第81話
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「…あの……ほんとに治しちゃダメなんですか?」
ガウェの邸宅に戻り事情を説明したところ、ネミダラとビデンスに言われたのは「ジョイの傷を治してはいけない」ということだった。
ネミダラはいくつか質問した後すぐに談話室を後にして、ニコルはアリアと顔を見合わせながら、まるで怒られるのを待つかのようにビデンスの言葉を待つ。
「やっぱり報告義務になりますかぁ……」
深いため息と共に額を抑えるのはジョイで、アリアは困惑しているが、ニコルには思い当たるものがあった。
「…あの二人がジョイさんに怪我をさせたから?」
「そうだ」
アリアも少し考えて答えを導き出し、ニコルも軽く頷いて。
「……どんな理由で城下に降りていたかなど知らんが、騎士とわかる服装で、魔術師とはいえ一般市民に怪我をさせたんだ。こちらの立場としては報告というより苦情だな」
やれやれとため息をつくビデンスは、簡単に説明してくれながらも今現在の騎士にあきれ口調だ。
かつて自分がいた時代の騎士達と比べたのだろう。
「もう少し穏便に事を済ませるべきでしたね…反省してます」
「お前さんはよくやった。客人を守ったんだからな。その傷は全部終わってから治してもらえ」
「治癒魔術師様の癒術を体験できることは唯一のご褒美ですね!」
少し血の滲むミミズ腫れ程度の怪我だったが、最初こそ自分の行動を反省するが、すぐにアリアにキラキラとした憧れの眼差しを向けてきた。
「あたしはいつでも。…でも苦情を言わなきゃいけないとか、何だか大変ですね」
「相手が騎士なら、ただの喧嘩にはできん」
「…俺も騎士なんですが」
「今は休暇中だろう。それに黄都領主の客人でもある。黄都領主としても、自分の家にいる者が怪我をさせられたのに、ああそうですかとはいかんからな」
どうやら大事になりそうな状況に、ニコルとアリアはまた顔を見合わせる。
「でもなんで騎士の格好のままで城下に降りてたんだろうね。…まさか兄さんを探してたとか?」
「あの様子じゃ、無いとは言い切れないな」
セシルとサイラスがあの場にいた理由などわからないが、エルザの涙の度合いを思い出せば、充分にあり得る話だ。
これからどうなるのか。沈黙が応接室を包んで少し経った頃、離れていたネミダラが戻ってきてジョイに目を向けた。
「じきにロワイエット様が戻られる。その時にもう一度同じ説明をするように」
「わかりました」
ガウェが戻る。それだけのことが、なぜかおかしな緊張感を持たせた。
ネミダラはガウェを出迎える為にもう一度応接室を出て、入れ替わるように女中が温かいお茶を用意してくれる。
静まりきった室内が居心地悪く、ビデンス以外は時間を紛らわすように何度もお茶に口を付けて。
「……戻られましたね」
少し経ってから、ニコルが魔力の波に気付くのとジョイが口を開くのは同時だった。
恐らく生体魔具で急いで飛んできたのだろう。背筋を正して待っていれば、ガウェは少し髪を乱しながら現れた。
息が上がっているわけではないが、いつになく真剣な眼差しをまずジョイに向けて。
「怪我の具合はどうだ」
「おかえりなさいませ。かすり傷ですよ」
ジョイはすぐに立ち上がり、近付くガウェに当時の状況を軽く説明してから右手の甲の傷を見せる。傷が浅いことにほっと表情を穏やかにしてから、ニコルとアリアに目を向けた。
「お前達は大丈夫だったのか?」
「ああ…」
「大丈夫です」
ガウェが開けっぱなした応接室の扉はネミダラが入室と共に閉めて、全員に座るよう促してくれてから改めてお茶の用意をしてくれた。
「王城の方はどうなんだ?」
ニコルが聞いてしまったのは、向こうでも大事になっている可能性があるからだ。
そしてそれを肯定するように、ガウェは少しばかり目を伏せた。
「…今朝、クラーク殿がセクトルに怪我をさせたばかりだ」
「は!?」
「え…」
想像もしていなかった情報を与えられて、ニコルはアリアと同時に驚く。
ニコルがセシルとサイラスの組み合わせに抱いた違和感。その理由を、ガウェは教えてくれた。
今朝、レイトルとセクトルが訓練場で訓練を行なっていたところ、クラークが他の王族付きと共に二人に詰め寄ったという。
ニコルはいつ戻るのか、どこにいるのかと激しく問いただし、逃げようとした二人に殴りかかったと。
拳はセクトルの頬を強く撃ち、報告を受けたモーティシアが魔術師団長リナトと共に騎士団に抗議した。
クルーガーはすぐにクラーク達に事情を聞き、訓練外で理不尽な怪我を負わせたとして、クラークに王城の自室にて数日間の謹慎を命じたという。
