第７７話

「陛下」
　幼い少女の呼び声に、バインドは去ろうとしていた歩みを止めて振り返った。
　定期的に会いに行く愛しい緑の姫ではない、別の幼い声。
　バオル国のアン王女を秘密裏に匿ってから何年経つだろう。物心ついたと同時に暗殺されかけた隣国の唯一の直系王女。
　ラムタルで身を潜めながら、いつかバオル国に正当な王女として舞い戻る為に血の滲む努力を惜しまなかった。
　幼い容姿の内側に宿るのは、心の年齢を老いるほど進めなければならなかった痛々しいほどの責任感だ。
　ラムタル王城で匿っているとはいえ、バインドはこの幼い王女に深く関わることはしなかった。
　匿う間の命の保証は約束するが、後は自分達だけで全てを終わらせる事が条件だったからだ。
　せいぜい年に一度、アン王女の誕生月にささやかな贈り物を手渡す程度の交流。
　彼女がラムタルで匿われている事を悟られない為にも、仕方の無い事だった。
　そんな中、オリクスの率いる一団はラムタル国との交流のために数ヶ月に一度、数日間だけ王城に滞在してバインドとも親交を深めていた。
　それはアン王女が匿われるより以前からの親交ではあったが、結果としてその交流がアン王女の命を救ったことになる。
　バインドが面倒な他国の内乱にほんの少しだけ力を貸したのは、その交流があったからなのだ。
　友の願いを叶えてやりたい。
　ただそれだけ。
　長年続く国と国との交流とはいっても、結局は大国ラムタルの機嫌を損ねないようにバオル国が機嫌を取りに訪れる訪問だった。
　そんな打算的な訪問であったとしても、バインドと歳の近いオリクスは、いつの間にか気を許せるほどの友となっていた。
　バインドがまだ王子だった頃から、オリクスだけは媚を売ることをしなかった。
　真面目で頭が固く、面白みの無い人間性だとまで言われていたが、博識であらゆる分野に興味を持っており、話せば話すほど深い感性の持ち主だった。
　軽いノリでその場をしのぐようなことをする性格でないのはバインドも同じだったので、馬が合ったのだろう。
　彼が使節団に加わりラムタルに訪れた日の夜は、遅くまで議論を交わしたものだ。
　奇妙な手紙が届いたのは、バインドが王になった後のことだった。
　良き親交の証にとオリクスに贈った伝達鳥が、ある日ふわりと訪れた。
　たまに何気ない日常のやりとりをしてはいたのでその流れで訪れたと思っていたが、伝達鳥が持っていた手紙に書かれていたのは、是非読んでみてほしいと本のタイトルが数冊分。
　いずれもラムタルの書庫に深く眠る古いものだったが、気になって本を手に取ってみれば。
　暗号にはすぐに気付いた。
　それまで何気なく送られてきていた手紙と、古い書物の中にある一文と。
　全てをつなぎ合わせてみれば、日付と場所の指定が。
　そして指定された日にその場所へと内密に向かってみると、傷だらけになったオリクスと、バインドもよく知る彼の仲間たち、そして吐血の跡をドレスに残したままの幼い少女がいた。
　毒を盛られたのか、血の気の引いた白い顔色の少女。
　アン王女だと気付くと同時に、連れていた癒術騎士のアダムとイヴが王女の元へと駆け寄り、治癒を施した。
　王女は身体の苦しみが取り払われる過程で安堵したように気を失い、介抱を仲間に任せてオリクスは両手を地につけ、バインドに深く頭を下げた。
　助けてほしい、と。
　バオル国の王権を狙う者が放った刺客に王女は狙われた。
　だが狙われることをオリクス達は気付いていたのだ。
　日時、場所、方法に至るまで。
　だから先回りして、王女を逃がすことを優先した。
　オリクス達が、アン王女が安心して国に戻れる準備をする間の保護。
　バインドは承諾した。
