第78話
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深い眠りから目覚めたモーティシアは、普段ならすぐにベッドに座るというのに今日に限ってはボウっと天井を眺め続けてしまった。
起きた瞬間から、なぜこんなにも身体が気怠いのか、なぜひどく疲れて眠いのかを悟る。
隣では、マリオンが子猫のように丸まって眠っていた。
モーティシアと壁に挟まれた、裸のマリオン。同じようにモーティシアも服を着てはいない。
昨日から何度も何度も肌を重ね続けた。
まるで馬鹿のように、淫らに鳴くマリオンを求め続けて、マリオンからもせがまれ続けた。
途中から理性など完全に消え去っていた。
快楽は進むにつれて激しさばかりを求めたのだ。
自分にこれほどの体力があるなど知らなかった。
思い出して、苦笑する。
モーティシアが眠っていた時間はわずかだろう。おそらく小一時間ほどか。
呆れるほど疲れ果てて気絶するように眠りについたはずなのに、慣れた体は普段とほぼ変わらない時間に目を覚ました。
ひどいだるさと睡魔は残るが、頭の中心はシンと冴えている不思議な感覚。
そっとベッドから離れようと身を動かせば、マリオンは眠ったままモーティシアの腕にすがりついてきた。
力は弱々しい。だが弱々しいからこそ、その小さな身体の柔らかさが鮮明に思い出された。
どうすれば離れるのかと考えて、数秒悩んでから、マリオンの頭をそっと撫でてみる。
愛おしむように撫で続けると安心したのか、マリオンの腕の力も消え去った。
改めてそっと抜け出して、ベッドに眠り続ける姿を目に留めて。
王城に戻るまでまだ時間はある。
だが今後ここに戻れる時間は少ない。
せめて何がどこにあるかを書き留めておこうかと歩き出したところで。
「…モーティシアさん…」
かすれた呼び声は、いともたやすくモーティシアの足を止めた。
「……おはようございます。身体は平気ですか?」
止まった足は、ごく自然にマリオンの元に戻った。
ベッドに座り、身を起こそうとするマリオンを優しく止める。
だというのにマリオンは、モーティシアが離れることを恐れて身を寄せてきた。
もう少しでモーティシアがいなくなることを分かっているのだ。
「怖がらないでください。身の安全は必ず約束しますよ」
「…心は?」
安心させたかったのに、返された問いかけに戸惑った。
「ここが安全でも…私は怖いの!」
昨夜はただひたすら恐怖を誤魔化し続けてきたマリオンだったが、少し眠って頭が冷えた様子だった。冷静になれたといっても、心を強く保つことはできない様子だったが。
「…どうしてここに連れてきたの?」
小さな呟きが、モーティシアの胸を苦しく責める。
何も返すことが出来なかった。
マリオンの身を守るなら、この家以上の場所は無いと断言できる。現に遊郭ではマリオンを襲った男の侵入が確認されているのだから。
すり寄っていたマリオンが顔を上げて、不安に眉を強くひそめていた。
その表情がマリオンの心を告げてくる。
この場所より遊郭街の方が危険だったとしても、心を安心させてくれる全てがあちらにはそろっていたと。
「…モーティシアさん…」
なおも不安げに見上げてくるマリオンを、強く抱きしめた。
モーティシアには、マリオンの心を誤魔化すことしか出来ないのだから。
その場しのぎの温もり。
マリオンの身体は、恐怖を示すように冷えていた。
その事実がひどくモーティシアの胸をえぐる。
あれほど求めておきながら、あれほど好意を見せておきながら。
今さらモーティシアでは駄目だというつもりなのか。
「……あなたは」
言葉にしてしまいそうになって、寸前で飲み込む。
かわりに、モーティシアからマリオンの唇を塞ぎ奪った。
冷えた唇はモーティシアからの口付けに驚いて固くなるが、すぐにほだされるように柔らかくなり、どちらともなく舌が交わり始めた。
あと少ししかない時間。
マリオンは不安な心を、モーティシアは募る不満を。
互いに誤魔化すように、ベッドは再び軋み始めた。
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露店街は、ニコルが思っていた以上の人の数があった。
王城から城下町に降りた時にアリアと通った道とは違い、本格的な外国の雑貨や飲食の露店が立ち並ぶ。
