第82話


ーーーーー

「…全員いるか?」
 ガウェが少しくたびれた様子で訪れた場所は、アクセルが短剣の術式を解読する為に準備された一室だった。
 治癒魔術師護衛部隊がここに集まることは聞かされていた為に扉を開けてみれば、全員とは言えない人数に問うてみたのだ。
「モーティシアだけ家に戻ったよ」
 返事をくれるのはレイトルだけで、アクセルは短剣を凝視し、セクトルはそれを真似て、トリッシュは近くの本棚の前で文字を追っているところだった。
「……忙しいのか」
「そんな所かな。アクセルが何かわかりそうみたいで、セクトルの魔力で短剣を攻撃してるところなんだ」
 そう説明されても、二人とも短剣を凝視しているだけにしか見えない。
「俺は長く一点に集中するなんて苦手だからなぁ、セクトルはやっぱ魔術師団に入るべきだったんじゃないか?」
 本から目を離して近寄ってくるトリッシュも、集中する二人に遠慮するように小声だ。
「それより、君のところの使用人が怪我したって聞いたんだけど…」
「ああ」
「……騎士団が怪我させたなら…もしかして私たちと関係あるとか?」
 朝方にセクトルが殴られて、その次は城下でガウェの家の者が傷を負わされた。
 レイトルもトリッシュも、ニコルに関係しているのではないかと眉をひそめるから、肯定するように小さく頷いた。
「ニコル達と外出していた先で偶然セシル殿とサイラス殿に遭遇したらしい。手を出してきたサイラス殿からニコルを庇って、うちの魔術師が怪我をしたんだ」
「サイラス殿が?」
「ああ。わざと殴りかかった訳ではないそうだが、怪我は怪我だ」
 淡々と話す中にわずかに宿る怒りに、レイトルは気付いたようにそっと目を伏せる。
 ガウェの個人邸宅で働く者の何人かは、ガウェが幼少期から信用している者だと聞いたことがある。いくら騎士達が仲間であろうが、ガウェからすれば大事な家族を傷つけられたも同然だ。
「それで、どうなったの?」
「謝罪と慰謝料で落ち着いた」
「…そうなんだ。君のところの魔術師も大変だったね」
 ガウェがその程度で済ませたということは、あまり深い傷ではなかったのだろうと察しながら、レイトルはトリッシュと顔を見合わせて。
「ここにはそれを伝えに?」
「いや…明日ニコルとアリアが城に戻ることに決まった」
 予期していた可能性。それが現実になったことに、二人は脱力するようにため息をついた。
「何日も休んでないのに…まだ伝えてないの?」
「伝達鳥は送っている。明日であればいつでも構わないそうだが、うちの魔術師が家にいない以上、せめて誰かに最後の護衛を兼ねて邸宅にいてほしいんだ」
 魔術師がいない、という言葉のニュアンスが少し引っかかって、レイトルは少し考えて。
「確かガウェ殿の家の魔術師や私兵がアリアの護衛も兼ねてくれてたんだよな。その魔術師と護衛を変わるついでに明日連れて城に戻れってことか?」
「ああ」
 トリッシュはすぐに理解した様子だった。
「モーティシアには伝達鳥を送るとして、俺はジャスミンを慰める約束したし、アクセルとセクトルはあっちの解読を優先するだろうからな……」
 誰がガウェの家に向かうか、答えは出ているようなものだった。
「…君のところの魔術師は邸宅に戻れないのかい?」
「元々王城の魔術師団入りを請われていた奴だったからな。明日までリナト団長に絡まれて離してもらえないだろう」
 それを言われれば、納得はすぐに出来た。
「リナト団長しつこいからなぁ」
 トリッシュは笑っているが、ガウェは眉間に皺を寄せているので、ガウェなりに今からリナト団長を止めに行くのだと察しがついた。
「…私はもう君の家に行っていいの?」
「ああ。お前が行くだろうと伝えている」
「……その配慮が嬉しいよ」
「あっちの二人には俺から言っとく。ニコルとアリアが城に戻ってからのことも考えなきゃならないから、モーティシアにもすぐ戻るようこっちで伝えるよ」
「頼む」
 急な任務に三人で同時にため息をついて。
「ーーわかったかも」
 ふと、アクセルがこの場にそぐわない声色で発した。
「これ、術式じゃない。……呪いみたいだって思ってたけど…ほんとに呪いだよ」

ーーーーー

