第83話
第83話
ラムタルで目覚めることにも慣れた五日目の朝、コウェルズは寝室を共に使うジャックがいないことに少し眉を顰めた。
昨夜はルードヴィッヒがパージャの魔力の気配を感知し、ジャックが捜索の為に出ていったのだが。
まだ戻らないのか、それともコウェルズの起床が遅かったのか。
ベッドに座ったまま、もたつく指先で寝間着を着替える。
なぜか外れない袖のボタンと格闘しつつ何とか脱ぎ散らかし、エル・フェアリアの騎士達が纏う訓練着に袖を通してまた袖のボタンでもたついた。首元なら数十秒で出来るのに。
大会は三日後。そろそろ各国の要人も訪れる頃なので、そちらの意味でも気を引き締めなければならない。
コウェルズの顔を知る者は増えるだろうから。
寝室を出れば談話室にいたのはソファーでお茶を飲みながら微睡みそうになっているジュエルだけだった。
「おはようございます。お嬢様」
エテルネルとしても慣れ始めた敬語でにこりと微笑めば、慌ててソファーから立ち上がって。
「おはようございます!」
気を抜いていた自分を叱責するようなハキハキとした朝の挨拶に、思わず笑ってしまった。
「ダニエル様はルードヴィッヒ様を連れて早くから訓練に向かわれましたわ。ジャック様はまだ戻っていません。…こちらで朝食にしますか?」
「お願いします」
わかりやすく現状を教えてくれて、ジュエルはすぐに朝食の用意を整えてくれる。
あらかじめラムタルの侍女達が用意してくれていたのだろう朝食は、今日は新鮮な果物が中心だった。
温めるものはラムタルの絡繰りで速やかに温め直され、ソファーで待っていたコウェルズの元に美味しそうな朝食が並ぶ。
ジュエルもまだ食べていなかった様子で、食事の量は二人分だった。
「ダニエル殿達はどれくらい前に?」
「朝日の登る前ですわ。ルードヴィッヒ様の気が逸っていたそうで、訓練で落ち着かせると連れて行ってしまったのです」
「へぇ…」
昨夜パージャの気配に気付いたのはルードヴィッヒだけだった。
以前もパージャの魔力に気付いたルードヴィッヒは自ら飛び出していったから、今回も探し出したくて逸ったのだろう。
そしてジャックはいまだに戻らない。
何か見つけたと思っていいはずだ。
以前の時のように、パージャ本人でなくてもいい。エレッテを捕らえた時のように、別の何かしらを見つけられたなら。
そう思いながら伸ばした手がつまむのは、葡萄一粒だ。
昨日の件が気持ち悪くて、あまり食欲が湧かない。
隣のジュエルはもくもくと口を動かしていたので、コウェルズを待って食事を我慢してくれていたのだろう。
「……あ、そうだ」
ふと思い出した物に、ソファーから立ち上がる。
「少し待っていてください」
首を傾げるジュエルを置いて一度寝室に戻る。
手にしたのは、バインド王から贈られた髪飾りだ。
今までジュエルに渡さなかったのは、バインド王への不満が胸を占めていたから。
時間が経って、気持ちは少し落ち着いた様子だった。
落ち着いたのか、昨日ミュズから受けた罵声がショックでバインド王への不満が薄れたのかはわからないが。
面と向かって醜い言葉で罵られたのは生まれて初めてのことで、死ねと言われた事を思い出してキュッと髪飾りを握りしめた。
そのままジュエルの元に戻り、隣に座りながら手の中の髪飾りを見せる。
白い宝石で作られた、百合の形の可愛らしい髪飾り。
「…………これは?」
「ラムタル王からジュエル様への贈り物です。
にこりと微笑みながらさらりと伝えれば、ジュエルが数秒固まった。
「……ふぅええええ!?!?」
「っく……何て声を…」
後に発された妙な声に、顔を背けて笑ってしまう。
「だ、だって……え!?…バインド国王陛下ですか!?」
「そうですよ。一昨日の夜にお会いした際に」
そっと髪飾りを渡せば、両手で受け取りながら混乱して慌てふためいていた。
慌てながらも、その美しさに頬を染めて見惚れて。
「御身を守る絡繰りの髪飾りです。よければ付けましょうか?」
「え…結構ですわ…」
そっと手を差し出せば、ジュエルは真顔に戻り、サッと髪飾りを胸元に寄せてコウェルズの手を拒否した。
「ではさっそく付けてみますね!」
呆然とするコウェルズを放置して、壁にかけられた鏡のもとに走り、さっそく髪留めを付けて。
「…すごく素敵な髪飾りですわね。ぜひ国王陛下に感謝の言葉をお伝えしたいですわ」
ほう、とため息をつきながら、嬉しそうに何度も鏡で確認して。
「…絡繰りということは、何か魔力を込めた方がよろしいのでしょうか?」
「いや、バインド王が自ら作ったものですからね。お嬢様の危険に自動的に発動するでしょう」
