第80話


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 足を引きずりながら歩くパージャは、彼らにはどう見えただろうか。抜け殻のようなミュズを抱いて向かうのは、あの男がいるはずの場所だ。
 空中庭園を降りて、ラムタル城の奥へ向かう。最奥へと続く唯一の扉の前に立つ警備の者達は、顔見知りだというのにパージャを見て恐ろしいものを目の当たりにしたかのように凍りついていた。
 そんな彼らなど気にも留めずに、隠されたリーンのいる一室に向かう。そこにファントムがいると直感が告げていたから。
 歩く最中も、身体に痛みは存在しなかった。
 肩と腰に受けた呪いの傷はそのまま有るというのに、今は痛みがない。
 その痛みが消えた代償はあまりにも大きかった。
 胸に抱いたミュズに目を向けて、強く歯を食いしばる。
 ミュズが痛みを消してくれた。
 心の消えたミュズが。
 なぜこんなことになったのだ。
 自分はただ、全てを終わらせて早くミュズに自由を与えたかっただけなのに。その為にファントムと共に行動していただけなのに。
 ミュズを抱く腕の力を強めても、何の反応も返ってはこない。
 ミュズがこうなってしまった理由を問いたださなければならなかった。
 ファントムはミュズに何かさせようとしていた。
 王子に近付かせて、何かをさせようと。
 それを教えてきたのはウインドだ。
 ファントムの狙いはパージャだと告げてきた意味は未だにわからないが、その為にミュズを使おうとしていたのは確かで。
ーー全て、お前が先回りして回収すればいいだけの話だ
 そう言っていたことを思い出す。
 先回りしろと。
 ファントムがミュズに何かさせる前に。
 それは、ミュズがこうなる前に、ということだったのだろうか。
「っっ…」
 より強く歯を食いしばる。
 怒りが全身に力を込めようとして、ミュズを抱いていることを思い出して。
 だがもう、パージャがミュズを抱きしめる腕に力を込めても、痛いとも何とも言ってはくれないのだろう。
 それは、空中庭園の自室で先ほど実証済みだから。
 パージャが何をしても、もうミュズは何も返事をしてくれなかったから。
 何をしても、だ。
 虚しくて、涙すら乾いた。
 少し立ち止まって、ミュズの口元を見る。
 ズタズタに噛まれた跡。赤く染まって、可愛らしかった小さく薄い唇は見る影もない。
 血の味を思い出す。ミュズの身体の甘さも。
「……」
 ミュズ、と小声で名前を呼ぼうとしたが、喉も渇ききって声が出なかった。
 どうしようもないまま、再び歩みを進める。
 ファントムのいる場所へ、魂のつながったその気配を辿って。
 足を引きずり進んだ先で、彼らを目の当たりにした。
 リーン姫の眠る部屋の向かいの中庭で、まるで日常を過ごすかのように。
 ウインドが大会出場の為の訓練を行なっている。相手はファントムがパージャと共に連れ帰ってきたソリッドだ。
 組手は最終調節を行うかのようにゆったりとしていて怪我をするようなものではないが、側にはラムタルの癒術騎士であるアダムが見守り、少し離れた位置でファントムが腕を組んで立っていた。
 誰も笑ってはいないというのに、穏やかに見える風景に、線を引かれた気がした。
 じっと見つめてから、ゆらりと足を進める。
 パージャが近づけば、自然と彼らもこちらに気付いて視線を向けてきた。
 ウインドは蔑んだ笑みを、ソリッドとアダムは驚いた目で、ファントムは表情の読み取れないまま。
 パージャが向かうのは、ファントムの元だ。
 抱き上げたミュズをさらに自分に近付けるように少しだけ腕の力を変えて、ファントムを正面から見据える。
 静けさが耳を痛めつけるようだった。
 やがてミュズの口元に気付いたアダムが慌てて駆け寄ってくるから、反射的に彼を蹴り飛ばした。
 まさか攻撃を受けるなど思いもしなかったらしいアダムは、受け身も取れずに地面を痛ましく滑る。
