第79話


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「ーーやだぁ!!返して!!」
 少女の声が悲痛に響き渡る。
 静まり返る広い廊下を裸足で駆け、寝間着の薄いドレスがはしたなく捲り上がるのも気に留めずに。
「返して!!お願い!!お父様ぁ!!」
 大きな後ろ姿にすがる瞬間、先にこちらに振り返った彼が、遠慮のかけらもない強い力で少女の顎を掴み上げた。
「うぅっ」
「父とは呼ぶなと言ったはずだ」
 禍々しいほどの闇色の赤い髪をなびかせて、ファントムは幼いガイアを片手で突き放す。
 その場に突き倒されても、ガイアは諦めなかった。懸命に立ち上がり、大きな背中に縋る。
 まだか弱い少女の歳を生きるガイアにとって、赤子の頃から共にいたファントムは父も同然だった。
 それでも彼が嫌がるから、父とは呼ばなかった。
 心の中で呼び続けていたのは、家族が欲しかったからだ。
 歪でも構わない。血が繋がっていなくても構わない。ガイアはずっとそばにいてくれるファントムを無条件に慕い、家族だと信じ続けていた。
 数年前、初潮を迎えた後に身体を求められた時も、家族としてさらに絆が強まるのだと信じて疑わなかった。
 そうして産まれたニコルと離れ離れにされた時も、自分が幼すぎて育てられないせいだと、苦しむ胸を押さえつけて我慢した。
 だけどあれから成長したのだ。
 なのに、ファントムはガイアからまた子供を離そうとする。
 乱暴に扱われて大泣きする赤子は、金の髪が柔らかく輝いて、天使のようなのに。
「お願い返して!!」
 泣きじゃくり、縋りつき、容赦なく倒されて、それでも何度も立ち上がって。
 もう赤ちゃんと離れたくなかった。
 ファントムとガイアを本当の家族にしてくれる大切な子供を奪われたくなかった。
 だから何度も立ち上がって、何度も縋るのに。
「わたし、もう育てられるから!!」
 呼び声は無視される。
「お願い!お願い!お願い!お願い!!」
 今まで、何だって買ってもらえて、何でも手に入れることができた。
 豪華なドレスも、煌びやかな宝石も、珍しいお菓子も、大きなぬいぐるみや素晴らしい人形も、ガイアが欲しいとねだらなくても、ファントムはガイアの視線から気付いて与えてくれた。
 なのに、ガイアが心から本当に欲しいものは奪おうとする。
「どうして!!」
 すがって叫んで、また張り倒された。
 頭から床に叩きつけられてゴツリと音が鳴る。
 痛みで気が遠退くが、すぐに回復して、また同じように縋った。
 もう二度と子供を奪われたくなかった。
「返して!返して!!」
 何度も何度も、喉が引き裂かれたとしても。
 叫んで縋る記憶。
 それは、ガイアにとって最初にニコルを奪われた時以上に心を引き裂いた、今まで消されていた記憶だった。


 目覚めた時、異様に心は落ち着いていた。
 自分に何が起きたのかもすぐに理解できた。
 慣れ親しんだベッドの天井を見つめながら、彼を思い出す。
 数年前にも再会していた、ガイアの記憶から消されていた子。
 絡繰り妖精は二度もガイアと我が子を引き合わせてくれた。名前も付けさせてもらえなかった我が子を。
 コウェルズとは、誰が名付けたのだろうか。
ベッドのすぐそばにロードの気配を感じていたが、ガイアはそちらに一瞬たりとも視線を向けなかった。
「…今回は記憶を封じなかったの?」
 見もせずに問いかける。
 ロードなら、何度でもコウェルズを産んだ記憶を消しそうなものなのに。
 わざわざ気絶させてでもコウェルズとの再会を邪魔しておきながら、どういう風の吹き回しなのかと考えてみれば。
「……覚えているのか」
 消したはずだと、消えそうな声が呟く。
 何と返せばいいのか。ロードの魔力が弱まっているわけでもないのに。
「覚えているわ。……それだけじゃない…カトレアのことだって」
 何もかも、ロードの記憶操作はガイアに掛かっていないと。
 息を飲む気配が聞こえた。
 ロードが動揺するなんて、カトレア王妃との過去を聞いた時と含めて二度目ではないだろうか。
 あの時からロードの様子は悲しいほどおかしい。
 カトレアの魂を持った生まれ変わりと出会ってしまってから様子はおかしいが、だからといってロードの魔力まで動揺しているわけではない。