 明日、時刻は縛らないが必ず王城に戻ること。伝達鳥からの急な知らせを受けたニコルとアリアは、やはりかという思いで互いに目を見合わせて肩を落とした。
 二人きりの談話室は、無情なほど空気が冷たい気がする。
 昼間の件があったから覚悟していたことではあるが、こんな形で戻りたくはないものだ。
 王城がどんな状況なのか、想像以上だろうから。
「ジョイさんが戻れない代わりにレイトルさんが来てくれるんだ…大丈夫かな、ジョイさん」
「さあな……あんまり気落ちすんなよ。城にはいつか戻る予定だったんだからな」
「でも…」
「ガウェが一緒なら向こうは大丈夫だろ」
 図太そうな神経のジョイが王城でどうかなるとは思わない。
 それはアリアも同じよう様子で、不安げな眼差しはニコルを心配しているのだと察した。
 ニコルは大丈夫なのかともし問われたら、口では誤魔化せても実際は難しいだろう。
 せっかくの休暇で少しすっきりとした気持ちが一気に押しつぶされることなど、目に見えているのだから。
「ーーお前さん達、少しいいか?」
 扉のノックと共に顔を見せてくれるのはビデンスで、その後ろにはキリュネナが少し心配そうな表情で共にいた。
「おじいさんと話したんだけど…明日なんだけどね、せっかくだし、みんなでお食事しましょう?」
 ニコルとアリアの事情を少しは知る二人からの、優しい誘い。
 ビデンスは厳めしい顔つきのままだったが、その眼差しの奥の思いやりを隠せてはいなかった。
 ニコルはアリアと顔を合わせて、少し強張っていた表情を互いに緩める。
「…ありがとうございます」
「嬉しいです!」
「あら私たちだって嬉しいわ!さっそくネミダラさんにいくつかお願いしてこなきゃ」
 キリュネナは元々の笑顔をさらにホッと柔らかくして、明日だというのに今から忙しそうに去っていく。
「……元気な婆さんだな」
 ビデンスも憎まれ口を叩きながらもその後ろ姿を見送って、応接室には入らずにニコル達に目を合わせてきた。
「…今からジョイの代わりに来る護衛の騎士は、アリアの恋人なんだろう?」
「え!?」
 アリアの素っ頓狂な声と真っ赤に染まる頬が、返答の代わりに肯定する。
「そんなわかりやすい性格で…お前さん、城で隠せるのか……」
「うぅ…努力します…」
「……無理はせんでいい。自分の気持ちをなぜ殺さにゃならん」
 普段の形相も忘れてふと笑ってくるから、アリアも照れたまま釣られて微笑んでいた。
「お前さんはいいのか?あの娘に会いに行かんで」
「…………俺は…」
 話題はニコルへと替えられ、自分でも思っていたことに口籠もってしまう。
 城に戻る前にテューラに会いたい思いは切実にある。だが、レイトルが訪れる状況で会いに行っても良いものかどうか、判断が出来なかった。
 レイトルに知られて困るとは思っていない。だがレイトルは、アリアへの思いで病んでいたニコルを知っている。
 エルザとの件も、何があったのかまともに話せていない状況で他の女に会いに行くことは、義理を欠く気がして。
「…あたしがレイトルさんに話すよ」
 ニコルの胸中を察するアリアが、手を取ってくれる。
「兄さんばっかり我慢しないで。…それに、もしあたしがテューラさんだったら…何も言わずにお城に戻られるの、かなり傷付く」
 取った手を、ポンと押すように離される。
 まるで背中を押されたような温かな感覚。
「…ありがとな。行ってくる」
 お礼と同時にアリアの肩を優しく叩いて、扉を通してくれるビデンスには「アリアを頼みます」と頭を下げて。
 テューラが忘れていった服を取りに部屋まで向かい、途中の姿見の前でふと足が止まり、前髪を手櫛で整えて。
 バタバタとせわしなく用意を終わらせて、すぐに邸宅を飛び出した。
 走って向かうには距離のある場所。
 そこへ向かう最短距離を進む為に鷹の生体魔具を一瞬で生み出し、颯爽と夜空へ飛び出していった。

ーーーーー

 装備もしっかり身につけてガウェの邸宅に到着したレイトルは、馬から降りると邸宅から現れた使用人に手綱を渡し、促されるまま玄関ホールに足を踏み入れた。
「お待ちしておりましたよ、こちらへどうぞ」
 出迎えてくれるのはネミダラだ。
「急な連絡だったのに、ありがとうございます。…もしかしてニコルは不在ですか?」
