第84話


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 部屋で一人、長剣の柄を立てて左手のひらに乗せてバランスを取りながらソファーにだれていたコウェルズは、剣先を見上げながら他国の厄介ごとを頭の中で纏めていた。
 バオル国のマガの件、スアタニラが起こした大会名物、そしてイリュエノッドのルリア王女。
 スアタニラの大会名物に関しては、むしろ他国の戦士達の士気が上って試合が盛り上がることになるから構わない。どうせ迷惑はラムタルにかかるのだし。
 マガについては、ラムタルの出方を見た方がいいのだろうが、引き取るつもりはそもそも無い。バオル国の内政に関わることになるならなおのこと却下だ。
 問題は、イリュエノッド。
 ルリア王女が訪れたのは、間違いなくコウェルズ狙いのはずだ。
 病弱なルリア王女が体調を整えたという話は、すでに報告として寄せられている。
 かつてコウェルズは、ルリア王女は病弱だからと一方的に婚約破棄した。
 コウェルズを前に頬を朱に染めた少女を残酷に捨てたのだ。健康な妹のサリアを選ぶという最低な手段で。
 だが、大人となってからどれほど申し訳ないと思ってみても、もし時間を戻せてもコウェルズはやはりサリアを選んだだろう。
 病弱だった母の後に続く者が病弱であっていいものか。
 そう思っていた。
 今までは。
 左手でバランスを保ち続けていた長剣を下ろして鞘にしまい、テーブルに広げていた歴代国王と王妃の文献に手を伸ばす。
 エル・フェアリアの王妃達は、揃いも揃って病弱短命な者ばかり。
 健康だったはずのものですら、王妃となったその日から体調を崩した。
 サリアも母のようになるのかと想像した時、わかりもしない未来への恐怖にゾクリと全身は恐れた。
 まるで幽棲の間に降りた時のような恐怖。
 ニコルはフェントとヴァルツと共に幽棲の間に降りた時、女の霊に首を締められたという。
 まさか、本当に怨霊でも棲むのか。
 万が一、その霊が歴代王妃達がことごとく病弱になる理由だとするなら。
「……」
 嫌な考えが頭に浮かんで、振り払うように首を横に振った。
ーーあなたがサリア様を愛されれば愛されるほど、弱っていく速度は早まるのですからーー
 思い返すのは、ラムタルに出発する前にヨーシュカが告げた言葉。
 何か知っているのだ。ヨーシュカは、魔術兵団は。
 文献から手を離し、頭を抱える。
 扉を叩く音が響いたのは、嫌な考えをようやく振り払えた頃だった。
 ジャックとルードヴィッヒが戻ってきたのだ。
 扉を閉めるのは後ろにいたルードヴィッヒで、衣服は前も後ろも汚れまくっている。
 服についたその汚れを振り撒くようにキョロキョロと辺りをうかがうから、ジャックが強めに頭を叩いていた。
「先に風呂で身体を綺麗にしてこい。その変な緊張がほぐれるまでな」
「ですが…あの、ジュエルは?」
 素直に従わないルードヴィッヒが、コウェルズに向かってジュエルの居場所を切実そうに尋ねてくる。
 ジュエルがダニエルと共にどこにいるのか、答える前にルードヴィッヒの後ろに立つジャックが小さく首を振った。
「…城内散歩ですよ。お嬢様も少し煮詰まっていましたからね」
 満面の笑みを浮かべて爽やかに偽るが、ルードヴィッヒは不満そうな顔をしただけで嘘を見破ることはできなかった。
「ほら、風呂入ってこい。汗臭いのは嫌がられるぞ」
「え!?」
 何やら興味深い会話をしてから、ルードヴィッヒは慌てて寝室に入って着替えを取り、すぐに大浴場へと走り去ってしまった。
「朝から訓練漬けだったのに、元気が有り余ってますね」
「若いからな」
 中途半端に扉に隙間を残して去ってしまったルードヴィッヒの代わりにジャックが扉をしっかり閉じて、コウェルズに指先だけで室内に結界を張るよう伝えてくる。
 コウェルズも話しておきたいことがあったので慣れた結界をさらりと張れば、ジャックがテーブル上のポットに入っていたお茶を注いでくれた。
「ありがとう。喉が渇いていたんだ」
「これくらいご自分で……いえ、何も言いませんよ」
「言ったようなものだよ。失礼だね。こぼすけど」
 目の前で一滴もこぼされることなく注がれるお茶を眺めながら、なぜ自分がやるとこぼれるのかわからず首を傾げた。
