第79話
第79話
不思議な夢を見た。
ラムタルの王城で、見知らぬ美しい女性と突然出会う夢を。
今まで見たこともないほどのあまりの美しさと、じわりと心に広がった懐かしさ。
でも、階段を踏み外してしまって、コウェルズは女性の目の前で盛大に転がり落ちてしまったのだーー
「ーー…」
夢は夢でも過去の記憶。
目覚めたコウェルズは、自分が今まで見ていた夢を思い出して、盛大にため息をついた。
あの過去はコウェルズにとって黒歴史の一つだ。
階段から転がり落ちた先に、共にラムタルに訪れていたエル・フェアリア騎士団がいたからだ。
悪戯が好きで、同時に格好もつけたがる年頃だったからこそ、受け身も取れずに派手に転がり落ちた姿はいまだに消したい記憶の最上位だ。
騎士達は最初こそコウェルズを心配したが、無事だとわかるとニヤつく頬を無理やり引き締めていたのを目撃している。
そんな恥ずかしい過去を、なぜ夢で見たのか。
「…綺麗な…女の人?」
出会ったのは、とても綺麗な女性だった気がする。
だが記憶が曖昧で、顔をはっきりと思い出すことはできない。消したい記憶は、あの女性の顔だけを消してしまったのだろうか。
「……」
考えるのも面倒だとベッドから上半身を起こせば、嫌な頭痛に眉を顰めた。
軽い二日酔いに、ベッドのそばに用意されていた水をすぐ飲む。
用意してくれたのはジャックかダニエルか。
こういう気の利かせ方はダニエルの気もするが、昨夜コウェルズを待ってくれていて、話をしたのはジャックだ。
もう一杯水を飲もうと冷水筒から水を移せば、安定的にかなりの量が溢れた。
この辺りの不器用さはどうにかしたいものだが、今は寝起きなので仕方ないだろうと自分を肯定しておいた。
時刻は昼前で、ダニエルの書き置きには全員で訓練場にいると書いてある。
誰もいないので着替えも何もかも自分でしなければいけないのが面倒だったが、響く頭痛を我慢してのろのろとした動作で何とか着替えまでは頑張った。
寝室から出れば、談話室にはいつから待機していたのか四羽の鳥達が行儀良くコウェルズを待っているところだった。
一羽の伝達鳥と、三羽の護衛の鳥。
鳥達の装備が丁寧に外されていたので、長い間待ってくれていたのだと悟った。
「待たせたね」
コウェルズの呼びかけに伝達鳥は手紙の入った筒を礼儀正しく向けてくれるから、優しい手つきでそっと手紙を受け取った。
何も書かれていない手紙。
己の目に術式を宿せば、金の瞳に赤が灯り、手紙の内容をコウェルズに伝え始めた。
エル・フェアリア国土に変わりはない。
だが、城内は違う。
コウェルズが王城内で気にしていることはいくつかあった。
一つはサリアの体調の変化。こちらは何もなく健康そのものだそうだ。
ミモザも変わりなく過ごせている様だが、気丈な妹が強がっていないことを願いたい。
そしてエルザは。
ニコルに別れを告げられたエルザ。
ニコルはアリアと共に数日の休暇と称して城下に降り、エルザは部屋にこもってしまっているとある。
やはり間違いではなかったのかと、ため息をひとつ付いた。
人の心とは難しいものだ。
昨夜コウェルズは、友情だなどと人間臭いラムタル王に勝手に落胆した。
それはラムタル王バインドのことを、コウェルズの頭の中で勝手に越えられない壁だと位置付けていたからだ。
しかし実際は違った。
コウェルズの知らない彼を目の当たりにして、目標にすべき憧れは消え去った。
心変わりはいとも簡単に訪れる。当人の思いも相手の思いも置き去りにして。
ニコルもそうなのだろうか?