 癒術騎士の白い兵服が土色に染まり、そばにいたソリッドが起こして。
「…何だよ、ミュズが潰れたとたんに元気になんのかよ」
 ウインドはどこまでも面白そうに品悪い笑みを浮かべて挑発してくる。
 苛立ちが瞬時に湧き上がるが、ウインドなどではなくファントムに再び目を向けて。
「……ミュズに何したんだ…」
 枯れてガラガラになった声は、まるで地の底深くから響いてくるようだ。
 ファントムはどこまでも普段通りのまま、パージャとミュズをゆっくりと視線でなぞる。
「何したんだよ!!」
 叫んでも、まるで声が届かないかのように無視されて。
「…パージャ様、ミュズ様のお手当てをさせてください」
「触んなあぁっ!!」
 蹴り飛ばされた痛みで眉根を寄せながらもめげずにそばに来るアダムを、絶叫で拒絶した。
「おい!落ち着け!」
 宥めようとしてくるソリッドすら、今は苛立ちの対象にしかならなかった。
 何もかもが神経を逆撫でてくる。
「王子となんかあったんだろ?壊れかけがやっと完全に壊れて、静かになってよかったじゃねーか」
 最高だと言わんばかりに笑うウインドに、頭が芯から冷え切ると同時に魔力を飛ばした。
 巨大ないばらが鞭のようにしなり、咄嗟に腕で防御したウインドの身体を吹き飛ばす。
 激しく吹き飛ばされたウインドが静かだったのは、蘇るまでの数秒の間だけだ。
「てめぇ!何すんだよ!!」
 キレて叫びながらこちらに戻ってくるのを完全に無視して、またファントムに向き直って。
「…ミュズに何させたんだ」
 静かに問うた後すぐに、こちらへ戻ってきたウインドがパージャの肩を強く掴んだ。消えてはいない傷ごと掴まれて強く痛み、ミュズを落としそうになる。
「俺を無視してんじゃねーよ」
「お前に構ってる暇ねぇことくらい見てわかるだろ。どこまで馬鹿なんだよ」
「はぁ!?」
 パージャの苛立ちに、肩を掴むウインドの手の力がさらに強くなるが。
「…癒えたのか」
 静かな声に、動きが止まる。
 ファントムはウインドの手を離させると、パージャの肩の傷を調べるように触れてこようとした。
 その手からは半歩引いて逃れ、強く睨みつけて。
「…ミュズに何させたんだよ…」
「ミュズの中に眠るメディウム家の血を強制的に復活させる方法を伝えたまでだ。お前の傷を癒せる可能性をな」
「ふざけんな!!」
 そんなことの為に、ミュズは今こんな状態になってしまっているのか。
 パージャの為だなど。
「…ふざけんなよ…ミュズをこんな目に合わせて」
「いくつかの道は、随分と前からお前に伝えていたはずだがな」
「……は?」
 ファントムの妙な返答に、睨みつける目の力がさらに鋭くなる。
「ミュズは…生きる気力を消したようだな。だがこうなったのは、お前が選んだ選択の結果だということは忘れるな」
「ふざけんな!!こんなこと俺が望んでたとでも言うのかよ!!」
 パージャが望んだのはミュズの笑顔だ。全ての憎しみを消し去って、ミュズと二人で穏やかに笑い合う未来だ。こんな絶望、絶対に違う。なのに。
「お前達を拾い上げた時、ミュズを安全な場所に置くことを拒絶しただろう」
 ファントムが淡々と過去を語る。
「……ちがっ…」
「その後も何度か、私はお前達に選ばせただろう。共にいることを望んでミュズを安全な場所から離したのはお前だ」
「ちがう!!」
 ミュズがパージャのそばにいることを望んだから。
 パージャの傍が一番ミュズにとって安心できる場所だったから。
 ファントムは何度か、確かにミュズを離れた場所に置いていくことを提案していた。
 それはラムタルの神殿であったり、王城の最も奥での勤めであったり、安全は確約された場所だった。
 連れて行くなら使うことになる。
 そう告げられていた。
「ちがう!!!!」
 ミュズを抱いたまま、膝から崩れた。
 パージャが望んだのは、ミュズがパージャのそばで笑うことだ。そしてミュズも同じように、パージャから離れることを拒絶してくれたのだ。だから。