「それで、ダニエルとジュエル嬢は…」
「うん。無事にアン王女の元さ」
 二人はどこにいるのか。
 ジャックはうっすら理解していた様子で、居場所を伝えても驚きはしなかった。
「イリュシー嬢が上手い具合に来てくれてね。アン王女の気分転換も兼ねてジュエルとお茶会でもどうかと訊ねたら、すぐに連絡を取ってくれて、二つ返事さ」
 向こう側もエル・フェアリアと仲良くして害はないと判断したのだろう。マガを引き取ることを望んでいるのだから。
「ジュエルには純粋にお茶会を楽しんでおいでと伝えたよ」
 ダニエルには何を命じたかなど、改めて伝える必要もなかった。
 二人の少女の幼く可愛らしいお茶会であるはずもなく、バオル側には物騒な護衛が付くはず。
 その護衛も、アン王女と共にラムタルで何年も身を潜めていたはずだ。ファントムを目撃した可能性は高い。
「あいつの方が適任ですね。私はどうも喧嘩腰に取られることもあるので」
「あ、それはわかるかも。ダニエルはやっぱり子供がいる分、口調も優しくなるんだろうか?」
「それはあるかもしれませんね。“子供を相手にしていると我慢を覚える”と言ってましたから」
 コウェルズの斜め向かいに座りながら、ジャックも自分のお茶を注いで。
「…こちらから報告するのは、二件ほど」
「イリュエノッドの件なら何となくわかるけど?」
「ではその件から伝えますよ…」
 改まるジャックが伝えてくるのはルリア王女が訪れた理由だろう。察しはつくが、静かに言葉を待ってみれば。
「訓練場でホズ様とルリア様の二人と話しました。ルードヴィッヒとダニエルへの謝罪でしたが、こちらが許しを伝えてもルリア様が粘りましてね」
「それは暗に、私と会わせろということだね」
「ええ。イリュエノッド側が強く出てくれて、何とか諦めてはくれましたが…その後にお二人が来られた理由を聞かされました」
 理由などわかりきっていたが、コウェルズはあくまで報告を待つ。
「あなたの婚約者に返り咲きたい様子です。ホズ様は単純に、姉の暴走を止める為の監視だと」
「ん…まあ、そうだろうね」
 案の定の報告に、一度だけ頭を掻いた。
「王の第一子なのに、彼女だけ何もないからね」
「それも気付いていたのですか?」
「まあ、病弱だったから何も身に付けられなかった割に、誇りだけはかなり高かったからね」
 イリュエノッドの王族は男女関係なく、優れた者が王となってきた国だ。そんな国において、次の王にはホズが選ばれ、サリアは大国エル・フェアリアの王妃となる。
 ルリアだけが、何にもなれない状況なのだ。
「身体が弱かったんだから、仕方ないと思うんだけどね」
「それだけではなさそうですよ。元々の素質がどれもあまり良くはないらしく、しかしそんな己を受け止める器も無いと」
「……それ、イリュエノッドの者が言ったのかい?なかなか手厳しい気がするんだけど」
「あ、いや…」
 何かしらモゴつくジャックに、まぁいいかと興味は離して。
「諦めの悪さだけ人一倍というのも少し厄介だね…ここまで来るくらいだから」
 イリュエノッドの王になれないなら、自分がなるはずだったエル・フェアリア王妃に。
 無謀な策で、ここまで来たのだろうか。
 しかしルリアはイリュエノッド国からは憐れみが理由で人気が高い。
 病弱が理由で大国から蔑ろにされたとなれば、同情は計り知れないのだから。
 ルリアがここに来れたのも、ルリアを憐れみ愛する者たちの力によるものか。
「イリュエノッド側は私に接触しようとするはずだから、大会当日まで訓練場には行かないよ。人の集まる場所も控えるつもりだ」
「それが良いでしょうね」
 与えられたこの貴賓室が城の奥まった場所にあることも有り難かった。
 イリュエノッド側は勝手にこの奥までは来れないから。
「それで、もう一つの報告内容は?」
 イリュエノッドの件は予想がついた。ならばもう一つはスアタニラか、それともまたバオルが何か絡んできたか。
 予想を立てるコウェルズに報告されたのは。
「ルードヴィッヒの事です。ジュエル嬢への想いをどうやら自覚しました」
 淡々と告げられて、飲もうとしていたお茶を吹きそうになる。
 何とかこらえて数秒固まり、何とか飲み込み何度か咽せた。
「ケホ…それ……本当に?こんなに早く?」
