第83話


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「お母様…どこに行くの?」
 不安そうに問いかけてくるルクレスティードに、ガイアは普段なら安心させる為に浮かべる笑顔を見せることができなかった。
 肩に白い蝶を乗せた我が子の手を掴むように握って、進む場所は王城の深部だ。
「……リーンに会いに行くの?」
 どこに行くかは伝えていない。だが進む道から察した様子だ。
「…お母様?」
 いつもとは様子の違う自分に、ルクレスティードの困惑も声に現れるほどで。
 とにかくロードに阻止される前にリーンに訊ねたいことがあった。
 二番目の子供のことを聞かされて一晩経って、今のガイアの心は強く揺れているのだから。
 ロードを愛したい自分と、ロードを許せない自分とで。
 息子を二度も奪われて許せるはずがない。なのに、弱さを見せてくれたロードを心から切り離せない。
 自分の感情がぐちゃぐちゃに混ざって、気持ち悪さに胸がよじれる。
 リーンはファントムが隠す最後の子供がコウェルズであることを知っていた。そして恐らく、ガイアの子供でもあるということも。
 リーンならばガイアが今後どうするべきなのか、どうなるのか知っているかもしれない。
 だから話したかった。
 ルクレスティードはしばらくの間は何度かガイアに呼びかけてきたが、やがて無駄だと察したのか、それともリーンの元に行くことを確信したのか、話しかけてくることをやめた。
 無言のまま城内を進み、人気のないその先で一人でいるイヴを見つけて。
 少し疲れた様子で俯きながら歩いていたイヴも、ガイアとの距離が近付いてくると顔を上げて足を止めた。
「……リーン様の元へ?」
「ええ」
 問われて、即答する。
「今は具合が悪いかしら?」
「いえ、そういうわけでは……ただ先ほどまでバインド様と少し口論があったので、リーン様もお疲れかと…」
 リーンの疲れというよりは、イヴの気疲れの方が強そうだが。
 ガイアはイヴに近付くとそっと額に触れて、白い魔力で癒しの温もりを与えた。
「…ぁ」
「自分にも力を使っていいのよ。特にあなたは他人の心の痛みに共感しやすいんだから」
「……ありがとうございます」
 口論は恐らく、リーンがこの城を出ることについてだろう。リーンを大切に思うバインド王からすれば、到底許せないことだから。
 口論とは名ばかりの、バインド王の一方的な拒否。それを間近で聞いていれば、イヴの心も疲弊することはすぐに気付けた。
 身近なバインド王の胸の苦しみに、彼女はどれほど共感してしまったのだろうか。
「アダムは?」
「バインド様と政務に戻りました」
「…そう」
 ということは、イヴは休むよう命じられたのだろう。もしかしたら、イヴが疲れていなければ今も口論は続いていたかもしれない。
「私が今からリーンに会うことは報告しないでね」
「え…ですが」
「おねがい。ね?」
 イヴの幼少期から治癒魔術を教えてきたのはガイアで、その過去があるから彼女はガイアを特別に慕ってくれていた。その思いを利用することに少しだけ気が引けたが、イヴは困った表情を浮かべながらも頷いてくれた。
 ガイアならリーンに無理をさせないということもわかっているからだろう。
「ありがとう」
 何とか微笑んでみたが、恐らくぎこちない笑みしか浮かべられなかっただろう。
 気付かれる前にすぐに背を向けて歩みを再開させれば、やがてイヴも休む為に離れていった。
 今のリーンが一人でいるだろう情報はありがたかった。バインドが気付いてすぐ訪れる可能性も低いはずだ。
 静かな廊下を無言で進み、中庭を包む回廊まで訪れて。
「……あ!」
 庭の中に老いた庭師を見つけて、彼と仲の良いルクレスティードが嬉しそうな声を上げた。
「僕、お庭にいちゃだめ?」
「…」
 少し考えて、やがて手を離す。
「ここから離れないでね」
「わかった!」
 離れさえしなければ、ロードが訪れてもすぐに逃げられると踏んで。
 突然走り出すものだから、ルクレスティードの肩に留まっていた蝶がふわりと舞い上がってガイアの肩に留まり直した。
 それを少し気にはするが、気を取り直してすぐに庭師の元へ向かい、庭師の老人もガイアに向けて恭しく頭を下げた。
 息子を彼に任せて、ガイアは蝶と共にリーンのいる部屋の大きな扉を開けた。
 見張りがいない代わりに貼られていた強力な結界も、魔力の高いガイアを前に無力同然で。