 だというのにロードの魔術が効いていないのは、ガイアの心が折れなくなったからなのだろうか。
 詳しくはわからない。はっきりとわかっているのは、ガイアには記憶が残っているということだ。
「…ガイア」
「あなたが隠す最後の子供…私が産んだ子だったのね」
 芯の強い声は、もしかしたら今のロードには冷たい響きとなってしまったかもしれない。
 責めているつもりはなかったが、彼の口からも聞いておきたかった。
 静まり返る室内は、空気まで止まったかのようだ。
 それでもひたすらに待った。
 普段なら彼の逆鱗に触れたことで酷い折檻を受けただろうが、何も起こらないまま。
「……私とお前の子供だ」
 掠れた声が、ようやくガイアの欲しい言葉をくれた。
 サアァ、と数秒かけてゆっくりと頭が冷たくなって、記憶が鮮明に戻ってくる。
 赤子だったコウェルズを奪われて、心は日に日におかしくなっていった。それを食い止める為に、ロードはガイアからコウェルズの記憶を消した。
 子供を二人も奪われて、耐えられなくなった心の痛みが舞い戻ってくる。
 あまりに悲しくて、胸が太い爪で抉られたように引きちぎられる痛みを生み出す。
 それでもガイアは強く唇を噛んで我慢した。
「…なぜあの子を奪ったの?」
 今にも爆発しそうな心は、泣き叫びたいのか、それとも怒り狂いたいのか。
 ニコルだけでなく、コウェルズも奪った理由は何だ。
 我が子を抱きしめたかったガイアから奪った理由は。
「…クリスタルが身籠っていたことを知ったからだ」
 淡々と答えてくれるその言葉に、カッと頭が煮えたぎった。
「自分の実験の為にニコルを産ませて、その上自分の計画の為に子供を取り替えたの!?」
「…あちらの赤子は死産だった」
 それまで言葉だけを向けて、視線は許さなかった。
 だがあまりの言い草に、ベッドから強く起き上がる。
 怒りで呼吸が震えた。死産だったから与えたというのか。取り替えではないとでもいうのか。
「そんなことは理由にならないわ!!」
「死産になると分かっていた」
 睨みつけるようにロードを目に映せば、見返してくるロードの声に力が戻る。
 思わず黙ってしまったのは、迫力に気圧されたからではない。
「…ニコルは私の魂の欠片を持って産まれてくるかどうかの実験だった。だがコウェルズは、国の安定の為にお前に産ませた」
 続けられる説明には眉を顰めた。ニコルが実験の為に産まれ、魂の欠片を持たずに産まれたからガイアの手から引き離されたことはずいぶん昔に聞かされたことだ。
「いずれ私が戻る際に重要な役割を果たす者が必要だった。だがエル・フェアリアは間違った系統を許さない。……男児であれば、必ず死ぬと分かっていた。そしてエル・フェアリアでは、王族が最初に産むのは必ず男児だ」
「…何を言っているの?」
 ガイアにはわからない説明がされている。
 ガイアが聞きたかったのは、コウェルズを取り上げた理由だけのはずだ。
 なぜ王家の話をされなければならないのだ。
 なぜそんな、大きな話をするのだ。
「エル・フェアリアの王族にまつわる歴史文献を何度も読み返した。長い歴史の中、エル・フェアリアは代々長男が王座を守ってきた。もし何らかの理由で長男以外が王座を手に入れた時、産まれてくる男児はことごとく死産となった…正常に戻るまでずっとだ」
 ロードはガイアにすら、何を考えて行動しているのかを今まで話しはしなかった。
 ただ彼が手に入れるはずだった王座を取り戻せば、恨みの呪いも解けて終わるだけだと思っていた。
「呪いだ。私達が死なぬ身体となった呪いと同じ類の、な」
 こんな難しい話など、今まで誰にも話さなかったではないか。
「……あなた自身の呪いではなかったの?」
「最初はそうだと思っていた。だが違った。私が私自身の魂に刻んだ呪いは、不老だけだった。不死となった理由は…国の呪いだ」
 難しい言葉を何とか理解しようとして、前のめるように身体を寄せて。
「…国の呪い?」
 ガイア達が身に受けた呪いは、不老と不死の二つだ。
「お前達に古代の宝具を使いこなせるよう指示したのは、それを同時に使ってようやく国の呪いが解けるからだ…呪いを解くまでは……デルグが王である以上、男児が死に続けただろう」
 初めて聞かされた内容。まるで王家すらも呪われているかのような。
「……だからってどうして私の子供を私から奪うのよ!?」
