第83話


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「ーーほら、飲んどけ」
 休憩の合間、飲み水をジャックから渡されたルードヴィッヒは一瞬訳がわからず呆けてから、覚醒したように瞬発的に水を受け取って一気に飲み干した。
 コウェルズ達が去ってから今まで、ジャックの長い扱きのせいで喉は張り付くほど渇いていたのだ。
 久しぶりの団長式強化訓練。だが強烈な緊張を強いられるほどのものではなかった。いくつもの短剣型の魔具からただひたすら逃れるだけで、短剣がこちらに目がけて飛んでくるのも、どこか間延びしたような緩さがあった。
 魔具を操るジャックも本気でルードヴィッヒの相手をしているようには見えなくて、喉を潤した後は不満をぶつけるようにブスッと不貞腐れつつ無言の訴えを視線で送った。
「そう怒るな。日程的に怪我させたくないんだ」
「…………別に怒ってるわけでは…」
 ジャックもルードヴィッヒの不満理由をすぐ理解してくれるが、ジャックの考えが正当すぎて不満を返す言葉は浮かばない。
「お前は試合に出場する為にここにいるんだ。本番で爆発できるよう戦闘欲求しっかり溜めとけ」
「戦闘欲求ですか?」
「ああ。……今めちゃくちゃ戦いたくてウズウズしてるだろ」
 問われて、素直に頷く。
 訓練場内の戦士達の興奮に当てられて、自分自身も中途半端に訓練をされて、今すぐ全力で無限に走り出したいような、圧迫されたどうしようもないやる気に溢れている。
「よし、じゃあ訓練終了だ」
「え、どうして?訓練は?」
「明日だな。今日はもう柔軟と軽い筋力訓練だけだ」
「………………」
「不満そうな顔すんな。怪我したくないだろ」
 顔に全て現れていることは自分でも気付いているが、どうしても胸のくすぶりを消すことができなかった。
 それは昨夜から続くもどかしさだ。
「…ジャック殿、あの…パージャは見つかったのですか?」
「ん?……いや、一晩中探したがな。城が広すぎるし、行けない場所も多すぎる。せっかく知らせてくれたのに悪かったな」
「そんなことは…」
「お前の方はどうなんだ?あれ以降気配を感じたか?」
「……何も…」
 昨夜、ルードヴィッヒは確かにパージャの気配を感じ取った。エル・フェアリアで感じた時と同じような、爆発したかのようなパージャの魔力の波動を。
 そのせいで一晩中興奮状態が冷めず、呆れたダニエルに強引に訓練場に連れ出されて絡繰りを使った訓練を行なっていた。
 トウヤの女性絡みに巻き込まれたのは訓練用の絡繰りを返し、ダニエルと型稽古を初めてすぐの時だった。
 何やら口論が聞こえるなとは思っていたが、あまり気にしていなかった。なのに訳もわからないままトウヤに捕まり、スアタニラの者達に引き離され、今度は見ず知らずの若い女性に背中を掴まれ、イリュエノッドの者たちとダニエルも慌てて割り込んできた。
 突然のことに固まるルードヴィッヒの耳を襲う男女間の出来事に加え、全身に伸ばされた多くの手。背骨を通る神経を冷たいナメクジが直接這うようなおぞましさに苛まれ、その時ばかりはさすがに戦闘欲求は抑えられていたが。
 コウェルズ達が教えてくれた大会名物だというスアタニラ戦士の求愛に、訓練場内の戦士達が全員殺気立ち、その気配にルードヴィッヒの欲求もすぐ破裂寸前まで膨らんだ。
 だというのにジャックはギリギリまで膨らませ続けるだけで発散させてくれない。
 試合が始まるまで怪我だけは出来ないと頭ではわかっているが、身体と本能は理性を否定し続けて、胸焼けを起こしそうだ。
「ああ、それとな」
 試合開始までこの欲求不満は続くのかとたまらず溜め息を吐けば、ジャックは一点を見たのち、思い出したような声を出した。
「ホズ様とルリア様を知っているな?」
「……えっと…………………………あ、サリア様の御姉弟様」