「おや、お気付きでしたか」
「空を飛ぶ生体魔具を見かけたもので」
 城から邸宅のある居住区画までの距離は短い方だが、その間に夜空を横切った魔力は、やはりニコルの魔具だった。
 いったいどうしたのかと首を傾げていれば、パタパタと忙しない足音が聞こえてきた。
「レイトルさん!」
 談話室にいたのか、満面の笑みを浮かべて駆け寄るアリアの後ろから現れたビデンス・ハイドランジアが値踏みするような眼差しをぶつけてくる。
 その眼差しをどうも見過ごすことが出来なくて。
「…夜分に突然の無礼をお許しください。治癒魔術師護衛部隊に籍を置きます、レイトル・ミシュタト・ライトレッグと申します。黄都領主の魔術師の代わりに一晩の護衛を務めさせていただきます」
 深く頭を下げれば、ネミダラは微笑ましそうな笑みを浮かべ、困惑するアリアの後ろではビデンスが満足そうに値踏みの眼差しを止めてくれた。
 初めて会うわけではないが、騎士として訪れるのは初めてだったので、レイトルの改めての挨拶は正解だったらしい。
「どうせニコルも今晩は戻らんだろ。お前さん達もゆっくり過ごせばいい」
 とっとと言いたいことを言って、ビデンスはふらりと談話室に戻っていく。
「では私も、明日の準備が残っていますので。何かあればお呼びください」
 ネミダラもその後に続くから、玄関ホールはすぐに二人だけ取り残されてしまった。
「…あの、レイトルさん……来てくれてありがとうございます」
「任せて。私の任務でもあるんだし。それより大丈夫だった?昼間のことを聞いたけど…」
「あたしと兄さんは大丈夫ですよ。でもジョイさん…この家の魔術師さんが…それにセクトルさんも怪我したって聞きました」
 心配は当然するだろうが、レイトルは目の前のアリアが怪我もなくいてくれたことの方が安心できた。
「この家の彼なら、ガウェがいるから大丈夫だよ。怪我については騎士団側が慰謝料を払うことになったみたいだけど」
「そうなんですか!?」
「まあ、それくらいで済んで良かったってところだね。サイラス殿が除籍にならなかっただけひと安心かな」
「……そっか…怪我させたんですもんね」
「セクトルの方も、ちょっと目立つ位置に怪我があるだけで、そこまでひどくはないよ」
 アリアは事の重大さを改めて痛感するように眉を顰める。
「セクトルの怪我は明日以降にでも治してやってほしいかな。それより、私はどこで待機していればいい?」
「あ、それならこっちに」
 案内をしてくれるアリアの後ろをついて行けば、階段を上がり、廊下を進み、
「どうぞ!」
 嬉しそうな、照れた笑顔でアリアの部屋に迎え入れられそうになる。
「……」
「…レイトルさん?」
「私は一応、任務で来てるんだよ?」
「…王城でも部屋に入ってたじゃないですか…」
「あれも本来はダメなんだよ。ここはガウェの個人邸宅だし、今はハイドランジア家の客人もいるから特に、ね」
 談話室ならまだしも私室となれば話は別だと拒否してみれば、アリアは悲しそうに俯いてしまった。
「…せっかくの最後の夜なのに、駄目ですか?」
 恋人としていてほしいと、表情だけでなく全身で伝えてくる仕草はあまりにも可愛すぎるものだ。
「……ニコルなんだけど、どこに行ったのか知ってる?」
 話を逸らしてみようとしたが、アリアが腕に身を擦り寄せてきて。
「ちょ、アリア!」
 装備のおかげで身体の柔らかさを感じることはできなかったが、吐息の近い距離に全身が一気に火照った。
「……ここで話すより、部屋に入った方がいいと思います」
 近くなった距離の分だけ声を小さくするものだから、余計に吐息を感じてしまい。
「わ、わかったから!」
 わざとなのか無自覚なのかわからないが、恋仲になったとたんに甘えたの性格が目に見えて、自分の理性が保てるのか心配になってきた。
 レイトルの根負けにアリアは満面の笑みを浮かべて、腕を取られたまま部屋に案内される。
「ソファーに座っててください!今日、出先で美味しい茶葉を買ったんで、入れますね!」
 嬉しそうなアリアはすぐさま準備に取り掛かり、レイトルは深く考えることはやめて素直に座ることに決めた。
「兄さんのことなんですけど」
 準備をしながら、少し固くさせた声が聞こえて。
