第78話
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運ばれた朝食は、朝らしい爽やかな彩りばかりだった。
柔らかな緑に添えられたリンゴのサラダ、小ぶりのクリームスープ、赤子の手のひらサイズの出来たての白パン、イチゴの果実水に、果物で淡い虹色に彩られたロールケーキ。
どれもこれも女性を第一に考えたもので、二人分用意されてはいるのだが、ニコルの胃袋事情は完全に切り捨てられていた。
絶対に足りないと心の中で毒づくが、テューラが目をキラキラと輝かせていたので、心のもやつきはすぐに吹き飛んでしまった。
さらに驚いたことに、裏庭のテーブル周りが心地良い温もりに包まれている。
それは食事を持ってきてくれた使用人に付いてきたネミダラがニコリと微笑みながら教えてくれた術式の結果だ。邸宅で雇っている魔術師の力らしい。
裏庭は多くの植物が植えられているので急な温度変化はさせたくなかったが、テーブル周りだけ特別に太陽光の集まる魔術をかけてくれたらしい。
本来は敵を燃やして殲滅させる攻撃型の魔術だが、かぎりなくゆるく魔術をかければ優しい温もりを与えてくれるものに様変わるのだと。
邸宅の魔術師は王城の魔術師団入りも請われていたほどの実力者だそうで、アリアの護衛についても邸宅内にいる限りは確実な護衛を約束してくれていた。
実際に裏庭のテーブル周りは春のような心地良い温もりに包まれているのだから、魔術師の高度な魔力操作力には頭が下がる。
テューラは黄都領主の裏庭で美しい植物に囲まれながらの朝食にすっかり涙の跡を消してくれた。
どれもこれも、サラダにかけられたドレッシングに至るまで逸品揃いで、テューラは一口食べるごとにうっとりと眼差しをゆるめる。
「うまいか?」
「すっごく美味しい」
問えば、当然の返答が。
自分が作って出したわけでもないのに、なぜか嬉しかった。
「…お前の友達のことだけどよ…モーティシアが絡んでるなら、あいつなら絶対守ってくれてるから安心しろよ…」
ニコルはまだ状況をいまいち理解できていないが、命を狙われているかも知れないマリオンを守るのがモーティシアなら安全だと信じている。
「モーティシアはアリアを守る護衛部隊の隊長だし頭もいい。女一人守れないようじゃ護衛部隊にも選ばれないからな」
「……ありがとう…」
安心させたくて、先ほども伝えたような言葉をまた伝える。
テューラは優しく微笑み返してくれるから、会話を終わらせたくなくて言葉を探した。
「あー…お前、友達思いなんだな」
「…なにそれ」
クスクスと笑われて、少しだけムッと口元を歪める。
「あなただって、大切な友達が危険な目に遭ってたら…つらいでしょ?」
「まぁ、そうだな」
仲間に何かあったら、ニコルでも助けに向かう。
でも、ニコルには助けられるだけの物理的な力があるが、テューラにはない。
自分の力で助けられる可能性が高いニコルは、ただ連絡を待つことしかできないテューラの心の痛みを全て理解することは難しかった。
結局続かなかった会話に、二人でしばらく食事だけを進め続けて。
「…私ね、前に一度…大切な友達をなくしてるの」
テューラが口を開いたのは、食事もほぼ終えて、果実水を一口飲んだ後だった。
上品にグラスを置いて、視線はニコルには向けてくれないままで。
「子供の時…私が親に売られた時」
はるか昔を思い出すように、どこか懐かしむように。
「弟の命を守るために私は今の楼主に買われて、馬車に乗ってる時だった。野盗に襲われてね、他に何人も買われた女の子達がいたんだけど、楼主は私しか助けられなかったの」
野盗に襲われた馬車。囚われた少女達。何とか逃げることができたのは、テューラと楼主だけ。
ニコルはその場面を妙に鮮明に思い浮かべることができたが、テューラの言葉はそのまま続いていった。
「楼主は何年もかけて、攫われたみんなを見つけて助けてくれた。でも、最後の一人だけまだ見つからないの」
「……それが、友達か?」
「うん…馬車に乗ってる数時間程度だったから、友達って言えるほど仲良くなったわけじゃないんだけどね…でも、その子は私と仲良くなろうとしてくれた」
絶望的なはずの過去を、なぜそうも懐かしそうに話せるのだろうか。
「売られたって…嫌な思い出じゃないのかよ」
「うーん…今はもう、ね…」
全て受け入れてしまえる強さは、どこから湧いてくるのだろうか。
