第58話
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ルードヴィッヒの最終調節は日が登ると同時に行われた。
エル・フェアリアでの最後の訓練。ルードヴィッヒは今日、王子達と共にラムタルに向かうのだ。
訓練用の兵装に身を包んだルードヴィッヒは、早朝の静けさに深く空気を吸い込んでリラックスするように落ち着いた姿勢で立っていた。
訓練着が真新しいのは毎回ジュエルが用意してくれるからで、彼女はルードヴィッヒのサポートとして訓練場の隅に今もいる。
ファントムとの戦闘時にはハイドランジアの老夫婦達と共に王城に戻っていたジュエルだが、身の危険にさらされたにもかかわらず真面目にサポートの任を怠らない姿には脱帽してしまう。
泣いて怯えたくせに。
そう思ってしまう自分がいるのは、彼女を危険な目に合わせてしまったという自覚があるからで、ルードヴィッヒは昨夜の大雨でグズグズになっている地面を靴の先で掘りながら頭の中を訓練に集中させた。
大雨は日が登る前にやんでくれた。
ひどい雨だったが、騎士達の話題はそれよりも昨夜の騒動に集中していることだろう。
昨夜突然、騎士と魔術師に城内の警備強化と不審者の捜索が言い渡されたのだ。
それは今の時点で沈静化し、第六姫コレーが不安から悪夢を見たが為に魔力が人のような異質な形で現れたと説明されたが、それで納得するのは何も知らない王城騎士くらいだろう。
ルードヴィッヒは捜索部隊の一員としてファントムと対峙してからこちら、あらゆる秘め事に気付き始めているが。
それが良いことなのか悪いことなのか。
どのみち口を閉じるしかないのだが、自分の知らなかった事柄が目まぐるしく眼前に現れるので頭が上手く回らないことが多くなった気がする。
そもそも誇れるほどの頭脳を持っているとは思っていないが。
昨夜の騒ぎと訓練場の足場の悪さの為か、騎士の姿はルードヴィッヒの他には見ない。
簡単な屈伸などの運動をして体を温めていると、ひと通り終わらせた頃合いにようやくアドルフが姿を見せてくれた。
コウェルズ王子付き隊長であると同時に王族付き総隊長でもあるアドルフを、数日とはいえ訓練のために独占し続けた。それも今日終わってしまう。
アドルフの後ろには双子騎士の片割れであるジャックが共にいて、さらにその後ろからガウェが姿を見せた瞬間に、ルードヴィッヒは考えるよりも先に駆け出して三人に近付いた。
「ガウェ殿!」
声を出して呼んでしまうのは尊敬する従兄弟だけで、その様子にアドルフとジャックが苦笑を浮かべて。
ルードヴィッヒが走り寄るから三人はジュエルもいる隅から動かずに待って、到着したルードヴィッヒにはアドルフが真っ先に頭にげんこつをくれた。
「っ!!」
声にならないほどの痛みにルードヴィッヒは悶絶し、
「お前なぁ、なんでガウェだけなんだよ」
苦笑を浮かべたまま、アドルフはルードヴィッヒの贔屓を注意する。
「も…申し訳…ございません」
目の前に火花が散るほどの衝撃はすでに失せて今はじくじくと長引く痛みが続くが、微かに震える声で何とか謝罪をする。
「隊長、やりすぎですよ」
「こいつはこれくらいじゃへこたれないさ」
救いの手を差しのべてくれるのはジャックだが、彼もやはりまだ苦笑したままだ。
ジュエルはいつも通りのあきれ顔を浮かべて、ガウェは無言のままで。
「皆さん、どうしてこちらに?」
何とか痛みが引き始めたので訊ねれば、アドルフから「当ててみろ」と返されてしまった。
「…訓練ですか!?」
まさかガウェから直々に手合わせをしてもらえるのかと目を輝かせた瞬間に、また頭にげんこつが落ちた。
「天下の総隊長様を放っといてガウェだけ見て言うな。残念だが訓練は調節だけだ。って言っても、俺からジャックに引き継ぐだけだがな」
三年前の武術試合に優勝したガウェから手合わせをしてもらえるのかという期待はげんこつと共に砕かれ、また痛みに悶絶して。
「…じゃあなんでガウェ殿が…」
ボコボコと殴られていい気はしないので不満を告げるような眼差しを向ければ、アドルフの無骨な指がルードヴィッヒのざんばら髪に延びて、ひと房だけ弾かれた。
「出発前にこの男前を直してもらえ。そんな髪型でラムタルには行かせられないからな」
「え…」
「ガウェに髪切ってもらえってことだ」
