第80話


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 あまりの痛みに気絶して、あまりの痛みで目を覚ます。
 何度繰り返したかもわからず、夢すら見なくなった。
 全身をゆっくりと真っ二つにちぎるかのような激痛で目覚めたパージャは、朦朧とする意識の中で視界の片隅に人の姿を見た。
 薄暗い部屋の中、閉め切られた扉の辺りだろうか。
 小柄な様子に、ミュズであるとすぐに気付けた。
 もう一人いる小柄なルクレスティードは、今のパージャを怖がって会いにくることはないから。
「………ぉ…」
 おいでと言おうとして、枯れきった喉はわずかな音しか出さなくて。
 声帯をわずかに振るわせただけでも、激痛が稲妻のように全身に走る。だが身体は疲弊し尽くして、顔を歪ませる力すら残ってはいなかった。
「…………」
 声にもならない声で、ミュズ、おいで、と優しく呼ぶ。
 いつもならミュズはすぐにパージャのそばに来てベッドをなるべく軋ませないようにすり寄るというのに、今日は身動ぎすらしなかった。
 とうとう幻覚が見え始めたのか。
 ぼんやりと霞む頭でそんなことを考えていると、やっと人影はパージャのそばに近付いてきた。
「……ミ…」
 ミュズだ。
 だが、何かがおかしい。
 ボロボロに泣き濡らした頬と、生気の宿らない瞳。
 いつものミュズなら、泣きじゃくる時はパージャにすがってくるのに。
「……ごめ…ね…」
 掠れた声が謝罪してくる。
 何のことなのか、パージャにわかるはずもないまま。
「パージャ……パージャ…」
 名前を呼び続けながらそっとパージャに身を寄せて、理解が追いつかないまま。
「----」
 唇が触れ合った。
 振動が激痛に変わるより先に、唇から全身に疼くような衝撃が走る。
 もちろん激痛も苛んだ。だがそれ以上に、何が起きたのか理解が出来なかった。
 霞む視界にはミュズしか映らない。いや、ミュズすら見えない。それほど近くに彼女がいる。
「パージャ……」
 一度離れて、
「……パージャ」
 また。
 柔らかいのに冷え切った小さな唇。
 二度目の唇の感触。それだけしか感じられなかった。
 痛みが走らない。
 まるで全て消え去ったかのような。
「--ミュズ!?」
 痛みがない。その状況に驚いて強引に身を起こしたパージャは、離れた唇の感触が掻き消されるほどの激痛に苛まれて強く身を捩らせた。
 何が起きたのか、わからない。
 心が疲弊するほど慣れた死ぬほどの痛みは確かに一瞬消えたのだ。
 だが今は、それが幻であったかのように引き裂かれるような痛みに苛まれている。
 ミュズからの突然の口付けに感覚が麻痺したのだろうか。
「パージャ…ごめんね……ごめんね…」
 混乱する意識に、泣き声が入り込んでくる。
 胸を握りつぶすほど悲しい謝罪の言葉の後に、ミュズの小さな両手がパージャの両頬に添えられて、
「………………」
 三度目の唇の感触。
 そこに微かに混ざる、血の味。
 血の味を感じた瞬間に、また全身を犯す痛みが消え去るのを感じた。
「ーーっ」
 無意識に腕が伸びて、ミュズを離さないまま上半身をしっかりと起こした。
 離れないよう唇を強く合わせていたせいで、ガリッと歯でミュズの唇を切ってしまい、さらに血の味が濃く深くなり。
 まるで悪夢から覚めるように、視界が開けた。
 ゴクリと、部屋中に響き渡るほど喉を鳴らして血の味を飲み下す。
 何が起きたのかはパージャにもわからなかった。
 恐る恐る唇を離して、呆けたままのミュズを見つめる。
 パージャを苦しめ続けた癒えない傷の痛みは、今はゆらりとした鈍い痛みだけとなっていた。
 じわり、じくり、消えはしないが、ゆるやかな波のような痛みの波長に変わっている。
 見つめ続けるミュズの唇からゆっくりと血が滲み出して、静かにこぼれようとしていた。
 まだ幼いミュズの唇を彩るには不釣り合いなほど鮮やかな赤に目を奪われて、身体がそれを求めて舌を這わせる。
 舌先から感じる血の味が、また傷の痛みを和らげて。
 ミュズの血が傷を癒したのだと、直感した。
「……ミュズ?」
「パージャ……ごめんね…」
 ミュズの祖母はメディウム家の人間だった。だがミュズには魔力が無いので治癒を施す力も存在しないはずなのに。
「ごめんね…」
 何度も謝罪を繰り返して、また口付けてくる。
 血の味に混ざる、ミュズの甘さ。
 ずっと欲していたものが。
 なのに、歓喜が訪れない。
「ミュズ!」
 無理やり唇を離して強く呼びかけてみても、ミュズの瞳に光が宿ることはなかった。
 おかしい。完全に。
 子供のように声を上げて泣きじゃくることもせず、パージャの傷にも気付かないなんて。
 涙が間隔をあけて溢れては、パージャの名前を呼んで、謝って。
 どうして謝るのだ。
 鈍い痛みに変化した傷を我慢して、ミュズの肩を何度もゆする。
「ミュズ…ミュズ!」
 何があった?何をされた?
