第84話
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「これ…は……」
ガイアの呟きは、冷え切った室内をさらに重苦しいものに変えた。
ロードに胸中を伝えることができて、これからは前を向いてたくさんの笑顔に溢れたいと願っていた矢先に、突き付けられた現実。
「…何があったの?」
ロードの魔力を動力源とする飛行船である空中庭園の一室。カーテンを締め切られたそこは、ミュズの部屋だ。
ロードに「見てもらいたいものがある」と連れて来られたこの室内。
ベッドに横たわるミュズからは完全に生気が失われていた。
かすかに動く胸部が、死体ではないと伝えてくる。
横たえさせたミュズの手を握りながら、同じく死んだように無気力なパージャが背中を向ける中で。
「お母様、ミュズは治るの?」
ロードの隣で様子を窺ってくるルクレスティードが不安そうに訊ねてくるが、返答などできるはずもなかった。
唇がズタズタに喰い切られているミュズと、身動きが取れなかったはずのパージャが椅子に座っている異常な光景。
誰もがまともに理解できていないのか、ガイアに事情を説明してはくれなかった。
「とにかく、傷を治すわね」
光の灯らない瞳をうっすらと開けたままのミュズにそっと近付いて、治癒魔術を施す。
ミュズの手を握るパージャがわずかに繋いだ手の力を強めたが、顔を向けてはこなかった。誰にこんな酷い目に遭わされたのか、なぜ生気が無いのか。
パージャやウインドの傷のように呪いだったらと怯えながら慎重に行った治癒魔術は、ミュズの口元をすぐに元の可愛らしい形に戻してくれた。
呪いではなかったことに安堵のため息を吐こうとした瞬間、パージャが突然身を乗り出してミュズの傷を確認し始める。
勢いよく縋るような光景に思わず怯えて身を引けば、背中からロードが抱き止めてくれて。
「ロード…何が……」
「ミュズの血がパージャの傷を癒したようだ。完全ではないがな」
「え…」
どういうことなのか。
ミュズがメディウム家の一族であるクィルモアの孫娘であることは知っている。
だが魔力が薄まったことが原因でミュズには少しの治癒魔力も無いはずなのに。
困惑の眼差しをロードに向ければ、視界の隅にルクレスティードがミュズの方へ近付くのが映り込んだ。
「ミュズ、もう大丈夫?」
心配した声で訊ねて、だらりと垂れたミュズの腕にそっと触れようとして。
パン、と。
強く乾いた音が室内に響き渡り、伸ばした手をパージャによって叩き返されたルクレスティードが、怯えながら自分の手を胸に引き寄せた。
ミュズを強く抱き寄せたパージャの表情は、ガイアからは見えない。だがルクレスティードの怯え方は尋常ではなかった。
「…下がっていなさい」
ロードの静かな声にようやく我に返るように、ルクレスティードは呼吸を落ち着かせる。
そしてすぐにボロボロと泣き始め、悲しみに表情を歪めながら部屋を走り去ってしまった。
「ルクレスティード!」
その後を追おうとして、ロードに止められて。
彼を見上げれば、首を横に振られてしまった。その後またパージャに目を向けて。
「……パージャ」
ロードの呼びかけに、パージャは反応しない。
普段の気の緩い様子などどこにも無かった。
ロードでは駄目なのだ。無垢なルクレスティードですら駄目だった。
「……パージャ、何があったの?」
ガイアならどうか。
話しかけて、少し待ってみて。
「…本当に、ミュズの血があなたを癒したの?」
もう一度問いかける。
返事はやはり無い。
だがパージャは、ガイア達に背中を向けたまま、握りしめたミュズの手を向けてきた。
パージャの大きな手に握りしめられたミュズの小さな手。
そこにある、無数の噛み跡。
思わず息を呑む。その音に呼応するように。
「…………傷が痛む度に…自分が止められなくなる…」
ボソリと呟かれた言葉が、耳鳴りのように耳の奥に残った。
痛みが戻ってくる度にミュズの血を欲して、その手に噛み付いてしまうと。
「…ロード…どういうことなの?」
「仮説の段階だが、メディウム家の血肉に、強い癒しの効果があるのかも知れない」
産まれたその時から治癒能力を持つメディウム家の、隠された能力。その可能性。
「じゃあ、私の血なら?」
「無駄だろう。そもそも呪いで傷が癒えて血も戻るからな」
「そんな……」
ガイアの身体は傷を許さないから。
なら、誰なら検証できるのか。
想像して、ゾッとした。
「まさか…アリアは駄目よ!!あの子は姉さんのっ…」
思わず叫んで、だがすぐに口を閉じた。
アリアなら、事情を説明すれば血を分け与えてくれるかもしれない。
それに血だけなら、傷はすぐに癒せる。
パージャだけではない、ウインドの傷もやっと癒せるかもしれない可能性だ。
だがそれをするには、アリアを攫うことになるのだろう。
リーンを救出したことにより、王城の結界は凄まじいものに変わった。
ガイア達はもう一度あの場所に戻らなければならない中で、先にアリアを攫うために戻ってしまったら、もう次の機会は消え去るだろう。
そこまで考えて。
「…アリアの血は求めていない」
「……じゃあ、他に誰が…」
不安を感じてロードを見上げれば、当てがあるような様子を見せて。
他のメディウム家の者が生きているのかどうかすらガイアは知らない。
だがロードなら知っているのかと考えて。
「クィルモアの墓に行く」
「え…」
出てきた名前に、思わず眉を顰めた。
「…どうして?」
そしてその名前に反応するのはガイアだけではなかった。
パージャが静かにこちらに目を向ける。
死者のようによどみ乾いた目が、彼がもうガイアの知るパージャではないことを告げていた。
「クィルモアに言われたことがある。クィルモアの死後、一度だけ墓を掘り起こすことになるかもしれないと」
クィルモアには予知の力が少しあった。
その力をもって。
ロードはこちらに目を向けるパージャの方へと歩み寄っていく。
それを許さないとでも言うように、パージャはミュズを強く抱きしめた。
誰にも触れさせないと態度で示すパージャに。
「…クィルモアの元に、お前も来い」
傷を癒す為に。その可能性に賭けるように。
パージャは答えない。だが目線はロードから離れなかった。
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