「元々は地方の有名な遊廓街にお店があったんだけど、店ごと王都に移らないかって王都の遊郭街から誘われてね。見つからないまま最後の一人になっちゃったその子を探す為にも、こっちに移ってきたの」
見つからない少女の為に拠点を変えて、それでもまだ見つからない。
「…だから…マリオンは絶対に守りたい…」
見つけたい友達がいる。それがどれほどテューラの心を苦しめているのかは、マリオンを探してさまよっていた姿を思い出せばすぐに理解できた。
「……あ」
また黙り込みそうになる空気の流れを変えてくれたのは、空から戻ってきた小鳥だった。
灰色の羽を朝日で白く輝かせながら、ニコルの前に着地する。
足には新たな手紙がゆるく巻かれており、小鳥が静かに待機している間にするりと取り除いてやった。
小鳥は自由になった途端にニコルの前に置かれたサラダの皿に嘴を遠慮なく入れ、リンゴを奪って邸宅に戻っていく。
「…元気な子だね。お礼も言えなかった」
「昔から自由なところはある鳥だな」
慣れているので気にせず手紙を開いて。
「…お前がいなくなったことには気付いてたみたいだな。ちゃんと見張りも付けてたけど、俺と合流してここに来たことを確認してから見張りは帰ったらしいぞ」
「……そっか」
遊廓街もマリオンの件で監視を強化している様子に、少し安堵してしまった。
テューラの居場所を把握できているということは重要だ。
「俺に、お前のこと頼むって書かれてる」
テューラに手紙を見せてやれば、文面を目で追って、やがてクスクスと微笑んだ。
「楼主の文字だわ」
楼主を信頼している様子を見せられて、少しむかついて。
アリアの護衛は、邸宅内にいる間は安全だと聞いた。なら。
「食ったら、戻る前に露店街行かねぇか?」
「え、どうして?」
「……気分転換くらい、いいだろ」
「うーん…この格好じゃあ、少し恥ずかしいかな」
自分的に少しばかり勇気を出して誘ってみたのだが、テューラは今の寝間着に近い服装が気になる様子で断られてしまった。
「…アリアから借りてくる」
「え!?悪いわよ!!」
「ちょっと待ってろよ」
自分は一体何をしているのだろうか。
胸に湧き始める感情もわからないまま、テューラを残して邸宅に入った。
アリア達もまだ食事中だろうと思い食堂に向かえば、アリアとビデンスと夫人のキリュネナも共に朝食を楽しんでいた。
こちらにはちゃっかり肉料理も添えられていて、少し羨ましくなる。
「兄さん!どうしたの?」
「外歩くのに、お前の服を貸してくれないか?」
アリアが立ち上がるから、扉の側から動かず頼んでみる。
アリアはすぐに状況を理解して自室に向かおうとしたが、止めたのはキリュネナだった。
「あら!お客様のお嬢さんにお貸しするのね?我が家から持ってきている来客用のドレスがあるから、そちらはどうかしら!窓から少しお嬢さんを見させてもらったけど、ちょうど似合いそうなドレスがあるのよー」
キリュネナは嬉しそうに立ち上がると、アリアを座らせてから有無を言わさず食堂を出て行ってしまった。
「え…いいんですか?あたしの服でも…」
「貴族は元々、来客用の衣服を準備しているもんだ。お前さんから借りずとも、この邸宅にも用意はあっただろう」
だからキリュネナに任せておけ、とビデンスは妻のやりたいようにさせて、食事を続行した。
ニコルは困惑してアリアと顔を見合わせるが、ちょうど廊下からネミダラが歩いてきて。
「ニコル様。キリュネナ様がお呼びでしたよ」
「え?」
困惑したままビデンスとキリュネナに用意されている客室に向かえば、また都合良くキリュネナが部屋から出てくるところだった。
「夫人…あの」
「これよ!このドレス!あの子に似合いそうじゃない?」
キリュネナが見せてくるのは、水色をベースとした、白のレースと深い青の刺繍が美しい、ゆるやかなマーメイドラインの長袖のドレスだった。
水々しい清楚さは、ニコルの好みだ。
「このドレスと、あなたが自分用に買ったお洋服、二人で並んだらとっても似合うと思うのよ!」
何を勘違いしているのか、キリュネナはものすごく嬉しそうな顔をしている。
「…キリュネナ夫人?俺と彼女は別に…」
「下に紺のパンツで、上は白で合わせてね!水色のリボンタイを付けたらもう完璧よ!」
キリュネナはどうやら話を聞いてくれそうにない。
ニコルの買った服の種類を覚えているのもすごいが。