 問いたいのに、じわりじわりと痛みが強くなっていく。
「パージャ」
 身をよじるほどの痛みに変わる前に、またミュズが赤く染まった唇を合わせてきた。
 血の味と、消える痛みと。
 今まで何度となく欲してきたミュズそのものを前にして、身体の深部が強く疼いた。
 本能がさらにミュズを欲しようとする。
「駄目だミュズ!やめるんだ!」
 離れられないほどの衝動を止めてくれるわずかな理性を何とか繋ぎ止めてミュズの正気を取り戻そうとしても、ミュズはか細い声で謝罪を続けるだけだった。
「ミュズ!」
 パージャの声が届かない。
「ミュズ!!」
 何度も呼んで、肩を揺すって。
 ずるり、と。
 強く揺すった反動で、ミュズの衣服がずれた。
 ラムタルの侍女になりすましていたミュズ。よくよく見れば、きちんと着ていない。
 リボンの紐もそのままに、ただ羽織っただけのような。
 そのせいで、パージャの手によって白く細い肌が露わに。
「ーー…っ」
 薄い身体は、パージャが頭の中で何度も抱いてきたものだ。
 妄想ではない現実が目の前にある。
「……パージャ」
「ミュズ…やめ」
 白い肌が直に手に触れる。
「……ごめんね…パージャ…」
 血の味の口付けと、甘い香りと。
 何年も何年も抑え続けてきた欲望が、パージャの理性を突き破る。
 やめろと、たったそれだけの言葉が言えなくなった。
 吐息が震える。
 ミュズからは口付けをくれるだけだ。
 ずれた衣服を脱がすのも、それ以上を求めるのも、パージャだった。
 ミュズの血を味わえば味わうだけ傷の痛みは遠退いていく中で。
 あまりにも甘い身体が欲望を突き動かす。
 ずっと欲しかったものが。
 ずっと我慢し続けてきたものが。
 いつかパージャ自身から解放してやるんだと何度も崇高な誓いを胸に刻んでは、何があってもミュズを手放さなかった弱い心が、完全によじれ曲がる。
「ミュズ……」
 痛みの和らいだ身体で、ミュズをベッドに押し倒した。
 薄闇の中、まるでミュズの身体だけが淡く光っているようで。
「パージャ…ごめんね……」
 何度も謝罪を続けるミュズを。
「……ごめん…ミュズ」
 溢れた涙がミュズの頬に落ちて、ミュズの涙と交わった。
 駄目だ、やめろという理性の声は、もう聞こえなかった。
 ただミュズの謝罪に、パージャの謝罪が重なる。
 ミュズに何があったのか知りたいのに、なぜ瞳に光が宿らないのか知らなければならないのに。
 止められなかった。
 ミュズを求めて本能が身体を自由に操る。
 あまりにも甘い身体。
 どこを味わっても。
 長年欲し続けて、長年我慢し続けた分だけ甘みが増したかのように。
 歓喜は訪れないまま。
 鈍い傷の痛みだけが、パージャの贖罪であるかのような。
 空虚な甘美に支配されて、唯一、涙だけはどうしても止まらなかった。

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 完全に日の暮れたラムタル城内を一人で歩くのはジャックだった。
 ただ気ままに歩いているだけを装いながら、視界の隅々まで気を抜くことなく見回し続ける。
 一人で行動する理由は、ルードヴィッヒの言葉だ。
 少し前、全員での話し合いも終えて静かになっていた最中に、ルードヴィッヒは突然立ち上がって窓に駆け寄り、空を見上げたのだ。
 何をしているのかを問えば、パージャの気配がする、と。
その焦る様子には見覚えがあった。
 ルードヴィッヒはエル・フェアリア王城でも突然パージャの気配を察して、説明も疎かに馬を使って走り去ってしまったことがあるから。
 そして実際に、パージャや仲間のエレッテ、ファントムも見つけた。
 それを思い出してジャック達も息を呑んだ。
 ルードヴィッヒは気配のした方を見定めるように空を見続けていた。
