第81話
第81話
「ーーでは、失礼します」
朝のエル・フェアリア城内の正門近く。モーティシアが後にしたのは、唯一平民が駐在する配達機関の一室だった。
昨日のうちに城下にあるモーティシアの家に食料を届けてもらえるようにしていたのだが、届けることが出来ずに玄関前に置いてきた、と報告があったのだ。
その報告自体は昨夜聞かされていたのだが、時間も時間であることから理由を聞くのは次の日にと後回しての今だ。
「……はぁ」
ため息がこぼれたのは、配達機関から報告を詳しく聞いたからだ。
マリオンには夜に配達機関から食料が届くと伝えていたのに、怖がって玄関の扉を開けなかったらしい。
食料を届けてくれた平民の青年は、人のいる気配は感じたが扉は開けてくれなかったと話してくれた。
しかも部屋に明かりすら付いていなかったらしい。
何の訓練も受けていない一般市民なら、そこに人がいるなど気付かないほど静かだったそうだ。
モーティシアがいなくなって初日なのだから仕方ないとも思うが、先が思いやられもした。
今夜は家に戻るつもりでいたが、時間を見繕って早めに向かった方がいいだろう。
頭の中に思い浮かぶマリオンは、不安と恐怖で一人静かに怯えていた。
家に戻るなら、ほかに何が必要だろうか。女性の必需品がわからず首を傾げるモーティシアは、少し離れた正門近くにトリッシュの姿を見かけて、思わず走り出してしまった。
用があるのはトリッシュではなくその隣の人物なのだが。
トリッシュの婚約者であるジャスミン。恐らく彼女は昨日、モーティシア達にとって重要な貢献をしてくれている。
「ジャスミン嬢!」
ジャスミンはどうやら城下に向かう様子で、トリッシュに手を振って束の間の別れを告げている姿を見て慌てて大声で名前を呼んだ。
大声に反応するのはトリッシュとジャスミンだけでなく、警備に立つ周りの騎士達もだ。
何事かと視線が送られる事など気にも留めずに、急なダッシュに息切れを起こし、トリッシュ達の前で両膝に手をついて呼吸を優先する。
「なんだよ。体力無いのに走るなよな…」
息切れを起こすモーティシアに呆れた声を上から落としてくるトリッシュに隣でジャスミンがあわあわと慌てふためいているが、気持ちを切り替えるように姿勢を元に戻すと急激に横腹が軋み痛んだ。
「っ……」
「…大丈夫か?」
「…………大丈夫…ですよ」
俺ら体力無いからなぁ、と笑ってくるトリッシュに釣られるように周りの騎士達の視線も笑いながら離れていく。
横腹を押さえながら何とか姿勢を維持して、時間が惜しいとばかりにジャスミンに目を向けて。
「昨日、トリッシュが持ってきた書類の中に、メモを挟んでくれましたか?」
問いかければ、ジャスミンは少し困惑した様子で固まった後に、コクリと小さく頷いた。
「メモ?そんなのあったのか?」
「ええ。それもメディウム家に関する重要なものでした」
昨日トリッシュがモーティシアの自室に置いて行った書類の中に、メディウム家の古い文献の題名が走り書きされていたのだ。
あまり見ない丸い筆跡は筆圧も柔らかく、女性が書いたものだとすぐに見当はついた。
そしてトリッシュの書類にそんなメモを挟み込める女性など、ジャスミンくらいしかいない。
「あなたのお陰で重要な事実を知ることが出来ました。感謝いたしますよ」
「いえ…あの、アリア様のお役に立てたなら光栄です…」
今まで散々見下してきたモーティシアに頭を下げられてジャスミンは居心地悪そうに視線を泳がせるが、言葉には弱々しいなりに芯があった。
トリッシュの影響なのかジャスミン自身が治癒魔術師を崇拝しているのかはわからないが、王城の書物庫に長けた彼女がこちら側にいるのはとても心強い。
「重要な事実って何だよ?アリアに関係あるってことはわかるけど」
「後でアクセルと合流した時に話します。それよりジャスミン嬢。王城を出る理由をお伺いしても?」