「長いな」
 しばらく聞いていなかった名前は、記憶の引き出しの最奥一歩手前まで追いやられていた。忘れていたら恐らく頭を叩かれていただろう。
「そのお二人だが、今朝ここに到着したらしい。本来予定ではなかったが急遽観戦に来た理由は“俺達”だ。この意味が分かるな?」
 言われた意味に、緊張してしまう。
 コウェルズが最初ルリア王女と婚約していたことくらい、ルードヴィッヒでも知っているからだ。
 ジャックが口にした“俺達”も、コウェルズしか含まれていないのだろう。
「わかっているようなら、立て」
 急に腕を掴まれて強引に引き立たされた。
 突然何だと身構えれば、ジャックの視線の方向にイリュエノッドの団体が。その中央にいる二人に面識はないが、ジャックが突然イリュエノッド王族の話をするものだから、彼らが誰かは理解できた。
 一人はルードヴィッヒと同じ年頃の若者で、もう一人はサリア王女によく似てはいるが、どこか病弱そうな細い体型の女性だった。イリュエノッド特有の健康的な浅黒い肌も、彼女だけはどこか薄い。
 クイとテテの姿は見当たらない中、ルリア王女は目が合うとすぐにニコリと微笑んでくれる。
 到着する一団に緊張して背筋を普段以上に伸ばせば、隣のジャックが半歩だけ前に出てくれた。
『エル・フェアリア国の皆様にイリュエノッド国として先程の謝罪を。この度は無用な諍いに巻き込んでしまい、誠に申し訳ございません』
 代表して話すのは王族であるホズで、どこか緊張したように固い様子にルードヴィッヒは少しだけ親近感を覚えた。歳の近さもあってそう思わせるのかもしれない。
 ホズに倣うように一団が頭を下げ、ジャックが静かに謝罪を受け止めて頭を上げさせた。
『大会出場者様にお怪我は?』
『ご安心を。かすり傷もありませんよ』
『それは本当によかったです。…あなたにお怪我は?』
 ジャックのことも心配するホズに、ルードヴィッヒは思わずジャックに目を向ける。
『私ですか?……ああ、さきほどルードヴィッヒを庇っていたのは私の弟です。彼も傷一つありませんでしたよ』
『あ…失礼いたしました』
『いえ、両親でも間違えますので』
 笑うジャックとは対照的に、間違いを恥じるホズの頬は少し赤くなる。
『イリュエノッド王家の御二方から直接謝罪となると、こちらのルードヴィッヒも緊張してしまいます。それよりスアタニラの大会名物相手となるとそちらの方が大変でしょう。エル・フェアリアに害はありませんでしたので、今回のことはどうぞお忘れください』
 無用な親しみは控えるかのようにジャックが会話の終わりを示し、安堵の空気が辺りに生まれる。そこに、いえ、と言葉を被せたのは微笑み続けていたルリアだった。
 終わりを許さないその一言に、イリュエノッドの一団の視線が緊張と共にルリアに向かう。
「姉上?」
『たとえ怪我が無かろうと、忘れてよいものではありませんわ。大会出場者様を庇われたお方もここにいないのであれば、改めて皆様に謝罪させてください』
 代表者であるかのように凛と話しはするが、何かがおかしい。
『…そこまでされる必要は』
 ジャックが困惑しながらも穏やかに拒否しようとしてくれるが、
『ルードヴィッヒ様、どうか私達の誠意を汲んではいただけませんか?』
 ルリアの微笑みはジャックを完全に無視してルードヴィッヒに向かった。
『……え』
 全てジャックが済ませてくれると思っていたので突然のことに動揺してしまい、助けを求めるように視線を移そうとして。
『ルードヴィッヒ様、どうか』
 ルリアの微笑みはルードヴィッヒを逃さなかった。
 こんな時にどうすれば良いのかなど知るはずもなく、固まる思考がルリアの申し出を受けようとするが、一瞬視界に入ったジャックの眼差しが否を教えてくれた。
『い、いえ……どうかお気になさらないでください』
 他国の王族相手に緊張して言葉が上擦る。