 だが何も見えはしない。
 ジャックもダニエルもコウェルズも、ルードヴィッヒが言う妙な魔力の波動など感じなかったが、真剣な眼差しで空を見続ける様子にひとつだけ、確証はないが可能性に気づいた。
 エル・フェアリアに天空塔があるように、ラムタルにも目には見えない何かが、あるいはファントムが乗る飛行船があるのなら。
 部屋を出て行こうとするコウェルズを止めるのはジャックとダニエルの二人がかりだった。
「ここには全てがある。まるで私達を嘲笑うように」
 そう怒りを見せるコウェルズをなだめて、何とか落ち着けて。
 昼から気が立っていたコウェルズを落ち着けることは容易ではなかったが、ジャックが城内を探索することで何とか折り合いを付けたのだ。
 そして今に至る。
 ラムタル城内といっても、大会の為に訪れた者達に開放された場所では意味がない。ジャックが歩くのはそのさらに奥だ。本来ならば足を踏み入れることは許されない場所のひとつ。
 だがジャックならば、言葉の使い方次第では見つかっても許される場所。
 今はひどく静かなこの場所を、ジャックは歩いたことがあるから。
 壁面の精密な絡繰りすら静かな広い廊下に、辺りの気配を探りつつも懐かしい感情がよみがえる。
 かつてこの場所を歩いた。一人でではない。
 ダニエルと、ガウェとーー
『お離しくださいませ!』
 凛とした強い声が響き渡り、懐かしい過去の記憶が吹き飛んだ。
 声は少し遠かったが、放っておくには物騒な言葉に眉を顰めながら辺りを探る。
 歩みを早めれば乱暴な物音で場所はすぐに特定できて、ジャックは進んだ先に見慣れたラムタルの侍女と一人の男の姿を見つけた。
『こちらは大会関係者様の立ち入りは許されていない場所です!お引き取りを!』
 声は強い。だが端々の震えは隠せない。
 そのラムタルの侍女は、ジャック達がラムタルに到着した時に世話をしてくれたイリュシーだった。
 腕を掴まれ、壁に追いやられている。
 誰がどう見ても危険な状況だった。
 大会では女は絶対に一人になるなと誰もが強く言い聞かされているはずだが、イリュシーはまだ20代にようやく差し掛かる程度の年齢だろう。大会出場者は来ないはずの場所で気を抜いて一人になってしまったのか。
『帰り道を教えてくれというだけの話じゃないか。逆に誘ってるみたいに見えるが?』
『そんなはずが無いだろう』
 イリュシーに覆いかぶさるように近付く男の背中を掴んで引き剥がせば、鼻が曲がるほどの酒の匂いにいっそう眉を顰めてしまった。
 その男に見覚えがあった。
 名前は知らないが。
『…バオル国の関係者がこんな所で何を?』
『ぁ……えっと……』
 酔った男は突然のジャックの登場に目を白黒させる。まさか邪魔が入るとは思っていなかった様子で、更には大会の伝説とまで言われるジャックが相手であることに一瞬で気が動転したようだった。
『…酒が抜けたようだな。マガの件でただでさえラムタルから目をつけられているというのに、今度はこんな騒動を起こすつもりか?』
『…い、いや…私はただ…道を…』
 酔って真っ赤だった顔をみるみるうちに白くさせて、男が後退る。
『その道を右に曲がって真っ直ぐ進んで二番目の階段を降りろ』
『は、はいぃ!!』
 あまりにも情けない後ろ姿が瞬く間に遠退いていく。
 酒のせいでか足はもつれもつれだったが、逃げ足はなかなかのものだった。
『…大丈夫か?』
 イリュシーに向かい直って訊ねれば、表情を固く強ばらせたまま見上げてくるところで。
『被害報告は出しておけ。あと大会期間中はどんな場所でも必ず二人以上で動くんだぞ』
 未遂とはいえ鍛えた男に腕を掴まれ迫られたのだから恐怖が強いはずだというのに、イリュシーは全身を強張らせながらも丁寧に頭を下げてきた。