エルザに思いを抱いていたのは確かのはずだ。それが、昨夜のコウェルズのように何らかの形で崩れたのだろうか。
もしそうなのだとしたら、エルザにはあまりにも残酷だ。
エルザは、七姫達の中で最も純粋だから。
どうすればニコルの心がエルザに戻るのだろうか、考えて、自分に当てはめる。
どうすればコウェルズの心はまたバインドを尊敬の対象として見るのだろうか。
考えて、もう前のような気持ちは持てないと自覚して。
この気持ちが他の人間と同じだとするなら、ニコルの心もエルザには戻らないのだろう。
嘘ならいくらでもつける。
だがエルザから逃げることがどれほど自分の城内での立場を悪くするか分からないニコルではないはずた。だというのに、それでも嘘をつき続けることより離れることを選んだというなら。
ため息は自然に深く沈んだものとなった。
どうにかしてニコルをエルザの元に戻したいと思うが、やり方がわからなくなってしまった。
エルザはニコルを忘れられないだろうから。
エルザには申し訳ないが、コウェルズがラムタルにいる以上ニコルと話は出来ない。
戻るまでに少しでも解決すればいいのだが、それも難しいだろう。
新たな問題を抱えたことにもう一度深いため息をついて、コウェルズは手紙に簡単な術式を込めた。
ミモザにだけ把握できるよう、術式に脳内から文字を注ぐ。
とはいってもコウェルズから何か命じることはほとんど無いので、エルザが落ち着けるよう頼むと簡単な返事しかできなかった。
手紙を伝達鳥に持たせて、装備を一羽ずつ丁寧に取り付けてやって。
魔力で簡単に装着できるタイプでよかった、とは自分自身の心の声だ。不器用な自分のせいで鳥達の羽をもぐような可哀想なことはないのだから。
鳥達は装備を装着し終えると、陣形を組んで空へと一気に飛び上がっていった。
すぐに小さな粒となってエル・フェアリアに戻っていった鳥達を見送って、コウェルズも部屋を後にする。
皆のいる訓練場に行くつもりだが、まずは空腹を満たしたい。
呼べばラムタルの侍女が何かしら持ってきてくれることはわかっていたが、食堂に向かうことにしたのは気分転換の為だった。
政務に関することなら簡単なのに、身近な者の心のことになるとなぜこうも難しくなるのだろうか。
今も泣いているのだろう可愛くて可哀想な二番目の妹を思いながら、豪華な廊下を曲がって。
「----!?」
違和感は、足元から訪れた。
突然段差が出現して足を取られる。
思わず手を伸ばした先にあったのは、廊下にはあるはずのない階段の手摺りだった。
ーー何が起きた?
視界が移り変わった感覚もないのに、目の前の景色が全て変わっていた。
意識して思い出さなければ気付けないほど自然に溶け込んだ違和感。
自分のいる場所が、数秒前とは明らかに違う。
この感覚をコウェルズは知っている。
何年も前に経験した、有り得ない体験。
ーー絡繰り妖精の悪戯…
かつてコウェルズは妖精の悪戯によって、美しい人と出会った。
その人は
「…………」
手摺りを掴んだまま、コウェルズは顔を上げる。
階段を上りきったその先に、彼女はいた。
ラムタル城の豪華なステンドガラスから入る光を一身に受けて光り輝くような彼女は、コウェルズの過去に出会った美しい女性と酷似していた。
癖のついた銀の髪が、光を浴びてさらに白銀に輝く。
艶やかさを際立たせるマーメイドラインの黒のドレスを纏うというのに、妖艶さよりも清廉さが勝るほど、美しすぎる壮大な絵画を眺める気持ちを抱かされた。
そしてその顔立ちは、コウェルズが忘れてしまっていた過去を鮮明に思い出させた。
あまりに美しすぎて、言葉が浮かばない。
今まで見てきたどんな女性達よりも、妹達よりも、はるかに美しい容姿を持っていた。
だというのに、心に芽生えるのは妙な懐かしさだ。
まるで大昔から彼女を知っているような。
「……あの」
話しかけようとして、残り数段だけを上りきって。
コウェルズを見て、彼女は全身に稲妻が落ちたかのように全身を硬直させ、表情を強張らせた。次の瞬間だった。
光を浴びていた銀の髪が、魔法が解けるかのように闇色に変化していく。
