第79話


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 王族という隔離された立場ではあったとしても、今まで幾度となく女性を抱きしめてきた。
 それは妹達であったり、婚約者であったり、発散の為に用意された美しい女達だった。
 コウェルズにとって女体は、別に珍しいものではない。
 だから目の前に現れた薄い裸体にも、何も感じなかった。
 ついさっきまでコウェルズから逃げていたはずの薄桃色の髪の少女。
 一つの部屋に飛び込んだのを追いかけて、室内で突然少女はコウェルズに抱きついてきた。
 武器を持たれていたらと一瞬肝が冷えたが、痛みはいっさい広がらない。
 急襲でなかったことに安堵したコウェルズが口を開くよりも先に少女は少し離れ、そして突然脱ぎ始めたのだ。
 薄暗い部屋。互いに言葉は無く。
 先ほどまで憎しみに染まっていた少女の瞳は、今は虚に、闇すら宿さずにいる。
 動きはするが、生命は存在しないかのような。
 少女はスルスルと衣服を床に落として、一糸纏わぬ姿となってからようやくコウェルズに目を向けてきた。
 何も宿らない瞳に、ゾクリと首筋が粟立つ。
 まるで性的魅力を感じているかのように錯覚するが、それは違う、と無意識が語りかけた。
 何の魅力も存在しない、薄いだけの身体。だというのに身体が反応しようとする矛盾。
 それは、以前ある娘を見た時に感じたものとよく似ていた。
 以前。初めてアリアと出会った時と。
 アリアと出会った時、コウェルズはアリアに対して田舎臭く薄汚い娘という第一印象とは別に、奇妙な独占欲を芽生えさせていた。
 何としても手に入れたくなるような独占欲。
 それが治癒魔術師メディウム家の血筋の者が相手に与える魅了の力だと思い出したのは、改めてメディウム家の文献を読み直した時だった。
 公には記載されていない、古い文献の片隅にひっそりと書かれていたその内容に、アリアを改めて前にした時に妙に納得したものだった。
 今でこそ身綺麗になり誰もが美しいと口をそろえるほどの美貌を見せるアリアだが、当時のコウェルズの目には、本人には申し訳ないのだが、貧民街の物乞いの娘にしか見えなかったのだ。
 荒れた肌、パサついた髪、手入れもされずに割れた爪、汚い衣服。
 だというのに沸いた独占欲。
 メディウム家の血筋が原因の独占欲が、なぜか今、目の前にいる少女に沸いた。
 エル・フェアリアの王城の天空塔で匿われるように暮らしていたメディウム家が忽然と姿を消してから数十年。
「……君は…メディウム家の子なのか?」
 生死すらわからない彼女達の子供や孫が、散り散りになって世界中に存在している可能性もあるなら。
 問うたコウェルズに、少女はわずかに眉を顰めた。
 コウェルズが何を言っているのかわからない様子だ。
 恐怖なのか怒りなのかはわからないが、浅く呼吸する様子は胸元から見てとれて、コウェルズが手を出してこないことに焦り苛立つように手を伸ばしてくる。
「…すまないが、君には何も感じないよ」
 一歩も動かず伝えれば、少女の方から手を止めた。
 コウェルズはアリアの魅了の力のことを知ってから、その対処法も身に刻んでいたのだ。
 フレイムローズの魔眼の力を受け流す精神力と同じ方法で。
 こんなことをして万が一少女が騒いだなら、共にいたコウェルズは真っ先に疑われることだろう。
 だがそうならない自信があった。
 ここは人の出入りを制限された場所で、少女は恐らくコウェルズの正体を知っているだろうから。
 ならなぜ衣服を脱いでコウェルズを魅了しようとしたのかは謎だが。
「…私の質問にいくつか答えてくれるだけでいい。君はファントムの仲間なのかな?」
 わざわざ少女の抜いた衣服を拾ってやりながら、その薄い肩にそっとかけてやりながら。
 あくまでも紳士的に微笑むコウェルズが目にしたのは、顔色を青白くして狼狽える表情だった。
「……大丈夫かい?」
「…あんたが……」
 言葉が被る。
「……あんたが私に手を出さなきゃ…そうならなきゃ…ダメなのに……」