大国の王でありながら、絡繰り技師としての腕も一流なのだから。
「お礼をお伝えする時間はあるでしょうか?」
「恐らく大会最終日の夜会でお会いできるでしょう」
大会の最終日には必ず設けられている舞踏会で伝えればいいと簡単に告げるが、ジュエルは表情を曇らせてしまう。
何故だろうと理由を考えて、すぐに突き止めて。
「遅くない時間なら大丈夫ですよ」
クス、と微笑みながら。
ジュエルはエル・フェアリア国内でもまだ12歳の未成年で、夜会に参加するには早い。
晩餐会ならまだしも、大会後の宴は翌朝まで続く絢爛なものだ。
「せっかく大会にサポートとして来たのに、最後のお楽しみだけ参加できないなんてことはありませんよ」
「……ほんとですか?」
「もちろんです」
とぼとぼと戻ってくるジュエルの頭を撫でてやり、任せておけと暗に伝えて。
そうすればジュエルも表情を明るくして、また嬉しそうに髪飾りにそっと触れた。
「夜会のドレスの準備もあるのでしょう?」
「一応…ミシェルお兄様に持たされましたから」
「へえ、どんなドレスなんですか?」
「………………お兄様の趣味全開でしたわ」
声のトーンが一気に低くなるので、コウェルズはそれ以上聞くことはやめておいた。
朝食の続きを摂りながら、他愛無い話をしながら。
部屋の扉が叩かれてジャックが戻って来たのは、朝食を済ませてすぐの頃だった。
少し目の下に隈が出来ているが、それ以外で変化は見当たらない。
「ジュエル嬢、席を外してくれ」
ジャックは戻るなり早々、ジュエルに充てがわれた寝室を指差した。
ダニエルとルードヴィッヒがどこにいるか訊ねもせず、怒っていそうにも見える真面目な顔にジュエルはビクッと肩を震わせ、すぐに寝室へと隠れてしまった。
「……何も悪い事をしていない藍都の末姫への態度にしてはキツいんじゃないかな?」
ジャックの様子からすぐに室内に結界を張り、注意も一応しておく。
「…そんなつもりではなかったんですが」
「で、どうだった?」
昨夜出て行って、帰ってきたのが今だという理由は。
「……パージャはいました」
疲れを誤魔化すようにうなじを掻きながら、ジャックはこちらへと足を進めてくる。
「…飲んでも?」
「構わないよ。私の分の用意も頼もうかな」
食事終わりのお茶が入ったポットに手をかけるジャックに自分の分も頼みながら、彼の首筋にうっすらと見える赤い跡を見つける。
「……誰が話してくれたんだい?」
トントンと、首筋の跡が見えていると伝えてやりながら、クスクスと笑いながら。
ジャックはすぐに理解したように罰悪そうに苦笑いを浮かべ、誤魔化すようにその辺りを強く掻いて。
「イリュシー嬢が色々と教えてくれましたよ。少なくとも二年前からパージャの拠点はここで間違いなさそうです」
お茶を注いでテーブルに置いてくれながら、話してくれるのは。
「イリュシー嬢の城勤めが二年前からなのでそれ以前はわかりませんが、パージャと、薄桃色の髪の少女は見かけていた様子です。他のものまでは残念ながら…」
「へえ…色々教えるほどってことは、彼女はパージャと面識があったんだ?」
「面識と言いますか、一度肉体関係を持ったそうです。イリュシー嬢の片思いで、未練を断ち切る為だったとか」
パージャにかつて抱かれた身体を、ジャックは身も心も暴いたということか。
「聞き出してくれたことは感謝するけど、後腐れはなさそうかい?」
「恐らくは。朝になって理性を取り戻した後は、泣きながら謝罪してきましたからね。昨夜のことは忘れてほしい、と」
「…君じゃなくてイリュシー嬢が言ったんだ」
「彼女にはまだパージャへの未練があったんですよ。そこをつつかせてもらいました」
昨夜何があったのか。ジャックの話は疲れが尾を引くように淡々としていた。
イリュシーと共に歩いた、大会関係者の立入を禁止した場所で遭遇した様子のおかしいパージャとミュズの話から始まり、イリュシーが見てきた二年間のパージャの動向を。
パージャ達はイリュシーも立ち入りを許されていない城の最奥を許されていた。
見かけることはごくたまにではあったが、その場所に慣れたように進むのを見ていたと。
基本的に単独行動かミュズと共にいるかのどちらかで、他の者と歩いているところはあまり見かけなかったという。
「…パージャだけがラムタル城にいるなんて考えられないんだけど…ファントムとよく似た容姿の男といたって話は聞かなかったのかい?」
「残念ながら。ラムタルの兵達と会話していることはたまにはあったそうですが…一度だけ、仮面を付けた不気味な男と会話しているところを見かけたと言ってーー」