「……今、恋人のところにいるんです」
 どこに行ったのか検討もつかないレイトルには、アリアの説明は数秒ほど理解できないものだった。
「…………え!?」
 恋人とはレイトルとアリアのような仲ということだろうが、聞き間違いではないのかと思わず立ち上がり、アリアに動揺の眼差しを向けてしまう。
 どうやら聞き間違いでないことはアリアの表情からすぐにわかるが、今現在ニコルはエルザとの件で城で大事になっているというのに。
「詳しいことはあたしからは話せないけど、エルザ様と被ってたってことはないです。その人と兄さんが恋仲になったのつい最近で…というかたぶん昨日で…」
「………………え、冗談…なわけないか…ごめん、誰か知ってる?」
「えっと…兄さんが媚薬、香?…を嗅いだ時に尽力してくれた遊女さんで…それ以来何度か偶然の再会があったみたいで…」
 簡単な説明に、言葉を無くす。
 まさか遊女だなどと。
 だがアリアは不安と同時に真剣そのもので、喉から出そうになった言葉をグッと何とか堪えた。
「一瞬しかその人のこと見てないんですけど、でもその人と一緒にいる兄さんは何というか…すごく優しい顔をしてて…安心できる人なんだなって思えたんです」
「…そうなんだ」
「ほんとは兄さん、その人のとこに行かずにレイトルさんを待つつもりだったみたいなんですけど…状況が状況だから、あたしとビデンスさんで送り出したんです」
 状況とはもちろん、休暇の終わりのことだろう。
「……ニコルは大丈夫そう?」
 城でどれほどニコルが気を病んでいたかは見ていたから、目下の心配事はそれだけだ。
 そしてアリアも同じことを心配するように、返事をくれなかった。
 お茶の用意を済ませて、盆を持ってレイトルの前に来てくれる。
 美味しそうな香りを漂わせるカップをレイトルの前に置いて、その隣に自分用だろうカップも置いて、アリアは向かいではなく隣に座ってきた。
 距離は拳ひとつ分しかない。
「…きっと兄さんからみんなにちゃんと説明するから、それまで待っててくださいね」
 ポス、と、肩に頭を預けてきながら。
 数秒経って、アリアは不満そうに頭を離した。
「……装備外してください」
 どうやら装備の硬度がお気に召さなかったようで、頬が少しばかり膨らんでいた。
 その不満顔が可愛くて。
「だーめ。任務で来てるって言ったろ?」
 優しく告げて、愛しさから頭を撫でて。
「……兄さんは恋人同士でゆっくり過ごせるのに?…ずるい」
 不満顔が寂しさに変わる瞬間を見てしまい、申し訳ない気持ちは大量に溢れた。
「…君は護衛が必要な子で、ここはガウェの邸宅だからね」
 抱きしめたい気持ちも、それ以上に進みたい気持ちも、きっとアリア以上に持っている。
 それでも今は、恋人としていられる時間ではないのだ。
 これは少しばかり沈黙の時間が続くかと思われた時、ふと扉を叩く軽い音が響いてきた。
「アリア様、レイトル様、ネミダラです。少しよろしいですか?」
「はーい」
 沈黙から脱出するチャンスはアリアにも僥倖だった様子で、すぐに扉に駆けていく。
 レイトルもソファーから離れれば、扉を開けた先でネミダラは軽食を持って笑顔を浮かべていた。
「簡単な夜食ですが、どうぞお召し上がりください」
「わぁ!ありがとうございます!」
「明日は豪勢になりますから、楽しみにしていてください」
 盆を受け取ったアリアがテーブルに置く間、ネミダラはそばに立つレイトルにも優しく微笑んでくれる。
「明日の昼過ぎから、皆さんで食事を楽しもうと話されていたんです。レイトル様もぜひ召し上がってください」
「ありがとうございます…ですが私は…」
「ああ、護衛の件なら気を張る必要はありませんよ。ロワイエット様からの心遣いなのですから」
 あくまで部屋には入らないまま、ネミダラは事の経緯を話してくれる。
「ジョイは優秀な魔術師ではありますが、ビデンスの足元にも及びません。ビデンスも自宅が直るまではここで世話になっている身だからとアリア様の護衛を快く受けてくれているので、レイトル様が護衛に増えようが増えまいが、あまり関係は無いのですよ」
 ビデンスがいるから、と。
