第81話


-----

「おはよ、兄さん」
 ガウェの個人邸宅の裏庭で早朝の冷たさを味わっていたニコルは、背中から聞こえてきた穏やかな声色にゆっくりと目を向けた。
 アリアは寝間着に羽織りという軽い服装で、同じように冷たい朝の風を心地良さそうに身に染み込ませている。
 ニコルとアリアの薄着姿に初日こそ心配そうにしていた邸宅の者達も、今ではもう慣れて好きにさせてくれている。
 元々極寒の地方で暮らしていたニコルとアリアには、王都の初冬は心地良い涼しさ程度だ。
 数ヶ月前まで故郷にいたアリアの方が、より寒さに耐性があるが。
「今日はどこか行ってみる?」
「そうだな。行きたいとこあるのか?」
「うん!ハイドランジア家から来てる女中の子がね、可愛い毛糸とかたくさん置いてるお店を教えてくれたんだ。あたしこっちに来てから趣味らしいもの無くなってたし、編み物とかいいかなぁって」
 物資に乏しかった故郷では編み物すら貴重な生活の糧だったが、豊かな王都では贅沢にすら入らない可愛らしい趣味の範囲だ。
 王城に来た頃は多すぎる贅沢品に眉を顰めていたアリアだったが、少しずつ慣れてきたのだろう。
 金は使え、というビデンスの言葉もしっかり染みている様子で、少し笑えた。
「俺もなんかするかな」
「編み物?」
「何でだよ…あーでも、生体魔具を上手く再現する為に絵描いたことあったけど、あれは面倒くさい時期を超えたら面白かったな」
「絵描いてたの!?兄さんが!?見たい!!」
「昔描いたのは捨てたからなぁ…」
 生体魔具の為に鷹を何枚も模写し続けた過去を思い出していれば、アリアは絵を捨てたという言葉に不満気だ。
「じゃあ、兄さんは紙と絵の具買いに行こ。よさげなお店の場所聞いておくね!」
「たのむ」
「朝ごはん食べたらすぐに行く?」
「…そうだな。昼も外で食うか」
「うん!」
 女中から聞いたという店がとても気になっているのか、アリアは浮かれ気味で楽しそうだ。
 とはいっても朝食まではまだ時間があるはずで、親しくなったらしい女中の元に向かうため邸宅に戻ろうとするアリアを、少し真面目な声で呼び止めた。
「アリア」
 と、名前だけで。
「少しだけ…大事な話させてくれないか」
 視線をそらしながら、アリアの返事を待つ。
 アリアは数秒足を止めてから、机を挟んだニコルの向かいの席に静かに腰掛けてくれた。
「…どうしたの?」
「……ああ。あのな」
 気まずさと気恥ずかしさと、どう上手く説明すればいいのかという難しさの間。
「昨日、ここに来た子、いるだろ」
 それはテューラの件で。
「……一年後に一緒になろうと思ってる」
 説明を吹き飛ばして結論から伝えたのは、上手く伝える自信がなかったからだ。
 そしてアリアはニコルの顔を真っ直ぐ見つめたまま固まり。
「ええええええええええええええええ!?!?!?」
 凄まじい声量が爆発した。
「どっから声出してんだ!!」
「だって!!」
 あまりの大声に邸宅の窓から何人かが急ぎこちらに目を向けてきて、アリアも自分からここまでの爆音が発されたことに驚いて。
「……あの人とは…その、いつから?」
「ああ…‪‪会ったのはまだ数える程度なんだ…昨日で四回目」
 まだ四回目。その答えに、アリアが固まった。
 しばらくの間、沈黙が続いて。
「…兄さんの…その…産まれのこととか、エルザ様のこととか知ってるの?」
「……いや。まだ何も話せてない」
 エルザの件。それだけで、アリアもそれなりにニコルの事情を知るのだとわかった。
 だとしたらアリアの目には薄情な男に映るだろう。思わず視線を地面に向けてしまい、首の後ろを掻きながら何とか視線を戻す。
「…俺も特殊だけど、向こうも特殊なんだよ。…事情、聞いてくれ」
