第78話


第78話

 キン、と冷たく静まる夜明け前は、ニコルにとって非常に懐かしい故郷の空気を思い出させた。
 身を斬る刃物のように冷たいというほどではないが、心地良い冷たさが頬を撫で続けている。
 ガウェの個人邸宅から一人抜け出したのは、同じく邸宅に泊まっているビデンス・ハイドランジアから「眠れないなら散歩にでも行け」と言われたからだ。
 眠れなかったわけではないが、浅い眠りを繰り返していたのは事実だ。
 昨日、アリアは皆が城に戻る時間になるまで、レイトルから離れようとしなかった。
 まるで今まで誰にも甘えられなかった反動が来たかのように。
 それが、途方もなく胸を締め付けた。
 寂しいというわけではない。
 アリアが無条件に甘えられる相手を奪ったのはニコルだから。その申し訳なさが胸を締め付けたのだ。
 激しい後悔が波のように寄せて引いてを繰り返すのは、アリアが幸せそうに笑うからなのだろう。
 ニコルに母を奪われて、死にゆく父を一人で看病して、婚約者に捨てられて。
 王城では精神を削られて、逃げる場所も無くした中で、アリアはそれでも心を奮い立たせて、ニコルが知らなければならない事実を代わりにエレッテから聞いてくれたのだ。
 負担をかけさせてばかりだった。
 自分がそんなだから、アリアがレイトルにはひたすら甘えることも仕方ないことのように思えた。
 ニコル相手では、互いに気を遣いすぎるから。
 深い負い目。
 ビデンスは長く生きた年月から、ニコルがアリアに対して抱える心の負い目に気付いてくれたのだろう。
 だから早朝に出くわした時に、散歩にでも行ってこいと言ってくれたのだ。
 アリアの護衛は自分がしてやるからと、頼もしすぎる言葉と共に。
 ガウェの個人邸宅にはビデンス以外にも魔力を操れる者が雇われており、なおかつ王城からも魔術師団がガウェの邸宅付近に結界をつけてくれていると聞いている。
 そこまでされたらニコルの護衛など不要なほどだろうと、少しだけ後ろ髪を引かれながら邸宅を後にした。
 散歩という名のついた、あてのない徘徊。
 静かすぎる夜明け前と、あまり馴染みのない道。
 まだ日が顔を見せない薄暗さが、夜更けの闇より辺りを静寂に包んでいる気がした。
 自分がどこへ向かって歩いているかなど知らず、気の向くままに足を進めていく。
 ただ、城から遠ざかるように進んでいることには途中でふと気づいてしまい、思わず笑ってしまった。
 そこまで嫌か、と。
 城に対する苦手意識は、何よりエルザの存在によるところが大きいだろう。
 エレッテのことは、あまりよくわからない。関わりたくないのは当然だが。
 このままエルザが大人しくニコルとの別れを受け入れてくれるとは到底思えず、気が滅入る一方だった。
 脳裏に浮かぶ言葉は泥沼、だ。
 王族付き達はほとんどがエルザの味方をするだろう。以前コウェルズが噂を広めてしまったのだから、エルザの異変はすぐニコルのせいだと気付かれる。
 城に戻った後を考えてしまい、頭が強く痛んだ。
 何もかもが悪循環に陥る感覚。
 これならビデンスと裏庭で話をしていた方が気が紛れたと思えるほど、心の歪みが酷くなっていく。
 ニコルの心が弱いのか、周りが酷いのか。
 削られた精神が、普段なら気付くはずの気配を見逃した。
「ーーー」
 突然背中から服を掴まれて、驚いて振り返った。
 あまりに弱い力だったので、振り払うことはせずに離れるだけに留めて、攻撃より先に相手の顔を睨みつけて。
「…お前」
「やっぱり…あなただったーー」
 ニコルの背中を弱く掴んだのは、どうしようもないほど情けない笑顔を浮かべるテューラだった。
 言葉は途中で途切れ、無理やり笑みを浮かべようとして、かわりに涙がポロポロと溢れていく。
「お、おい!?」
 突然現れたかと思えば突然泣かれて、頭の中はひどく混乱した。
「お願い…助けて……」
 涙をこぼしたまま、テューラは動揺するニコルの胸にすがるように収まる。
 予期せぬ再会と予期せぬ行動にただ混乱するが、身体はそうすることが正解であるかのように、自然とテューラを抱きしめていた。
「何があったんだよ…」
 身体に傷がある様子は見当たらないが。
 テューラはニコルの胸の中から顔を上げて、何か話そうとして、視線を落としてしまった。
「…ここじゃ…話せない…」
 涙を白い手でぬぐいながら、かすれて消えるような声が耳を悲しく刺激した。
 どうするべきか、考えて、迷って。