「ジョイの代わりの護衛という名目を使えば、王城も怪しまないでしょう。そう踏んだロワイエット様の粋な計らいでございます」
 わざわざ城から呼んでまでの護衛は不要であると。
 その言葉にアリアの瞳がキラキラと輝きを増していく。
「…ガウェに嵌められた気分ですよ」
「その割にはレイトル様も嬉しそうではありませんか」
 照れ隠しの笑みに、ネミダラも面白そうにつついてくる。
「そういうわけですので、レイトル様もどうぞゆっくりとお過ごしください。多少の物音に動じる家の造りでもありませんので」
 最後の最後に聞き捨てならない言葉を残して、ネミダラはさっさと扉を閉めてしまった。
 あそこまで言われてしまうと流石に気恥ずかしさが勝ってしまうが、アリアが背中に張り付いた小さな衝撃に、腹部に回された細い腕に触れながら少し笑ってしまった。
「……装備、外そうか?」
「…………ぜひ」
 アリアの両拳がポコポコポコポコと装備を叩いて、早く脱いでと急かされる。
「アリアは恋人にはずいぶん甘える子だったんだね」
 ポコポコを続けるアリアの手を優しく離して、装備を外す為にベルトを緩めていって。
「……あたしもちょっと驚いてます」
 恥ずかしそうに頬を染めながら、それでも嬉しそうに呟いたアリア。その言葉に少し考えてしまい。
「…前はそうでもなかったんだ?」
 聞いていいものか一瞬迷ったが、聞きたくて訊ねた、過去の恋愛時代。
「うーん、あたしから触っちゃダメな空気感があって……今みたいに甘えたい気持ちはなかったかも…ちょっと寂しかった気もするけど」
 アリアの方は全く気にも留めていない様子で、かつての自分の感情を教えてくれる。
 レイトルが上半身の装備を外した時点で、次は前に張り付いてきた。今度こそダイレクトに伝わる身体の柔らかさに何とか自制して。
「だからあたしもビックリなんです。こんなにもレイトルさんの近くにいたい気持ち…抑えられなくて……ダメですか?」
 すぐ近くの距離から、少しだけの上目遣いで。
「駄目じゃないよ。むしろ嬉しい」
 心を許して甘えてくれる姿は、特別な気持ちにさせてくれる。
 愛しいと心から思うアリアにそうされて、嬉しい以外は存在しない。
「…でも少しだけ離れてくれる?装備まだ途中だからね」
 下半身の装備も外す為に頼めば、頬を膨らませながらもアリアは離れてくれた。
「装備って重くないんですか?騎士の皆さん、いつも重そうだなって思うんですけど」
「見た目ほど重くはないよ。要所だけ守って、後は皮のベルトだからね」
 いくつものベルトを緩めては装備を外していく様子をじっと見つめられているのを感じながら、全て外し終えて身軽になれば、アリアはすぐに背中に張り付いてきた。
「ふふ…お待たせ」
 可愛くてたまらなくなる。
 レイトルとアリアも一応は付き合いたてで、王城に戻れば国の目を撹乱する為にも二人きりになどほとんどなれないだろう。
 抱きしめるなど、本当に難しいかもしれない。
 アリアもそれをわかっているかのように、すがる手の力は必死だった。
「私も君を抱きしめたいんだけど?」
「んー………もう少し堪能させてください」
 背中に当たる温もりを強く抱きしめたいのに、レイトルに許されているのは腹部に回されている腕に自分の手を添えるだけだなんて。
「はいはい、もうおしまいだよ。私にも抱きしめさせて」
「きゃ、」
 少し強引だが腕を引き剥がして横抱きにすれば、突然の出来事にアリアは驚きながら縋りついてきた。
「待ってやだ!あたし絶対重いから!!」
 だが思っていた甘い雰囲気にはならず、逃れようと暴れるからレイトルも腕の力を強めてソファーに向かう。
「重くなんてないよ」
「絶対うそー!!」
 半泣きのアリアを抱きしめたまま、お茶と軽食の用意されたテーブルを前にゆっくりとソファーに腰掛ける。
「だってあたし、みんなより背が高いし…」
「太っているわけじゃないんだし、君が思ってるほど重くないよ」
 胸は確かに大きいが、それくらいで根を上げる訓練などしていない。
「でも…」
 ソファーに座るレイトルの上にさらに座る体勢にアリアは恥ずかしそうに頬を赤らめているが、口で言うほど降りる素振りは見せない。
「……こうやって君を独り占めできるなんて、夢みたいだ」