本通りと呼ばれる道まで案内してくれたのはテューラだった。
ニコルも騎士となってから七年近く住んでいるというのに、城下町に降りたことは数える程度しかなかったので先導するはずがされる側だ。
離していた手は、人の多さとテューラの喜ぶ笑顔に自然とまた繋がった。
雑貨はほぼ眺める程度。途中で買った串焼きの猪肉は二本買ったがテューラは一口しか食べず、あとは全てニコルのものとなった。
果実酒で有名なブラックドラッグ家の新作の酒は二人で分けて飲んでみた。ブラックドラッグ家は第六姫コレーの護衛部隊隊長であるトリックの実家だと初めて知った。これもまたテューラから自慢げな説明だ。
知らないことが多いのか、知ろうとしなかっただけか。
ニコルは何かひとつくらい買ってやると告げたが、テューラは雑貨を眺めはするが、あれでもないこれでもない、と妙な厳選を続けて。
進む先々で、ニコルとテューラは目立った。
テューラがとても喜んだドレスは本当に娘達の間で有名なデザイナーのドレスらしく、美しく着こなすテューラを羨ましがる視線が途切れることはなかった。
ニコルの服は有名デザイナーの製作というわけではないはずだが、上手くテューラと横並んでも遜色ない素材ではある。
そして二人自身が。
娘達から、男達から注がれる視線は、ニコルかテューラのどちらか単体ではなく、二人一組で見つめられていた。
まるで似合いの恋人同士を羨むような、羨望の眼差し。
ニコルの目から見ても、清楚で美しいドレスを着た品のあるテューラが無邪気に笑う姿はとても魅力的だった。
アリアに向けた邪な思いとも、エルザに感じていた胸の内とも違う、完全に別物の感情。
上品なだけではない。気が強いだけでもない。思いやりも、気配りも、そして守りたくなるような弱さも。
「…なあ」
歩みを止めた場所は、小さな噴水が七つ点在する広間だった。
一つ一つは小さな噴水。だが虹を象り、まるで夢物語に紛れ込んだかのようだ。
ニコルが足を止めれば、繋がれた手のおかげで必然的にテューラも止まる。
テューラは首を傾げてニコルの言葉を待つが、心臓が早鐘のように鳴り響き、吐き出す息が小刻みに震えてしまった。
こんな感情を女性に向けるのは、何年ぶりなのだろうか。
「……お前といると…なんか楽しい」
ようやく音に出来た言葉は、自分で思う以上に根性のないものだった。
どちらにも逃げ道を残す言葉。まるで独り言だ。
「…ふふ…何それ」
案の定テューラも笑うだけだった。
笑ってくれる。
ただそれだけ。
「……そろそろ戻りたい…かな。マリオンのことで何か進展あるかも知れないから」
繋がれた手。だが身体は、互いを気にするように少し遠い。
「…そうだな。送る」
「うん…ありがと」
気まずくなってしまった空気を誤魔化すように、無言のまま歩みを再開する。
向かう場所は遊郭街。
ふとテューラが手を離そうとしたから、気付かないふりをするように、その手を離さなかった。
結局テューラは、物として残るものを何も選ばなかった。
選んでいる様子を見せながら。それはまるで、ニコルの胸中に宿った想いを成就させないかのような。
歩くには離れすぎている場所まで徒歩で向かう道すがら、考えたのは夜明けにテューラがニコル達の寝泊まる個人邸宅区画まで歩いてきていたことだ。
遊郭街からその場所まではさらに遠い。
いったいどんな気持ちで一人で歩いたというのだろうか。
今の時間帯でこそ大衆用馬車がいくつも通って活気に溢れるが、夜明け前など静まりかえっていたはずだ。
手を引きながら、露店街の喧騒すら消え去るほど静かに進んでいく。
歩調はとても遅く、数十分かかる距離をさらに時間をかけて進んだ。
その間テューラも何も話しかけてくることは無くて、それがまたひどく胸を締めつけた。
エルザを前にした時とは別の苦しみだ。
絶望とは違う、寂しいような悲しみのような胸の痛み。
「……送ってくれてありがとう…せめて飲み物くらいお礼させて」
ようやく聞けた言葉は、別れの時間が近いと示していた。
ゆっくり進んだはずの歩みも、時間の流れには逆らえなかった。
到着した遊郭街で、テューラはさすがに強く腕を振り離す。
何事もなく自分の妓楼に向かうテューラとその後に続くニコルのさらに後ろで、何人かの気配が音もなく様子を探っていることに気付いて。