「…ついてこい」
 強引に引き剥がす代わりに涙のついた手を掴み、ニコルは意味なく歩いていた道を戻っていった。

ーーー

 テューラの手を引きながら向かったのはガウェの邸宅で、裏庭に戻ればそこにはビデンスの他にネミダラも加わって早朝の風を楽しんでいる所だった。
 二人はテューラを連れて帰ってきたニコルに驚き、テューラもまさか黄都領主の個人邸宅に招かれるとは思わず固まって目を見開いていた。
 広い裏庭は外部から遮断されてテューラの存在を外から隠してくれるが、テューラの涙までは隠してくれない。
「…すみません、場所を少し貸してください」
 ニコルは他人を勝手に入れてしまったことを謝罪する。涙を見せるテューラにビデンスもネミダラも邪険にはせず、ネミダラに至ってはテューラにお茶を用意する為に中に戻ってしまった。
「身元のわからん者を中に入れることはできないが、この場所くらいは平気だろう」
 ビデンスはテューラの為に椅子を引いて座るよう促してくれるが、慌てたのはテューラだった。
「そんな、私なんかが」
「自分を卑下する言葉は好かんぞ。とっとと座れ」
 一歩下がろうとするテューラをひと睨みで従わせるビデンスが、その隣の椅子にニコルも促した。
「…ありがとうございます」
 素直に座って、動揺しているテューラに目を移して。
「…また誰かに追われたのか?」
「…え」
「助けてって、そういうことじゃないのかよ?」
 怯えて泣いて抱きついてくるほど怖かったのは誰かに追われたからなのだと思っていたのだが、テューラの表情はそれが正解ではないと伝えてくる。
「…どうしたんだよ」
 テューラはニコルとビデンスを交互に見る。
 唇は何か話したそうに微かに開いていたが、震える吐息が溢れるだけだった。
「ーーお嬢さん、まずは温まってください。こんな寒い時間にそんな薄着では風邪を引きますよ」
 そこへネミダラがティーポットを持ってきてくれて、温かそうな湯気の立つお茶をニコルとテューラの二人分用意してくれた。
 ネミダラの言葉にハッとしてテューラを見れば、確かにこの季節のこの時間には薄すぎる装いだ。
 ニコルは慌てて自分の外套を脱ごうとするが、ネミダラが持ってきた丈の短い毛布をテューラの肩にかける方が早かった。
「私どもがお邪魔でしたら下がらせていただきますが、いかがいたしましょう?」
 ネミダラはどこまでも紳士的にテューラに接して、ビデンスも睨みを効かせながらも同意して頷く。
 テューラは困惑の表情をさらに深めたが、自ら呼吸を整えてネミダラとビデンスに共にいてほしい旨を伝えてきた。
 ニコルにも訳がわからない状況で、この場にビデンス達がいなければ何があったのか問い詰めてしまっていたかもしれない。
「…助けてくれって何だよ……」
 テューラの落ち着いた様子に少しだけほっと胸を撫で下ろしながら、なるべく優しく問えば、
「…昨日…ね」
 ぽつりぽつりと、物事をひとつずつなぞるように聞かされるのは、昨日起きた事件のことだった。
 マリオンが変質者に殺されかけて、共にいたモーティシアが助けてくれた。
 しかし襲ってきた男は闇市の人間だった為に捕らえることができず、現在も野放し状態。
 マリオンはモーティシアが「安全だ」と告げる彼の自宅で隠されることになった。
 それからの情報が、何もない。と。
 ぽつりぽつりと話す中でどれほど男が悪質だったかを聞かされて、ビデンスは眉間の皺をさらに深くし、ネミダラも不愉快そうな眼差しとなっていた。
 マリオンにはニコルも会ったことがあるが、昨日そんなことが起きていたなど知るわけもなく驚いた。
「遊郭街と闇市か…昔から不干渉が暗黙の了解だったはずだがな」
「モーティシア様が側にいて本当に良かった」
 昨日起きた事件にビデンスとネミダラは互いに顔を見合わせるが、ニコルには強く気になる点が残っている。
「……それで、何で助けてほしいんだよ…」
 テューラは確かに言った。
 弱々しい声で、涙をこぼしながら。
 話を聞く限りは、マリオンはモーティシアのお陰で無事な様子だが。
「…ううん。ごめん。ちょっと混乱してたみたい…助けてもらうことなんて何もなかったね」
「何だよそれ。ちゃんと言えって」
 一人で勝手に納得して終わらせようとするテューラに、思わず声が強くなる。
 怒っているわけではなかったのだが、ビデンスとネミダラから少し注意するような視線を向けられた。
