第82話


第82話

 夕暮れ時の王城正門を抜けたモーティシアは、用意した馬に荷物を乗せながらゆっくりと大きなため息を付いた。
 ジャスミンを怒らせた件でトリッシュからもキレ散らかされた後で、気力は既に大きく削られている。
 怒らせるほどのことを今まで言い続けていたのだと理解はしたが、急に怒りを爆発させるのもどうなのかと不満も残った。
「…さあ、行きますよ」
 馬の胴を撫でて、警備の騎士達に会釈をして。
 自宅に戻る前に寄っておきたい場所もあったので、馬が向く方向は個人邸宅の揃う区画とは反対側だ。
 歩いて行くか、乗り上げるか。一瞬迷って鐙に足をかけたところで、近付いてくる人影に気付いて無意識に振り返った。
 こちらに目を向けながら歩み寄ってくるのはモーティシアより十は歳上だろう騎士で、手の甲の刺繍と宝石の色から第三姫クレアの護衛騎士だとわかった。
 足を下ろして、緊張しながら相手を待つ。
 モーティシア達には今現在、騎士達に不条理に恨まれる理由がある。
「モーティシア・ダルウィッカーだな?」
 あまり表情の読み取れない騎士は、睨みつけているとも取れる目つきのままモーティシアを確認してきた。
「…そうですが。あなたは?」
「私はユージーン・ラーブル。クレア様付きの副隊長だ」
 見覚えはあると思っていたが、副隊長クラスまでもが文句でも言いに来たのかと警戒すれば、ユージーンは馬と荷物に目を向けて、モーティシアの手荷物まで確認をしてきた。
 その視線の動きには違和感しかない。
「……いったい何の用でしょう?」
「昨日、遊女を匿ったそうだな。貴殿の邸宅はどこにある?」
「…は?」
 何を突然訊ねてきたというのか。
 理解が追いつかず、眉を顰めてしまう。
「……いったい何を…」
「マリオン嬢に用がある。邸宅の場所を教えてくれるだけでいい」
 マリオンの名前を出されて、困惑と同時に不快感が胸を苛んだ。
「…何をお尋ねになりたいのでしょう?」
 どこから知ったかわからないが、モーティシアの家までは把握していない状況にひとまず安堵しつつも警戒して。
「彼女に直接話す」
「どこまでお知りかはわかりませんが、彼女は今、私以外の人間に怯えています。お伝えしたいことがあるなら伝えますよ」
「…二度言わせるな」
「同じ言葉を貴方に返しましょう」
 視線の鋭さを一気に増すのは、モーティシアもユージーンも同時だっただろう。
 マリオンを知るということは、彼女の客だったことは間違いない。
 それも、マリオンの状況を逐一調べるほど熱心な。
 高級店で悪魔喰らいとして懸命に働いてきたマリオンのことだ。殺されかけるほど、一部からは異常な人気を誇る。
 恐らくはユージーンもその一人なのだろうと予想して。
 しばらく睨み合いになれば、様子のおかしさに気付いた警備の若い騎士が一人、怖々と近付いてきた。
「……あの、何かありましたか?」
 不安そうな表情は、モーティシアのことはわからずとも、ユージーンが階級の高い護衛騎士であることに緊張しているからだろう。
「警備の邪魔をしてしまいましたね。もう解散するのでご安心ください」
 若い騎士には落ち着かせるように微笑んでゆっくりと話し、
「…現状で我々治癒魔術師護衛部隊に接触するのは、また不要な騒動を招きますよ」
 冷めた眼差しで、ユージーンを見下すように。
 彼も現在の姫付き達の置かれた状況を思い出すように忌々しそうに睨みつけてくるが、やがて諦めて城内へと戻っていった。
 本当に諦めたわけではないのだろうが、姿が見えなくなったことに安堵して。
「……大変ご迷惑をお掛けしました。あと申し訳ないのですが、貴方の任務終わりで構わないので、この馬を兵舎中間第一棟の厩舎に戻しておいてくれませんか?」
「へ?」
「助かります。それではよろしくお願いします」
「え!?」
 手際よく馬に預けていた荷物を手にして、有無を言わさず手綱を渡して。
「あなた、名前は?」
「…マウロと申します」
「そうですか。マウロ殿。馬のお礼は必ずさせていただきますよ。では」
「ぇえ!?」
 爽やかに微笑んで、馬を置いて歩いて進むのは家のある方向だ。
 本当は買っておきたいものがあったが、あの様子だとユージーンは何らかの形で何としてもモーティシアの自宅の場所を知ろうとするだろう。
 時間の問題かもしれないが、なるべく知られないようにする為に、歩きながら自らに術式をかけて。
 これで何者かに後を付けられたとしても、ひとまずは安心だ。
 重い荷物を抱えながら、息を殺しながら、モーティシアは家に向かう足音を消しながら、自宅への帰路を急ぎ進んだ。