 これすらロードの恩恵なのだろう。虚しく笑いながら、光が柔らかく灯る程度の薄闇の中を進んでいく。
 壮大な寝台の中で眠る小さなリーンは、ガイアが近づくことでゆっくりと目を覚ましてくれた。
「…………どうした?」
 幼い見た目にそぐわない尊大な口調。
 身体は少し肉が付いたが、それでも弱々しいままなのに。
「…食事は摂っていますか?」
「…なに、これくらいの方が庇護欲がそそるだろう?」
 何とか自力で座れるまで回復した様子を見て安心はしたが、未だに痛々しい見た目にガイアの眉尻は自然と下がった。
 しかし確かにリーンの言う通りだ。
 救出した当初は誰もが目を逸らすほど悲しすぎた身体だったが、今は手を差し伸べたくなるような弱々しさで、誰もがリーンを哀れに思って守ろうとしてくれるだろう。
「それで…何を知りに来た?」
 老いたと思わせるほど深い感情の笑みを浮かべながら、リーンはガイアが口を開くのを待ってくれる。
 どう訊ねるべきかしばらく困惑して、やがて素直に口を開いた。
「……自分の気持ちがわからないのです」
 ぽつりと呟くようなか細い声。
「…あの人を愛してる……でも許せない…」
 涙が溢れそうになって、咄嗟に両手のひらで目元を覆った。
 リーンはたったそれだけの言葉で全てを理解したかのように、静かに天井へと視線を移して。
「子の存在を知ったか」
「…はい」
「誰から聞いた?」
「……自分で思い出し、気付きました」
 ガイアの目の前に突然現れたコウェルズ。その瞬間、ガイアの記憶に無理やり施された蓋が開いた。赤子のコウェルズを奪われた日の苦しみも、それにより病んでいった心の苦しみも、数年前に絡繰り妖精の悪戯によって一度再会していたことも。
 全部ぜんぶ、ガイアは自分で思い出した。
 ロードには確認をしただけにすぎない。
「…私の見た未来と異なる様だな」
 リーンが呟く意味のわからない言葉に、不安が宿った。
「そう怯えなくてもいい…ただ…彼の流れが私に見せた未来は…」
 そこで言葉が途切れる。苦しそうに表情を歪めるから慌てて近寄るが、リーンは片手でガイアを制した。
「制約が私を苦しめるだけだ。…彼の流れが見せてきた未来は、二人の別れだった」
 苦しんだ理由を教えてはくれるが、制約が何なのか、流れが何を示すのかはわからない。
 だがリーンにはガイアとロードの別れが見えていたと言う。それは有るはずだった未来なのだろう。
「別れとはいっても、心の別れなのだろうな。あの男はお前を離さない。しかしお前の心が離れた。…だからあの男は、お前を…」
 言葉がふいに途切れて、リーンはそれ以上伝えることをやめる。
 リーンが見た未来の中のガイアは、きっと今頃ロードへの愛情を失っていたのだろう。
 だがそうはなっていない。
「ミュズを傷付けられたパージャが、腹いせにお前に子供の名前を伝えた。そうなる予定だった」
 リーンの見た未来では、ガイアが自ら思い出したわけではなかったと。なぜパージャなのかは、もちろんガイアにはわからない。
「この身の呪いを早く解く為にも、未来を変えたかったのだが…別の形で変わってしまったようだな」
 ロードの怒りも恐れずに「最後の子を伝えろ」と進言してくれたリーンにとって、その言葉だけが未来を変える為の方法だったのだろう。
「……なぜまだ愛している?なぜ許せない気持ちを抑えるほどの愛がまだ存在するのだ?」
 答えを探すような眼差しを受けて、ガイアは混乱しながらも自分の身に起きた出来事をひとつずつ思い返した。
 なぜ愛が消えていないのか。
 なぜリーンに見えた未来と変わってしまったのか。
 なぜガイアの心はいまだにロードを切り捨てないのか。
 それはきっと、彼の弱さを初めて見たから。
「…あの人は完璧じゃないとわかったの。…あの人は……とても優秀なんだろうけど…まだ未熟さの残る人だから」
 老いが消え去り身体の時は止まり、人の一生ほどを生きた。それでもまだ、彼にはちっぽけで器の狭い所が残る。
 そんなロードが不安を紛らわせる為に救いを求めたのは、ガイアの腕の中だった。
 彼に愛されたい。そして彼を愛したい。
 はっきりとそう思った。
 ただ一つ、コウェルズを奪った過去を隠したことを除いて。
「愛してるの…でも、私の子供をクリスタル王妃に与えたことだけは絶対に許せないっ」
 涙が滲む。
 悔しさが溢れて気がふれそうになる。
「…クリスタル王妃を恨んでいるのか?」
「違っ……そうじゃないわ…でも……嫌いよっ……」
