第58話


第58話

 迂闊だった。
 大切な妹の為に特別な守護をつけようと話していた矢先の出来事に、着席していたコウェルズは静かに拳を握り締める。
 ミモザの部屋に押し入った侵入者。コウェルズが訪れた時にはその姿は無かったが、恐らく魔術兵団のはずだと目星をつけて。
 ヴァルツにラムタルから持ち出した絡繰りをミモザの為に貸し出せと話したのはつい数時間前のことだったのに。
 騎士と魔術師達には侵入者の予想を告げずに探させてはいるが、もしコウェルズの予想が当たるなら侵入者は逃げ切るだろう。
 ミモザが襲われたせいで狼狽えるヴァルツを捕まえて、絡繰りを使わせて。万が一の為に他の妹達にも一体ずつ護衛に添えながら、ミモザの為に絡繰り犬とは別に五体の絡繰りを用意させた。
 二体はヴァルツの魔力から。残りの三体はコウェルズとエルザ、そして幼いが強力な力を持つ第六姫コレーの魔力をそれぞれ使用して。
 クルーガーとリナトの魔力を使用しなかったのは、二人は以前魔術兵団から術式をかけられた身であったからだ。
 ミモザは絡繰りに守られながらエルザと侍女や騎士達と共に身を清めに湯浴みに向かわせた。
 血濡れたミモザの姿は、妹達にはつらすぎるものだっただろう。
 騒動は最も幼い末のオデットまで起こしてしまったのだから。
 部屋にいなさいと命じて素直に聞いてくれるのは第五姫フェントくらいのもので、他の妹達は皆。
「コウェルズ様、ユージーン副隊長とエドワードが戻りました」
 王城一階の応接室を拠点としていたところに、入ってきた情報は恐らく侵入者を取り逃がしたというもので決まりだろう。
 クレア付きのユージーンと、エルザ付きのエドワード。二人は最初に侵入者を追った者達だ。優秀な彼らが取り逃がしたなら、もう侵入者という形では見つからない。
 状況を告げに来た騎士に眼差しだけで説明を促せば、
「…逃がしたとのことです」
 案の定の結末に溜め息など出るはずもなかったが苛立ちは視線に宿り、騎士の身を強く強張らせた。
 室内にいるのはコウェルズを含めてヴァルツとクルーガーと今訪れた騎士の合計四人。それと手のひらサイズの魔眼蝶達で、他の者達はそれぞれ最も動ける場所にいる。
「…クルーガー、君も行ってくれ。今後の騎士達の動きは君に任せる」
 魔術師団の行動についてはすでにリナトに任せていた。
 クルーガーにも騎士団を纏めるよう命じれば、彼は静かに頭を下げて騎士と共に応接室を後にする。
 クルーガーもリナトも侵入者が何者であるか、薄々気付いてはいるだろう。
 次の行動は強化した警備を少しずつ軟化させていき、魔術師団の結界をより強力なものに差し替えていくことくらいか。
 侵入者が何者なのか。ミモザが落ち着きを取り戻したなら話してくれるだろうが。
「コウェルズ…ミモザは無事だろうか」
 どうすればいいのかと未だに狼狽えたまま右往左往するヴァルツが、二人だけになってしまった室内ですがるようにコウェルズに近付いてくる。
「侵入者も今の状況で改めて襲いはしないだろう。風呂場には絡繰り以外にエルザもいるからね」
「しかしエルザにも何かあったら…」
「魔力操作に関してならエルザは並の魔術師では太刀打ちできない技量があるからね。そこまで心配はしなくていいさ」
 か弱いだけの姫などいない。しかしヴァルツには想像に難しいらしく、不安な表情が晴れることはなかった。
 またうろうろと室内を歩き始め、窓から外を眺めてみたり扉に近づいてみたりと別の意味で忙しそうにする。
「…明日はどうするのだ」
 そしてコウェルズも考えていた明日の件を口にして、室内は床冷えするように凍り付いた。
 明日は、コウェルズは政務の全てをミモザに任せてラムタルに出発するのだ。
 半月程度とはいえ、この難しい状況をミモザに。
 ミモザには不可能だなどとは考えてはいない。
 コウェルズも伝達鳥を通して逐一ミモザ達と報告し合うつもりでいたのだから。
 だが心が不安定になってしまっていたら?