恐らくは遊郭街の用心棒達なのだろうと気にすることはやめて、大人二人分ほどの距離を開けたままテューラの後に黙ってついて歩いた。
「ここから入って」
辿り着いたのは遊郭街でも中央に近い妓楼で、正面の広く美しい玄関ではなく裏口に案内される。
初めてこの場所に来た時は眺める暇などなかったが、改めて見ると壮観だった。
他の妓楼よりもシンプルだが、品の良さは細部にまで行き届いている。
少し迷路じみた通路を抜けて、中に案内されて。
裏口から入った内部は業者用の納品口となっているのか、広間のような空間だった。
そこに慌てた足音と共に男が現れた。
「ーーテューラ!無事か!?」
「楼主!」
親密そうに、テューラは楼主の元に向かっていく。
楼主はテューラの無事を確認すると、気が抜けたように力無く笑ってみせた。
「何も言わずに出てしまい、すみませんでした…」
「……無事ならいい。戻ったことは俺から王婆達に伝えておくから、落ち着いてから改めて自分で謝罪に向かいなさい」
「はい」
ニコルにはわからない内側の話をして、楼主が改めてニコルに頭を下げる。
「騎士団のニコル様ですね。テューラを保護してくださり、感謝いたします。丁寧に連絡までくださったので本当に助かりました。ありがとうございます」
「…いや、俺は…」
テューラと親しげな様子を見せられて胸に浮かんだ苛立ちに似た感覚が、丁寧なお礼の言葉を受けて戸惑いに変わる。
「お礼をしたいから、部屋に連れて行ってもいいですか?談話室だと他の子達が煩くなりそうだから」
「構わないよ」
楼主はニコルが中に入ることを快く受け入れてくれて、テューラに導かれるままにさらに奥へと足を進めた。
辺りを見回しながら階段を登って、また歩いて。妓楼内はとても静かで、城内とは違う浮世離れした美しさがあった。
例えるなら、夢の中、なのだろうか。
全ての壁と天井が薄いレースで覆われて、柔らかな世界観に包まれる。
その中を進むテューラは、今まで見てきたどんな娘よりも美しく見えた。
「お昼前でまだ眠ってる子もいるから、静かにね」
妓楼内が静かだった理由を小声で教えてくれながら、テューラが等間隔で並ぶ扉の最奥を開けた。
「…私の部屋。入って」
誘われるまま、花の香りに包まれた部屋に足を踏み入れた。
部屋の広さは王城に充てがわれたニコルとガウェの部屋より少し狭いくらいだろうか。
一人で使うには広々とした空間には女性らしい家具と鏡台があり、ベッドは出窓のついた壁際と隣接している。淡い桃色をベースにした部屋で、ここもまた夢の中のようだった。
テーブルと椅子はあるのだが、部屋の中央に敷かれた毛の長い円形絨毯の上にクッションが置かれていた。
普段はここに直に座ったり寝転んだりしているのだろうか。そんなことを想像させるような。
「適当に座ってて」
テューラはコートを脱ぐと丁寧に上着掛けに干し、勝手知ったる自室でお茶の用意を始めてくれる。
どこに座ればと見回して、結局選んだのは絨毯の上だった。
無意識にクッションを腹に引き寄せて、あぐらをかいてボーっとテューラの背中を見守る。
準備ばかりするテューラは全然ニコルの方を向いてくれなかったが、気にせず眺め続けた。
ーーどうして?そんなに生き生きしてる兄さん、王城じゃ見られなかったよーー
ふと朝にアリアに言われた言葉が蘇る。
アリアが言うのは、女性関係に関することなのだろう。
イニスの件に始まり、ガブリエル、そしてエルザ。
どれもこれもニコルには苛立ちと逃亡の要因で。
しかし目の前にいるテューラには、自ら進んで傍にいたいと確かに思った。
「おまたせ」
ようやく準備を終えてこちらに目を向けたテューラは、ニコルが絨毯でくつろぐ姿に吹き出した。
「ふふ、なんでそこなのよ」
「適当に座ってろって言っただろ」
「何のために椅子と机があるのよ」
おかしそうに笑いながらも用意した盆をニコルの側に持ってきてくれる。
花柄のティーポットと、同じデザインのカップ。茶菓子も花型の砂糖菓子だった。
「まあ、私もくつろぐ時はここなんだけどね」
やはりテューラも絨毯の上がお気に入りだった様子で、お茶の注ぎ方も手慣れていた。
「…今日は本当にありがとう。こんなお礼しかできないけど」
「いや、充分だ」
改めて感謝されるが、ニコルが出来たことなどたかが知れている。