　バオル国の為ではない。まだラムタルが落ち着いてもいないのに、他国を気にかける余裕などなかった。だがオリクスという友の頼みだったから。
　条件はそれなりに付け、アダムに王女を抱えさせ、バインドはオリクスと離れた。
　面倒ごとだとわかりながら、受け入れたのだ。

「…エル・フェアリアの皆様は、願いを聴き入れてくださるでしょうか」
　かつての回想に頭を使った後、アン王女の不安そうな言葉にふわりと微笑んで。
「コウェルズの周りの者達には、情に深い者が揃っている」
　だから心配するな、とまでは言わないまま、バインドは王女の部屋を後にした。
　人気のない広い廊下を歩きながら、自分の言葉を思い出して苦笑する。
　オリクス達がエル・フェアリアに頭を下げた願い。コウェルズだけなら、聞き入れられなかっただろうとわかるから。
　エル・フェアリアの頂点に立つべく育てられたコウェルズは、バインドやオリクスのような、言葉にできない類の慈悲を持たないから。
　人々を癒して包むかのような笑顔は紛い物。自国に牙を剥く者には理由が何であれ容赦せず、自国に頭を下げる者であっても負担になるなら平気で切り捨てる。
　実際にその様子を目の当たりにしたことはまだないが、コウェルズはそれが平気で行える類の王族だった。
　個として考えるなら異質、だが国民を守る者として考えるなら、優秀。
　もちろん同情や慈悲がないわけではない。
　だが、それすらも国の繁栄の天秤に掛けられる。
　あの男に似ている、そう思う。
　バインドに力を貸して、国を取り戻させたファントムに。
　コウェルズだけだったなら、オリクス達の願いは困ったような美しい笑みだけ向けられて斬り捨てられていただろう。
　考えるふりをして、申し訳なさそうな顔をして、当たり障りなく。
　バインドが賭けたのは周りの者達だ。
　周りとはいっても、ジャックとダニエルの双子騎士のことしか知らないが。
　年に一、二度、幼いリーンを連れて訪れていた彼らは、コウェルズと同じように冷徹に物事を判断すると同時に、どうしようもないほどの深い慈悲も持ち合わせていたから。
　彼らがコウェルズのそばにいるなら、あるいは。
　そこに全てを賭けるように。
　長い廊下をたった一人で進み続けたバインドの前に、一人の侍女が訪れて頭を下げる。
　場所は、彼の書斎のそばだった。
　侍女の後ろにいるのは、連れてくるよう命じた青年だ。
　金の髪と美しい容姿。
　まだまだ若さを謳歌する年齢だろうコウェルズは、突然の呼び出しに臆する様子も見せずに極上の笑みを浮かべていた。
　男ですら見惚れるというのはこういうことなのだろうと客観的に考えながら、その微笑みの中にファントムとよく似た面影を見る。
　人を惹きつける圧倒的な存在感。
　どこか人懐っこくも思わせるのに、恐ろしい男の面影があるというだけで、バインドには通用しない。
　ただ幼少期からコウェルズを知るからこそ、どうしようもない情は確かに存在した。
「入れ。二人だけで話すとしよう」
　大会が始まって、これが本当の最初の対話だとでも言わんばかりに書斎に誘って。
「まさか三日目で話せるとは思いませんでした」
　無邪気な笑みの中にひそんだ、わずかな緊張を見逃さなかった。
　バインドがコウェルズを只者でないと位置付けるように、コウェルズもバインドに絶対的な信頼を置いてはいないという事実が、どこか痒くなるようで思わず微笑んで。
　親しい仲にも存在する心地良い緊張感。それは相手を尊重する上でも重要なものだから。
　バインド個人の書斎にコウェルズが訪れるのはどれくらいぶりなのだろうか。
　幼い悪戯をかましてきた過去もある。
　だが今のバインドの近くにいるコウェルズは、もう幼い悪戯などしてくれないだろう。
　侍女に合図を送り、書斎の明かりを落ち着ける暗さまで落として。
「ゆっくりと話そう。重要なことだ」