感謝の言葉はそこまでにして、モーティシアはもう一つの個人的に重要な件も解決しそうな様子に目を光らせる。
「え…個人的な買いものですけど…」
「いつ戻られますか?」
「あの…えっと…夕方までには…たぶん」
蛇に睨まれた蛙のようにしどろもどろになるジャスミンを守るように、トリッシュが視界に割って入ってきた。
「買い出しくらい誰でも許されてるだろ」
「責めるために聞いたのではありません。侍女の仕事としての買い出しでないなら、個人的な頼みを聞いていただけませんか?」
悪い方向にばかり考えるトリッシュには少し腹が立ったが、今までさんざんジャスミンには冷たく接してきたので仕方ないと我慢して。
「……何か?」
それくらいなら、とジャスミンはトリッシュの背中から顔を出してくれる。
「女性にとって最低限必要な物資を買ってきてほしいのです」
「……えぇ…」
答えのはっきりとしない頼み事に、今まで見たこともないほどの困り顔を見た。
「モーティシアの家に訳有りの女の子がいるんだよ。その子用だろ?」
「…そうです。身ひとつだったので本当に何の準備もありませんし、何を用意すればいいのかもわからなくて…」
それからマリオンの事をかいつまんで説明したが、ジャスミンは困惑の表情を顔に貼り付けたままだった。
「俺の家に置いてるジャスミンの荷物一式みたいな感じでいいんじゃないか?」
わかりやすく説明を付け加えてくれるトリッシュに、ジャスミンが数秒してから顔を真っ赤にした。
「すみませんが今は手持ちが無いので、後で代金を支払わせてください」
「ああ、それなら俺が立て替えとく」
俯いて赤い顔を隠すジャスミンには気づかないまま、トリッシュはジャスミンに金貨を渡し、モーティシアもトリッシュに頭を下げる。
「すみませんがジャスミン嬢、よろしくお願いします。最低限だけで大丈夫ですので」
「…わ、わかりました」
俯いたまま、まるで逃げるように走り離れていく後ろ姿を見送って。
正門の隣に設置された通路から王城を後にするまでを見守り、モーティシアは改めてトリッシュに向き直った。
「束の間の二人の時間を邪魔してすみません」
「用があったんならいいって。それよりジャスミン、俺も知らない間にメモなんか挟んでたんだな。そんなに重要なのか?」
「ええ。アリアや私達にとって、良い意味で重要でしたよ」
それがあれば、アリアを巡る夫問題はこちら側に有利に働く可能性が高いのだから。
昨晩ちらりとだけ目を通した書物庫の文献は、早朝に改めて借りて、今はモーティシアに用意された中間棟の部屋にある。
「……俺が休めって言ったのに休まず仕事かよ。顔の疲れが何も取れてないじゃないか!」
「それは申し訳ありません」
謝罪の気持ちなどこれっぽっちも持たないまま言葉だけで謝罪して、とっととアクセルの元に向かう為に足を進めて。
「アクセルの方は変な術式の解読、できるのか?」
「どうでしょうね。今まで解読にここまで時間がかかったことが無いですし」
「な。変な武器にかけられた、変な術式か…いったいどんな奴が創り出しんだ?」
アクセルが任されている短刀の術式の解読は、使用目的を含めて謎があまりにも多い。
アクセルですら詳しく聞かされてはおらず、ただ「絶対に刃の部分には触れず、怪我をしないように」とだけ命じられたと聞く。
魔術師の一員として謎の術式の解読には興味が湧くが、その短刀にはどこか触れたくない恐ろしさがあった。
「アリアがいないんじゃ、あの短刀でアクセルが怪我しても治してもらえないしなぁ」
「滅多な事を言わないでください」
謎の術式だというのに怪我なんてとんでもない、と言葉を強くすれば、悪い悪い、と悪びれもしないトリッシュは話題を逸らすように辺りを見回して。
「お、レイトルとセクトルだ」
都合よく向かいから歩いてくる二人を見かけて、モーティシアから逃げるかのように駆け足で近付いていった。