「お嬢さんにはこのポンチョコートね。あなたは今のその外套でいいわ」
ドレスと共に手渡されるパールカラーのコートは、薄い生地のわりに暖かかった。
「お着替えくらいなら邸宅に入ってもいいって言ってくれたから、さっそく呼んであげてね!」
そのまま背中を押されて、キリュネナはとっとと食堂に戻ってしまった。
衣服を借りるだけのはずがなぜか自分も着替えなければならないことになり、とりあえずテューラの元に戻って。
「……服借りたから、中入れよ」
「……本当に借りたの?」
「貴族は来客用に服を用意してるんだとさ。着替えるだけならいいって言ってくれたから、これに着替えろよ」
右腕にかけた衣服を見て、テューラが唖然と目を見開いた。
「やだ!そのドレスすごく有名なのよ!変な持ち方しないでよ!シワになるでしょ!」
「はあ!?知らねえよ!」
なぜか怒られて、イラッとした。
強制的に衣服を借りることになったテューラはその後もモゴモゴと逃げ腰となるから、肩を抱くようにして強制的に邸宅に入れた。
連れていく場所はニコルに貸し出された部屋だ。
ソファーに服を放れば、テューラがまたぎゃあと叫んだ。
「ほんとにやめてよ!女の子がみんな憧れるドレスなんだからね!」
「…いいから着替えろよ」
騒がしいテューラの方は見ないようにしながら、自分もキリュネナに指定された服を取り出して。
「…あなたも着替えるの?」
「その服貸してくれた夫人からの指示だからな」
窓のそばに移動して、テューラには背中を向けた。
「……ここで着替えるの?」
「見ねぇから安心しろ!」
テューラの有り得ないと訴えるような声色に、荒く返答して。
そのまま無視して服を脱いでいけば、後ろから諦めたような衣擦れの音が静かに響き始めた。
音でしかわからないのに妙に身体が熱くなろうとするから、気にしないよう努めてなるべく無心で着替えていく。
「…終わったか?」
「あのね…女の子の服を甘く見ないで」
とっとと着替えを済ませて問い掛ければ、呆れたように言い放たれた。
仕方ないので黙って待っていれば、やっと声がかかったのは五分ほど経った後だった。
「……ねえ」
「終わったのか?」
一応振り返るのはまだやめておけば、そろそろと遠慮気味に近づいてくる音を聞かせて。
「……最後。背中のリボンだけ手伝って」
すぐそばで聞こえてきた声に振り返れば、美しいドレスを纏ったテューラが手の届く場所に立っていた。
白いレースに混ざる紺の刺繍が、陽の光を浴びてキラキラと静かに輝いている。
テューラは長い薄茶の髪を前に流しながら、恥ずかしそうに見上げてくるところだった。
「…綺麗だな」
思わず漏れた本音に、テューラの頬が一気に赤く染まった。
「背中のリボン手伝って!」
くるりと背中を向けて、着るために緩めた白い編み紐のリボンを見せてきて。
向けられたむき出しのうなじや背中に、喉が鳴りそうになるのをぐっと堪えた。
「…なんで女の服ってこんな面倒なんだよ」
「可愛いから面倒なの!」
慣れない手つきでリボンを締めていき、腰の位置で大きめの蝶結びを作ってやる。
蝶結び自体は何度か姫達のリボンを直したことがあったので、上手いやり方を覚えていて良かったと思った。
あまり身体のラインを出すドレスというわけではないのだが、テューラの身体を知っているがゆえにドレスに隠された腰の細さを想像してしまう。
「……ほら、出来たぞ」
「……ありがと」
どちらともなく離れて、テューラは数秒固まってから、姿見のそばに向かって。
「…すごく可愛い…」
「自分で言うのかよ」
「ドレスがよ!」
無駄な発言にまた噛みつかれてしまった。
「このドレス選んでくれたの、あなたの妹さん?」
「いや、ここで世話になってる夫婦の奥さんの方だ」
「…そうなんだ。すごいね。私が履いてきた靴とも合うように考えてくれたんだね」
テューラが履いているのはパールカラーのヒールで、手渡されていたコートとよく似た色をしていて。
「…ねえ、こっちに来て」
呼ばれて素直に側に寄れば、姿見の前に横並びに立たされた。
キリュネナが用意してくれたドレスと、指定された衣服。
色合いが揃っていて、この為にあつらえたかのようだった。
「あなたも格好良い」
姿見越しに微笑んでくるから、顔を逸らしてしまった。
「言うの今更だけど…髪も切ったの、似合ってるね」
「…ありがとよ」
「お屋敷を出る前に、夫人にお礼を言わせてほしいんだけど…いい?」