「…え?」
「どうして…どうしよう……私…パージャ…」
 呟かれた名前に思わず息を呑んだ次の瞬間。 再び少女はコウェルズに身体をぶつけてくる。
 今度は全力の力で。
 非力そうな身体のどこにそんな力があるのかと驚くほどの体当たりに、コウェルズは少女を庇いながら尻餅をついてしまった。
「なっ…」
「あんたに抱かれなきゃダメなんだ!!そうじゃないとパージャが治らないんだあぁっ!!」
 叫びながら、またその名前を口にする。
 今度ははっきりと、パージャと口にした。
 聞き間違いではなかった。
 これで少女がファントムの仲間だと決定付けたが、様子のおかしさに一瞬だが圧倒された。
 コウェルズがこの少女を抱くとは、いったい何を言っているのだ。
 血走ったおぞましい眼差しを向けてくる少女が無理やりコウェルズの衣服をはだけようとする様子に気付いて、恐怖から逃れるように強く押し退けた。
 先ほどは強い力でコウェルズを押し倒してきたというのに、やはりその薄い身体に筋力はほぼ存在しないのだろう、コウェルズが思う以上に吹き飛んで。
 数メートル先まで倒されて、力無く床に伏した。
 気絶でもしたのだろうか。
 コウェルズは立ち上がってから警戒するように離れつつ様子を窺い、少女の方は数秒経ってから、うつ伏せた身体を起こそうと両腕に力を込めた。だが上半身が少し持ち上がっただけで、俯いた顔はこちらを見ようともしない。
 そのまま、ガリガリと頭を掻いて。
「……うまくやらなきゃいけないの…いやだ…したくない……やだ…やるの…するの…私…私がパージャを守るの……したくないよ……やる…する…パージャ……パージャ…パージャぁ…」
 掻きむしる音に、ぶつぶつと聴き取りづらい声が篭もるように響く。
「うああぁぁ…」
 そして泣き声に変わった。
 いったい何だというのだ。
 今まで生きてきた中で、こんな異常な存在を目にしたことがなかった。
 コウェルズは王子だ。
 行く先々で、何もかも美しいものだけを細やかに準備される道を歩いてきた。
 気狂いを知識でしか知らない中で目の当たりにした少女は、あまりにもおぞましいものだった。
「…人じゃない」
 思わず呟いた言葉に、少女が反応を示す。
 こちらに向ける目が、コウェルズの言葉を理解したと伝えてくる。
 ぷつん、と。
 ごくごく小さな糸が切れる音が響き渡った気がした。
「…………お前が……」
 少女の声がコウェルズに狙いを定める。
「お前達がこうしたんだろうがぁぁ!!」
 怒り、恨み、憎しみ、それら全ての悪意がコウェルズを貫くようだった。
「このクソ野郎が!!死ねよ!!お前が死ねばよかったんだ!!みんなじゃなくお前がぁ!!死ねよ!!死ね!!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇぇぇっ!!」
 今まで向けられたことのない悪意が、完全にコウェルズの動きを静止した。
 汚い言葉で罵られて、殺意をぶつけられる。
 少女は頭を掻きむしりながら、何度も何度も言葉と眼差しでコウェルズに殺意をぶつけてくる。
 死ねという言葉が何度も内臓を引き裂くようなおぞましい感覚に、血の気が引いて視界が霞む。
 汚れつくした醜い悪意が、足を取るようだった。
「あ、あぁ……ぅあああああああああああああああっっ!!!!」
 少女の声は絶叫に変わり、掻きむしり続ける指先に赤い血が混ざる。
 ガリガリと皮膚を自ら引き裂いていく恐ろしい光景と耳をつんざく叫び声に、心臓が萎縮した。
 怖い、と。生まれて初めて。
 目の前に広がる異常をコウェルズは受け入れられず、逃げ出した。
 背中を見せて部屋を飛び出せば、追いかけてくるように絶叫がさらに強くなる。
 後ろは振り返らなかった。
 ただ逃げる為に感覚の曖昧な脚をひたすら動かしていく。
 心から恐ろしいと感じた。
 心がもたないほど。
 自分がひ弱で惨めだと自覚するほど。
 追いかけてくるかのようなおぞましい叫び声から逃げ続けて。