本当に感謝されるべきは機転を利かせたビデンスとネミダラなのだろう。
「…ここに住んでるんだな」
「うん。向かいの扉が仕事部屋と繋がる階段でね、すぐ行き来できる感じ」
隠さずさらりと告げられて、思い出すのはテューラを味わった部屋だ。
たしかそこは一階部分だったはずで、ニコルはこの部屋に訪れる時に三階まで上がった記憶を思い出す。
「向かいが階段ってことは、二階もあるのか?」
「そうよ。階段で降りた二階部分に準備用の小部屋があって、お洋服とかもほとんどそこに直してあるの。みんな物置にしてるわね」
一人一人に部屋が割り当てられているというのは、おそらくかなりの高待遇なのだろう。
「隣がマリオンの部屋なんだけどね、あの子ったら、疲れて二階の部屋で寝ちゃうことも多かったのよ」
思い出してクスクスと笑って。
隣がマリオンの部屋なのだというなら、静かになった現実はさらにテューラを悲しませたことだろう。
「…楼主が何も言わなかったから、マリオンの情報もまだ何もないんだろうね」
「…昨日起きたことなんだろ?…もう少し待ってみろよ」
「……うん」
悲しそうに、不安そうに。
テューラはもう泣きはしなかったが、懸命に口元だけでも笑おうとする姿が健気でつらかった。
「俺に出来ることあるなら、何でも言えよ」
ニコルに出来ることは、テューラが安心するような言葉を伝えるくらいだ。
そんなものが心を支えるなど思わないが。
「…嬉しい。あなたはさっき、私といると楽しいって言ってくれたけど」
照れたように笑って、ニコルを見つめてきて。
「私は、あなたといると落ち着く」
言われた瞬間、あまりの愛おしさに理性が一瞬吹き飛んだ。
抱きしめようと動いたが、なかなか強い力で静止されて理性が戻ってきた。
「…なんだよ」
ブスッと不貞腐れて不満を告げれば。
「…えっと…ドレスがシワになるのだけは嫌…」
「なんだよそれ!」
ここまできて女の子の憧れだとかいうドレスに邪魔をされるのか。
ニコルの好みのドレスだというのに、今は憎らしかった。
「そんなにシワになるのが嫌なら脱げよ」
「…あんた、そういうとこサイテーよね」
一気に不満顔を向けてくるが、ニコルの方も言いたいことは山ほどあるのだが。
何かひとつくらい言ってやろうか、そう思ったが、あ、とテューラが何か思い出したように真顔になる方が早かった。
「……どうしたんだ?」
「…服、置いてきちゃった…」
どうやらようやく思い出したらしい。
着替えた為に脱がれた衣服は、忘れられてニコルの部屋だ。
「…まだしばらくは城に戻らないから、持ってきてやるよ」
ニコルはテューラが衣服を忘れていることに気付いていたが、また会える可能性に気付いて伝えなかった。
「…そういえば、お城から出て平気なの?あなたはともかく、妹さんはお城の中で保護されてるんでしょ?」
「色々あってな。俺もアリアもずっと休み無しだったから、休みをもらえたんだ」
「そうなんだ」
本当のことは伝えず、嘘も言わずに。
テューラはそれなりに情報は持っている様子だったが、深くは知らないらしく納得してくれた。
ファントムの襲撃以降、城内に勤める者達がほぼ休日返上であることは城下町に住む者なら皆知っていることだ。
「…じゃあ、またあなたに会えるんだね」
納得したテューラは少し考えてから、忘れた衣服のお陰でまた会えることを恥ずかしそうに喜んでくれた。
「……やっぱりその服脱がないか?」
「……何考えてるかによる」
思わず口にしてしまった本音に、テューラが子供一人分ほど後ろへ離れた。
しばらく互いの隙を窺うように見つめ合うが、それも長くは続かずにどちらともなく吹き出して。
「やっぱり着替えるわ。すごく可愛くて着ていたいけど、借り物なんだものね。汚したくないし…いつか自分で買う」
「買えないのか?」
「有名デザイナーだもの。貴族がお金の力で優先権を持ってっちゃうわ」
ニコルにはわからない仕立て屋の事情に、そんなものなのかと首を傾げて。
「着替えるから、あっち向いてて」
「…そのドレスのリボン締めてやったの俺だぞ?一人で脱げるのかよ」
脱ぐなら人の手が必要なはずだと不敵に笑うが、極上の笑みで返された。
「舐めんじゃないわよ」
腰の位置で硬く結んだリボンを、テューラは手を背中に回すだけで器用にほどいた。
「あっち向いててよ」