ーーー

 自宅の門をそっと開ければ、玄関扉の前に食料の入った箱が置かれていた。
 それはモーティシアがマリオンの為に届けさせた食料だったが、居留守を使い受け取らなかったという報告は本当だったのかと小さなため息をついた。
 どこにも明かりすら付いていない家は、誰かがいるなど思いもしないほど静かで。
「……マリオン。戻りましたよ」
 扉を開けて、荷物と食料を隅に置いて。
 呼びかけにも応じないので、まるで彼女が居なくなったようだった。
「……マリオン?」
 もう一度呼べば、静かな軋みの音が二階から。
 どこかに隠れていたのだろうと、もう一度荷物を持ち上げて二階は気にせずリビングに向かえば、少し経ってからマリオンが降りてきて顔を見せた。
 その顔色は、寝不足が祟るように悪い。
「…送った食料は受け取ってください。玄関を開ける程度なら何の問題もありませんから」
 炊事場は使った形勢もなく、マリオンが何も食べていない様子にも小さくため息を付いて。
「……何か作りましょうか?」
 様子を窺うように怯えた眼差しを向けてくるマリオンになるべく優しく問いかければ、火がついたように走って抱きついてきた。
「…モーティシアさんだ……」
 弱々しい力で懸命に縋りつくから、思わず肩を抱きしめ返してしまう。
 は、と気付いて、何事もなかったかのように手を離した。
「簡単な食事を用意しますから、少し寝ていなさい」
 抱きつかれたまま食料の入った箱を漁れば、マリオンは素直にそっと離れて椅子に座り、頭が回っていないようなボウっとした表情で見つめてくる。
「スープなら食べられますね?」
 問えば、コクンと頭が落ちるように頷いた。
 モーティシアも単純なものしか作れないので、適当に食材を切って鍋に無造作に入れていく。火を使わず魔力で温めているが、これでいいのか久しぶりすぎて不安になった。
 湯に戻すだけの簡単なものだったらよかったのに、残念ながら少し手間が必要だと思いながら調味料としばらく格闘して。
「ーー味の保証は出来ませんよ」
 十数分かけて何とか作り上げた具の多いスープは、少し塩分が高めの出来となった。
 あいもかわらずボーっとしたままのマリオンの前に、深皿に入れたスープとスプーンを置いてやる。
 モーティシアも自分の分を用意してマリオンの向かいに座れば、マリオンはスプーンを手にはするが、モーティシアを待つように食べるのを躊躇っていた。
「どうぞ、召し上がってください」
 まるで子供のようなしぐさに思わず笑ってしまえば、マリオンは少し照れてから手を動かして。
 簡単なスープとはいえ、即席のものでない手料理を誰かに出すのは初めてのことだったので、マリオンが飲み込むまで少し緊張してしまった。
 そして。
「……ちょっとしょっぱいね」
 やっと、ふわりと笑ってくれる。
 味の感想より、その笑顔に胸はほっと安心した。
「お湯を足しますか?」
「ううん。美味しいもん」
 少しずつ食べてくれる。
 それが嬉しかった。
「…でもお野菜大きいよ」
 スプーンには収まりきらない葉物野菜達を掬い上げて、クスクスと笑って。
「なら次はあなたが作ってください」
 無意識に出た返し文句。
 あ、と気付いて撤回する前に、マリオンは「うん」とはにかみながら頷いた。
「……私がいない間は何をしていたのですか?」
 話題を逸らすための質問。声は少しばかり愛想に欠けた。
「…何もしてないよ。モーティシアさんのベッドにいたの」
「本も読まなかったのですか?」
「……ちょっと…物音とか、怖かったから」
 目を合わせず、声を震わせるマリオン。
 一人でいる恐怖に怯えていたのだろう。
 やはりガウェが申し出てくれたように、彼の邸宅で保護してもらう方がマリオンには良いのかもしれない。
 だが頭で分かっていても、なぜか言葉にすることが出来なかった。
 彼女のことを考えるべきだというのに、言葉が喉につっかえるのだ。
「モーティシアさんは、いつまでここにいてくれるの?」
「明日の朝には出ますよ。次にいつ戻れるかの約束は出来ませんので、配達だけは受け取ってくださいね。玄関前に置いていってくれるので」
「……うん」
 彼女の安全の為と自分自身に言い聞かせて、悲しく陰る表情は見ないようにして。
「ここは安全ですよ」
「…………うん」
 それ以上はマリオンも質問をやめて、ゆっくりとスープを口に運んでいくばかりとなった。
 静かな室内に二人分の食事の音だけが微かに響く。
 モーティシアはすぐに食べ終わったが、マリオンは今まで食べていなかった身体が災いするように、少し食べ辛そうだった。