ルードヴィッヒの髪は元々長かったが、ハイドランジア家に向かった先で正気を無くしたハイドランジア主人に魔具で切り落とされてしまった。
今は切られたままの状態で長い部分や短い部分がそのままだったのだが、さすがに見た目をどうにかしろということか。
髪を気にする暇もないほど、ファントムとの戦闘後もルードヴィッヒは休むか訓練を言い渡されていたのだ。
「え…切ってくださるんですか?」
思わずきょとんと呆けながら訊ねれば、ガウェは答えの代わりに自前の用具を見せてくれた。
「お前は隅で切ってもらってこい。ジュエル嬢は俺達の話に加わってくれ。ルードヴィッヒのラムタルでの調節はサポート側にも少し頼まれてほしいからな」
そこでふた手に別れることになり、ルードヴィッヒはガウェの後について訓練場内のさらに隅に向かう。
茶色く濁る水溜まりの水を跳ねさせて靴を汚しながら、慌てるようにガウェの背中を追って。
「兄さん!」
思わず普段の呼び方で読んでしまって慌てて口を閉ざすが、ガウェは別段気にする様子を見せずに隅で用意を整えていった。
「…あの」
ガウェと話すのはファントムとの戦闘以来だ。
そしてあの時、まだハイドランジア家で状況を探っていた時に、ルードヴィッヒは勝手な判断で自分だけでなくジュエルの命まで危険に晒してしまったことで、ガウェから凄まじい一撃を頬に受けている。
今まで味わった中で一番痛かった制裁の拳。それを頬に受けて、自分の幼さを痛感した。
あれ以降時間は取れずにルードヴィッヒはラムタルから戻るまではガウェとは話せないものだと諦めていたのに、まさかこんな形で機会に恵まれるとは。
「…兄さん」
着々と準備を進めるガウェの背中に、親に叱られて途方にくれる子供のような声で呼びかける。
「…あの」
「話なら切りながらでもできるだろう。こっちに来い」
ようやくこちらを見てくれたガウェに手招きされて、素直に従って。
俯かされた後に髪に櫛が通され、ややしてから鋏の心地好い音が静かに始まる。
地面に視線を落としていたルードヴィッヒの視界に少しずつ切られていく紫の髪が見えて、しばらく無言が続き。
ガウェが自ら口を開く性格でないことは理解していたが、今はそれがとても居たたまれなかった。
「…兄さん…私は」
何か話そうとは思うのだが、話題が浮かんだそばから消えていく。
結局言葉に詰まってしまい、ルードヴィッヒは諦めるように緊張に強張らせていた肩から力を抜いた。
そこに。
「…好きに暴れてこい」
耳に入ってきた言葉の意味がわからずに、ルードヴィッヒは数秒を無言に費やしてしまった。
しかしようやくそれがガウェからの助言だとわかり、わずかに頭を上げる。
「え…」
「俺からのアドバイスだ。人目は気にするな。対戦相手も気にするな」
見上げた先にいるガウェの顔に見慣れた傷はもう存在しない。代わりに有る闇色の義眼の中に光るエメラルドは、まるで本物の眼球のようにルードヴィッヒに向けられていた。
「自分が楽しいように動けばいい」
ただ、自分の思う通り、好きなように、と。
「…それが出来たなら…お前は今よりもさらにエル・フェアリアの戦士に近付けるだろう」
上向けてしまった頭を押さえつけられてまた下に目を向け、ガウェの鋏も再び動き始める。
切られているのは髪か、それともルードヴィッヒの中に残る不安の種か。
なぜ重要な大会に自分が選ばれたのか、ルードヴィッヒはまだ理解できないでいるのだ。
その不安を切り落としてくれているように感じてしまうのは、ガウェからの助言が嬉しかったからだろう。
「俺が言えることはこれくらいだ。後は、自分で気付けばいい」
「…気付くとは…いったい」
「…気付けるさ。エル・フェアリアに生まれた男なら、絶対にな」
三年前にエル・フェアリアに絶対的優勝という栄光を捧げたガウェから、ルードヴィッヒに。
エル・フェアリアに生まれたから、ルードヴィッヒにも可能だと。
エル・フェアリアは虹と鉄、そして強者の国なのだから。
鉄を操る戦士達。エル・フェアリアが大国にのしあがった理由がそこにある。
「…終わったぞ」
鋏の音がおさまり、肩に乗った髪を払われて。
伸びていた前髪も切ってもらえて、魔具の装飾を使わずとも視界は開けていた。
「…お前が気付けたなら…今までの癖も治るだろうな」