 数ヵ月前、エル・フェアリアにファントムの噂が流れ始めた頃、コウェルズは島国イリュエノッドに外交の為に長期間滞在していた。
 ようやくエル・フェアリアに戻ってみれば、ミモザは気丈な様子を見せはしたがその心境は不安に揺れて怯えていたのだ。
 顔も出さなかった父の代わりに、コウェルズのいないエル・フェアリアを守り続けて。
 隠しきれない不安を浮かべたミモザをしっかりと覚えている。
 明日ラムタルに向けて出発するということは、ミモザに以前よりもさらに不安定なエル・フェアリアと王城を任せることになるのだ。
 さらには魔術兵団にまで狙われて。
 どれだけミモザに強い芯があろうが、ミモザ個人が狙われたことは大きく恐怖心を煽っただろう。
「…剣武大会の剣術出場者の名前はまだ伏せた状態で、コウェルズが出るとは告げておらんのだろう?…ならば別の者を出場させて、コウェルズは城に残った方がよいのではないか?」
「そうしたいのは山々だけどね」
 出来るならばそうしたい。だが出来ない理由は多方面に散らばる。
 しかしミモザの身に起きた事件だけに目を向けるヴァルツは、それらを回収できるほどの頭脳を持ち合わせてはおらず。
「紫都の三男を大会に出すだけで充分ラムタルの顔を潰さぬほどになっておる!剣術くらい適当な者でよいではないか。そもそもコウェルズが出る必要などないだろう?」
 大国ラムタルで開かれる国同士の祭典。エル・フェアリアが出場する理由はラムタルの顔を潰さない為だけだと思っているらしいヴァルツの発言に、コウェルズの苛立ちは一気に上昇した。
「…リーンの件とは別に、バインド王に会っておきたいんだよ」
 苛立ちが勝りすぎたか言葉が上手く出てこなくなる。
 確かにラムタルの顔を潰さないようにすることも重要だが、コウェルズがラムタルに向かう理由はエル・フェアリアの現状と未来が理由なのだ。
 ラムタル闇市で見つかったファントムの仲間。闇色の青を持つ若者はラムタル代表として大会にも出場する。エル・フェアリアとしてファントムに、リーンに繋がる可能性のある彼を見過ごすことはできない。
 そして。
 王のいないエル・フェアリアも。
 コウェルズが王位を手に入れる為には、それなりの準備が必要になってくるのだ。
 コウェルズが王となれば、和平の為にもラムタル王との謁見は必須となる。
 謁見はなるべく早く、そして二度手間にすることなく一度で済ませてしまいたい。
 だというのに、ヴァルツは国同士の繋がりに対してあまりにも甘ったるい思考回路を持っている。
「伝達鳥で足りるではないか!我が国はエル・フェアリアの現状もわからぬほど愚かではない!」
 近隣合わせても太刀打ちできないほどのエル・フェアリアとラムタル、その両王家の仲の良さだけを見て、王家の考えが国の考えだと信じて。
 その楽観視にコウェルズは心を冷えこませた。
「…そうだね。ラムタルは優秀な人材が揃っているね。優秀だからこそエル・フェアリアの現状を理解して、足元を掬いたいと思っているだろうね」
 コウェルズからすればあまりに馬鹿げたヴァルツの発言に、苛立ちから相手を小馬鹿にするような言葉が口をついて出た。
 自国の家臣達を馬鹿にされて、ヴァルツの顔は一瞬で怒りの色に染まった。
「我が国を馬鹿にするな!」
「君こそ視野を広く持ったらどうだい?そんな頭だから王弟の立場にあるのに外交にも使われないんだよ」
「っ…」
 怒りに沸騰するヴァルツ。しかし反論できないだろう事実に、いとも簡単にしおれて。
「ミモザやエルザだけじゃない。妹達が外交に初めて挑んだのは未成年の頃だよ。君は今まで一度でも正式な交渉の為に他国に赴いたことがあったかい?」
「…それは」
「外交だけじゃない。国の政策に携わったことは?国立事業でも構わないよ。オデットだって国立演劇場の運営を任されているんだからね。統括はエルザだけど、オデットは充分働いてくれているよ」
 エル・フェアリアの王家に生まれた子供達とヴァルツとの圧倒的な違い。
 ヴァルツより幼い妹達ですら行っている政務を、ヴァルツは自国ラムタルで任されたことがないのだ。
 ヴァルツは何もさせてもらえなかった。
 バインドが父を打ち、強引に王の変わったラムタル。まだ秩序が完全でないからこそバインド王が全てを仕切っているとしても、ヴァルツが何も任されないことは他国から見ても異例で、そして他ならぬヴァルツ自身がそれを気にしていて。