 じっと見つめてくれる銀のやわらかな瞳を真っ直ぐに見つめ返して微笑めば、アリアの赤い頬がさらに真っ赤にのぼせていった。
 話したいことや聞きたいことがいくつかあったはずなのに、心が全て奪われてしまったようにアリアだけが脳内を占めている。
 アリアは恥ずかしがるように俯くが、ちらりとまた目を向けて、潤んだ眼差しと笑顔を向けて。
 愛しくてたまらない。
「君に告白してから…本当はずっと周りの奴らに嫉妬してたんだ。アリアが私を選んでくれるように、誰もアリアの目に映るなって…」
「……レイトルさん」
「特にミシェル殿が君の近くにいた時は、本当にどうにかなりそうだった…」
 手に入れたかったのに、拒絶されるのを恐れて告白の返事に逃げ道を作ったのはレイトルだ。
 それからずっと、本当に焦がれる日々だった。
「アリア…君を愛してる」
 何度でも伝えたかった言葉。
 何度も飲み込んだ言葉を。
「…愛してる」
 赤くなったままの頬に指を滑らせて、そっと自分の方へと引き寄せる。
 目を伏せるアリアは、すぐに身を委ねるようにキュッと目を閉じた。
「----」
 重なる唇は未知の領域を恐れるように少しだけ固い。
 数秒重なり、ゆっくりと離れて。
 ぎこちない口付けは、アリアが男女の本当の恋愛を何も知らないことを教えてくれて、それがまた愛しさを膨らませるようだった。
「レイトルさん…」
 限界を超えたほどに真っ赤になったアリアが、瞳を潤ませながらレイトルを見つめる。
 その瞳から溢れた涙に、早まったかと焦りそうになって。
「……どこにも行かないでくださいね…あたしだけ見てて…他の女の人なんか見ないでくださいね」
 過去の傷を思い出すように、悲痛な涙がぽろぽろとこぼれていく。
 深く傷付いたアリアを癒せるのは、もうレイトルだけなのだ。
「約束するよ。…もうずっと、アリアしか見えてないんだけどね」
 そっと抱きしめて、何度も頭を撫でて。
「レイトルさん…大好き」
 泣き声に混ざる、嬉しい言葉。
 嬉しいはずなのに、アリアを泣かせる過去の男を殺したくなった。
 気が済むまで泣かせてやって、落ち着くまで頭を撫で続けて。
 短くなった銀の髪は、頭を撫でるたびにサラサラとして心地良い。
 いつまでもこうしていたい。
 二人で、誰にも邪魔されずに。
「……君の淹れてくれたお茶を飲んでもいい?」
 落ち着いたアリアが甘えるように擦り寄るのをクスクスと笑いながら、冷めてしまった大切なお茶を求める。
 アリアはゆっくり身を起こすと、少し後ろを向いてテーブル上の軽食とお茶をボーっと眺めた。
 やがてもぞもぞと身じろいでレイトルの隣に移動し、ぴったりと腕に抱きつく体勢で落ち着く。
 腕を取られた状態でお茶を飲むのは少し厳しいかと思ったが、うまく手を伸ばした位置にあったお陰でカップに手は届いてくれた。
「……へえ、本当に美味しいね。城下町で売られてるものの品質が物凄く上がっているとは聞いてたけど、これなら王城で飲むものとそう変わりないんじゃないかな」
「そうなんですか?」
「さすがに王家の人達や上位貴族がいる場では違うだろうけど、騎士団内なら充分すぎるくらい美味しいよ。みんな面倒臭がって水で済ませるから」
 騎士達が面倒臭がるところはアリアにも想像がついたのか、笑われてしまった。
「でもこのお茶は、私だけの特権になればいいのにな」
 アリアが選んで淹れてくれたお茶という特別な一杯は。
「……兄さんもダメ?」
「あー、ニコルは仕方ないね」
 さすがにニコルが相手では仕方ないかと肩を落とせば、アリアはさらに腕に身を擦り寄せて満面の笑顔を見せてくれた。
「…ねえ、レイトルさん」
 まつ毛に先ほど流した涙の雫を残したまま、ゆっくりとアリアは距離を詰めてくる。
「……さっきの……もっと…してほしいです」
 吐息のかかる距離で恥ずかしがりながらも積極的にねだられて、理性が吹き飛びそうになった。
 カップをテーブルに戻して、頬に手を添えて。
「…可愛いね」
 腕の拘束を解いてくれたアリアを再び抱きしめて、口付けを。
 アリアはまた最初こそ固くなっていたが、次第にレイトルに全てを委ねるように緊張を解いていった。

-----
 
2/4ページ
スキ