『……本当に、ありがとうございます』
『無事なら』
『ですが…』
 無事ならよかったと伝えようとして、イリュシーの非難する声と被った。
 互いに数秒無言になって、先に口を開くのはイリュシーだ。
『…助けていただいたことには本当に感謝いたします。ですが、ここは大会関係者様の立ち入りを禁じられている場所です。どうかお戻りを』
 先ほどの暴漢にも告げていた言葉。
 たしかにこの場所は今のジャックがいていい場所ではないが。
『…ああ、すまなかったな』
 どこまで通じてくれるかはわからないが、ジャックはわざと眉尻を下げて情けない笑顔を作った。
『リーン様と歩いたこの場所が懐かしくなってしまったんだ』
 ずいぶん昔に感じるほど以前。
 ダニエル、ガウェ、リーンと共に歩いた絡繰りの城。
 死んだはずのエル・フェアリアの第四姫のことはイリュシーにも伝わっている様子で、ジャックの表情と声色に同情するように言葉を飲み込んでいた。
『エル・フェアリアではあまり子供らしくいられなかったリーン様も、ここの絡繰りのお陰で本当に沢山の笑顔を見せてくださったんだ』
 本当に懐かしい気持ちが込み上げてきて、無意識に小さなため息を漏らしてしまった。
『…勝手に入って悪かったな。俺も戻るとするよ』
『お待ちください!』
 立ち去る為に背中を向ければ、細い指先がキュッとジャックの袖に触れた。
『あの…もしよろしければ、少し歩かれますか?私と一緒でしたら大丈夫ですから』
 先ほどのお礼も兼ねて、と。
 ジャックの袖を引いてしまったことに慌てて手を離して顔を赤くするイリュシーに、ジャックは身体をもう一度向け直した。
『…俺は嬉しいが、見つかったら大変じゃないか?』
『ここは大会期間中はあまり人が通りませんから。先ほどのバオル国関係者様は、私の後を追ってきた様子ですが…』
 少しだけなら平気だと教えてくれて、イリュシーはどうぞ、とジャックを促してくれる。
『…嬉しいよ。お言葉に甘えさせてもらおう』
 うまく引っ掛かってくれたイリュシーと共に、静かな城内を進んでいく。
 リーン姫と歩いた城内を懐かしむふりをしながら、リーン姫がどれほどラムタル城の絡繰りに心惹かれていたかを話して聞かせながら、ジャックは細部に渡るまで気配を探り続けた。
 ルードヴィッヒが言うような魔力の波動はもちろん感じない。
 異常なほど人の気配も無い。
 歩き回るにはラムタル城は広すぎるので、すぐに見つかるものかと期待しないように心がけてはいたが、気持ちが足を急かすようだった。
 せめてイリュシーがいなければもう少し辺りを注視することが出来たのだが、彼女がいなければこれほど奥にまで来れなかったことも確かだ。
 気配を探るのは無駄かと諦めて、ジャックはもう一つ探しているものをイリュシーが知っているか問うてみることにした。
『そういえば、ラムタル国の治癒魔術師の息子にジュエル嬢が世話になったから礼を言いたいんだが、どこにいるか知っているか?出来れば会いたいんだが』
『まあ、ジュエルお嬢様がですか?…ラムタルの治癒魔術師は、癒術騎士のアダム様とイヴ様以外、大会期間中は皆さま別宮にいるはずですが…その御子息様の年齢は?』
『ジュエル嬢と同じくらいだな。銀の髪なんだが』
『……ジュエル様と歳の近い御子息様のいる治癒魔術師様は、ラムタルにはいませんが…』
 他の国の治癒魔術師と間違えているのではないか、と首を傾げてくるイリュシーには嘘をついている様子は見えない。何かを隠している様子も。
『癖毛の強い銀髪なんだが、心当たりは?』
『そう言われましても……あ』
 困った表情となるイリュシーが、何か思い出したようにパッとジャックを見上げた。
『大会出場の為に来られた神官様のそばで、銀髪の男の子を見た記憶があります』
『ラムタルの武術出場者のか!?』