 唇を噛んで俯くヴァルツから視線を逸らして、コウェルズは小さな溜め息をついた。
 苛めたわけでも嫌がらせというわけでもない。
 単なる事実だ。
 しかしいくらコウェルズも苛立っているとしても、ヴァルツの無能をこれ以上あげつらう気にはならなくて。
「…明日のことに関しては私だって頭が痛いんだ。だが出発しないわけにはいかない」
 細かな説明は省いて、改めてラムタルには向かうと告げる。
「…君にミモザを任せたかったけど…まだ任せられないね」
 今のヴァルツでは。
 言葉の真意に気付いてヴァルツが拳を握り締める。
「絡繰りだけ貸してくれていたらいいよ。君は何もしなくて」
 役に立たないと暗に告げたからだろう。ヴァルツは顔を上げるが。
「っ…子供扱いするな!私はもう」
「立派なお子様だね」
「貴様っ!!」
 カッと熱くなるヴァルツを冷静に見据える。
「怒れる頭があるなら自分の不甲斐なさにも気付いているんだろう?室内を意味無くうろうろ歩き回られるのも迷惑だから、頭でも冷やしておいで」
 ヴァルツがただの馬鹿だとは思っていない。聡い頭は確かに持っているのだから。
 ただあまりにも、汚れた部分に気付けない。
「君はいずれこの国に身を置くことになるんだ。ならこの国で何が出来るか、いつまでも賓客扱いじゃないんだからしっかり考えるんだね。サリアにだって出来たんだ。無理だとは言わせないよ」
 ラムタルではどうであれ、エル・フェアリアに身を置くというならそれなりの責務は全うしてもらう。
 サリアだって自分に出来ることを見つけてきた。
 何もせず傍にいてくれたらいいと告げたが、コウェルズの妻として、次期王妃として、この国の為に何が出来るかと彼女は考えを巡らせ続けたのだ。
 そして自分に出来ることをこれからも探し、多くをこなしていくだろう。
 それがヴァルツには出来ないとは言わせない。
 互いに睨むように視線を合わせながら、静かになる室内にわずかにゆるんだ雨音が響き。
 その響きの中に、唐突に優しいノック音が交じり込んだ。
 扉を叩く音。
 騎士達ならもっと強い音になるはずなので、コウェルズは誰が訪れたのかすぐに気付くことが出来た。
 入室を促せば、扉を開けて現れるのは侍女長ビアンカで。
 ミモザを任せたビアンカが訪れたということは、ミモザの湯浴みも済んだのだろう。
 ビアンカはコウェルズとヴァルツに一礼をするとすぐに口を開き、
「ミモザ様がお話出来ると」
 湯浴みが済んだだけでなくミモザの心も落ち着いたことを教えてくれた。
 恐怖からか上手く話せなくなっていたミモザ。
 話せなかった理由が術式ならばとも考えたが、そこは大丈夫なのだろう。
「…入れてくれ」
 少し緊張してしまうのは、ミモザの血濡れた姿が脳裏に焼き付いて離れないからだ。
 扉の向こう側で何やらやり取りが行われてから、ミモザがようやく姿を見せてくれる。
 濡れた髪や肌の様子はミモザが湯上がりだと告げてくる。
 その血濡れでない清らかな姿に、コウェルズは無意識に安堵の溜め息をついてしまった。
「ミモザ…無事なのだな?」
 そして少しの間存在を忘れてしまっていたヴァルツが不安そうにミモザを呼んで近付こうとしていて。
「ヴァルツ、君は席を外してくれないか」
 ヴァルツの指がミモザの頬に触れるより先に、コウェルズは彼の動きを制した。
「…今ここに君はいらない。外してくれ」
 邪魔だと告げれば、ヴァルツは強く睨み付けてきた。
 それでも無言のまま腕を下ろして扉に向かったのは、先ほどコウェルズに言われた真実が胸を刺したままだったからだろう。
 乱暴に部屋を出ていくヴァルツに、ミモザが困惑の表情を見せる。
 その様子に苦笑を浮かべる間に扉はビアンカが閉めて、先ほどまでヴァルツと二人だった室内は妹と二人きりに様変わりした。
「…ごめんね。驚かせてしまって」
 あれではヴァルツとひと悶着あったと教えているようなもので、ほんの少し巻き込んでしまった分だけ謝罪をおくる。
「…ずいぶん早かったけど、大丈夫かい?」
「はい。ご心配をおかけしました」
 そしてミモザが何か訪ねてくる前に本題に入れば、ゆっくりと頭を下げられてしまった。
 心配はもちろんした。だがそれはミモザの責任ではなくて。
「いや、こっちの不備だよ。…それで、君を襲った侵入者のことだけど」