「…思ってること…全部言えよ。大事な友達のことなんだろ?助けになれるなら助けてやるから」
 なるべく穏やかになるよう気をつけて聞いてみれば、テューラはまたすがるように目に涙を浮かべた。
「…モーティシア様が王婆と約束してくれたの…モーティシア様はあなたの妹さんの護衛部隊長なんでしょ?あなたとも面識があって……あなたは黄都領主の友達で…黄都領主から闇市に話してくれるよう頼むって言ったの!でもまだ何の連絡も無くてっ…」
 そこで涙が決壊して、頬を濡れ尽くす勢いの涙が溢れた。
「…お、おい……」
 うろたえるニコルにはテューラの肩に触れて中途半端に慰めることしか出来ない。
「お嬢さん、落ち着いてください。モーティシア様が領主様に連絡を取っていたとしても、昨日の今日ですぐに闇市に命じることは不可能です」
 ニコルの代わりにテューラに説明を与えるのはネミダラだった。
「それに人の命がかかっているとはいえ、この件は個人案件。領主様といえども、闇市に住む者達の行動を制限する権利はないのです」
 ネミダラの説明に、テューラがショックを受けて固まる。
「じゃあ…マリオンはどうなるの?」
 呼吸も浅く、頬は青白くなって。
 助けてと願うテューラの言葉は、マリオンを助けてという意味だった。ニコルは友を思うテューラを慰めてやりたかったが、残念なことにモーティシアの家を知らない。
 どうしてやることが最善なのか、ニコルが考えを巡らせている中、口を開くのはビデンスだった。
「お前さんの話によれば、そのマリオンという娘は魔術師団員の家に匿われているんだろう?魔術師団員の個人邸宅が集まる地区は昔から結界の魔術実験で相互作用が働いて、空間が歪んでいると言われるほど凄まじいことになっている。下手をすれば王城より安全だから安心しろ」
 小難しい言葉でどこまでテューラに伝わるかはわからないが、ビデンスの言葉にニコルもハッと思い出した真実を告げる。
「モーティシアがアリアの護衛に選ばれたのは、あいつの防御結界が魔術師達の中でもかなり優れているからなんだ。だからモーティシアがいるなら、あの子は絶対に大丈夫だ」
 実際にモーティシアの実力を目にしたことはない。だがアクセルやトリッシュに一目置かれ、魔術師団長のリナトからも気に入られているモーティシアの実力は確かなはずだ。
 それでもテューラは自分の知らない世界のことは理解し難い様子で、不安そうな眼差しは消えてくれなかった。
「私から領主様に訊ねてみますよ」
 そこに助け舟を出してくれたのはネミダラだった。
「領主様はとても義理堅いお人柄です。ニコル様やモーティシア様のご友人が大変な目に遭っているとお知りになったら、きっと動いてくれます」
 だから、安心してください。
 穏やかな笑顔でそう伝えてくれるネミダラは、少し待っていてほしいと言い残して邸宅に戻っていった。
 一体何をするつもりなのかと待っていれば、ネミダラは肩に中型の伝達鳥を乗せて戻ってくる。
「手紙を領主様に届けます。お嬢さんが今話してくれたことを手紙に書いてもよろしいですか?」
「…あ…お願い、します…」
 行動の速さについて来れない様子のテューラだが、サラサラと書かれていく手紙の内容に次第に目の前の現実を理解して。
「ま、待ってください!私…黄都領主様になんて勝手なこと…」
 戸惑うのは当然だろうが、ネミダラの手は止まらない。
「大切なご友人の身の危険に関わることです。どうか気に病まないでください。むしろこのくらいの力にしかなれないことが悔やまれます」
「そんな…」
 テューラの表情はまだ困惑の色が残っていたが、手紙が書き上げられていくに連れて、次第に心の苦しみが晴れていくように表情は和らいでいった。
「……ありがとうございます!」
 また大量の涙を溢れさせながら、深く深く頭を下げる。
 昨日からずっと不安でたまらなかったのだろう。友を思ってぼろぼろと泣き続ける姿は、とても弱々しくて庇護欲をそそられる。
「お前、ずっと友達探して歩き回ってたのかよ」
 朝の散歩にしては早すぎる時間だった。
 さまよう幽霊のように探し回っていたとするなら、いつから外にいたのだろうか。
「…時間はあんまりわからない…どうしてもじっとしていられなくて…」
 薄着のまま、身体が芯から冷え切るのも構わずにマリオンを探し続けながら泣いていたのか。
 何と言葉をかけてよいのかわからないまま時間が静かに過ぎ去り、ネミダラが書き上げた手紙を伝達鳥の筒に収めてすぐに飛ばした。