 テューラと共になる為に楼主から出された課題。その中には、テューラが遊女であることを家族に伝えるというものがある。
 アリアは動揺を隠せない様子ではあったが、静かに聞き入る姿勢を見せてくれた。
 何からどう話せばいいのか少し考えて、テューラは、と名前を口にして。
「…遊郭で働いてるんだ。だから俺が何もしなかったら…働き続けることになるから…」
 生々しい現実をどこまで伝えればいいのかわからない中で、アリアの表情は驚きを通り越したように普通に戻って。
「何だそういうこと?急すぎてびっくりしちゃったよ」
「……は?」
 思っていた反応とは全く違うものを見せられて、ニコルが固まる番だった。
「あたしが働きに行ってた町にだって“花屋”はあったんだよ?あたしが働いてたご飯屋さんに食べにくる人から話も聞いてたし」
 固まるニコルに、アリアは当たり前の事であるかのような反応を見せる。
「…いやでも、拒否感とかは無いのか?」
「…………兄さんさ、もしかして、あたしと王城の女の子達と一緒にしてない?」
 ニコルの反応に少し考えてから、アリアは首を傾げながら問うてくる。
 アリアと、王城にいる貴族の娘達とを。
「あたしだって自分と父さんの為に必死だったし…生きる為に頑張ってる人に拒否感なんて感じるわけないよ」
 言葉の奥に、アリアが今まで見てきた多くの人々の人生が語られるようだった。
 それは、温室に育ち、綺麗に飾られた世界を見てきた貴族の娘達とは全く別のものだ。
 アリアはニコルが騎士として生きた数年間の間に見てきた貴族の娘達などではなく、兵士として生きた時に見た小さな村の娘なのだと。
「…でも何で一年後なの?すぐじゃダメなの?」
「それは…俺とテューラがまだ何度も会ってるわけじゃないからだ」
「あー、言ってたね…」
 ニコルが思っていた以上にすんなりと受け入れてくれたアリアに、今までの経緯をぽつりぽつりと話していく。
 初めて出会った時の事は話せないが、アリアは静かに聞いてくれた。今後ニコルがテューラと共になる為に一年以内にしなければならない事も、同じように話して。
 説明で数分使い、何か聞きたい事はあるかと問えば、アリアは微笑みながら首を横に振った。
「兄さんが決めたなら、応援するよ。…でも大丈夫なの?テューラさんの事情はわかったけど、兄さんの事情は…」
 テューラと共になる為の条件は全てテューラ側からのもので、ニコルは自分の生まれも何も、テューラ達に話せてはいない。
「…いつか話すとは言った。…今はまだ話せないってな」
「それは…いつ話すの?」
「……城内での全部を片付けてからかな」
 手始めにはエルザの件。そして、父のこと。
 コウェルズがどう出るかで、ニコルの今後も決まってしまう。
「ただの平民騎士でいられないことは覚悟した。お前も守らなきゃいけないからな」
 アリアと家族でいる為にも。
「もう…考え方が固いよ」
 もっと気楽でもいいんじゃない?そう言ってくれるアリアも、気楽でいられないことは重々承知だろう。
「…とにかく、まあ…応援してるね。テューラさんと一緒にいた時の兄さん、すごく穏やかだったから」
 昨日のニコルを思い出したように、アリアはクスクスと優しく笑う。
「…受け入れてくれて、ありがとな」
 感謝の気持ちは素直に口に出た。
 アリアは少し照れたように頬を染めて、言葉ではなく満面の笑顔で返してくれて。
「ーーあらここにいたのね。…いいお天気。今朝はみんなでこちらでいただきましょうか?」
 そこへ、裏庭と邸宅を繋ぐ扉が開かれてキリュネナが呼びに来た。
 朝日の穏やかさに裏庭での朝食を提案するが、ニコルは数秒空を眺めてから、いえ、と首を横に振る。
「すぐに雲がかかって寒くなりますから、中に入りましょう」