　コウェルズが何を望み、何を尋ねてくるか気付いているからこそ、バインドは彼の時間を尊重するように自ら椅子を引いてやった。

－－－－－

　エル・フェアリアに用意された貴賓室に戻ってすぐの頃。
　広間での一件とジュエルの嘘泣きごと今日の出来事を整理する為に、とりあえず着席した席でコウェルズは一人しずかに周りの準備を眺めていた。
　アークエズメル国からもらった宝石菓子を味わう為に、ジュエルとダニエルは紅茶の用意を、ジャックはルードヴィッヒを連れて皿の用意をしている。
　コウェルズだけがただ座って待っている状況だが、これが自分が王子だからというわけでないことを痛感しているが故に所在なく両足のつま先が無駄にリズムを踏んでいた。
　万能型を自負するコウェルズの唯一の弱点。それは不器用であることだ。
　ルードヴィッヒもラムタルに訪れる際の飛行船内で皿を何枚も割ったそうだが、コウェルズが手伝おうものなら割れた枚数は何倍にも膨れ上がっていたことだろう。
　おかげで強制待機を言い渡された目の前で、コトコトと準備が進んでいく。
　話し合う上での準備のはずだが、どこか四人とも楽しそうなのは、宝石菓子の効果だろう。
　エル・フェアリアとアークエズメルは離れた場所にあるので、貴重な宝石菓子もコウェルズでさえ滅多にお目にかかれないのだ。
　以前食べたのは、もう数年前になる。
　見た目も味も極上の逸品は、真似ようとして真似られるものではない。
　だからこそ少し浮つく準備の様子に、仲間に入れてもらえないのは少し寂しかった。
「……皿くらい並べられますよ」
「触るな座ってろ！」
　エテルネルとして身分を隠すと自分から豪語した手前、目下に注意するようなジャックの口調に項垂れることしかできない。
　拗ねて不貞腐れていると、ジャックと共に皿を並べるルードヴィッヒと目が合ったが、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように瞬時に目を逸らされた。
「さあ、紅茶の準備も出来たことだし、みんな席に着きましょうか」
　宝石菓子を最も美味しく味わう為の紅茶は淹れ方に少しコツがいるためダニエルが丁寧にジュエルに教えてやっていた様子で、どこか緊張した面持ちのジュエルが持ってきてくれる紅茶に真っ先に目を向けるのはルードヴィッヒだった。
　言われた通り素早く着席しながらも、楽しみを隠せないとでも言うかのように目線は宝石菓子と紅茶を行き来する。
　ここまで甘い物が好きだったとは誰も知らなかっただろう。
　全員が着席したところで、誰が宝石菓子の箱を開けるかで一瞬静まり、全員の肯定的な視線を受けてジュエルが嬉しそうに箱を開けた。
　リボンのラッピングも丁寧に外し、細工の美しい白木の木箱をそっと開ける。
　開けた瞬間にキラキラと視界を輝かせた色とりどりの宝石菓子に、コウェルズももれなく感嘆のため息をついた。
　見た目も宝石のように美しいが、宝石よりも淡い色合いの為に清涼的な美しさが目に優しい。
「本当に宝石そっくりですのね…」
「…食べられるんですよね？」
　うっとりと見つめるジュエルと、目を離さない状態のままどこか不安げなルードヴィッヒと。
「悪いが、先に食べさせてもらうぞ」
「毒見役の特権が今はありがたいな」
　小ぶりなエメラルドとルビーの色をした宝石菓子をジャックが手に取り、ルビー色の方をダニエルに手渡して少し意地悪な笑みを浮かべる。
　じっくりと眺めることはせずに匂いを嗅いで、口に入れて。
「………やばいな」
「うっま……」
　口調の丁寧なダニエルでさえ言葉が素に戻る状況に、ジュエルとルードヴィッヒがそわそわと身を乗り出した。
「形だけの毒見はもういいでしょう」