 どんな道をどのように進んだかなんて、微かな記憶にすら残りはしなかった。

---ーー

 ルードヴィッヒにとって、目の前に広がる光景はまるで宝箱のようにキラキラと輝いていた。
 各国を代表する戦士達が、自信満々に己の腕を磨いていく。
 その多くが気さくで、訓練をじっと見つめるルードヴィッヒに好意的な言葉をくれた。
 エル・フェアリアの出場者として最初こそ敬遠されていたが、出場者の中で最も若いルードヴィッヒの真剣な眼差しにほだされた者は多い。
 そこにルードヴィッヒが気付くことはないのだが、話しかけられることはとても嬉しく、頬は自然と熱くなった。
 怪我を防ぐ為に出場者同士の手合わせは軽く、数分に留めて。
 ジャックとダニエルに指導を受けたい戦士達も殺到してルードヴィッヒは少し焦ったが、代わりとばかりに他国の凄腕達がルードヴィッヒに改善点を教えてくれたので焦りはすぐに消え去った。
 ジュエルも昨日の出来事が上手く働き、周りを他国のサポート達に囲まれて何やら楽しそうに談笑している。
 訓練場が比較的穏やかに思えたのは、訓練用の絡繰りの姿が見えないことも理由なのだろう。
 どうやら今日一日は絡繰りのメンテナンスとなるらしく、暴れる兎が見られないことを寂しがる者達も見られた。
 その絡繰り兎を倒したラジアータは、今は残念ながら不在だ。
「……まだお前一人か。遅いな」
 ジャックに声をかけられたのは、うまい具合に他国の戦士と軽い手合わせを終えた後だった。
 若い戦士はジャックに憧れの眼差しを向けながら会釈し、ジャックも軽い指導をしてやって。
 その戦士が自国のサポートの元に向かったところで、ジャックは改めて辺りを見渡した。
「やっぱり遅いな…まだ寝てるのか?」
「こ…っと……エテルネル殿ですよね」
 コウェルズと呼びそうになったところを寸前で止めて、なんとか誤魔化して。
「昨夜は遅くまで話していたみたいですが、何か問題でもあったんですか?」
「あー、大した問題は無いな。それは置いといて、さすがに遅いだろ」
「……ですね」
 楽しくて忘れていたが、時間はかなり経っている。
「二手に分かれて遅い昼飯にするか。ダニエル連れて先に行ってこい」
「ジュエルは?」
「昨日のお礼を兼ねたほぼお茶会の真っ最中だ」
「……あぁ…」
 思わず声が小さくなったのは、昨夜を思い出したからだ。
 昨日、涙を見せたジュエルの為に多くの国が慰めの贈り物を届けてくれて、そのお礼にジュエルは藍都特産のレースと刺繍の美しいハンカチを夕食の席で自ら手渡して。
 そういったものに疎いルードヴィッヒでも美しいと思ったハンカチは、各国の娘達に大盛況だった。
 それはもう、大食堂が音波で潰されそうになる程に。
 さらに付け加えるなら、そのレースと刺繍は全てミシェルが考案したものだというのだから、娘達の悲鳴はけたたましいものだった。
「まさかミシェルがあんなにも有名だったとはな」
「…ですね」
 ミシェルがハンカチの制作で世界的に人気のデザイナーだなどと、はたして騎士達の何人が知っているというのだろうか。
 ルードヴィッヒ達も知ったのは昨日だ。ジュエルですら大会出発前にミシェルの副業を打ち明けられ、大量に渡されたらしい。
「ミシェルに負けないように、お前も何かしてみたらどうだ?紫都の特産……って何だ?」
「染め粉があります!」
「ああ、そうだったな。俺たちが買ってた絵具も紫都産だった」
 藍都の特産に比べればどこの特産も霞んでしまうが、なかなか悔しい感情に眉間には深い皺が一瞬で刻まれた。
 まあまあ、と宥めてくるジャックの出身地は緑都。
 多種多様の茶葉を特産とする緑都の人気は、藍都に次ぐだろう。
 それを思い出してぷいとそっぽを向いて。
「城に帰ったら絵を描いてみるか?丁寧な模写は魔具の精度を上げるぞ」
「……そうなんですか?」
「ガウェやニコルも生体魔具を生み出すのに何千枚も絵を描いたと言っていたからな。効果はある」
「…何千…」
 気の遠くなりそうな枚数に思わず目が遠い場所に向かった。
「ん…やっと来たな」