「あら、そうなの?」
 天候は穏やかだが、空にはすでにちらちらと雲がかかっている。
 雨が降ることはないだろうが、日の光を楽しめる時間はすぐに無くなりそうな様子を伝えれば、キリュネナがしょんぼりと寂しそうに眉尻を下げた。
「じゃあ、中でいただきましょうね」
 手招きされて、アリアと共に立ち上がる。
「今日は一日曇りなの?」
「んー、多分な」
「そっかぁ」
 外出予定を立てていただけにアリアも少し残念そうになるから、ポンと一度だけ頭を優しく叩いて。
 邸宅に戻りながらもう一度見上げた空は、やはり重めの雲がかかりそうな空をしていた。

ーーー

「ーー荷物持ってくれてありがとうございます!」
「いえいえ、これくらいならお任せください!」
 昼前だというのにどんよりと暗い空の下を歩くニコルは、隣を歩くアリアがニコルには後頭部を向けて笑っているのをぼんやりと眺めていた。
 アリアを中心にニコルとは反対側にいるのは、ジョイという青年だ。
 ガウェの邸宅にいる魔術師で、その実力は王城の魔術師団に入団を求められたほどだという。
 ニコルとアリアの買い物に、アリアの護衛という名目で付いてきた荷物持ち係だ。
 念のために連れて行けと命じたのは、ガウェの邸宅では客人扱いのはずのビデンスだった。
 ジョイ本人は治癒魔術師と行動できることが嬉しいらしく、アリアの買ったものは全て持ってやっている。
 手芸店で購入した毛糸と木製の棒針に、道すがらの雑貨店で買った小物やお菓子まで。ニコルの買ったものはニコルの手の中のままだが。
「まさか治癒魔術師様と行動できるとは思っていませんでした!ロワイエット様に付いてきてよかったです!」
 魔術師としてアリアと話せる機会が本当に嬉しい様子で興奮しているが、そこで出てきたガウェの名前にアリアがきょとんと首をかしげる。
「ガウェさんとお友達なんですか?」
「いえいえ滅相もない!我が家は代々黄都に仕える魔術師の家系なのですが、ロワイエット様とは歳が近いこともあって遊び相手としてお側にいただけですよ!」
「じゃあガウェさんの子供時代を知ってるんですね!」
 どうやら身近な人物の過去の話を聞けそうな様子に、アリアはキラキラと目を輝かせていた。
「ガウェさんって、子供の時はどんな子だったんですか?」
「そうですねぇ…」
 問われて、ジョイは過去を思い出すように少し黙って。
「生意気で我儘で、ロワイエット様がやったイタズラなのに私のせいにされるという冤罪をかけられてよく泣かされました!」
 楽しそうに教えてくれる言葉と過去が噛み合わない。
 アリアは驚いていたが、ニコルは容易に想像がついて思わず笑ってしまった。
「昔から変わらないのかよ」
「そうですねぇ。ロワイエット様のイタズラ好きには困ったものです」
 今までのガウェのイタズラをしみじみと思い返す間も、アリアはただ困惑顔だ。
「そんなイメージないけどなぁ」
「慰霊祭後の晩餐会の時、俺とお前の髪型作ってくれたあいつが俺にだけめちゃくちゃ痛く髪をいじってたの忘れたのか?」
「あ、そうだったね!」
 アリアも知っているだろうイタズラを話せば、ようやく納得して笑って。
「ロワイエット様は無駄に手先が器用だから困りものなんですよね」
「でも、王城の魔術師団には入らずにガウェさんの邸宅で働くことを選ぶくらいには、ガウェさんのことが好きなんですね!」
「ああ、違いますよ」
 アリアの言葉に、ジョイは両手を素早く何度も胸の前で振りながら首を小刻みに横に振り、全身で否定してくる。
「そもそも働きたくなかったんですけど、王城魔術師団から声をかけられて親兄弟にも行けと言われて人生詰んだと思ってたら、ロワイエット様が“私に付いてきたら楽できるぞ”とお声をかけてくださって。おかげで楽な仕事で助かっています!」