「無理はしないでください。鍋にもまだ残っていますから」
 後でゆっくり食べることも可能であると伝えて、席を立つ。
「どこ行くの?」
 とたんに不安顔で見上げてくるから、食器を片付けながら水を用意してやった。
「二階です。大丈夫であることはわかっていますが、術式の確認をしてきますよ」
 もし術式に異変があれば術者であるモーティシアにはすぐにわかるので、この家の防御結界が無事であることはわかりきっている。だが城を出る時に絡んできたユージーンを思うと術式を強化しておいて損はないだろう。
「あなた、ユージーン・ラーブルという騎士を知っていますか?」
 聞いておくべきかと思い問いかければ、マリオンは目に見えて凍りついた。
「……あまり良い印象の人物でないことはわかりました」
「…良い印象というか…えっと……」
 言い辛いのは、モーティシアに知られたくないからなのだろう。
「あなたが悪魔喰らいであったことは分かっています。彼もその一人なのでしょう」
「……うん。でも出禁になった人だから…」
 出禁とは、聞こえの悪さに不愉快な感情が芽吹いた。
「その人がどうかしたの?」
「…城を出る前にあなたの居場所を尋ねられたんです。あなたの現状も知っている様子だったので、どうも調べているみたいですね」
 隠すこともないかと伝えれば、マリオンの顔色はサァっと白くなっていった。
「安心しなさい。騎士としてかなり上の立場にいる人物です。騎士団の不名誉になる行動はしないでしょう」
 それはただの願望でしかない。出禁になる程ということは、それなりに危険人物なのだろう。
 だがセクトルだけでなく城外の者にも傷を負わせた騎士団において、これ以上迷惑となる行為は控えるはずだ。
 警戒は怠らないが。
「……二階にいますね」
 ジャスミンの準備してくれた鞄を持って階段を上がり、真っ暗な室内に灯りをともした。
 窓のカーテンは全て閉められて、ベッドにはマリオンが隠れていたのだろう布団が山の形に盛り上がっている。
 明るい時間もカーテンを閉めていたなら心の健康にも悪いだろうと窓を開けようとして、カーテンを開けたところでゾクリと背筋が粟立った。
 窓ガラスに自身が映る。それだけだ。
 だが一瞬、マリオンを殺そうとした醜い男の形相が脳裏を埋め尽くした。
 モーティシアも間近で見た、おぞましい悪意と殺意。
「……」
 窓ガラスがまるであの時の防御結界を思い出させて、カーテンを静かに閉めた。
 モーティシアですら思い出しても恐ろしいと思うのに、マリオンはどこまで恐怖に苛まれているのだろうか。
「………モーティシアさん」
 急いで食事を終わらせたらしいマリオンが不安そうに階段を上がってくるから、同情心から思わず抱きしめてしまった。
「…一人で怖かったでしょう」
 やはり、ガウェの邸宅で預かってもらえることを話さなければ。
 そう思い口を開こうとするのに。
「……モーティシアさんが守ってくれてるから…怖いのはきっと今だけだよね」
 不安そうなまま健気に笑うマリオンに、また言葉は喉に張り付いた。
「……そうですね。信頼してくれて嬉しいですよ」
 そのままマリオンをベッドに座らせて、持ってきた鞄を隣に置いて。
「女性に必要そうなものを用意してもらいました。足りないものがないか確認してください」
 自分は術式の確認と補強をしながら、マリオンに荷物の中身を見てもらう。
「わぁ…これ用意してくれたのって女の人?どれも必要だし、すごく使いやすく分けてくれてる。嬉しい」
「…………そうですか。仲の良い魔術師の婚約者が手伝ってくれました」
 その点はジャスミンから強烈な一撃を喰らっているので、言葉が少しくぐもった。
「じゃあ貴族の女の子?化粧品もいいの多いー。あ、この櫛かわいいー!わー!これ使ってみたかったお店の香油だ!!すっごい人気なんだよ!!」
 荷物の中身を見るたびにマリオンの声が元気になっていく。
 ちらりと目を向ければ、あの事件以来消え失せていた華やかな笑顔がマリオンに戻っていた。
 ジャスミンがしっかりと考えて用意してくれていた事実に、今更ながら感謝の気持ちが強く生まれる。
「わあぁ、これ、スアタニラ国の金平糖だよね?……子供の時に食べたっきり…また食べられるなんて思わなかった…」
 一つ一つ、丁寧に小分けにされた理由。
「ねえ見て!うまく並べると机の上に全部置けるよ」
 鞄の中で少しごちゃついてしまったが、木箱や小袋をうまく並べれば、そばの小さなテーブルの上に綺麗に整頓された。
「…実はこれを用意してくれた人を、怒らせてしまったんですよ」