 ジャックがふと体ごと視線を別方向に向けて、釣られて見ればこちらに向かってくるコウェルズが。
 彼の顔色は、遠くからでもわかるほどに青白かった。
「……二日酔いやばそうだな」
「二日酔いであんな顔になりますか!?」
 驚くルードヴィッヒを置いてジャックがコウェルズの元に向かうから、慌てて追いかけて。
 その動きに、さらに離れているダニエルとジュエルも気付いて駆け寄るのを視界の隅に見た。
「どうした!疲れが取れないか?」
 少し離れた位置から、呼びかけて近付いて。
 ジャックの声かけにコウェルズは微笑むが、静まり返るような笑みに普段の様子は見えない。
 ようやく声を張らなくても聴こえる距離に来てから、コウェルズはジャック、ルードヴィッヒ、そしてダニエル達の順で見渡して。
「……私の知らない世界の大きさに驚いていただけですよ」
 小さなため息、そして少しだけ頭を振って。
「みんなが私の目に映らないようにしていた世界は、あまりにも広かった」
「…何かあったのか?」
 ジャックの問いかけに、コウェルズは微笑むだけに留めて。
 コウェルズが知らない世界など、ルードヴィッヒには検討もつかないものだ。
 王族が幼少期からどれほどの教育を叩き込まれているか。特に王となるコウェルズがどれほどの知識を蓄えているか。
 彼の政治手腕は並外れているというのに。
「休むか」
「…身体を動かしたい」
 ボソリと呟いて、コウェルズはルードヴィッヒ達の後ろにまで訪れていたダニエルの元に進んでいった。
「剣術訓練を頼みます。今日は深く眠れるほど厳しめに」
 普段通り微笑めないコウェルズに、ダニエルは少し考えてから、静かに剣を渡した。
「俺たちは見学だ」
 どうすればよいのかわからず困惑するルードヴィッヒの肩をジャックは静かに叩く。その後すぐにジュエルがジャックの隣に訪れて、三人で見守る中でコウェルズとダニエルの訓練が始まった。
 身体を温める為に最初は打ち合う程度に、段々と、どちらともなく速度や威力は増していく。
 今までコウェルズは剣術の腕前を隠すように試合形式の訓練はあまり行わなかったが、今回ようやくお披露目となったことで辺りがゆるやかに静まり返っていった。
 それほどの腕前だった。
 実力に美しさを上乗せした、神に捧げるかのような剣技。
 ルードヴィッヒのように、地べたを這いずってでも絶対に勝ちたいという泥臭く汗臭い闘い方とは真逆のスタイルだった。
 勝つことは当たり前。そこに美しさを兼ね揃えた、誇りを重視するような。
 足元は軽やかだというのに、一撃は鋭く重く。重い上半身と軽い下半身で重心がまるで合わないのに、なぜか美しくまとまっている。
 見たこともない戦闘に前のめる身体を、ジャックがわざわざ肩を掴んで止めてきた。
「…滅多にお目にかかれないからよく見とけ。エル・フェアリア王族のみが継承する剣技での戦闘スタイルだ」
 ボソリと呟かれた内容に、目を見張る。
 目の前に広がる剣技は、この世で最も美しい舞とまで評されるからだ。
 そしてそれを裏付けるかのように、コウェルズを中心に訓練場は完全に静まり返っていた。
 見惚れる。
 それも、魂を抜かれたかのように。
「…大戦中、ロスト・ロード王子が前線に出て自ら剣を振るうと、敵陣は剣を構えることも出来なかったとか…今の周りみたいに、か?」
 にやりと笑うジャックは今にも動き出しそうになる両腕を組みながら、自分の腕を強く掴んで何とか自制していた。
 それは前のめるルードヴィッヒをジャックが抑えてくれたことにも通じる。
 なぜこれほどの剣技を前に辺りが静まり返っているのかわからないほど、ルードヴィッヒの気持ちは逸っていた。
 戦いたい。ただそれだけが身体を占めていく。
 己の力が増していると勘違いしてしまいそうなほど。
 胸が昂ぶる。心臓の鼓動が速まる。
 全身の細胞が、細部まで全て相手に掴みかかっていきそうなほどーー
「ーーそこまでだ!エテルネル!」
 止めたのは、ダニエルだった。
 彼が止めたのは、はたしてコウェルズだけだろうか。