 ガウェの邸宅にいるのは自分の為であると、清々しいほど爽やかに。
「魔術師団は激務ですから。でも唯一後悔したのは、治癒魔術師様が王城に戻られると聞いた時ですね。もし魔術師団に入っていたら、治癒魔術師様にお会いできたのにと後悔しました……ですがこうやってあなたにお会い出来て、言葉まで交わせて、ロワイエット様様々ですよ!」
 どうやら明け透けにものを言う性格らしいジョイに、アリアもそろそろ愛想笑い気味になってきていた。
 だがジョイは口を開けばロワイエット様、とガウェのことばかり話し続けており、彼なりに大切にガウェを慕っていることは容易に想像がついた。
 仕事が面倒だと言う割には邸宅の防御結界が丁寧で厳重なことにもニコルは気付いている。
 ネミダラもそうだが、どうやらガウェの邸宅で働く者達は一筋縄ではいかない性格のものばかりのようだ。
 ニコルの目には精鋭に映るのだから。
「……おや、あちらは騎士様ではないですか?」
 そのまま他愛無い話をしながら歩いている最中、ふとジョイが遠くを見つめてニコルに問うてきた。
 言われるままに目を向ければ、確かに装備を外した状態の騎士が二人。
 しかも見慣れた二人だったことに、ニコルは思わず眉を顰めてしまった。
 このまま去ってくれないだろうか。そう願うが、彼らはニコルの視線に気付いたようにこちらに目を向けてくる。
 セシルと共にいるのは、珍しくもサイラスだった。
 普段セシルと共に組んで行動しているのはクラークだというのに、なぜ彼なのか。
 エルザに別れを告げた夜に護衛として立っていたサイラス。その目から逃れるように。
「……行くぞ」
 アリアとジョイに無理やりここから離れるよう促すが、向こうは気付かないふりをしてはくれなかった。
「ニコル殿!!」
 大声で呼び止めてくるのはやはりサイラスだ。
 あまりの声量に周りの市民達の足まで止まる中で、サイラスは気にすることなくニコル達に早足で向かってくる。
 その後ろからセシルは静かにこちらに歩いてくるが、その目つきは怒りを灯すように鋭かった。
 サイラスがニコルの前で立ち止まり、まるで逃がさないとでも言うかのように腕を掴んで。
「…離していただけませんか」
「いつ頃戻るつもりですか?」
 ニコルの願いも虚しくサイラスは腕を掴む力を強めて、強い声色で問うてくる。
 隣ではアリアとジョイが困惑しているが、ニコルがちらりとジョイに視線を向けると、彼は察したようにアリアを少し離してくれた。
「エルザ様が苦しんでいるというのに、あなたは何故のうのうと休暇など楽しめるのですか!?」
 一方的な怒りをぶつけられて、苛立ちが沸き始める。
「…サイラス、その名前をここで出すのはやめなさい。……ずいぶん元気そうですね、ニコル殿」
 少し遅れて到着したセシルは、人前でエルザの名前を出したサイラスを諌めはしたが、サイラス以上にニコルを嫌味で刺した。
「…団長が正式に命じた休暇です。どう過ごそうが貴方達に関係ない」
「あの方がどんな思いで毎日を暮らしていると思っているのですか!?」
 腕を掴んで離さないサイラスが、ニコルに現在のエルザの様子を伝えてくる。サイラスは言葉遣いも丁寧で礼儀正しいが、ここにはいないクラークのように熱くなりやすい性格だ。
「笑顔を絶やされて泣き暮らすあの方に申し訳ないとは思わないのですか!?」
 可哀想なエルザと最低なニコルという位置付け以外あり得ないと完全に信じた言葉だった。
 苛立ちと虚しさが同時に同量溢れて、反論も面倒になる。
「ちょっと待ってください!兄さんがどれだけ苦しい思いをしてるかも、二人とも分かってないじゃないですか!」
