌そうに顔色を白くして否定していた。
『卑怯な真似をして、相手に嫌われたらどうするんですか?』
『対人感情なんて好きか嫌いか無関心のどれかなんだ。無関心じゃなけりゃ、嫌われても巻き返せるんだよ』
どこまでも前向きなトウヤは、根暗と揶揄されるスアタニラ人とは思えないほどだ。
『おー、お前と話してたお陰でやっとあいつらの目が離れたな。俺は右に行くから、どっちに行ったか聞かれたら左って言ってくれ』
『え?どちらに行くんですか』
『決まってるだろ。テテの所だよ。大会終了までの限られた時間は有効に使わなきゃな』
言いながら、トウヤはルードヴィッヒの影に隠れるようにしながらコソリと離れていった。
ルードヴィッヒと大人しく話し込んでいると思われていたのか、スアタニラの者達の目は確かにトウヤから離れていた様子だ。
人の感情は、好きか嫌いか無関心。
なら、ジュエルはルードヴィッヒをどれに位置付けているのだろうか。
嫌いではないはずだと思いたいが、ラムタルの庭で口論になった際に「嫌い」と言われたばかりだ。
無関心はあり得ないだろう。
好き、は。もしあるなら、家族感情に似たものだろうか。
きっと、ひどく嫌われているわけではない。無関心でないなら、巻き返せる。
トウヤの言葉が脳裏に刻まれる。
『ーートウヤはどこへ!?』
考え込んでいた矢先に、スアタニラの一団がトウヤがいないことに気付いて慌てて駆け寄ってきた。
右に行くから左と言ってくれ。
その言葉を残してテテの元に向かったトウヤ。
彼のおかげで、ルードヴィッヒはジュエルへの今後の対策に気付けた気がした。
だから。
『……テテ嬢の所に行くそうです』
気は引けたが、やはりここで嘘は付けなかった。
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