『え、あの…はい』
 まさかここでイリュシーの口からウインドの存在を聞き出せるとは。
 思わず声を荒らげてしまい、少し身を固くしたイリュシーにすまない、と小さく謝罪して。
『その子で間違いない。はぐれたジュエル嬢がその子に助けられたんだ。礼が言いたいんだが、どこにいるか知っているか?』
『…お調べすれば少しはわかるかもしれませんが…神官様を出場させるにあたり、神殿側から神官様や付き人の詮索をしないよう強く言われているんです…』
 なので申し訳ありませんが、と。
『そうか。大会出場する神官とその子はよく一緒に行動しているのか?場所とかもわからないか?』
『そうですね……毎回ではありませんが、一緒にいる所をお見かけはします』
 そこで言い終えてから、イリュシーの表情が憂うように暗くなった。
『どうかしたのか?』
『…いえ、何も……』
 明らかに何もないようには見えないのだが、これはどうすればよいというのか。
 イリュシーの表情は今にも泣き出しそうなほどになっており、勘弁してくれ、とばかりに彼女から見えない所で眉間に皺を寄せてしまう。
 ここでイリュシーの話を聞くことになれば、銀髪の少年の居場所やパージャの居所に目星を付けることが確実に遅くなる。
 それはわかっているのだが、ジャックの性格上、リーンの為に禁を許してくれたイリュシーを適当に流すことも出来なくて。
『あー…………』
 短いようで長い数秒間をしばし頭の回転に費やして。
『…急に泣きそうな顔をされて、何もないとは思えないんだがな。もしかして、知らないうちに何か悪いことを言ってしまったか?そうなら謝りたいんだが』
『違います!そういうわけでは…』
 ジャックに非があるわけではないようだが、ならばどうするべきか。
 戻ろうと提案しようにも、イリュシーの足は根が生えたかのように完全に止まっている。
『イリュシー嬢……』
 話を聞こうか?
 なるべくなら言いたくなかった言葉を言おうとした時だった。
 ゾクリと、背骨の神経を直接冷たい手で撫でられたかのように気持ちの悪い悪寒が走る。
 気配は無いが、背後に何かが迫っている。
 突然の緊張に呼吸を忘れたまま、ジャックは背後に迫る気配へと振り向いた。
 振り向いた瞬間、あまりの冷気に身体が芯から冷え切るような感覚に襲われる。
 怖気ではない。だが、絶望を感じるほどの狂気が迫っていた。
「…………お前は…」
 目に映る存在がある。しかし気配が存在しない。
 一体どういうことなのか。
 戦闘に慣れた勘はそこに何も無いと告げる。だが目の前には確実に彼がいた。
 闇色の髪の青年。
 闇色に混ざるのは緋の色だ。
 それがパージャだと聞いていた。
 その彼が小さな少女を横抱きにして、ゆらりとこちらへ歩いてくる。
 薄桃色の髪の少女。
 パージャに抱かれた少女に生気が感じられない。
 生きているのか死んでいるのか。
 そしてパージャは、生きているのに死んでいるような顔をしていた。
 何がどうなっているのだ。
 わからないまま、少女を抱いたパージャが、ジャックなど見えていないかのように通り過ぎていく。
「ーーっ、待て!」
 呼吸を思い出して、強く吸って、パージャを止める為に手を伸ばして。
 身体が完全に萎縮して、動きを止めた。
 パージャがこちらを見ている。
 その闇色の瞳は、死者の眼球のように乾いていた。
 青白い顔。口周りには擦れたような大量の血の跡がこびりついており、そしてパージャの腕の中から垣間見えた少女の唇はズタズタに赤く傷付いていた。
 少女は浅い呼吸を繰り返して、何とか生きてはいるのだと気付くが。
 死人が死人を抱えて歩いている。
 そうとしか思えない姿だった。
 おぞましいものを目の当たりにして、伸ばした手を自分の元に戻して。