「仮面だって?」
聞き捨てならない言葉に、コウェルズは強くジャックを睨みつけた。
「…仮面の男も仲間なのですか?」
「何を言って……」
驚くジャックは、仮面の男が何を意味するのか分かっていない様子を見せた。
なぜわからない。そう眉をひそめ、彼はつい最近やっと城に戻った騎士であったことを思い返す。
「……ファントムは、恐らく普段は仮面で顔を隠しているんだ。城を襲ってリーンを攫った時も付けていた。それより以前に城下で事件が起きてニコル達がアリアを連れて向かった先でも、仮面を付けて現れている」
仮面の男がファントムである可能性は高い。
教えてやれば、ジャックは驚いたように目を見開いていた。
「仮面の男とパージャが何を話していたかは聞いた?」
「いえ…離れた場所から見ていただけだと」
そもそもイリュシーの目当てはパージャなのだから、仮面の男の行き先なども分かりはしないだろう。一応訊ねようとしたが、無駄だと気付いて代わりにため息をついた。
「…イリュシー嬢も行けない最奥に、どうにかして入れないかな」
「潜入ですか」
「そう。私も足を踏み入れたことのない王城の最奥なんだろうね。最奥とは言っても、規模はかなりのものだけど」
幼い頃は探検や冒険と称して一人で勝手に歩き回ったことはある。だが大人になってしまった今、消え去った無邪気さを発揮するなど不可能で。
だが潜入できるとしたら、コウェルズだけだ。
「もう一度バインド陛下から呼び出しがあれば、その隙に乗じることは出来るかもしれませんが…」
「恐らく場所が違うはずたよ。そうでなくてもラムタル城は動くのに…」
絡繰りで出来た城は、小部屋などをよく作っては消滅させていた。
それは何世代にも渡る絡繰り技師達が今も腕を競う証拠だ。
ひとつひとつを見れば小さな絡繰りだったとしても、この城はその集合体なのだから。
「……本当に、隠すには打って付けの場所ですね」
ジャックの呟きに、いつの間にか俯いていた顔を上げた。
「…リーンは絶対にこの城にいる……」
隠すには、この城は本当に打って付けすぎた。
「ラムタルで最も優れた治癒魔術師がいて、ラムタルで最も良い環境下で隠すことが出来る場所…」
「……私も同意見ですが、確証も無いままでは…」
「アン王女がいるじゃないか」
バオル国から匿われている幼い王女が理由だと告げれば、ジャックは理解しかねるように困惑して。
「他国の王家を守れる最も優れた場所がこの城である証拠さ。あの人なら、もしこの城以上にアン王女を匿える場所があったならそこに移していたはずだよ。王女は毒に侵されていたんだから」
アン王女はこの国で最も優れた治癒魔術師の手当てを受けたはずだ。
そして同じことがリーンにも言えるだろう。リーンは五年間も重く冷たい土の底に押し固められていたのだから。
「……コウェルズ様」
「バインド王にすぐ会わなければ…」
「コウェルズ様!」
立ち上がろうとして、強く腕を掴まれた。
「落ち着いてください!あなたのその言葉は全て憶測でしかないのです!」
「ここにファントムはいたんだぞ!!」
「リーン様を見たものはいません!!」
怒声を怒声で返されて、あたまがキンと冷えた気がした。
「あなたが見たのはアン王女です。状況が似ていようとも、リーン様とは別人なんです」
怒声の後は、諭すように。
自分の浅はかさに強く唇を噛んだ。
焦りを痛感する。
どうしてもっと効率良く動けないのだ、と。自分に、周りに。
「……ひとまずアン王女とその周りに訊ねてみるのは?彼女は数年間この城にいたのですから、もしかしたら仮面の男も見ているかも知れません。私はイリュシー嬢にもう一度接触しましょう」
「ん……そうだね。…ジュエルも使ってみよう。歳が近いから仲良くなれば心を開きやすくなるかもしれない。呼んできてくれ」
冷静さを取り戻しながらも、まだ焦る気持ちを拳を握り締めて我慢して。
「……一人では絶対に動かないでください。どうか我々を信じて」
立ち上がるジャックが、コウェルズの前に膝をついて見上げてくる。
今まで言われ続けてきた言葉。
ジャック以外からも、何度も何度も。
それほど自分は他者を信じない人間だったのだろうか。
「…肝に銘じるよ」
なるべく普段通り見えるように微笑めば、ジャックは何かを伝えようと口を開くが、諦めて立ち上がりジュエルを呼びに向かった。
迅る気持ちはやはりおさまらず、コウェルズはジュエルが側に来るのを、身体を力ませながら待っていた。
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