 こんな事態など、受け入れられるものか。
「ミュズは何もしなくて良かったんだ!!俺が全部するから!!」
 絶叫で喉が軋む。ミュズだけがパージャの全てだったのだ。
「……お前さぁ」
 ウインドの冷めた声が、頭上から降り注ぐ。
「…お前がそんなんだから、ファントムがミュズ使ったってわかんねぇ?」
 しゃがみ込んだウインドに、髪を掴まれる。
 無理やり上向かされて、キレた瞳と目が合った。
「誰が欠けても呪いは解けねぇっていうのによぉ…ミュズ中心にして、恨みも中途半端で…」
 深い怒りと苛立ちとを混ぜたウインドの視線が、パージャから離れない。
「もしミュズが望んでたら、お前、ファントムから逃げただろ」
 ポツリと呟く声の小ささと、パージャの髪を掴む手の力が伴わない。
 ギリギリと髪が引っ張られ、血の匂いを放ちながら皮膚ごと千切れた。それでもパージャの身体は、傷を、死ぬことを許さない。
「俺より賢い頭持ってるっていうんなら、わかるだろ?何もかも、ファントムの手の内なんだよ。お前に逃げられたら、俺らどうやって呪い解くんだよ?お前を逃がさない為に、俺もエレッテも、ミュズもこうなったんだろうがよ!!!」
 ファントムはその都度の最善を見つける。
 たとえそれで、誰かが絶望することになったとしても。
 己の為の最善を。
「俺はっ…」
 パージャの最善は?
 ミュズが恨みを晴らす未来を望んだから、共にファントムのそばにいた。
 もしミュズが静かな場所で生きたいと願っていたら?
 ウインドが言った通り、パージャ達の身体に巣食う呪いは、パージャ達全員が揃わなければ解けないものだ。
 だったとしても、ミュズが静かな世界を望んでいたなら、パージャは呪いを解くことなど平気で切り捨てただろう。
 そうならないように、ミュズはこんなことになってしまったのか?
 縋るような眼差しをファントムに向けてしまい、
「…お前の身体が動く方法を模索した結果だが…ミュズがこうなることは想定してはいない」
 ファントムの手がミュズの額に触れる。
「エル・フェアリア王家の力を取り込めば、ミュズの中に眠るメディウムの血が目覚めると教えてやった。だから王子に近付かせたのだ」
 その結果が、ここにある。
「…王子に近付いて、何しろって言ったんだ…」
 何をして、ミュズはこうなったのだ。
 見上げる。
 ファントムに、真実を知る為に。
「原始的な方法だ。精を体内に取り込む」
 抱かれろ、と。
 エル・フェアリアを恨みすぎて、憎しみすぎて壊れかけていたミュズに。
 憎悪しか感じない対象に。
 奪われ続けた過去しかないのに。
 パージャを助ける為に。
「ーーああああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!」
 絶叫する。
 絶叫しか出来ない。
 壊れたミュズが、パージャを癒した。
 壊れてでも助けてくれた。
 そんなミュズに、パージャは何をした?
 この身体が動く代償は。
「…………」
 音が遠い。
 視界が揺らぐ。
 全て、パージャが先回りして回収すればいいだけの話だったのだ。
 ミュズは誰にも犯されてなどいない。
 それはミュズを抱いたパージャが一番理解している。
 ミュズの中に眠るメディウムの血を目覚めさせるのに、そもそも王家の力など必要なかったのだ。
 変化を望まなかったパージャが見落とした真実。
 そしてファントムの言った通りに最初からミュズを安全な場所に置いていれば、きっと今もミュズは心を壊すことなく安全にいられたのに。
 壊れるのは、パージャだけで済んだのに。
 全てが闇に閉ざされていく感触。
 絶望が背後から優しく抱きしめてくることだけは、掠れる意識の奥で冷たく感じ取れた。

第80話 終
 
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