　思わず笑ってしまうやり取りを早々に終わらせようと、コウェルズはジュエルとルードヴィッヒを促した。
　ルードヴィッヒもその辺りは弁えている様子で、先にジュエルが選ぶのをじっと見つめながら待って。
「色によって味が異なるのでしょうか？」
「いくつか選んでみては？」
　ジュエルの問いかけをはぐらかして、小皿に色違いの三つぶを選ぶのを見守って。
　ルードヴィッヒも同じように小皿に選び入れて、コウェルズの分はダニエルが取り分けてくれた。
　ダニエルがポットの紅茶を全員分のカップに注いでくれる中、ジュエルは藍色の宝石菓子を光にかざしてうっとりと見つめている。
「本当に宝石みたい…」
　食べるのがもったいないとでも言いそうなほど眺めるジュエルの隣で、ルードヴィッヒが紫色の宝石菓子を早々に口にした。
　口にした途端にジュエルと同じようにうっとりと惚けて、まるで美味しいものを初めて口にした子供だ。
「私も数年ぶりにいただきます」
　ジュエルも口に入れたのを見届けてから、コウェルズは忘れかけている宝石菓子の味を思い出しながら、透明な宝石菓子を手にした。
　口に入れてみれば、見た目とは裏腹に濃厚な甘味とわずかな苦味が滲むように染みていく。
「以前食べた、チョコレートに似ています！」
「半分当たり」
　ジュエルはその味から思い出したチョコレートを言い当て、流石だと拍手を送ってしまった。
「原料は同じで、そこにアークエズメルでしか採取できない植物を追加したものがこの宝石菓子だそうです」
　どんな植物なのかまでは知らないが、その植物自体も宝石のように美しいと聞く。
　チョコレートもエル・フェアリアではあまりお目にかかれないものなので、ルードヴィッヒの驚いた表情が面白かった。
　エル・フェアリアで愛されている一般的な菓子といえばクッキーなどの焼き菓子とパウンドケーキになるので、口の中で溶ける類の菓子は非常に珍しいのだ。
　宝石菓子の色によっても味が少しずつ異なることに気付いて、ジュエルとルードヴィッヒは互いの口にした味の感想を述べている。
　ひとしきり堪能して、紅茶でほっと息をついて。
　頃合いを見計らってコウェルズは金色に輝く魔力を手に浮かべ、ひとつの術式を手のひらから室内中へと広げた。
「…さて、じゃあ少し、真面目な話をしようか」
　それは簡単な防音の術式で、口調は自然と言い慣れたものに戻る。
　昨日からイレギュラーな出来事に巻き込まれて、こうして話し合わなければならないまでになってしまった。
　本来なら気に留める必要などないというのに話し合う理由は、ラムタルの王が絡んできたからだ。
　まるで保護者のように後ろに立っていただけだが、無視はできなかった。
「バオル国…というより、アン王女とその派閥の頼み事だね。みんなはどう思った？」
「私は反対です！」
　問いかけるコウェルズに、すかさず否定の手を挙げたのはルードヴィッヒだった。
「なぜあのような男を連れて帰らなければならないのですか！」
　オリクスが代表となって頭を下げた頼み事。
　それはマガをエル・フェアリアに逃がしてほしいというものだった。
　昨日散々迷惑をかけて、ルードヴィッヒにも悪態をついたマガを。
「…理由は気になるところではあるな」
　ジャックもどちらかというと否定的なニュアンスで、しかし背後にいるバインドの存在に完全に否定は出来ない様子を見せた。
「ダニエル、君は？」
「様子見ですね。なぜわざわざあなたの正体を明かしたのかもわからないですから」
　こちらは否定も肯定も見せず、しばらくの静観はコウェルズと同意見のように思えた。
「ジュエルはどう思った？」
　今件の一番の被害者でもあるジュエルの思いを無視することなど到底出来ないことは、この場にいる全員が考えていることだろう。