コートも羽織って、嬉しそうに姿見に見入るテューラは、ドレスを貸してくれた夫人を無条件で好きになった様子だった。
「…そうだな。こっちだ」
財布を自分の外套に無造作に突っ込んで、テューラを先に部屋から出す。
どうやら自分の脱いだ服のことを忘れている様子だったが、ニコルはあえて触れなかった。
食堂に連れて行ってやれば、すでにビデンスが席を外しており、いたのはアリアとキリュネナ夫人だけだった。
「初めまして。テューラと申します。素敵なドレスを貸してくださり、ありがとうございます」
上品にお礼を伝えるテューラに、二人が嬉しそうに顔を綻ばせる。
「すごく似合ってますね!」
「ありがとうございます」
アリアは綺麗なドレスに思わず立ち上がり、キリュネナもあらまあ、と喜んでいて。
「やっぱりよく似合うわね。エレッテは可愛いワンピースが似合っていたのだけど、あなたには絶対にこのドレスだと思ったのよ」
ふと出された名前にニコルはアリアと共に固まるが、事情を知らないテューラはキリュネナと共にふわふわと微笑むだけだ。
「綺麗に返したいので、しばらくお借りすることをお許しください」
「あら、いいのよ。貴族間ではお客様に負担をかけないことが基本なの。洗うのもこちらのやることなのよ」
「ですが…」
「あらあら、これから貴族間のやり取りにも慣れないといけないんだから、本当に気にしちゃダメよ」
どこまでも嬉しそうなキリュネナが、何やら意味深な言葉を使ってくる。
「……えっと」
理解出来ずに戸惑うテューラはちらりとニコルを見上げてくるが、ニコルにもよくわからない。わからないまま。
「兄さん…そのドレス、一人じゃ着れないんだよね?」
アリアは恋物語を読んだ少女のように、嬉しそうににやけている。
「兄さんが手伝ったんだよね?」
「…………お前な!そんなんじゃねぇからな!!」
ようやく合点がいったニコルは、大きな声で叫んでしまった。
どうやらアリアとキリュネナの中で、ニコルとテューラは良い仲と誤解されている様子で。
「どうして?そんなに生き生きしてる兄さん、王城じゃ見られなかったよ」
嬉しそうなアリアの言葉は、ニコルの心の変化を伝えようとしてくる。
「テューラさん、兄さんのこと、見捨てないでくださいね!」
「え!?」
恋の話に暇がないのは年齢が違えども同じ様子で、アリアとキリュネナは始終微笑み続けており、テューラはどうすれば良いのかとオロオロとニコルとアリア達に交互に目を向ける羽目になった。
「変な想像すんな!夫人もですよ!」
二人の生ぬるい目から逃れるように言い捨てて、テューラの手首を掴んで離れていく。
「あ、兄さん!ビデンスさん達が、私の護衛はしっかり代わってやるからゆっくりしてこいだって!」
「あぁそーかよ!」
本当はビデンスとネミダラにも感謝を伝えておきたかったが、そんなことを言われているとはと居心地が悪くて邸宅を出ることを優先した。
裏庭から出れば、食べ終えていた朝食は綺麗に片付けられていて。
仕事の早さには脱帽だ。
「せめてご馳走様だけでも伝えたいんだけど…」
「……言っとく」
ネミダラとビデンスはアリア達のようなことは言わないだろうが、女性を扱う心得などは伝えてきそうなので逃げることに決めて。
とっとと邸宅から出ようとして、
「ちょっと待って」
ふいにテューラが足を止めるから、急ぎすぎたかと焦ってしまった。
「…手、普通に繋ぐのじゃダメ?」
見下ろす位置にいるテューラは、掴まれている手首をふるふると揺らす。
「……ここから離れる為に掴んだだけだからな!」
すぐに掴んでいた手を離して、テューラを置いて外に向かう。
それが面白かったのか、後ろから付いてくる気配はくすくすと笑っていた。
「あんまり乱暴なことはしないでほしいな?」
「…悪かったよ」
怒っている様子は見せないが、伝えるべきところは伝えてきて。
隣について共に歩くテューラは、もう朝の絶望的な表情を消していた。
心の奥底まではわからない。でも今は楽しんでくれている様子に、ほっと胸を撫で下ろす。
「先に言っとくけど、私お金持ってきてないからね?」
「出させねーよ」
向かう先は世界各地の商業団がおとずれる露店街。
テューラのイタズラじみた言葉に笑ってしまいながら、ニコルは束の間のデートを喜んでいる自分を強く自覚した。
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