コウェルズを凝視する瞳も藍の混ざる闇色へと変わり、彼女は強張っていた表情を息苦しそうに歪めた。
突然何だというのか。
驚いてしまい身動きがとれなくなったコウェルズに、彼女は彷徨うように一歩近付こうと手を伸ばしてーー
一瞬が永遠に変わるような、突然の連続。
コウェルズの目の前で、手を伸ばしてきた彼女が身体の力を無くしたかのように倒れ込み、思わず駆け寄ろうとしたコウェルズより早く、何者かが闇色をコウェルズの視界一杯に広げながら倒れる彼女を抱き寄せた。
いったい何が起きたのか。
瞬時に情報を処理しようと脳内が凄まじい速さで動き、彼女を抱き寄せた存在を目に映して、何かが脳内で繋がった。
「……ファントム」
思わず呟く、その男の仮の名。
コウェルズの視界に広がった闇色は、彼の長い髪だった。
夜に広がる血溜まりのような、闇色に混ざる赤。
ファントムが大切に抱き寄せた彼女は、その腕の中で穏やかとは程遠い表情のまま気を失って。
「ーー待て!」
コウェルズを見向きもせずに去っていくファントムの背中を追うが、彼は現れた時と同じように忽然と目の前から消え去ってしまった。
静まり返る気配が、ここにコウェルズしかいないことを物語る。
何もかもがまるで白昼夢のようにコウェルズの感情を置き去りにして消え去ってしまった。
夢でも見ていたのか?そう思ってみても、コウェルズがいた客室からここまではあまりにも遠い。
動揺するコウェルズの背中に新たな気配が触れたのは、ファントムを探すか階段を降りるかと迷った時だった。
ゾクゾクと恐怖とは別の妙に艶かしい感覚を背中に味わい、無意識のように振り向く。
振り向いた先は階段の踊り場で、見下ろすその場所にいたのは。
「……君は」
ラムタル城に到着した際に、闇色の青と共にいたラムタルの侍女の少女が驚いたようにコウェルズを見上げていた。
あの時は睨みつけるような眼差しをコウェルズに向けていたが、今は不意打ちを喰らったかのように目を丸く見開いている。
しかしその眼差しが憎しみに変わるのはすぐだった。
その眼差しは、捕らえたエレッテがコウェルズに向けたものによく似ていた。
エル・フェアリアを恨むような、コウェルズを恨むような。
だが少女の髪と瞳の色は闇色などではなく、淡い薄桃色だ。
細すぎる身体は非力に見えるほどあまりにも薄いというのに、憎しむ力は果てが無いように深そうだ。
「……ファントムの仲間なのか?」
隠さずに問いかけた瞬間に、少女はくるりと踵を返して階段を駆け降りていった。
だが早くはない。
「止まれ!」
追いかければ追いつける速さに、コウェルズは数段飛ばしで階段を降りて一気に少女との距離を詰めていく。
振り返りもせず一目散に逃げる少女の背中がみるみるうちに近付いて、その肩に手が届く寸前で、少女はするりと開いていた扉の中に入り込んでしまった。
突然の方向転換に足を取られた間に、少女が強い力で扉を閉めてしまう。
コウェルズでも大きすぎる扉が勢いよく閉じて、静かな辺りに大きな音が響き渡る。
「……」
扉を開けるより先に、辺りを見回した。
驚くほどの静寂さは異様だ。
エル・フェアリアの王城にも同じような場所がある。
人の出入りを極限まで減らした場所が。
そういった場所にあるのは、国が隠さなければならないほどの秘密だ。
そんな場所に、少女は入ることを許されている。
絡繰り妖精の悪戯によって訪れたこの場所でかつての美しい人と出会い、ファントムを見つけた。この状況で少女を逃すことはできない。
緊張が全身を襲おうとするのを振り払って、扉に手をかける。
少女は何者なのか。
ファントムと繋がるのか。
リーンの居場所を知っているのか。
一人で全てを背負うなという、ジャック達の言葉がふと脳裏に浮かぶが。
今は、コウェルズ一人きりだから。
扉に手をかけ、暗い部屋を見渡す。
罠か、それとも逃げたのか。
一歩ずつ慎重に足を進めて。
何者かの気配がコウェルズの腹部に飛び込んでくるのを、いっさい気を抜くことをせずに全身に感じ取った。
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