　ミシェルやガブリエルが付いて来ていたら、激怒して本気の外交問題にまで発展していたかもしれない。
「…私は……」
　ジュエルは自分の言葉を探すように少し俯き、不安を示すように両手を胸元に寄せる。
　賢い少女ではあるが、自分で言葉を選ぶことがまだ苦手だと未明に理解していたので、コウェルズは急かすことをしなかった。
　時間をかけて言葉を探す間の穴を埋めるように紅茶をゆっくりとしたペースで飲んで、ジュエルの考えを予想して。
「…彼の行動は、許されるものではありません。ですが彼の贖罪の機会がバオル国には無いというなら…」
　考えすぎて難しい言葉に翻弄されてしまったかのように、そこで言葉は止まる。
　マガをエル・フェアリアに連れ帰ることを否定しないかのような言葉にルードヴィッヒが眉をひそめて反論しようとするが、隣に座るジャックに止められていた。
「……あんな人たちのそばにいるなんて、可哀想です」
　考えて考えて、やっと導き出したジュエルの思いは、優しいものだった。
「確かに最低の人種だったね。オリクス殿達を見るかぎりは、あれがバオル国の国柄とは思えないけど」
　他国からの話を聞くかぎり、どうやらバオル国ではオリクスの性格の方が特殊な様子だ。
「だがわざわざエル・フェアリアに連れて帰る理由にもならないだろう。オリクス殿たちの保護下に置くか、バオル国に連れて戻れないならラムタルに置いておけばいいんだからな」
　アン王女を保護しているように、マガを。
　ジャックはやはり否定寄りの様子を見せるが、はっきりと否定しないのは内心でマガの心配をしているからか。
「…連れて帰ることでラムタル国に本当に恩を売れるなら反対しないんだけど、あの人はそれで軟化する人じゃないからね」
　どう考えても、バインドが感謝するとは思えない。
「バインド陛下としっかり話す機会があればいいんですが。…でも、こんなことに時間を使うのもどうかと…」
　ダニエルは理由を知りたがるが、こんな事のためにラムタルに訪れたのではないという思いが強そうだ。
「私がうまく話せば、マガの件を介してリーンの居場所やファントムの情報を聞き出せる可能性が上がる…わけがないね」
　逆の立場だとしても、コウェルズも話さない。
　そもそもリーンが本当にここにいる保証はないのだ。
　ラムタル出発前に手に入れた情報では、ファントムの仲間の青がラムタルの闇市に現れ、大会に出場すると分かっただけなのだから。
　その若者は確かにラムタル王城にいたが、それがリーンがここにいる理由とはならない。
　バインドから真実を知る為にも少ない手札を何とか増やしたいが、マガがそのカードになるとは思えなかった。
　所詮は離れた小国の私生児。虐待を受けて可哀想だからと秘密裏に保護するにも、それがエル・フェアリアと決める理由はない。
「こうやって別のことに頭を使わせて、私たちの本来の目的から遠ざけている様にしか思えないね」
「なおさらあいつを保護する必要なんか無いじゃないですか！」
　肯定意見の少なさからルードヴィッヒが鼻息荒く立ち上がるものだから、テーブルが強く揺れた。ジュエルの呆れ顔には気付いていない様子だ。
「…どのみちこんな少ない情報だけでどうするかなんて決められない。俺たちには俺たちのやるべきことがあるんだからな」
　ルードヴィッヒと同じ否定的ながらも、今はまだはっきりと答えは出さないジャック。
　ダニエルとジュエルも肯定とまではいかず、現状ではオリクス達の頼みを聴き入れる線は薄いが。
　なぜバインドが関わってきたのか、そこがコウェルズには強く引っかかった。
　ラムタルにとっても面倒ごとでしかない王女を内密に保護していることも含めて。
　そんなことをしてもラムタルに得など全く無いことくらいすぐわかる。
　ラムタルの機嫌を損ねないよう気を使うことしかできない国のはずだから。