 ルードヴィッヒの答えは合っていたようで周りの空気が再び緩和するが、ルリアの瞳だけが瞬時に冷気を帯びた。
 こちらは構わないと伝えているのに、なんだというのだ。
『あの、我々は本当に大丈夫ですから…』
『そういうわけには参りませんわ。元はと言えば学びの行き届いていないテテの不始末。スアタニラ国の流儀をきちんと覚えもしていなかったのですから、正式な謝罪は必須です』
 なおも食い下がるルリアにどうすればよいのか分からずにいれば、一歩前に進み出たのはイリュエノッドの武術指導者の男だった。よくクイと共にいた彼はルードヴィッヒを指導してくれたこともあるので知っている。名は確かレバンだ。
『ルリア様、スアタニラの流儀を怠ったのはスアタニラ側でございます。テテは国の為に正式な方法で身を差し出してくれたのです。せっかく許して下さったエル・フェアリアの皆様の心を蔑ろにするものではございません』
『私は躾を行き届かせなかったテテの親とその主人の尻拭いをしているのです!!』
 子供に言い聞かせるような口調に、ルリアは苛立ちを露わにして言葉を遮った。
 シン、と辺りが一瞬静まり返る。
 その後すぐに聞こえてきたのは、レバンの小さなため息だった。
 そのため息に、ルリアがびくりと肩をすくめる。
「……わ、私はあの子の尻拭いを…」
「お前達、ルリア様を連れて戻りなさい」
「待って!私はコウェ」
「いいかげんにしなさい」
 出そうになった名前を、レバンは制してくれる。
 父親に叱られた娘のようにルリアは項垂れ、すぐにイリュエノッドの者達に連れて行かれてしまった。
「…私も残ろう」
「いいえホズ様。本日はお休みください。長旅でお疲れでしょう」
 有無を言わせない強さで、レバンは王族であるホズをも従わせる。
 ただの武術指導者ではない様子にルードヴィッヒも思わず肩をすくめてしまった。
 一団は静かに去っていき、ルードヴィッヒとジャック、そしてレバンだけが残されて辺りの視線に晒された。
 その視線が離れてから。
『…改めまして、テテの件とルリア様の事、誠に申し訳ございませんでした』
 場を収めてくれたレバンの謝罪にルードヴィッヒは慌ててしまう。
『こちらこそありがとうございました。えっと…レバン殿』
『レバン様!?』
 顔を上げてもらおうと慌てるルードヴィッヒの隣で、彼の名前を聞いたジャックが驚いた声を上げた。
『え?』
『は!?お前わかってないのか!?レバン様といえばイリュエノッド現王の兄上だぞ』
『え!?』
 突然知らされる事実に、ルードヴィッヒは目を見開いてレバンを凝視した。その視線に失笑するレバンは、快活そうな武人にしか見えないというのに。
『まさか…………いや、ホズ様とルリア様が従うなら、ご本人なのですね…』
 ジャックはあり得ないとでも言い出しそうなほど動揺するが、やがて長いため息をひとつ吐いて、色々と気付いたように表情を落ち着かせた。
『…黙っていてすまないね。ルードヴィッヒ殿は私を知らない世代だろうから、名前を伝えていたんだ。私がいること、まだエテルネル殿にも伝えないでいてくれるか?』
『…………予め情報を得て、見に来ていたということですか…わかりました』
 疲れたようなため息をまた吐いた後にジャックがルードヴィッヒの為に小声で話してくれたのは、レバンという人物のことだった。
 イリュエノッドの太子だったが、政治に優れた弟に王位を譲り、武術に優れた自身は一人で武を極めた後にイリュエノッドの軍部を内側から支えることにしたと。
 部隊を連れてよく山や海に篭っているらしく、人前には滅多に出ないことで有名で、イリュエノッド国内でも顔を知る者は少ないらしい。
『エテルネルの出場を知って、大会に来られたのですよね?』
『ああ。思っていた通り軽い男だが、芯はある様子だな』