「癖…ですか?」
自分に癖などあったのか。首をかしげるルードヴィッヒの言葉を流して用具を直すガウェが次に目をやるのは、アドルフ達のいる方向だった。
「あっちも終わったみたいだな。戻るぞ」
「あ、待ってください!」
歩き始めるガウェはいつも通りだが、確かな優しさが存在するかのように歩調はゆったりとしていた。
大会の為に、そして自分の為に。
ルードヴィッヒはガウェの言葉を深く刻み付けるように、軽くなった髪に指を通しながら駆け出して後を追った。
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早急に政務を終わらせ、出発の為の準備も済ませて。
王城上階の王族達が食事を楽しむ広間で、コウェルズは資料を片手に静かにつかの間の休憩に身を投じていた。
休憩といっても休ませている箇所はせいぜい足くらいだが。
朝食はすでに終わり、昼食にはまだ少し早い。
出発は昼食を済ませてからと決まったが、まだ早い時間にコウェルズがここに来ていたのには訳がある。
普段なら護衛の騎士達は壁際にいるはずの広間。だが今はコウェルズ一人きりで人を待っているのだ。
待ち人はこの城で唯一コウェルズの命令を流すことができる機関に所属するが、来ないということはまず無いだろう。
魔術兵団長ヨーシュカ。
ミモザの部屋に押し入ったナイナーダが所属する機関の長なのだから、流すなど許しはしない。
侍女に用意させた緑都名産の新芽の茶を飲みながら、ラムタルに到着してからの日程を考えながら。
ようやく扉が叩かれる頃、コウェルズの手元に置かれていたカップは空になった為に完全に冷えきってしまっていた。
「--入れてくれ」
誰が来たかなど聞く必要もなく告げれば、騎士が道を開いてヨーシュカに頭を下げる。
扉から現れたヨーシュカは普段通りの様子を見せるが、コウェルズや頭を下げている騎士達が発するのは殺意にも似た怒気だった。
ヨーシュカの入室と共に扉は閉められ、彼は老いた身体には不釣り合いな機敏な動きでコウェルズの側に訪れる。
「お待たせいたしました」
白々しい言葉に失笑してしまい、コウェルズは手にしていた資料を捨て去るように机に落とすと、座ったまま上半身を反らして背後に立つヨーシュカに体を向けた。
「どうして私が君を呼んだか、わかっているよね?」
冷たい微笑みも、この老人には通じないだろう。
このくそ忙しい時に、さらにいらない用件を増やしたというのに。
「ナイナーダが個人的に作り上げた術式を練り込んだ短剣の件ならば、若き魔術師に託したと聞いておりますが」
「そんなことで今さら呼び出すとでも?」
「はて…でしたら、何の用であるか、私には見当もつきませんな」
あまりの白々しさに眉間に皺が寄る。
「あまり私を侮辱するな。現状で王座に最も近いのが誰なのか、考えてほしいね」
苛立ちから発された言葉ははたしてどこまでこの老人に通じるのだろうか。
わかりはしないが、ヨーシュカがわずかに浮かべていた薄ら笑いを消すほどには真に受けてくれたらしい。
「…一番はミモザ様の件でございましょう」
一応理解はしていると。ヨーシュカは静かにコウェルズの背後から離れると、広間の窓辺に近付き、ひとつだけ開けられていた窓をそっと閉じた。
そして細心の注意をしなければ気付けないほどの技量で、広間に術式を巡らせる。
声が外に漏れないように。その程度の術式だろうが。
「…ナイナーダがミモザの部屋にかけた術式と同じものだね」
「恐らくそうでしょう。ナイナーダが手負いで本当によかった…術が不完全でなければ、ミモザ様は今頃傷物にされたことで--」
「言葉は慎め」
起きたかもしれない最悪の事態を口にされて、一瞬だが怒りに全てを持っていかれそうになってしまう。
寸前のところでコウェルズは拳を握り締めて堪えたが、怒りが完全に消えるはずがなかった。
「…どうしてここに術式を?」
静かに問えば、ヨーシュカは扉に目を向ける。
「聞き耳を立てる異国の幼い王弟殿下がいらっしゃいますのでね」
そして理由はヴァルツだと。
コウェルズに痛いところを突かれて不満を露にしながら去ったヴァルツだが、聞き耳を立てることしか出来ないならミモザとの結婚を考え直さなければならないかもしれない。そんなことを思えば無意識に溜め息は漏れてしまった。