 ダニエルの声に、ルードヴィッヒはハッと我に返っていた。思わず隣を見上げれば、ジャックは鋭く睨みつける眼差しをコウェルズに向け、腕は痣ができそうなほど強く指が食い込んでいる。
 コウェルズはダニエルの命令に素直に応じ、剣を鞘に収める最中だった。
 ダニエルも剣を鞘に収めるが、ジャックとよく似た睨みつける眼差しが恐ろしい。
 力の差から息を上げて汗を吹き出しているのはコウェルズだが、強く警戒しているのはダニエルの方だ。 
「ジュエル嬢!」
 ダニエルに強い声で呼ばれて、ジュエルが慌てて近付いて。
 コウェルズに渡すタオルの手が震えていたのは、ジュエルも何か感じ取ったからなのだろう。
「…休もうか。みんなで」
 視線はまだ鋭いまま提案するダニエルが、コウェルズとジュエルの背中を押してルードヴィッヒ達の元へ、そしてそのまま通り過ぎて訓練場を後にする道を進む。
 その背中について歩けば、周りを取り囲んでいた静かな見物客達は、言葉を失ったまま道を開けてくれた。
 誰も言葉を交わさない。
 異様なほど静まり返る状況から逃げ出すかのように、ルードヴィッヒ達はその場から足早に立ち去った。

ー----

 ルードヴィッヒは走っていた。
 ただがむしゃらに、行き先もうやむやなままに。
 走る原因となったのは、コウェルズの話だ。
 遅い目覚めから、訓練場での合流に至るまでに何があったのか。
 人目と聞き耳を避けて部屋で遅い昼食をとりながら聞かされたのは、気のふれた少女の話だった。
 パージャの名を何度も呼んだ、薄桃色の髪の少女。
 ミュズ以外に有り得ない。
 ラムタルでルードヴィッヒと再会した時のミュズは、頭のネジが完全に飛んだかのような様子を見せた。
 それと全く同じことを、コウェルズは口にしたのだ。
 まるで人の理性を持たない、怖い、と。
 しかしコウェルズは告げた。
 ラムタルには内密であれ、次は捕らえると。
 それを聞いた途端にルードヴィッヒは部屋を飛び出していた。
 コウェルズ達よりも先に見つけなければならないと直感したのは、コウェルズの様子もおかしかったからだ。
 開催国であるラムタルの顔は潰さないようにしていたはずのコウェルズの、たった一夜にしての心変わり。
 何があったのかなどわかるはずもないが、何かがあったのだとルードヴィッヒですら気付けるほどの。
 だから、焦って走って部屋を飛び出した。
 ジュエルの驚いた呼び声にも足を止めないまま、心にわずかにだけ引っかけたまま。
 胸の奥がジュエルとミュズを秤にかけて、選んだのだ。
 だから今も走り続けている。
 ミュズの居場所などわかるはずもないのだが、もし見つかるとするなら王家の庭園のはずだと城の奥を目指して。
 途中途中で他国の者達やラムタルの者達に怪訝な目で見られたが、気に留めずにミュズを探した。
 訓練場から救護室の間の庭園、そこにさえ行けば道が開けるかもしれないと抱いた小さな期待へ続く道は、突然現れた銀の髪によって遮られてしまった。
 ふわふわとした癖毛を銀に輝かせて、ルードヴィッヒより低い身長の少年は、走るルードヴィッヒに気付いたかのように前髪で隠れた視線を向けてきた。
 目が合った、と思った瞬間に。
「ーーミュズに何をしたの!?」
 幼い激昂が、ルードヴィッヒの視界を闇に染めた。
 目の前が一気に闇色の紫に染まり、責めたてるようにゾワリと背筋を怖れが撫でる。
「…やめとけ。あれでいいんだよ」
 突然の闇の中で不可解な恐怖に全身を抑え込まれたルードヴィッヒの耳に届いたのは、静かながら乱暴な声だった。
 その声が届いたとたんに視界は元に戻り、少年の隣に闇色の青が立っていることを知る。
 銀色の髪だったはずの少年も、先ほどルードヴィッヒの視界を染めた闇色の紫に変化していた。
「お前達は…」
 ジュエルを拐った少年。その髪の色は銀なのか、闇色の紫なのか。どちらが本当なのかわからない。
 少年は強くルードヴィッヒを睨みつけてくるが、守られるように若者の背に隠されていた。
「お前とは上手くいけば大会で当たるかもな。出場のよしみで名前を教えてやるよ。俺はウインド。こっちはルクレスティードだ」