 心から。
 会ったこともない人だ。恨んでいるわけでもない。ただ、許せない。リーンは彼女が産んだ。ニコルとコウェルズは、彼女のそばにいた。
 ガイアが心から欲しかったものを全て与えられていた事実が、嫌わずにはいられなかった。
「ニコルもコウェルズも、私がこの手で抱きしめてあげたかった!!あなただって!!私が産むはずだったのに!!」
 感情が混乱して、支離滅裂になっていく。
「だって…私がロードの妻なのよ!!」
 知らないうちに涙が止まらなくなっていた。
 ぼろぼろととめどなくこぼれ続けて、呼吸もしゃくりあげるような異音を響かせる。
 ロードとの子供がどうしても欲しかった。
 なのにニコルとコウェルズは奪われ、リーンは別の女が産んだ。
 コウェルズの記憶を封印された後にようやくルクレスティードをその手に抱けて、だがニコルの存在が消えたわけではなくて。
 どうしようもない深い苦しみが胸に刺さる。
 大切な子供達。大切な理由は。
「…………母上…」
 ふと、リーンのかすれた声が薄く響いた。
 まさか自分がそう呼ばれたのかと思わず顔を上げるが、リーンの目の前で白い蝶が羽ばたいていて。
「……蝶?」
 ガイアの肩に留まっていた蝶が、今はリーンの前に。
「…この蝶は…私が土中にいた中、完全に気が触れぬよう唯一そばにいてくれた魂…」
 リーンのそばにいた蝶はゆっくりとガイアの元に訪れて。
「…クリスタル王妃の魂だ」
 眩い白の光が突然ガイアの目を眩ませた。
 思わず目を伏せて、しばらく経ってから恐る恐る目を開けて。
 全てが白に包まれた女性が、ガイアとリーンのそばで浮いていた。
 美しくも悲しげな表情はガイアの方を向いている。
 面識のない女性。だがリーンは蝶を、彼女をクリスタルと呼んだ。
「……クリスタル王妃?」
 四年前に亡くなったはずの、エル・フェアリアの王妃。
「魂だけの存在となりながらも、私のそばにいてくれたのだ」
 リーンは今まで見たこともないほど穏やかな眼差しで、懐かしむようにクリスタルを見上げていた。
 クリスタルは少しだけリーンに目を向けて、やがてまたガイアに向き直る。
 全てが白い存在。幽霊と言うには清らかすぎた。
 精霊のような美しさ。
 そのクリスタルはふわりとガイアの方へ身を寄せて。
「………きゃあ!」
 思わず目を閉じたガイアの脳裏に、ガイアの記憶にはない記憶が激しく押し寄せてきた。
 同時に身体に何かが侵入してくる感覚。
 何が起きているのかわからないが、怖くて目を開けていられなかった。
 走馬灯のようにいくつも浮かんでくる記憶はどれもこれも幼い子供達と共にいるもので。
 それが何か察した時。
「ーーやめて!!」
 ようやく歩き始めたばかりのコウェルズを抱きしめる記憶を見た瞬間、ガイアはそれがクリスタルの記憶だと理解した。
 目を開く。
 視界には少し驚いた表情のリーンしかいない。どこを探しても、白い霊体となっていたクリスタルがいなかった。
 同時にリーンの表情から、クリスタルがどこにいるのかわかった。
「……私を憐れんでいるの?…こんなものが欲しかったわけじゃないわ!!」
 子供達との記憶だけを残していたクリスタルの魂は今、ガイアと共にある。
 まるで自分が経験した過去のように、今のガイアには子供達との記憶が満ちていた。
 経験したはずがないのに、すくに思い出せてしまう。
 ルクレスティードだけではない、コウェルズ、ミモザ、エルザ、クレア、リーン、フェント、コレー、オデット。
 ぼろぼろと涙が溢れる。
 コウェルズを何度も抱きしめた過去が今のガイアには存在する。たとえそれがガイアの過去ではなかったとしても。
 それがひどく、ガイアの心を掻きむしった。
 まるで侮辱だ。
 欲しかったものはそんなものじゃない。
 ガイアが望んでいたのは。
「私が欲しいのはロードと子供達がいる世界よ!!」
 自分がいて、ロードがいて、二人で子供達を遊び育てる世界が欲しかった。
 家族が欲しかった。
 なのに。
「どうして!?」
 意味がわからない。
 なぜクリスタルは自分の魂に残る記憶をガイアに植え付けたのだ。
 悔しさが止まらない涙となる中で。
「ーーおかあ、さまぁ…」
 突然室内の光が光量を増やしたかと思うと、幼い泣き声が悲しく響いた。
 自分が呼ばれたかのような錯覚の中で、思わず顔を上げる。
 ベッドの上でリーンが涙をこぼしながらガイアに両手を伸ばしていた。
「…ぁ」
「おかあさま…おかあさまぁ!!」