 ジャックが手を引いたことで、パージャも再び歩みを進めていった。
 ゆらりと歩いて、城のさらに奥へと向かっていく。
「……ま、待て!」
『お待ちください!!』
 パージャが離れたことでようやく意識を取り戻せたかのように追いかけようとしたが、イリュシーに前を阻まれてしまった。
『あれ以上先には私でも行けません!見張りもいますので、もしジャック様が見つかってしまったら強制帰国もあり得ますので、どうか!』慌てて止められて、苛立ちにぐっと拳を握りしめた。
 探していた一人を見つけたというのに、捕まえられないなど。
 せめて情報だけでも手に入れようと、強い眼差しでイリュシーを見下ろした。
『…今の彼が向かった先には何が?』
『それは………』
 だがイリュシーの言葉はそれ以上出てこなかった。
 代わりであるかのように出てくるのは、ぽろぽろと大粒の涙だ。
『ぁ…申し訳ございませんっ…』
 突然涙をこぼしてしまった自分自身に取り乱したイリュシーが、両の手で顔を覆う。
 こんな所で無駄な時間など費やしたくないのに。
 苛立つジャックの感情を抑えたのは、
『…パージャ様……』
 イリュシーが小さく呟いた名前だった。
 なぜその名前を知っているのか。なぜ、悲しげな様子で名前を口にしたのか。
『君は、今の男を知っているのか?』
『え…』
 涙を溢れさせたままのイリュシーが、質問の意味を問うように見上げてくる。
 その表情は、恋をした娘が恋によって深く傷付いた時に見せる悲しみの表情だった。
 頭の中で難しい計算が処理されていく。
『…泣いた理由は、今の彼で合っているか?』
 明らかに異様な光景だったはずだというのに、イリュシーはそこまでは見ていなかったかのような反応だ。自分の心を優先して目を伏せていたのだろう。
『彼が抱いていた少女にもこちらは世話になっていてね、会うことは出来るだろうか』
『…女性の方は大会出場される神官様のサポートなのでお会いすることは出来るでしょうが……』
『あんな小さな子が?』
 ジュエルのことも忘れて思わず目を丸くして呟けば、イリュシーの肩が怒りで震えた。
『……あの侍女は特別ですから!』
 言葉をためて、吐き捨てるように。
 悔しそうに吐息も震わせるイリュシーから、どうすれば情報を得られるか。
 ジャックはしばらく考えてから、そっとイリュシーの頬を伝う涙を親指の腹でぬぐった。
 顔に触れられて驚くイリュシーが、一歩身を引いてから顔を真っ赤にする。怒りの感情は一瞬で吹き飛んだ様子だった。
『…リーン様との思い出の場所を見せてくれた礼をしたいんだが、俺でよければ話を聞こうか?』
 どんな些細なものでもいい。ジャックは情報が欲しいのだ。
 それは命じられたからでも、国の為というわけでもない。
 リーン姫を見つけ出したい。
 かつて守りきれなかった悲しいお姫様を、ジャックの手で、何としても。
 その為なら、たとえ些細な情報だったとしても手に入れる。
 頬に触れられても嫌悪感を見せないイリュシーに、今度は優しく頭を撫でた。
『こんな時くらい、甘えておくものだぞ』
 パージャの異様な光景にも気付かず泣いたイリュシーのことだ。侍女としての誇りは持つだろうが、まだ精神面が幼いことはすぐ気付けた。
 どこまでも優しく微笑みかけて。
 どんな小さな情報でも構わない。
 知っていることを全て話させるには。
 イリュシーはジャックの言葉に戸惑いながら見上げてきたが、やがて本格的に涙をこぼしながら強くジャックの腕の中に飛び込んできた。 胸に縋って声を殺して泣きじゃくる背中を優しく抱きしめ返してやる。
 その身体は、かつてジャックが愛した女性よりも弱々しいものだった。

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