「それでお前さんが外にいることは、遊郭の者達は知っているのか?」
 問うのはビデンスで、問われたテューラは「あ、」と声を曇らせる。
 何も言わずに出てきてしまったのだろう。テューラの表情はみるみるうちに曇っていく。
 そこへ。
「……兄さん?みなさん?」
 新たな声が聞こえてきて、ニコル達はいっせいにそちらに目を移した。
「…アリア。起きたのか」
 姿を見せたのは肩に小鳥を乗せたアリアで、その名前を聞いたテューラが慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「えっと…そちらの人は?」
「…彼女はテューラ…俺の知り合いだ」
 困惑しながらも近付いてくるアリアに、ニコルはテューラを紹介する。
 紹介とはいっても、どう説明することもできないので簡単なことしか言えないのだが。
 テューラも顔を上げてまじまじとアリアを見つめ、少し不安そうに視線をニコルに戻してきた。
 テューラにとってアリアは、ニコルが自分をアリアと思い込んで抱いた相手だ。
 その当時は薬のせいで混乱していたから妹と愛する人を混同してしまったのだと言ってはくれたが、いざ目の前にすると混乱が出るのだろう。
 普段のテューラならさらりと流せたのだろうが、今の彼女は友の身を案じすぎて心が不安定になってしまっているのだから、頭の回転が鈍くても仕方ない。
「兄さんのお友達…ですか?…初めまして。妹のアリアです」
「…初めまして。テューラと申します」
 優しい笑顔を向けてくるアリアに、テューラは丁寧なお辞儀で返す。
「…そうだ、アリア、小鳥を少し貸してくれるか?」
 テューラの少しだけ普段の自分を取り戻した様子にホッとひと息ついてから、ニコルはアリアの肩に留まる小鳥を自分の方へと呼び寄せた。
 ニコルが差し出した指に小鳥は慣れた様子で飛び移り、隣にいるテューラを興味深そうに観察し始めていた。
「どうしたの?」
「こいつが自分の家族に何も言わずに出てきたみたいだから、小鳥に手紙を届けてもらおうと思ったんだ」
 テューラが妓楼の娘であることは隠して、ネミダラが何も言わずに差し出してくれる用紙の残りに簡単に状況を書いて。
「待って、私もう帰るから…」
「帰るにしたって、家の奴らが探し始めてるかも知れないんだ。先に手紙送っとけば少しはマシだろ」
 乱雑に書いた手紙を小鳥の足に軽く括りつけて、そのまま空に飛ばして。
 小鳥も久しぶりの大仕事に得意げにニコル達の上空を一周すると、テューラの匂いを確認するように少しだけ肩に止まってから空へと飛び出していった。
 方向も正しかったので安心だろう。
「…ありがとう」
「…ああ」
 たがいに向き合うのに、目は合わせないまま。
「…お嬢さん、せっかくの朝です。伝達鳥も飛ばしたことですし、帰るのは朝食を召し上がってからにしませんか?」
 穏やかな笑顔のネミダラは、テューラに「少しは安心できただろう?」と伝えているようだった。
「…お気持ちは嬉しいですけど…私が黄都領主様の邸宅にいるのは…人目があるのでは…」
「さっきも言ったが、わしは自分を卑下する奴は好かんぞ」
 自分が遊女であることを負い目として話すテューラを、ビデンスはまた一喝した。
「お嬢さんも少しは心を休めなければいけません。この怖いお爺さんは室内に下がらせますので、ここで温かい朝食をぜひ召し上がってください」
 ネミダラの言い草にビデンスは眉間の皺を深くするが、否定はせずに素直に立ち上がる。
「ニコル様も裏庭で朝食を召し上がられるでしょうが、アリア様はどうなさいますか?」
「えっと…あたしは…」
「お前は中で食え…二人で話させてくれ」
 素直に伝えれば、アリアも何か悟ったように頷いてビデンスの後に続いて邸宅に戻っていった。
「とびきり温かな朝食を用意しますので、しばらく待っていてください」
 ネミダラも穏やかな笑顔を残して邸宅に戻っていく。
 テューラは戸惑うばかりだが、ニコルは気付いていないふりで無理やり彼女を椅子に座らせた。
「…助けろって言ったのはお前だろ…」
 だから、助けてやる、と。
 助けてやりたいと。
 裏庭は寒いが、朝日が顔を出して裏庭に光を届けてくれて。
 少しだが暖かくなりそうな気配に、ニコルは少しだけ安堵した。

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