 達観したもう一人のリーンではない幼いリーンが、必死にガイアを呼んでいた。
 ドクン、と
 心臓が強く鼓動を打つ。
「おかあさま!!」
 リーンの懸命に呼ぶ声に呼応するように、全身が震えた。
 大切な、私の子供ーー
 駆け寄って、強く抱きしめた。
 リーンも小さな身体で必死にしがみついて泣きじゃくる。
 怖かったと、もう一人にしないでと、泣き声がそう伝えてくるような。
「……ごめんね…」
 思わずこぼれた言葉は、ガイアの感情か、クリスタルの記憶か。
 ガイアの中にあるクリスタルの記憶が、リーンを亡くした当時の凄まじい悲しみを伝えてくる。
 守りきれなかった愛しい子。
 病弱だったクリスタルがリーンの後を追うように一年後に亡くなったのが偶然ではないことを、ガイアは悟った。
 クリスタルは慰めからガイアに子供達の記憶を持たせたわけではないと。
 死んだというのに我が子への思いを諦めきれない魂が、ガイアを選んだのだ。
 残留思念のような魂。
 強くなれと伝えてくる。
 子供を守る為に強くなれと。
 腕の中でひたすら泣きじゃくるリーンの頭を何度も何度も撫でながら、ガイアはようやく涙を止めた。
 クリスタルの魂にガイアが身体を譲る気などない。この身体はガイアのもので、クリスタルの魂も身体を乗っ取る為にガイアを選んだわけでもない。
 ただ、譲歩はした。
「おかあさまぁ…」
 そばにガイアがいることを確認するように何度も何度も泣きながら呼び続けるリーンに、ガイアは母として何度でも頭を撫でて優しくあやしてやる。
 リーンだけではない。
 子供達全員を、我が子のように。
 それが譲歩だった。
 クリスタルから与えられたのは、強さだ。
「ーー何をしている!!」
 突然ドアが開け放たれて、去ったはずのバインドがアダムと兵を伴いながら押し入ってくる。
 結界を破ってここへ侵入したのだから遅からずバインドが来ることはわかっていたが、思うよりも早かった。
 それとも、体感以上に長い時間ここにいたのだろうか。
「…奥方、今すぐ出て行ってもらおう。いくらあなたでも、ここへの立ち入りは許さぬ」 
 仕方なくリーンから離れようとして、
「やだ、おかあさま!!いかないで!!」
 弱々しい力で懸命にガイアに手を回して、リーンが悲痛な訴えを叫んで離れることを嫌がった。
「リーン!?」
 今まで自力ではほぼ動けず寝たきりだったリーンが突然泣きじゃくりながら意志を伝えてきたのだから、バインドも驚いたことだろう。
「リーンなのか?」
 ベッドまで駆け寄り、存在を確かめるようにリーンへと手を伸ばしてくる。
 その手に何かを思い出すようにリーンはビクッと肩を震わせてさらにガイアに身を寄せるから、バインドの手もそこで止まった。
「…リーン。バインド様を忘れたの?あなたを守ってくださる人よ」
 無理矢理触れなかったことを褒めてやるように、ガイアは怯えるリーンからわずかに身を離してバインドの姿が見えるようにしてやる。
「……ばいんど、さま…」
 落ち着きを取り戻したリーンもようやくバインドを目に映すが、ガイアに回した手の力を緩めはしなかった。
「リーン。また会いに来るから、バインド様達といましょうね」
 また。勝手なその約束を許さないとでもいうようにバインドが強く睨みつけてきたが。
「また会いにきます。…必ず」
 母としての感情が、バインドの身勝手な怒りを許しはしなかった。
 驚きたじろぐバインドの方へとリーンを寄せれば、小さな手は名残惜しみながらも離れていった。
 少し寂しくなる。だがやらなければならないことがある。
「おかあさま…」
「もう泣かないで。ゆっくり休んでいてね」
 離れる前に涙を拭ってやるが、止まる気配がなくすぐに頬に新たな涙の跡ができてしまい、くすりと笑ってしまった。
 リーンを自分の方に引き寄せながら驚いた顔を向けるバインドも、動揺を隠さないアダム達も通り過ぎて、ガイアは外へ出る。
 そこでガイアを待つだろう気配を感じながら。
 だが怯えるだけの自分はもういない。
 母として妻として自分がどうしたいのか、どうするべきなのか。
 その決断力と実行の為の精神力を与えてくれたのは紛れもなくクリスタルの魂なのだろう。
 目の前に広がる美しい中庭に立つ彫刻のように神々しい男を前に、ガイアは臆することなくその怒りの元へ向かった。

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