「どうもミシェルが原因でジュエル嬢への感情は苦手意識だと思い込んでいた様子です。苦手だったのがミシェルだけだと理解すると、その後はすぐでしたね」
 ルードヴィッヒとジュエルが共になることは国としても喜ばしい事だが、コウェルズの見立てではもう少し時間がかかるものだと思っていたのに。
「確かにミシェルはルードヴィッヒには当たりがキツかったかな」
 王族と上位貴族の子息子女の茶会などの集まりは定期的に開かれており、たしかにミシェルはルードヴィッヒにはあまり優しくない印象があった。
 だがそれは、騎士を目指すルードヴィッヒを鍛える為のものだと誰もが思っていたのだが。
「じゃあ、後はジュエルがルードヴィッヒへの想い……に…」
 ルードヴィッヒがジュエルへの好意を自覚したのなら、次はジュエルだとばかりに策を練ろうとしたところで、コウェルズは頭を軽く抱えた。
「……ちなみに訊ねますが、ジュエル嬢の好みは?」
「ミシェルやレイトルみたいな優しいタイプの穏やかな男」
「ルードヴィッヒと真逆ですね」
 お手上げだと言わんばかりに鼻で笑ったジャックを、恨みがましく睨みつけて。
「こっちは死活問題なんだよ。ただでさえ最近は貴族階級に縛られない婚姻が増えていて、中位貴族でも平民と結婚する者が出てきてるんだから」
 城で働く者達は上手く貴族間で仲良くなってくれるが、エル・フェアリア国内の貴族人口で比べれば自由恋愛の度合いが急速に高まっているのだ。
 今はまだ魔術師の数は減ってはいないが、騎士達の質は確実に落ちていると隊長クラスからの警笛まである。
 そんな中でも上位貴族の者達は己の立場を理解してくれている者が多いが、確実なところはどうしても押さえておきたい。
「せめてルードヴィッヒがトリックに似てくれたらよかったのに…」
「何ですか?」
「王族付き候補の事だよ。ルードヴィッヒは最終的に魔術騎士になれるようトリックとスカイの下に置いたのに、よりにもよってスカイ寄りになっているんだよ…」
 エル・フェアリア唯一の魔術騎士であるトリック。騎士と魔術師の両方を兼ね揃えた魔術騎士に育てる為にルードヴィッヒをトリックの側に置いたというのに、スカイの影響力は強すぎた。
「ルードヴィッヒ、声が大きいだろう?」
「……ですね」
「王族付き候補になる前はあんなに大きな声じゃなかったんだよ。もっと普通だった…スカイが確実に移っているんだ…」
「……それは…」
 何を思ったか、ジャックの声が笑いを堪えるようなものになった。
「性格も冷静な方だったのに、筋肉思考に偏ってきた気がするし…」
 これではジュエルがルードヴィッヒにほだされる要素が皆無だ。
「…まあ…もう少し様子を見ながらで良いのではないですか?ジュエル嬢はまだ子供ですし」
「……そうだね。あの歳にしては賢いところもあるから、上位貴族としての自覚も出てくるだろうと期待するよ」
 ルードヴィッヒが好意を隠さず接すれば、ジュエルも必然的にルードヴィッヒの想いに気付いてくれるだろう。そこから良い方向に向かってくれることを期待するしかない。
「それにしても、ルードヴィッヒはファントムの仲間の少女のことは吹っ切れたんだろうか?」
「そこはわかりませんね。でもまあ、ジュエルとその娘を秤に掛けてジュエルを選んだ様ですし」
 揺れることはないはずだと信じて。
「……コウェルズ様、足音が」
 突然ジャックは警戒の声を発して、その後すぐにコウェルズも複数の足音に気付いた。
 静かに結界を解けば、複数の足音は扉の前で止まる。
 ラムタルの侍女達にしては足音は整ってはいなかった。
 ジャックが立ち上がって扉に近づけば、扉を叩く音と共に。
「……戻りました…すみません……」
 声が大きくなったと言ったばかりのルードヴィッヒが、怯えるような小さな声で謝罪と共に戻ってくる。
 風呂に向かって帰ってきたにしてはあまりに早すぎる。
 姿を見せるルードヴィッヒは、やはり風呂には入っていない様子で泥まみれの衣服のまま。そして入室許可も出していないというのにその後に続いて入ってくるのは。
「ーーご無沙汰しておりますわ」
 満面の笑顔を浮かべ、他の者達が止めるのも構わずにコウェルズに近付いてくるのは、イリュエノッドの伝統的な礼服に身を包んだルリアだった。

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