「まったく…」
レイトルとセクトルにはアリアが戻るまでは訓練に励めばいいと伝えていたが、ここで会うとは、とモーティシアも歩くペースを変えないまま向かってみれば。
「……どうしたのです?その傷は…」
訓練で負傷したにしては、的確すぎる位置の怪我。
セクトルの頬が殴られたように青く腫れ、唇には切った痕と共に血が滲んでいた。彼自身も不機嫌を隠さないまま強く眉を吊り上げている。
「…ちょっと訓練場にいられない状況になっててね…」
説明をくれるのはレイトルだった。
こちらに怪我はないが、困惑の表情は隠しきれていない。
「何があったんだよ…」
モーティシアに続いてトリッシュも問うてくる中で、レイトルはちらりとセクトルに目を向けて、彼が怒りすぎて話す素振りを見せないことでやっと口を開いてくれた。
「ニコルとエルザ様の事で、王族付き達がちょっとね…いつ帰ってくるんだとか、どこにいるんだって問い詰められて、曖昧に返してたんだけど結果的に…」
セクトルが殴られた、と。
「それはまた…」
「災難だったな…」
ニコルとエルザが恋仲になったとは少し前に王族付き達の間で流れており、さらに日にちも経っていないのにニコルから別れを切り出したという話もすでに話が回りきっている様子で。
王族付き達からすれば、ニコルを八つ裂きにしたいほど怒りに震えている事だろう。
「年単位でエルザ様の恋を応援してきた奴らばかりだからね…ニコルが城を出ていてよかったよ。私達だってニコルを見ていなかったら、きっとニコルを責めていたから」
レイトルとセクトルはニコルの異様な憔悴を間近で見ていたのだ。エルザの件で何かあったのだと察することは出来たからこうしてニコルに対しても冷静でいられたのだ。だが他の騎士達はそうではないから。
「王族付き達に胸ぐら掴まれたのは私だったんだけどね。セクトルが庇ってくれて、この有様なんだ」
「……お前が怪我したら、アリアに会いに行けないだろ」
「……はは。ありがとう。やり返す事も我慢してくれたんだ、君には感謝しかできないよ」
申し訳なさそうに微笑むレイトルは、謝罪ではなく感謝を告げる。
「まあ、見ての通りセクトルがこんなだから今から医務室に向かうところなんだけど、何か用事あった?」
「いえ、こちらは気にしないでください」
レイトルとセクトルはそのまま医務室に向かっていき、後ろ姿をしばらく眺めてから先に歩き始めたのはトリッシュで。
「…なんか、ほんとやばい感じだな…」
「ですね…」
「長い休みにしてくれて助かったけど…ニコルが帰ってくる前に少しは解決できないか?」
問われて、また足を止めて。
休暇は最初、一日二日のつもりだった。長期休暇にしてくれたのは、騎士団長の采配だ。王族付き達を止められる人物も、限られた。
「…騎士団に正式に抗議をしに行きましょうか。レイトルとセクトルが安心して訓練にも励めないのは、治癒魔術師を護衛する立場としても見過ごせませんし」
「護衛の物理対応は騎士団側だもんなぁ」
訓練は、重要な任務のひとつだ。
「では…」
「ああ、俺はアクセルのとこに行ってくる」
モーティシアの言いたいところを言わずとも理解して、トリッシュはとっととアクセルの元に向かってくれる。
モーティシアが向かうのは、レイトルとセクトルが向かった医務室だ。
セクトルの傷の具合を確認してもらい、医師団と共に騎士団に抗議するのが今は最も確実な方法だろう。
治癒魔術師の任務は実際は魔術師団より医師団との連携が多いため、アリアの精神面に関わる事なら医師団も協力してくれるはずだ。
「…城の中も外も、厄介ごとばかり続きますね…」
今日も少しもゆっくりできないだろう状況にモーティシアが許されたのは、盛大なため息ひとつだけだった。
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