くるりと背中を向けて、衣装棚から衣服を見繕い、後ろを気にすることなく着替えを始めてしまう。信用しきっている様子だが、ニコルは目を離さなかった。
自覚はした。
彼女への想いを。
そして彼女が何の仕事をしているかもわかっている。
警戒心もなく背中を向けて白い肌を見せるテューラは、今後もその肌を他の男に差し出すのだ。
それが我慢ならなかった。
「ーーちょっと!」
立ち上がって、近づいて、その後ろ姿を抱きしめた。
テューラは突然抱きしめられたことに怒りを見せるが、それでも離しはしない。
直接感じる柔らかな肌を味わうようにさらに抱きしめて、細い首筋に顔を埋めた。
「ニコルさん!離して!」
「…一日でいくらなんだよ」
「は?」
金額を尋ねられて、テューラの声に本気の怒りが交ざる。
「あんた、何考えてそれ聞いてくるわけ?」
この状況で、金額を尋ねられて。
馬鹿にされたと考えるのは当然だろう。
それでもニコルは離さなかった。
「誤解すんな…お前の時間、俺が全部買うって言ってんだ」
抱きしめて、さらに痛感した。
「お前が客と会うとか考えたくない」
下着姿のテューラを無理やり振り向かせて、唇を合わせる。
テューラも逃げはしなかった。
だが唇に反応を見せない。何度啄ばんでも、まるで人形を相手にしているかのように。
ニコルばかりがテューラを求めて、ゆっくりと離れる。
「…本気で言ってるわけ?」
信じていない眼差しで、返答次第ではすぐに拒絶しそうな顔。
色恋に慣れた彼女は、簡単にニコルの腕に落ちてはくれないのだろう。
「騎士達ってね、私たちには口が軽いの。どうしてかわかる?私たちが簡単には他者に情報を漏らさないからよ」
テューラが完全にニコルの手からすり抜けた。
「あなたはエルザ姫様と恋仲だと、聞いたのはつい先日だったわ」
その言葉に、吐き気のような気持ち悪さが込み上げる。
「…大丈夫?」
顔色も悪くなったのだろう。声が心配するものに変わる。
騎士達はこんなところでまで言いふらすのか。それを思うと苛立ちが加速するようだった。
おぞましくて、話したくもない。だがこのままテューラに誤解されていたくもない。
「…確かにエルザ様と短期間だが恋仲にはなった。…でも、無理だと気付いて別れた」
全ては話せない。その中で。
「俺の都合だ。いろんなことがありすぎて…愛してないし、愛せないとわかった。…でも別れを告げてから…」
気持ち悪さから言葉が途切れる。気が遠くなるような感覚の中で、テューラはやっとニコルに触れてくれた。
そっと腕に触れて、そばのベッドに座らせてくれる。触れられた手の温もりが優しくて、気持ちの悪さが少し薄れた。
「…教えて。何があったの?」
知ろうとしてくれる。
ニコルの思いを。
「…あの人は…自分にとって都合のいい俺しか見てない…それが…気持ち悪い!」
吐き出す。胸の内に隠していた全てを。
王族相手に口にしていい言葉ではないのだろう。それでも自分の心を保つことの方が優先だった。
エルザは否定したのだ。苦しむニコルを。エルザを愛していないニコルを。
そのまま言葉を詰まらせる。
気持ち悪い。それだけで全てを語ることができるほど。
吐き出した胸のうち。それ以上の詳しい話をテューラが聞いてくることはなかった。
隣に座って、ニコルの肩に頭を傾けてくる。
「…妹さんの言葉を聞いた時に、何か変だなーとは思ったの。ほんとにあなたとお姫様が恋仲なんだとしたら、あんなこと言うはずないから」
静かにテューラの思いを聞かされる。それはニコルも反芻したあの言葉だろう。
そんなに生き生きしてる兄さん、王城じゃ見られなかったよ。
アリアも見ていたからこその言葉。
そして、その言葉があったからこそ、テューラも今のニコルの言葉を正面から信じてくれたのだろう。
「…良い妹さんだね」
静かな部屋で、穏やかな時の流れを感じながら。
「……テューラ」
彼女の温もりを感じたくて、そっと引き寄せる。だがテューラは見上げてはくれなかった。
「まって…今…私けっこう酷いこと考えてるから…」
「……何だよ」
止められて我慢ができるほどには理性はあるが、目の前のテューラは下着しか身につけていないのだ。
柔らかそうな胸が、吸いつこうとする白い肌が魅力的に理性を壊しにくるから、仕方なく壁に目を向けていれば。