サイラスはクラークと変わるようにセシルとも組むこととなり、二人で城下に降りたのは今も伏せるエルザの為に何か気を紛らわせる為の雑貨や花を買いに来ていたのだと。
二人が城下にいた理由を聞いてニコルは俯き、アリアは心配そうな眼差しをそっと向ける。
エルザの為に城を出た二人は、偶然ニコル達と遭遇しただけだった。
だがその偶然すら諍いとなるほど、王城は張り詰めているのだ。
レイトルとセクトルは騎士なので内密に処理は出来た。しかし城下で怪我を負ったのは、本来なら関係無いはずのジョイだ。
「我が家の者が傷を負わされたのだから、何も無しとはいかない。ジョイ、王城に向かう準備をしろ」
「ええー!?嫌ですよ!!あそこ魔術師団長いるじゃないですか!絶対王城に残るよう押さえつけられますよー!!」
「俺がそれを許すはずないだろう!!いいから早く支度をしろ!!」
冷えた場の空気をほぐすかのように、ジョイは駄々っ子のように嫌がる。それをガウェが気安い様子で叱り飛ばして、ジョイを応接室から追い出した。
「…ガウェ……俺達は」
「……とりあえず、今は来ない方がいい。だが治癒魔術師を巻き込んだ喧嘩だ。もしかしたら、城に戻るよう命じられる可能性も高い」
休暇の中止も有り得ると。
ニコルとアリアは同時に目を合わせ、どうしようもないことに言葉を詰まらせる。
「あの…エルザ様の様子は?」
「……食事も摂っていないと聴かされた」
アリアの問いかけには、聴いた、ではなく聴かされた、と。リーン姫の護衛の証を身に付けているとはいえ、騎士団内ではまだエルザ姫付きだから。
ガウェはそれ以上話すことはせず、ネミダラと共に準備の為に応接室を出て行った。
「あたし達も戻った方がいいのかな」
アリアに返してやれる言葉など浮かばない。
エルザとの対話は今後避けては通れないが、終わりすら見えない様子に気が沈んでいく思いだった。
沈黙が数分続き、だがどうすることが良いのかなどわからないまま。
「…わしは裏庭で婆さんとお茶を飲んでくる。お前さん達も、この家から出ずに少し休め。……あまり考えすぎるなよ」
ニコルの代わりにビデンスが家に留まるよう言ってくれて、そのまま応接室を出て行ってしまう。またしばらく経ってから戻ってくるのは、ガウェとネミダラだった。
「ジョイと王城に行ってくる。万が一お前達からも話を聴きたいとなったら伝達鳥を送るから、それで対応してくれ」
「あ、あぁ」
黄都領主としての礼服に着替えたガウェはすぐに背中を向けて去っていき、ネミダラが頭を下げて静かに応接室の扉を閉めた。
ここにいろ、と。
慌ただしい邸宅内に小さく届くのは馬の鳴き声と馬車の進む音で、ガウェ達が王城に向かったのだと察して。
物事の当事者のはずなのに、ニコルは自分が動かない状況にふるりと背筋を震わせた。
「……兄さん、聞いていい?」
静まりきった室内。そこにこだまするようにアリアの声が響く。
「…なんだよ」
「エルザ様のこと…」
呟くような、ささやくような声量。でも聴き逃せない芯の強さで。
「……あたし…もね、言われたんだ。…元婚約者の奴に。……最初から愛してなかった、って…」
一言一言、苦しみを思い出すように、喉をひりつぶすように。
アリアの教えてくれる過去に、ニコルはカッと一瞬で強い怒りに苛まれた。
大事なアリアを弄んだ男。
以前城下に降りた際にガブリエルに連れられていた、ひ弱そうなクズ。
最初から愛していないとはどういうことなのか。
頭で考えるより先に叫びそうになった怒りの言葉は、だがアリアの悲しそうな表情の前に掻き消えた。
「……兄さんはどうしてエルザ様と恋人になったの?…愛してなかったなら…どうして?」
アリアはニコルとエルザの関係を詳しくは知らないまま、今まで聞かずにいてくれていた。
それはニコルの為だったのだろう。
だがニコルがサイラスに詰め寄られた時に伝えたエルザへの気持ちに、どうしても自分の過去が重なったのだろう。
ニコルも確かにそう口にした。最初から愛していないと。
「……俺、は…」
「あたしは兄さんが王城ですごく苦しんでたのを見てた。だから兄さんの味方でいたいけど…こればっかりはちょっと……つらいよ。……だから…」
男に捨てられた気持ちならわかるとはっきりサイラスに言い放ったアリアは、今ひどく傷付いた顔を見せてくる。
「……あたしの元婚約者はね…大事な話があるからって呼び出して…あたしの目の前で別の女の人を抱きしめたの。それで言われたの。愛してなかった、全部嘘だったって…」
それは、初めて聴くアリアの悲しい恋の終わり。
長くアリアを待たせた男の、最低の裏切り。
「……兄さんは?…エルザ様がいて…テューラさんがいて……いったい何があったの?」
今のアリアには、ニコルがクズの元婚約者に見えようとしているのだ。
状況があまりにも似ている。