 早く魔術兵団が侵入者であるという事実が欲しくて性急に訊ねた途端に、ミモザは全身を軽く強張らせてしまう。
 血の気が一気に引いていくようにミモザの顔色が悪くなり、コウェルズは温もりを分け与えるように近付いてその頬に触れた。
「…魔術兵団が君に術式をかけに?」
 ヴァルツが触れようとしていた頬に手を添えて、昼間にも話した件であったのかと問う。
 添えた手にわずかに重みがかかるのはミモザが頭をコウェルズの手に寄せたからだが、怯えるように見上げてくるだけで口を開こうとはしない。
 いや、唇は微かに開き、震えているか。
「…怖いなら後日に」
「…いえ…平気ですわ…侵入者は…ナイナーダでした」
 かすれる声が、部隊の名ではなく個人の名を出す。
 コウェルズやミモザ達の前で死んだはずの、しかし生きていた男の名を。
 コウェルズが思ったことはやはり魔術兵団であったという事実だが、
「ですが…」
 ミモザの言葉はまだ続き。
「ナイナーダは…魔術兵団としてではなく、個人的に私の元に訪れた様子でした」
 魔術兵団ではない、と。
 ただそこにナイナーダが籍を置くだけで、魔術兵団は関係がないと話すミモザの頬から手を離し、軽く肩を掴む。
「…どういう意味だい?」
 ミモザは侵入者に襲われたのだ。それがコウェルズの危惧していた魔術兵団でないなら、いったい何だというのだ。
 何があったのか詳しく話せと眼差しだけで睨むように告げれば、見上げてくるミモザの表情は今までで一番不安そうな頼りないものに変化し、涙が一気に溢れかえった。
「ミ--」
「お兄様…」
 大切な妹の涙に一瞬怯んだ隙をつくように、ミモザがコウェルズの胸元にすがりついてくる。
 最初は何が起きたかわからず、だがすぐに小刻みに震えるミモザを抱き締め返して。
 大丈夫だからと伝えるように優しく抱き締め、あやすように肩をたたいて。
 何かあった。
 何があった。
 気丈なミモザが泣き震えるほどの事柄とはいったい何だ。
 いくら頭を巡らせてみても思い付かないのは、コウェルズの頭もそれだけ思考回路が低下している為だろう。
 ファントムとの戦闘から今まで、眠らずに明日の出発に備えようとしていたのだ。
 その弊害がまさかこんな形で訪れるなど。
 コウェルズの温もりに包まれて、ミモザは本格的に泣き始める。
 声には出さない。だがぼろぼろとこぼれていく涙が、鼻をすする音が、震える肩がそれほどの恐怖を受けたのだと物語る。
 そして。
「…ナイナーダ、に…」
 泣きじゃくりながら、それでも何があったのか告げようとミモザは口を開く。
 声がくぐもっているのはコウェルズの胸に顔を埋めている為だけではない。
 コウェルズが今できることはミモザに安心感を与えて言葉を待つだけで。
「…---」
 ミモザの唇から何があったのかを聞かされる。
 それは従うはずの者が主人に行ってはならない出来事で。
 たとえ思いを抱いたとしても実現させてはならない願望を、ミモザはわずかな時間とはいえその身に受けてしまった。
 年下の婚約者との簡単な抱擁しか知らない無垢なミモザを、ナイナーダは汚れた手で押し倒したのだ。
 ミモザから何があったのか聞かされる度に、コウェルズの頭から血の気が引いていく。
 エルザの時とは違う。
 エルザをニコルに抱かせた時は、大切な妹の思いを成就させてやれるという思いが枷を落とした。
 国の為に、エルザの為に。
 だがこれは。
 ミモザの身に起きたことは、たとえわずかであろうが許されるものではない。
 いや、許すものか。
「…よく話してくれたね」
 話し終えたミモザの頭を撫でれば、腕の中で小さく頭を横に振られた。
 泣きすがる姿がどこまでも痛々しくて。
「…君を守るよ。たとえ少しの間離れてしまおうが、私の全てでね」
 大切な妹の為に。
 明日になればコウェルズはエル・フェアリアを発つ。だがそうなったとしても、決してミモザを危険な目に合わせはしない。
 コウェルズの言葉の中に含まれる冷徹な感情に気付いてしまったのか、それとも気付きたくないと心が否定したのか。ミモザがさらに身をよじりコウェルズにすがる。
 その華奢な体をさらに強く抱き締め返しながら、一気に脳内が冴えていく感覚をコウェルズは自分の内だけに感じていた。

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