 ニコルの代弁をしてくれたのは、アリアだった。
 身体には触れないように気を付けてくれていたジョイからするりと離れて、アリアは掴まれていたニコルの手に触れる。
 そうすればさすがにサイラスも掴んでいた手を離したが、一歩も離れはしなかった。
「あの方の思いを知りながら近付いておいて、勝手な都合で離れて!女性を泣かせて平気でいられるなど、男として論外だ!」
「付き合うのも別れるのも、当人同士の問題でしょ?平気だなんて勝手に決めつけて、何様のつもりよ!」
「アリア、やめるんだ」
 ニコルはアリアを離して、サイラスはセシルによって離される。
 だがセシルは仲裁者などではない。
「自分の口からは何も話さずに妹君に言わせるなんて…呆れ返りますよ」
 わざとらしいため息と共に、見下すような侮蔑の視線を向けて。
「…聞く耳持たなかったのは誰だよ」
 それだけを言い返せば、セシルはまるで汚れたものを見るかのように眉間の皺をさらに深く刻んだ。
「ここで争うのはやめましょう!人の目が多すぎます!お二人は姿からも騎士様と気付かれますし!!」
 そこへ唯一の仲裁となってくれるのはジョイだが、ニコルとアリアは従おうと道を離れようとするが、セシルとサイラスはそうはしなかった。
「アリア嬢、あなたにはあの方がどれほど心を痛めていらっしゃるのか、同じ女性だというのに想像もつかないのですか?部屋から出ることもできずに伏せていらっしゃるのですよ!!」
「アリアに絡むんじゃねーよ!!」
 アリアに矛先を向けるサイラスの視界を遮るように前に立って、掴みかかりそうになる手を何とか自制して。
「…あの、アリア様、我々だけでも先に邸宅に戻りませんか?」
 ジョイはせめて治癒魔術師を守る為の最善を取ろうとするが、アリアもサイラスから目を離しはしなかった。
「…あんたらだってあたしの噂、耳にしてんでしょ。だったら誰よりも想像つくって気付かない?」
 あまりにも深く、静かな声だった。
 アリアの噂。
 婚約者に捨てられ、村の男達に襲われたという、誇張された最低な。
「もういい、行くぞ」
「嫌よ」
 ニコルよりも、アリアがキレた。
「あたしも男に一方的に捨てられて毎日泣いたわよ。同じ状況なんでしょ?だから気持ちなら分かるに決まってんでしょ」
 王城では朗らかだったアリアの怒りの姿に、さすがに二人は怯む。しかも内容が内容だ。逆鱗に触れたのだと、サイラスも気付いたことだろう。
 だが引き返す足は持ち合わせていないらしかった。
「……ならなぜニコルを咎めないのですか!?」
 エルザの為に怒る自分達こそ正しいと信じて疑わないサイラスに、アリアは落ち着く為の小さなため息をついた。
「兄さんを見てきたからよ」
 静かにキレて、だが冷静さは失わず。
「あんた達は向こうしか見てないじゃない。兄さんのこと少しも見てない。兄さんが顔色悪くして、毎日ゲロ吐きそうにしてたこと知ってんの?」
 エルザだけでなく、ニコルのことも同じように気にかけてくれたのかと、改めてそう問うアリアにサイラスはグッと言葉を詰まらせた。その様子にセシルが鋭い眼差しをニコルからアリアに向けた。
「これだから平民は…」
「そうよあたしは平民よ。あんた達が大切に守ってるか弱い女の子なんかじゃない。男に捨てられて、村の奴らに襲われそうになっても、助けてくれたのは年老いた二人だけだったわ。自分の身は自分で守らなきゃならない場所にいたのよ。あたしも、兄さんも。メソメソ泣けば自分の思い通りになる世界の方がそもそもおかしいでしょ」
 間髪入れずに切り返すアリアは、セシルが知るようなか弱い貴族の娘とは全くかけ離れているだろう。
 それでも、これ以上は本当にダメだとニコルは強い力でアリアの腕を引いた。