「…私がいない間に、ミモザには魔術兵団に記憶操作の術式をかけられた者達を探し出して解いてまわるよう命じていたんだ…だから、ミモザが魔術兵団に狙われる可能性については予め話していた」
そしてヴァルツの絡繰りを借りるつもりでいた。
「コウェルズ様が出発された後に、とお考えでしたか」
「…そうだね。私のいない間の話しになるはずだった」
「…あなたが王城にいらっしゃる間は、あなたの力でミモザ様に手出しはさせない、と?」
「…否定できないね」
ヨーシュカの言う通り、全てコウェルズがラムタルに向けて出発した後にと考えていたのだ。
コウェルズが王城にいる間は必要ないと。
自分の力で守ってやれると過信していた。
「自分がここまで無力だなんて、気付きたくなかったよ」
思わず漏れた自嘲の笑みには、ヨーシュカは何も返しはしなかった。
「伯父上に二度も負けて、ミモザを危険な目に合わせて。これが次の王様だなんて知れたら、民は落胆するかな?」
「…政務と戦闘指揮は別物ですからね。コウェルズ様は今まで戦闘指揮を取られたことがないのですから、当然の結果でしょう」
無理矢理問えば返答はされたが、ヨーシュカがどんな答えを差し出したとしてもコウェルズには納得できなかっただろう。
互いにそれを理解しているから、コウェルズもそれ以上の言葉は押さえた。
ヨーシュカならばファントムとコウェルズの違いをこれ見よがしにあげつらうかとも考えたが、今のコウェルズの精神状況を理解してくれたらしい。
「…正直に訊ねるよ。君達魔術兵団の今後の動きを教えてほしい」
疲れはどっと溢れて、コウェルズは机に肘をつきながら静かに項垂れた。
怒りにも体力を消費する。
不馴れな戦闘後に二日寝ていない身体には、限界が近かった。
窓辺にたたずむヨーシュカはまた静かにコウェルズに近付くと、今度は机をはさんだ対側に訪れてコウェルズを見下ろす。
何を考えているのかわからないのは、魔術兵団という特殊な機関に所属するからか、それともコウェルズより長く生きるからか。
ヨーシュカは疲れた様子を隠さないコウェルズをしっかり目に映してからようやく口を開き。
「記憶の書き換えは先々代の王命によるもの。いくら我々でも勝手に記憶操作術を使いはしませんよ」
コウェルズの考えは杞憂であると優しく教えてくれた。
先々代。それはコウェルズの祖父に当たる王か。
ファントムとデルグの父親だった、大戦時代の王。コウェルズが物心つく前に他界しているが。
「…城を離れる身としてはその言葉を信じたいけどね。君達魔術兵団に掛けられているという“誓約”はどうなんだい?」
「誓約は真実に通じるものですが、他者に語れないというだけですよ」
記憶操作は誓約とは関係無いとさらりと告げられても信じきることはやはり出来ないが、言葉を変えて改めて訊ねようがヨーシュカには通じないだろう。
それならとコウェルズは姿勢を改めると、
「そう…じゃあ話題を少し逸らそうか。昨夜の騒動。君はどういう対処するつもりだい?」
それこそが本題だとばかりに、コウェルズはヨーシュカを睨み付けた。
「…対処、ですかな」
「ああ。ミモザの部屋に侵入したのがナイナーダであること。こともあろうに第一姫を襲おうとしたこと。部下の不貞を君ならどうする?」
そもそも呼び出した最大の理由なのだから、魔術兵団長として何かしらは動いてもらう。
ミモザはナイナーダが個人的に訪れたと話したが、だからといって所属機関は切り離せるものではないのだ。
「…あれは私の権限下にはいませんからね」
それは端から聞けばまるで自分には関係がないかのような物言いだったが、ヨーシュカの口調はどこかナイナーダ個人に呆れるような色をしていた。
切り離すわけではなく、単純に呆れ返る独り言のような。
そこでコウェルズはとあることを思い出し、
「…ファントムと戦闘になる前に君達魔術兵団とも戦闘になったんだけどね…君達、面白いことになっているみたいだね」
戦闘に突入する寸前に魔術兵団達がコウェルズとニコルの二人のどちらが王位に相応しいかで分かたれたことを教えれば、ヨーシュカは片眉を上げて苦い表情となった。
「…内部分裂のことですかな?」
「そうだよ。というか、隠さないんだね」
「…誓約外の件ですからね」