 名乗りながら、ウインドは見下した笑みを口元に貼り付けながらルードヴィッヒの元へとゆっくりと進んでくる。
 年頃なら数歳違いなだけだろうが、ウインドはルードヴィッヒと違って身長にも筋肉にも恵まれていることがゆるい神官衣からも伝わる。
「ミュズを完全にぶっ壊したのはお前か?」
「……は?」
「…なわけねーか。やっぱ王子の方だな…さすがだわ」
「待て!何を言っている!?」
 探していたミュズの名前と物騒な物言いに掴みかかるが、ルードヴィッヒの伸ばした腕はいとも簡単に弾かれた。
 じんじんと痺れる痛みが腕から全身に広がるが、ルードヴィッヒの頭にのぼった血が引くほどではない。
「ミュズに何があったんだ!?」
「…なんだよ。お前、あいつのこと知ってるのか?」
 問われて、思わず口籠る。
 知ってはいる。だが、知っている程度でしかない。
「…ああ、お前もあいつが気になるのか」
 心内に気付いたとでも言わんばかりに、ウインドの口元は蔑みの笑みがじわりと滲んだ。
「……ミュズに何があったんだ」
「壊れかけてたもんが完全にぶっ壊れただけだ。あんま変わんねーよ」
 面白そうに、おかしそうに。
 目を細めて笑うウインドとは違い、後ろにいるルクレスティードは、ルードヴィッヒを睨みつけるのをやめない。
「全部ファントムの手の内さ。お前も、王子も、ミュズも、エル・フェアリアがファントムの思い通りになる為の駒なんだよ」
 乾いた笑い声が響き渡る。
 ミュズが壊れたと言う彼の方が、ルードヴィッヒには壊れて見えた。
「……お前達は何をするつもりだ」
 二対一の現状に腰を低く構えながら、答えなど教えそうにもない問いを投げかける。
「ミュズに何をするつもりなんだ!?」
 ミュズはファントムの駒だと告げたその理由が知りたかった。
 まだ頭の硬いルードヴィッヒでもわかる。
 仲間なら、守られる。だが駒とは、捨てられる存在だ。
 ウインドは面倒くさそうにバンダナの上からガリガリと頭を掻き、指先にこびりついた赤黒い血に小さな舌打ちをする。
 敵は傷が治る存在だと聞いていたのに、彼の指先を変色させた血はそのままだ。
「……全部あいつが悪いんだよ」
「…何?」
「パージャだよパージャ!…お前も可哀想な奴だな。ミュズなんかに心が向いちまって」
 ガリガリ、ガリガリと。
 ウインドは再び頭を掻き、こめかみからじわりと血がこぼれ始めた。
 ルクレスティードが不安そうにウインドの袖を掴むが、頭を掻く手は止まらない。
「そもそもあいつが最初っから素直にファントムに従ってればエレッテも向こうに掴まらなかったのによぉ…クソ…」
「……いったい何を言っているんだ」
「…………」
 口を開きかけたウインドが、頭痛に苦しむように顔を顰めて口をつぐむ。
 そして。
「…行くぞ」
「おい!?」ルクレスティードを連れて背を向けるウインドの背中に手を伸ばすが、振り向いたルクレスティードの眼光がルードヴィッヒを貫く方が早かった。
 視界をあらゆる色がぐちゃぐちゃに絡まりながら高速でかけていく。
 昼食に胃に入れたものが全てぐるりと逆流する感覚に口を抑えて身を屈め、視界が戻った時にはすでに二人の姿は跡形もなく消え去っていた。
 吐きまかしそうな感覚だけが残る中で、混乱に眉を顰める。
 気持ち悪い。そして、ミュズはどこに?
 後先考えず闇雲に走った対価を支払うかのように、途方に暮れる自分がいた。
 ミュズは完全に壊れたと言っていた。
 壊したのは王子だとも。
 それはコウェルズで間違いないのだろう。
 ルードヴィッヒの目には、コウェルズにも何かあったように見えた。
 コウェルズほどの人間が衝撃を受けるほどの何か。それがミュズも襲ったのか。
「…ミュズ……」
 呟きは誰にも届かない。
 解決すらしない。
 進むことも戻ることもできないまま立ち尽くすルードヴィッヒを、誰も助けてはくれなかった。

第79話 終
 
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