 情報がどこからか流れていた様子で、いずれ嫁ぐ姪の為にコウェルズという人物を知りに来たということか。
『彼は軽かったですか?』
『近付くサポートの娘達を拒否しながらも、顔は嬉しそうに緩んでいたぞ』
『…………ああ、申し訳ございません…彼は本国で強制的に禁欲中ですので』
『…大切にしてくれているということか。なら許してやろう』
 ルードヴィッヒには理解しきれない会話で、ジャックとレバンが憐れむように笑い合う。
『それより、今回の件は本当に申し訳なかった。ルードヴィッヒ殿には近くお詫びをさせていただきたい』
『気にしないでください。ルードヴィッヒに怪我はありませんでしたから。それよりもテテ嬢は大丈夫なのですか?』
『…テテよりもクイの衝撃の方が大きい。記念になればと大会に連れてきた姪が、知らん間に種譲りをさせられていたのだからな』
 レバンの憂いは、クイとテテの立場を自分とサリア王女に重ねたからだろうか。
『…ということは、彼女は嫌々に?』
『いや、指名されて喜んではいたらしい。クイとトウヤ殿が仲良くなったお陰で両国とも種譲りには合意していたんだ。クイもトウヤ殿のことは“スアタニラ人にしては気さくだ”と言っていたからな。ただ、テテが選ばれるとは誰も思ってもいなくてな』
『…先ほどの話から察するに、テテ嬢はトウヤ殿の宝玉刀を知らずに受け取ってしまったということですか』
『そうだ。宝玉刀とは伝えず、告白もせずにテテに渡したということが発覚した。だからトウヤ殿の求婚は白紙になったが……あれは諦めんだろうな。さすがは大会名物だ』
 二人の話を静かに聞いていたルードヴィッヒも、いくつかわからない箇所がありつつも何となく状況は理解できた。
 スアタニラ国の求婚の儀式はルードヴィッヒも聞いたことがある。
 大量の宝石の産出国であるスアタニラでは、産まれた祝いに宝玉で作った短剣を与えられ、生涯の結婚相手と出会った時に互いに愛の言葉と共に渡し合うのだと。
 一度宝玉刀を交換すると、死ぬまで相手のものを持ち続け、死んだ後は相手の宝玉刀と共に土に埋められる。
 スアタニラには離婚の制度が無いことも有名だった。
 トウヤはテテに運命を感じ、他国の娘であるが故に騙し討ちのように宝玉刀を渡したということか。
 無様な姿を見せるほど。トウヤにとってはそれほど焦がれる相手だったのか。
『……騙してでも、テテ嬢が欲しかったんですね』
 無意識にポツリと呟いてしまい、ハッと我に返る。
 ジャックとレバンの眼差しは、今のルードヴィッヒにはどこか痛く刺さった。
『ルードヴィッヒ殿も、誰かに恋焦がれているのかな?』
 幼い恋を愛おしむような声色でレバンは微笑ましそうに笑ってくれるが、ジャックの視線は鋭いままだ。
 思い浮かべてしまった少女は、想像の中でも笑顔を見せてはくれない。
『いえ、私は別に…』
『何も隠す必要はない。君くらいの歳ならば必要な感情だ。強くなるためにもな。…さて、私も失礼するとしよう。ルードヴィッヒ殿、寝る前はほどほどに身体をほぐすように』
『は、はい!ありがとうございます!!』
『良い返事だな。君は少し時間をくれるか?』
『……わかりました』
 ルードヴィッヒの目の前で、レバンは何かをジャックに耳打ちする。
 それは少し長く感じる時間で、いったい何を話しているのだともどかしくなった頃合いでようやくレバンが離れた。
『では、エル・フェアリアの健闘を祈る』
『ありがとうございます』
 離れていくレバンにジャックが頭を下げるから、ルードヴィッヒも慌てて倣って。
『…あの、何の話を?』
『……どこの国も厄介ごとを持っているという世間話だ』
『…………それは…』
『お前はあんまり気にすんな。試合にだけ集中していろ』
 聞いてはいけないような空気感に、グッと言葉を詰まらせる。
 イリュエノッド側の様子から見ても恐らくはルリア王女の件なのだろうと感じ取りはするが。