魔術兵団内の確執を隠そうともしない様子には驚いたが、すでに気付かれているのだから隠したところで今さらになるのかとコウェルズも考えを改める。
「…王座に私を推す者達と、ニコルを推す者達。ナイナーダはニコルを推したのだから、君とナイナーダは考えが一致しているんだと思ってるけど」
「まさか」
自分とニコル。王位継承順位で言うならニコルの方が王座には近いが、それはファントムがロスト・ロードとして戻ってきたならの話だ。
ヨーシュカはコウェルズの考えを心底嫌そうに否定すると、少し間を開けてからわずかな脂汗を浮かせた。
「…確かに私はニコル様に王座を継いでいただきたい身です…ですがあれと一緒にはしてほしくないですね」
「…どういう意味だい?」
「--…」
あれとはナイナーダのことか。言葉の続きを催促するが、ヨーシュカは口を開きはしたが、浮かび始めた脂汗がさらに増えるだけで新しい事実を知ることは叶わなかった。
何か話そうとして。しかし話せない。
「…申し訳ございません。誓約に繋がることは、お話できません」
誓約に繋がることは。
単に口を割らないだけだと思っていたが、本当に話せないらしいことが今ようやくわかった。脂汗を浮かせるヨーシュカの顔色が、来た当初よりも白く悪くなっている。
「つらそうだね?」
誓約とは術式をかけられたということになるのか。それなら、ニコルが以前自ら提案した件は流した方がよいかも知れない。
以前、ニコルがフレイムローズから聞かされたという魔術兵団の内情に関われる可能性を秘めた提案は。
「少し前にね、話していたんだよ。私とニコルの二人とも真実を知る為に、ニコルが魔術兵団入りしてはどうか、とね」
ニコルを魔術兵団に。
誓約がそれほど縛り付けるものなら、ヨーシュカはニコルを魔術兵団には入れたくないだろう。
提案をしたのはニコルだがそれを隠して聞かせれば、ヨーシュカの表情はわずかに固まった。
やはりニコルを魔術兵団には入れさせたくないか。
試すようにコウェルズはヨーシュカを見つめ続け。
「…私も骨を折りましょう」
何かに抗うように、ヨーシュカはコウェルズの向かいの椅子を引いて座った。
そうしなければ倒れそうなほどの誓約なのだろう。王族を前に勝手な行動ではあるが、コウェルズはそこに触れはしなかった。
椅子に座るヨーシュカはさらに顔色を悪くしていき、話せるものを探している姿は健気にさえ思えてしまう。
静かに言葉を待ち、目を向け続け。
「…コウェルズ様を推した者達は恐らく…私を含め、国側の魔術兵団に当たります」
「…国?」
ニコルを推してはいるが、自分も国の為に存在する魔術兵団であると、ヨーシュカはようやく口にする。
それはいったいどういう意味なのか。
ヨーシュカ達が国側であるとするなら、
「ナイナーダ達は…」
思わず急かしてしまい、ヨーシュカが苦笑を浮かべながらコウェルズを片手で制した。
そして。
「あれらは…自らの欲に負けた者達ですよ」
ナイナーダ達を、まるで貶すように。
言葉の端に見えた蔑みの様子は、自分とナイナーダを同じ存在にはしてほしくないとでも言うようだった。
大戦時代、まだ若いヨーシュカはナイナーダと共にロスト・ロードの元で騎士として行動していたはずだ。だというのに。
「ナイナーダは死なぬ身に酷い傷を負った。その為に自我を失い、欲に従ったのでしょう」
「その欲がミモザだと?」
「…ええ」
死なぬ身であるとあたらめて聞かされたはずなのに、コウェルズの頭はナイナーダが胸に秘めるだろうミモザへの欲を優先させてしまった。
どのみち死なぬ身であることはコウェルズ自身が自らの目で確認済みではあるのだが、歳すら取らないナイナーダと老いたヨーシュカを比べるとするなら、
「…欲を持つから、死なない身体になった、とか?」
ヨーシュカはナイナーダを欲に負けた存在であると蔑んだ。
ならば二人の最大の違いはそこなのだろう。
コウェルズの問いかけに、ヨーシュカは否定も肯定もしなかった。
「あれは…ミモザ様が産まれるはるか昔から、ミモザ様を欲していました」
そして答えとするには奇怪すぎる物言いに、コウェルズは一瞬だが言葉を無くした。
ミモザが産まれる前からミモザを欲するとは、いったい。
「…どういうことだ」
「…ナイナーダは欲に見入られて魔術兵団に加わった、ということです」
答えにもならない答えを差し出すヨーシュカの顔色は、先程よりもさらに悪くなっている。