 一通りの術式の補強を終わらせて、マリオンのそばに向かって。
 上手く整頓された小物入れを眺めながらポツリと呟けば、マリオンは自分の隣に座るようポンポンと促してきた。
 自分のベッドであるというのに素直に従って、ジャスミンを怒らせたことを話す。
 何があって怒らせたのか、モーティシアのわかる範囲で伝える間、マリオンは静かに聞いてくれていた。
 そして。
「…モーティシアさんでも、そんなきつい小言言っちゃうんだね」
「……きついと言いますか…まあ、そうなんでしょうね」
 きつく言ったつもりはないが、ジャスミンから最後に言われたのは「神経質男」だ。
「ですが急に怒らなくても…その都度言ってくれればよいものでしょうに」
「んーー、急に怒ったわけじゃないと思うよ。急に見えただろうけど」
 マリオンはモーティシアが話した少ない情報を深く考える様子を見せた後で、木箱の小物入れにそっと触れた。
「他人の私にここまで気遣いしてくれる子だもん。怒るなんて大変なこと、急じゃなかったはずだよ」
「……ですが」
「たとえば、その子の婚約者さんからは何か言われてなかった?」
 トリッシュからは。
「…まあ、今まで何度か“もう少し優しく言ってやってくれ”とは言われましたね」
「ほら」
 即答されて、少し首を傾げて。
「急に怒ったわけじゃないよ。今まで何度か、モーティシアさんの態度を改めてほしいって伝えてたんだから」
「ですがジャスミン嬢からは言われていませんよ」
「直接言えるわけないよ。あなたはその婚約者さんの上司に当たるんでしょ?伝え方はいくつもあるものよ。モーティシアさんはちょっと…気に入らないジャスミンさんの考えや感情を蔑ろにしちゃったんだよ。ジャスミンさんだって婚約者さんに相談してただろうし」
 相談。
 そう言われて、ようやく自分が見えていない部分を考えてはいなかったのだと思い至った。
「怒ることだけ単体で見たら、急だと思うよね。でも感情って、怒ることだけじゃないでしょ?……で、モーティシアさん的には、ちゃんとジャスミンさんに謝りたいんだよね?」
「…………」
「だから私に話してくれたんでしょ?」
 ポス、と甘えるようにモーティシアの腕に寄りかかってくるというのに、マリオンの方が視野が広く何でも受け入れてくれるように思える。
 ユージーンやあの醜い男も、マリオンのこんな性格に魅了されたのだろうか。
「……私があなたに話したのは…」
 ジャスミンには改めて謝るべきだとわかっている。
 だがマリオンに話してしまったのは、ジャスミンの用意した小物達がマリオンを笑顔にしたからだ。
 ジャスミンにも非があるのだと、マリオンに思ってほしかった。
 そう思う心に気付いてしまった。
 言えるわけのない感情に、別の言葉を探す。
「…そうですね。きちんと謝罪したいです」
「なら、私からのお礼も伝えてほしいな!すっごく嬉しかったから!」
 屈託なく笑うその表情は、きっとモーティシアでは引き出せなかった。
 モーティシアの腕から離れて、マリオンはテーブル上の小物入れを少し眺める。
 モーティシアに背中を見せる体勢。その体勢のまま。
「…明日から、ちゃんと頑張るね。配達受け取るのとか、部屋の片付けとか。ここで守ってもらう条件だったし」
 小さな声で、心に誓うように。
 そこまで前向きな気持ちになれたのは、モーティシアのお陰ではないのだ。
 モーティシアではなくジャスミンの用意した木箱を目に映すのがたまらなく不愉快で、少し強い力で、だがそっと、マリオンを自分の元に引き寄せた。
 引き寄せてから、ベッドに寝かしつけて。
「……もう寝なさい。寝ていないのでしょう」
「…うん。今日はモーティシアさんがいてくれるから、ゆっくり眠れるね」
 照れた笑顔は、もう目元がとろみ始めている。
「モーティシアさんは寝ないの?」
「私はまだやりたいことが残っていますので」
 早く寝なさいと、まるで子供をあやすように。
「…一緒に寝てくれないの?」
 甘えるような声に、思わず笑ってしまった。
 だが今の不安定な感情で、マリオンをゆっくり眠らせてやれる自信はない。
「部屋を暗くしますよ。下にいるので、何かあったら呼んでください」
「うん…おやすみなさい」
「お休みなさい」
 緊張の糸がほぐれたように、すぐに眠りについたマリオンを見守って。
ーー私は、マリオンを
 彼女をどう思っているのか。
 彼女が欲しいのだと気付いた心は、以前のように彼女は遊女なのだと心を静止させることをやめてしまった。

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