 言いようのないもどかしさの理由は、自分だけ諸々と疎外されている気がするからだ。
 リーンを見つけ出す為に何か役に立てているとは自分でも思えないが、だとしても。
『…一つだけ聞かせてくれ。恋愛ごとをレバン殿に聞かれた時…お前、どっちを思い浮かべた?』
 目を伏せるルードヴィッヒの耳に聞こえてきた言葉に、顔を上げながら再び彼女を思い浮かべてしまった。
 ルードヴィッヒを前にして、笑ってくれない彼女“達”を。
「…………っ」
「…お前も厄介なことになってるな」
 察したように、強く頭を撫でられる。そのまま押しつけるような力加減に変わって。
「ほら、座れ。柔軟するぞ」
 ジュエルとミュズを思い浮かべてしまった脳裏を消すように、ルードヴィッヒは素直に従って開脚から始めた。体の柔らかさには自信があるが、それでも足りないとばかりにジャックに肩を押される。
「…あんなふうに一目惚れできるものなんですね」
「厄介だろ。スアタニラ国の人間は、一人を愛したら死ぬまでその人間しか愛せないらしい」
 巻き込まれはしたが、自分には関係ないと気持ちを切り替えようとして、だがテテにすがるトウヤの姿が頭から離れなかった。
「…ジュエル嬢のこと、好きなのか?」
 問われて、固まる。
 今までならすぐに否定してきた。
 ルードヴィッヒが心を動かされたのはミュズで、だが彼女への想いは恐らくメディウム家の魅了の能力の可能性が強くて。
 同じくらい、ジュエルはルードヴィッヒの気持ちの中にいた。自覚したのはラムタルに来てから。
 だが。
「……苦手なんです。…ずっと苦手でした」
 今までずっと、ジュエルのことはなるべく避けてきた。
 王城でも進んで会うことはなかったし、姿を見てもわざわざ話しかけもしなかった。ジュエルもわざわざこちらに来なかったから、知人程度の会釈だけだった。
 それでも、上位貴族同士であるが故の交流はあって。
「なんで苦手だったんだ?そんなに我が儘だったのか?」
「いや、ジュエルは別に我が儘では……我が儘ですね」
 否定しようとしたが、嘘はつけなかった。
 だがジュエルの我が儘は、ルードヴィッヒが知る限りでは幼く可愛らしいものばかりだった気がする。
 王城で侍女となって、一時期は口調が酷く傲慢になっていた頃はあったが、すぐに落ち着いていたはずだ。
 ルードヴィッヒより4歳も若い、まだ未熟な少女であるはずのジュエルが苦手だと思う理由は。
「……ジュエルと少しでも話す度に、絶対にミシェル殿が来て…私を虐めていきました」
 自分で言って認めるのも誇りが崩れそうだが、あれは虐めだった。
 小言だけならまだしも、訓練場で出会うと訓練と銘打って容赦無く痛めつけられた。
 そうだ。ジュエルの近くには、絶対にミシェルがいたのだ。
「ミシェルがなぁ…そんな奴には見えなかったが……お前だけにそんな態度だったのか?」
「……そうですね…ガウェ兄さんや上位貴族の方々がいる時は普通でした。他の人にまでしているかどうかはわかりません」
 少なくとも自分の時は、ミシェルは本当に酷かった。
「ってことは…お前が苦手に思ってるのはジュエル嬢じゃなくてミシェルってことかーーうわ!」
 言われた瞬間、パッと頭の中が軽くなった気がして一気に姿勢を上げてしまった。
「…………急にどうしたんだ?」
「……私はミシェル殿だけが苦手だったんですね」
 後ろのジャックを見上げて、悟ったように呟いて。
「そうなんじゃないのか?今まで苦手に思わなかったのか?」
「……苦手だとは感じてました…あまり関わらないようにしてましたし……ただ、はっきりミシェル殿だけが苦手だと自覚したのは今です」
 紫都と藍都は隣り合う領地である為に交流も幼い頃からあった中で、ここまで気持ちがストンと整理されたことはないだろう。
 ジュエルが苦手なのではない。
 むしろーー
「ーー……」