ニコルはエルザと恋仲になった。しかしエルザと別れ、テューラを選んだ。
だがアリアが受けた仕打ちのように、テューラを選んでエルザと別れたわけではない。
「……俺は…」
どこから話せばいいのか。
何を隠せばいいのか。
迷って、考えて。
隠すことを、やめた。
「……お前だけ除け者にして、俺たちだけで話し合ってた日のこと、覚えてるか?」
それは、ニコルがイニスに媚薬香を嗅がされた日のことだ。
アリアは思い出すように少し考えてから、やがてコクンと小さく頷いた。
あの日からニコルはしばらくの間、アリアを避けるようになったのだから、アリアも記憶に強く残っている様子だった。
順を思い出しながら、少しずつ説明していく。
何があったのかを。
媚薬香の件、イニスの件、モーティシアに連れられて遊郭街に向かい、テューラと出会ったこと。
まだ身体に媚薬香の症状が残る状態で、コウェルズの差し金によりエルザが会いに来たこと。手を出してしまったこと。
姫に手を出した責任を負うように、愛そうと心に決めたこと。愛していると勘違いした時期もあったこと。
だがファントムの件や、自分に襲い掛かるあらゆる状況に、愛そうと奮闘する心が折れたこと。
順を追って、ぽつりぽつりと。
テューラへの思いはその後のことだ。数回だけ偶然が重なった。
その偶然の全てで、彼女はニコルの心を温めてくれた。
その優しさを手に入れたかった。
エルザへの思いと、テューラへの思い。
「……だから俺は……エルザ様を…」
愛せない、と口にする前に、アリアがニコルの手をとって言葉を止めてくれた。
「…アリア」
「……前に…トリッシュさんが忠告してくれたこと、覚えてる?」
俯くアリアの表情はわからない。だが鼻に詰まった声は、涙を堪えているのを教えてくれた。
ニコルの身に起きた出来事を、ニコルの考えを、アリアはどう捉えてくれたのだろうか。
「…トリッシュさん…あたしと兄さんに、好きな人ができたら早めに行動しろって。…じゃないと国が勝手に結婚相手を選ぶぞって」
「ああ……言ってたな」
それはアリアが王城に訪れた翌日にトリッシュが伝えてきた言葉だ。
「国が選んだ兄さんの相手は…エルザ様だったってわけ?」
「……そういうことだったんだろうな」
全部、繋がる。
エルザの恋心すら国の為に使われたのだ。
「……なんなのよ…」
ニコルの手からアリアの少し冷たい手が離れて、そのまま頭を抱えて涙声に苛立ちを含ませた。
「……なんで兄さんまで…エルザ様まで……」
国が描いた道筋通りに進むほど、人の心は人形劇ではない。
「……アリア」
慰める為に手を伸ばす。
だが触れることができなくて、手のひらは空を撫でるだけだった。
「…エルザ様を傷付けたのは確かだ…わかってもらえるまで、話そうとは思ってる…」
「わかるわけないよ!!あたしだって…ずっとわけわからないままだったんだよ……あたしが立ち直れたのは村を離れて兄さんのそばに来れたから!レイトルさんに会えたから!!…エルザ様はどこへ行けるの?誰と出会えるのよ!!」
溢れた涙がアリアの脚に落ちるのを目にして、胸が掻きむしられる。
「…王城は兄さんにばっか責任押し付けて悪者にして、エルザ様のことは被害者のまま苦しめ続けるんでしょ?…人を何だと思ってんのよ……」
王城にいるかぎり、どうあがいても国はニコル達が選んだ道を認めようとはしないだろう。
「アリア……城、出るか?」
ここから逃げて、心を落ち着ける場所で。
だがニコルの呟いた何の考えもない現実逃避の提案に、アリアは涙の溢れる顔を見せて。
「……あたしが王城に来た時ね…リナト団長に言われたわ」
ぽろぽろと止まらない涙。
口元はどうすることもできない事実を嘲笑うように無理やり笑んで。
「王城を出ることを考えるなって。…もしそうなったら…国の力であたしは探されて、手引きした者を…兄さんを極刑に処すって」
「……は?」
ガン、と、鈍器で頭を強く殴られた気分だった。
そんなことを言われていたなど、知りもしなかった。
「……こんな国……大っ嫌い………」
再びアリアは顔を伏して、小さな悲鳴をあげるように泣き始める。
自分の身に起きたこと、ニコルの身に起きたこと、エルザの身に起きたこと、それら全てを嘆くように。
「……アリア」
ニコルはそっとアリアの前に膝をつき、ゆっくりと抱きしめた。
そうすればアリアも、悲しみから逃れるように涙をこぼし続けながらニコルに身を寄せて。
どうすることもできなくて、何も考えが浮かばなくて。
ニコルの苦しみを知って代わりに泣いてくれるアリアを慰めるように、そして自分の心を慰めるように、アリアが落ち着くまで抱きしめる腕を離さなかった。
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