「…あなたがエルザ姫と恋仲なんかじゃないってわかって…すごく嬉しくて…」
掠れる声が、壁に向かった視界をまたテューラに戻させた。
「…テューラ」
「待って…」
抱きしめようとした腕は、また言葉で遮られた。
今度は目を合わせてくれながら。
「…さっき言ってくれたこと…本気?」
真剣な眼差しは、ニコルがテューラの働く時間を全て買うと言った言葉の真剣度を尋ねてくる。
「ああ…本気だ」
少し考えそうになるだけでも耐えられない。
テューラが仕事とはいえ他の男に抱かれるなど。
「…私たち…そう何度も会ったわけじゃないのに?」
「…会った回数で心が決まんのかよ…」
初めて会った時は、ニコルには理性など無かった。
だが二度目と三度目、そして今日。
ニコルにとって重要なポイントで出会えて、特別な思い出を残していく。それは、運命だと宣言できるほど。
「…お前が好きだ」
抱きしめて、だがテューラを困らせないようにそれ以上は理性で己を止めて。
「…私も…森の泉で会った日から…あなたが好き」
テューラの細い腕が背中に回って、抱きしめ合う力が相互作用のように温もりをさらに強くする。
衝動はこのままテューラを押し倒すことを望むが、何故かまだテューラの言葉に続きがある気がして、互いに腕をそっと離してから見つめ合った。
「…楼主に話してもいい?」
ニコルの予想は見事に的中して、テューラは自身がどこに身を置くのか深く考えた様子で問うてくる。
それは未来につながる重要な対話だ。否定などしなかった。
「…話せばわかってくれそうな人だと思ったんだが」
「わかってくれる人よ。…でも、何より私たち“妓楼の娘”を大切にしてくれてるの。あなたが考えてる以上に疑り深いし、少しでも違和感を感じたらすぐに弾くわ」
その言葉で、無意識に悟る。
今ここで欲望のままにテューラを抱いてしまっていたら、楼主はニコルに対する信用を地の底まで下げていただろうと。
まだ騎士となる前にも見たことのある光景だ。
腐敗し、荒れ果て、ただれた戦場。だがそこに確かに存在した、人と人との絆。
ニコル自身が巻き込まれたことは少ない。それでも目にこびりついて離れない人情がいくつもある。
「…先に俺から話させてくれないか?」
「言ったでしょ。楼主はあなたが考えてる以上に疑り深いって。それは、信用できなきゃ省くってだけじゃない。私とあなたの気持ちが揃ってなきゃ意味がないってことを楼主はわかってるの。私だけが話すんじゃ駄目。あなただけが話すのも駄目。…二人じゃなきゃ…」
「…すごい人だな」
「誰よりも遊女の幸せを考えてくれる人だもの」
ニコルから離れるように立ち上がるテューラが、用意していた着替えの衣服を今度こそ身に纏っていく。
「…本当に私でいいの?…信じていい?」
今にも消えてしまいそうな声が、耳の奥で深く響き渡った。
「…俺だって…今お前に捨てられたら、ぶっ壊れる」
呟いた心からの本音に、吹き出す形で笑われた。
それでも、テューラはニコルを見下すことも、自分が下手に出ることもしなくて。
「…だから、王城を離れて休暇に来たんだね」
ニコルの心が壊れてしまうほどのものが王城にはあると。
それを、短い期間に悟ってくれた。
「私、すごく欲張りだよ。マリオンのことになったらあなたより優先するかもだし、さらわれた友達を探すためにあなたに負担かけることもすると思う。でも、あなたも手放したくないの」
本音を隠さず告げてくる。テューラにはニコル以外にも大切なものが沢山あるのだと告げながら、ニコルのことも大切だと同時に告げてくれる。
「…俺も」
ニコルはどうなのか。
「…まだお前に話せないことが何個もある…でも、傍に居てほしい」
隠していることばかりだ。だが自分の思いに気付いた以上、テューラを手放すなど出来ない。
「…行こっか」
着替えを済ませたテューラが、ニコルに向かって手を差し出す。
守りたい、愛おしいと思える笑顔で、ニコルの胸を満たしてくれる。
「…絶対に認めてもらう」
「私も説得頑張ろっと」
互いに手を合わせ。
どちらかが上というわけではない。依存するだけの関係とも違う。
愛し合う為に。
まずは手を合わせて最初の難関を突破する為に、二人は微笑みながら、優しい部屋を後にした
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