「アリア、もういい…」
 改めて自分の背中で隠して、セシルとクラークに対峙する。
「…なあ、あんたらが何でここにいるかは知らないが、こっちは休暇なんだ。もうほっといてくれないか」
 こんなところで遭遇して、人の目がある中で口論を続けて。騎士姿の二人にとっても良くはないというのに。
「……放っておけるわけがないだろう!貴様はあの時何と言った!?“最初から愛していない”などと、そんなことを平気で言える貴様が苦しむなどおかしいだろう!!」
 サイラスの激昂は、ニコルだけは逃がさないとでも言うようだ。
 ニコルがエルザに別れを告げた日の夜、ニコルに強く詰め寄り、怒りに任せて殴ってきたのも彼だ。
 あの時ニコルは確かにサイラスにそう言った。
 最初から愛していない、と。
 その言葉をサイラスがどう捉えたのか。想像は容易についた。
「……俺にとってあの方は、アリアの代わりみたいな存在だったんだ。大事な妹として守ってた。女として見てたわけじゃないって気付いた。…でも愛そうと思った。優しい人だから…愛されたから、愛したいと確かに思った」
 それも、サイラスには告げた言葉だ。
 怒り狂っていた彼が覚えているかはわからないが、ニコルが話した言葉。
「別れた理由も、あの方が原因なんかじゃない」
「そんなこと、当たり前だろう!!」
「……俺がどうやってもあの方を愛せないとわかったからだ。愛してもないのに、そばにいろって言うのかよ」
 愛せないのに。
 ニコルの言葉に、セシルとサイラスは顔を真っ赤にして怒りをさらに露わにした。
「なんて傲慢な男なんだ」
 言葉にできないと、セシルは怒りの中に哀れなものを見るかのようにニコルを軽蔑してくる。
「…なら愛してもないのにそばにいればよかったのか?あの人さえ幸せなら、俺の気持ちはどうでもいいのかよ」
「ならあの方のお気持ちはどうなる!!」
 サイラスが怒りに任せて再びニコルに掴みかかろうと手を伸ばし、ニコルはわずかに身を逸らした瞬間。
「痛っ…」
 ボトボトと地面に落ちたのは、いくつもの毛糸と棒針だった。
 アリアの買い物袋を持っていたジョイの腕から荷物は落ちて、右手の甲にミミズ腫れが走る。
 そこからじわりと滲む血は、ニコルを庇う為に割って入ったジョイの手の甲が運悪くサイラスの爪に引っ掻かれたことを物語った。
「おい!大丈夫か!?」
「ジョイさん!!」
 アリアが傷を見て慌てて治癒魔術を施そうとするのを、ジョイが左手で制して止める。
「…ここではお控えください」
 ジョイは痛みを堪えるように眉間に眉を寄せながら、先に落とした毛糸達を拾って。
「……すまなかった…怪我をさせるつもりは…」
 おろおろと動揺するサイラスに、凛と正面から対峙する。そして深くお辞儀をして。
「…黄都領主ヴェルドゥーラ・ロワイエット様専属魔術師のジョイと申します。現在邸宅にてアリア様をお預かりしている立場から言わせていただきます。どうかこれ以上の危険な行為はおやめ下さい」
 頼み事をするような口調。だが否など言わせないという姿勢。
「…行きましょう。お二人とも」
 セシルとサイラスがグッと言葉を詰まらせて立ち尽くす姿を見て、ジョイはニコルとアリアの背中を押した。
「周りの人々が騒ぎ始めています。警備兵が来る前に戻りましょう」
 急かして、先を歩いて。
「……兄さん…大丈夫?」
「俺はな。…帰るぞ」
 アリアがちらりと後ろを振り向こうとするのを止めて、ジョイと同じく歩みを早めて。
 なぜセシルがサイラスと行動して、なぜ城下に降りていたのかはわからないままだったが、ニコルはそれを考えることはやめて、身体が芯から冷えるかのような感情を忘れる為にただひたすら邸宅までの帰路を進んだ。

---
 
2/4ページ
スキ