 欲しいとは思った。その欲しいという思いは好きという気持ちなのか、自分の口で自問しようとしたが、ふとちらついたミュズの面影に、言葉はまた喉から塞がった。
「…どうした?」
 聞かれても答えられるわけがない。
 自分の心を、二人の少女が占めているなど。
 あまりにも失礼な話だ。
 恋愛をしたことはなく、恋人もいたことはない。
 この気持ちがそうなのかも、考える度に疑問も浮かんでくる。
「……ジャック殿は人を好きになったことはありますか?どんな気持ちになるんですか?」
 既婚者であるダニエルならきっと教えてくれただろうが、彼は独身なのだ。
 どう返答がくるのか。
 神妙な面持ちで静かに待っていれば、数秒経ってから軽く頭を叩かれた。
「俺だってそれなりに経験はあるぞ。愛した女もいた」
 心外だとばかりに少しだけ声は低くて。
「そうだな…俺の場合はだが…俺だけを見てほしかったかな」
 誰を思い出しているのか、ジャックの視線は遠くを映す。
「イラつくことも多かったのに、そいつが笑ったら嫌な感情は全部吹き飛んでた。…ま、結局上手くいかなかったがな」
 最後にカラッと笑われる。どこか虚しさの残る笑みで。
 誰かがいたのだ。ジャックの心に、ずっと。
「…その方とは、どうして……」
「別れたかって?価値観が合わなくてな、すれ違いすぎたんだ。気付いた時には修復不可能。向こうが完全に俺に冷めた」
 その言い方は、まるで、まだジャックがその人を思っているかのようで。
 そしてルードヴィッヒの視線から、何を思っているかをジャックも悟ったようで。
「…エル・フェアリアの男の気質も、スアタニラ国に似てるところがあるからな」
「……そうなんですか?」
「聞いたことないか?女神エル・フェアリアとスアタニラの始祖の女神は同一人物って説があるんだぞ」
 聞いたことのない太古の話に、眉が自然と顰む。
「だからかは知らないが、エル・フェアリアの男もスアタニラほどじゃないが、女に執着するって言われてるんだ」
 隣り合う国同士、過去に歴史書にも載らない事実はあるのだろう。そのひとつが気質だというなら。
「ジャック殿は、その方にもう一度思いを伝えないのですか?」
「お前な……。…俺にはトウヤみたいな気概は無いな。無駄な自尊心の方が今も大事なんだ」
 今も思いながらも、ジャックはその人より自分を選んだ。
「お前の方こそどうなんだ」
「……私は…」
 ジュエルか、ミュズか。
 そもそも本当にこれが人を好きになるという気持ちなのか不安になる。
「少なくとも俺の目には、お前は充分ジュエル嬢に執着してるように映るけどな。苦手なミシェルの目が届かなくなって、やっと自分の思う通りに動けてるって感じだな」
「…私がですか?」
「ああ。そうじゃなけりゃ、ジュエル嬢の為に嫌味なバオル国相手にキレ散らかさないだろ」
「あれは、向こうが悪いじゃないですか!」
「まあそうだな」
落ち着け、とばかりに肩を押されてまた前屈姿勢を取らされた。
「じゃあ…もしジュエルがマガを選んだらどうする?」
 問われて、頭で想像してしまって、また一気に身体を上げようとしたが今度は強い力で前屈姿勢のまま押さえつけられた。
「二人の女、どっちも別の野郎に取られたとして…許せないのはどっちだ?」
 静かな声で問われる。
 ジュエルとミュズ。
 もしジュエルがマガを選んだら?もしミュズがパージャを選んだら?
 自分の心は。
「ーー…」
 右往左往を繰り返し続けた曖昧な気持ちは核心に変わる。
「……戻りたいです」
「ん?」
「…………部屋に、戻りたいです」
 掠れた声で伝える。
 ルードヴィッヒにとって、誰かの手に渡ってしまうことが許せないのはジュエルだった。

第83話 終
 
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