それでも、理解しがたい言葉の数々にコウェルズの脳内はいくつもの疑問に溢れ返り、その全てを問おうと無意識に身体をヨーシュカに向けて前のめらせたところで、ヨーシュカはまた片手を出してコウェルズを制した。
「申し訳ございませんが、誓約に抗うには…老体には厳しいものがあるのですよ」
もう片側の手で心臓辺りの胸部を掴み、ヨーシュカは息も絶え絶えに身を引いて立ち上がる。
「座っていろ」
「いえ…ご心配には及びません」
今にも倒れそうな様子を見せながら、どこが平気だというのか。
コウェルズも立ち上がり向かい側へ足を運ぼうとしたが、それすらもヨーシュカは制してしまった。
「…誓約が…真実が知りたいならば、王になる以外にはありません」
そして改めて。
ニコルを推すはずのその口で、ヨーシュカはコウェルズに王座を示す。
矛盾する思考。
ヨーシュカはいったい、どちらを推すというのか。
「ですがご注意ください。王になるということは…今まで以上の重圧の中に身を投じるということになります。デルグ前王はその重圧に耐えられなかった」
そして出された父の名前に、コウェルズは強く眉をひそめる。
「…王になるんだ。それなりに重圧はかかるものだろう」
何を今さらと。
しかし理解していると口にしたコウェルズをヨーシュカは笑い。
「…あなたに耐えられますかな?サリア様が日ごと弱っていくお姿に」
「---!?」
予想もしていなかった言葉に身が震えたのは、虚弱な母を思い出したからだ。
母は体が弱かった。
だからサリアを選んだのだ。
イリュエノッドの病弱な第一王女ではなく健康体だった第二王女のサリアを、健康だというそれだけの理由で。
だというのに、ヨーシュカはいったい何をもってサリアが弱ると告げるのか。
「…それが、この国の王になるということです」
病などとは一切無縁であるサリアが、コウェルズが王座を手にいれることで弱っていくと。
頭の中が白くなる。
理解できない未来を告げられたコウェルズはサリアに母の弱る姿を重ねて身震いし、その間にヨーシュカが何かに気付いたように窓辺に再び近付いた。
目で追うことしか出来ないコウェルズが目の当たりにしたのはヨーシュカが術式を解いて窓を開ける様子で、少し開けられた窓から現れた伝達鳥がコウェルズには聞き取れない音量でヨーシュカに耳打ちをし始めた。
言葉は長くはなかったが、静まり返る空間では異様なほど長時間に思えてしまう。
「…どうやらナイナーダが見つかった様子です。彼に関しては我々にお任せください。コウェルズ様が戻られるまでは我々の全力を以て閉じ込めておきますので…どのみち当分動ける身ではありませんがね」
伝え終われば伝達鳥はすぐに飛び去り、まだ残る顔色の悪さを払拭するようにヨーシュカは扉に向かい歩みを進めた。
「待て!まだ話は終わっていない!」
まだ聞きたいことは山ほどあるというのに強引に去ろうとするヨーシュカの後を追うが、
「…サリア様への愛情はほどほどに…でなければ、デルグ前王の二の舞となりましょう。あなたがサリア様を愛されれば愛されるほど、弱っていく速度は早まるのですから」
最後の忠告とばかりに口にされたサリアの名に、呪いのように身体が再び強張る。
魔眼の行方を追うためだけの政略的な婚約だったとしても、今のコウェルズの心はサリアを愛していて。
その愛情がサリアを殺すと。
扉に近付いたヨーシュカは一瞥するようにわずかにだけコウェルズに目を向け、すぐに扉を開いてしまった。
扉の向こうに見えるのはコウェルズの騎士達と驚くヴァルツだが、ヨーシュカは気にする素振りも見せずに改めて頭を下げて完全に立ち去ってしまう。
後を追うことも止めることも出来なかった理由は簡単で、今のコウェルズは新たに胸に宿る不安に晒されるだけで精一杯となってしまっていた。
「…コウェルズ様?」
心配そうな声はどこから。
騎士達が様子のおかしいコウェルズを思い広間に足を踏み込んでくることすら頭で理解することは叶わなかったが。
『--あなた様』
耳元でふと浮かぶサリアの呼び声に、コウェルズは自分の中に宿り息付く彼女への愛欲の深さに、改めて気付かされてしまった。
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