 突然伝えられた訳の分からない説明に頭を抱えて、全てを否定するように叫ぶ。
 どんな説明も、ガイアの心を癒してはくれないだろうから。
「時が満ちるまでは、デルグに王座を守らせなければならなかった。だがあれは弱い。クリスタルが弱体化している以上、死産を続けさせればデルグ自身が病むことはわかりきっていた。万が一デルグが死んでもいいように、男児が必要だった」
 どんな説明も、心を落ち着けてくれることはない。だが、こんな説明があっていいのか。
「知っていたの?クリスタル王妃は…コウェルズが自分の子供じゃないと」
 自分だけが知らないなどと。
 コウェルズを産んだガイアだけが知らないなどと。
 声が弱々しく震える。
 怒りなのか、悲しみなのか、絶望なのか、何なのかわからない感情が胸から全身を支配しようとする。
「…ああ。クリスタルにだけは、全てを話した。その上で、女児だけが産まれるよう身体に操作もしておいた」
 ロードの説明は、彼ではないと思うほど素直に全てを教えてくれた。
 クリスタル王妃が二度と我が子の死産で苦しむことのないように。
 その上で、クリスタルはロードとの間にリーンを産んでいる。
「私は…私の子供は奪っておいて…クリスタル王妃には育てることを許して…私の子供まで与えたというの!?」
 ガイアの記憶を奪って、こんなにも苦しめて。
 クリスタル王妃は、ロードがファントムになっていなければ、結婚していた可能性の最も高い女だ。
 もしロードのままいられたのなら、ロードと共に幼くして国を導いた、産まれながらに尊い存在。
 ガイアはニコルとコウェルズを奪われて、彼女はリーンだけでなくコウェルズも与えられたのか。
 死産した息子の代わりに。
 多くの愛娘に愛されながら、ロードの慈悲すら手に入れたのか。
 それだけではない。ニコルも。
 ニコルが騎士となってから数年間、クリスタル王妃が亡くなるまでの間。
 きっと彼女は、ニコルとも会話をしていたのだ。
「……出ていって」
 涙が溢れ始める。
 悔しくて、胸が軋んで苦しめてくる。
「出ていって!!」
 なぜこんなにも惨めな思いをしなければならないのだ。
 ロードの最も傍にいたのはガイアのはずなのに、なぜガイアではない別の女を優先して、コウェルズをもガイアから取り上げて向こうに与えるのだ。
「…お願い……一人にして」
 か細い声で拒絶すれば、ようやくロードは静かに離れていく。
 何の言い訳もせず、何の優しさも見せず。
 巨大な飛行船である空中庭園に、まるでガイアだけが取り残されたかのような静けさ。
 あまりにも美しい船は、今はまるで廃墟のように虚しい。
 ガイアの心を映したかのようだった。
 見た目だけ彼の好みに飾られて、心は切り捨てられて。
 なぜ自分ばかりが奪われなければいけないのだ。
 深い悲しみが視界を滲ませ続け、ガイアの瞳すら奪おうとしているかのようだった。
 溢れ落ちていく涙を拭うこともしないまま、自分という存在がいったい何なのかを心に自問し続ける。
 ニコルは奪われた。
 コウェルズは産んだことすら記憶から消された。
 ようやく手元に許されたルクレスティードは、ロードの魂の欠片を持って産まれてしまった。
 千里眼を持って産まれてしまったせいで、命じられるままあらゆる醜い世界を幼い頃から見続けて。
「もう…無理よ……」
 呪いが、ガイアから多くの喜びを奪った。
 ロードの心すら自分には無いのだと。
 ロードの様子を一変させるほど想われていたカトレア。ロードに子供を許されたクリスタル。
 なぜガイアだけが我慢しなければならない。なぜ真っ当に愛されない。
 怒らせないように、不愉快にさせないように、ひたすら顔色を窺って生きてきて、それでも彼のそばにいたのは、彼の一番は自分であると思っていたからなのに。
 所詮自分は、魂の欠片を持って生まれた一人にすぎなかったのだ。
 そう、心が打ちのめされる。
 もう無理だと、心がまた呟く。
 ポロポロとこぼれ続ける涙をそのままにして、胸の奥がスゥ、と凍えていく感覚に感情すら冷え切って。
「……………」
 ゆっくりとベッドを降りる。
 闇色に染まる心とは裏腹に、空はまだ明るい。

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