　考えてみても情報が少なすぎた。
　なのに面倒だと切り捨てるには引っかかりが多すぎた。
　もしこれが本当に巡り巡ってリーンとファントムに繋がるなら捨てるべきではないのだが。
　眉を顰めながら思考を働かせ続けようとする頭を横槍で突かれたのは、ジャック達がコウェルズの思案の邪魔とならないよう黙り続けていた時だ。
　誰かがこちらに近付いてくる気配。
　自身の魔力で結界を張るコウェルズはふと気付き、顔を上げてみればジャックとダニエルも肯定するように頷いて。
「…結界を解くよ」
　不遜な気配ではなかった為にただの来訪者だとあまり警戒はせずに結界を解けば、すぐに扉を軽く叩かれた。
『どうしましたか？』
　腰を上げるのはダニエルだ。
　扉に近付いて開けてやり、何やら驚いて軽く身を引いた。
　扉の向こうにいる人物と少し話したかと思えば、笑うしかないといった力を抜いた笑顔で来訪者を招き入れてしまう。
　何事だと首を傾げていれば、訪れたのはラムタルの侍女達が十人ほど。
　いずれも両手で持たなければならない量の贈り物を抱えていた。
　口を開いたのは、先頭に立つ侍女イリュシーだった。
　コウェルズの正体を早々に知った彼女だが、見事にコウェルズの正体を知る事実を顔にも出さずにいる。
『各国の皆様から、ジュエルお嬢様への贈り物を預かっております。どうか大会を楽しんでくださいとのことです』
　冷静な口調だが、思いやる色がうかがえるのは、ジュエルが涙を流したことに起因するのだろう。
　侍女達が贈り物を部屋の隅のテーブルに置いていくのをぽかんと眺めていたジュエルが慌てて立ち上がり、侍女達の元へと駆けていく。
　釣られるように付いていったルードヴィッヒと共に、それぞれの贈り物の差し出し国を聞いて、何やら慌てた様子でジュエルは自分にあてがわれた部屋へと入ってしまった。
「…お礼の品を取りに行ったのでしょう」
　何事かと数秒見守るコウェルズとジャックの元に戻ってきたダニエルが、ジュエルが部屋に入ってしまった理由を教えてくれ、またその数秒後に扉が開いてジュエルは両手いっぱいの箱を持って現れた。
「贈り物なんて用意してたんだな…」
「サポート女性には常識のものらしい。交流なんかに使うと聞いたな」
　ジャックは自分が知らなかった大会の常識の一つに、感心するように目を丸めていた。
　コウェルズが広間でアークエズメルのサポートの娘達から贈られそうになった宝石菓子もその一つだ。他国の交流の中には、異性間の交流ももちろん含まれるから。
　その宝石菓子は早々にジュエルに贈られることになったが。
「ジュエル嬢が持ってくるとなれば、藍都最高級のレースと刺繍のハンカチ辺りかな」
　まさかジュエルの涙がここまでの影響力を及ぼすとは驚いた。これを機にエル・フェアリアと交流を持とうとしているのか、本当にジュエルを心配しての贈り物なのかはわからないが、なかなかの大事になっている様子にジュエルも少し顔を引き攣らせていた。
「こうなってしまえば、本当にバオル国はもう我々に突っかかっては来れないでしょうね」
　満面の笑みを浮かべたコウェルズに、ジャックとダニエルも笑ってくれる。
　邪魔な交流は望まないので、バオル国の厄介連中が落ち着くなら万々歳だ。
　ついでにマガの件も水に流れてくれたならと思うが、それが無理であることは、近付いてくるイリュシーから何となくわかってしまった。
『失礼します』
　静かに頭を下げるイリュシーは、コウェルズだけに目を向けている。
『大会出場者であるエテルネル様に個別に手紙を預かっております』
　差し出されたのは、ラムタルの絡繰りで細工された薄い木の小箱だった。
　対象者のみ開けることができる特別な絡繰りを受け取り、指先でなぞり開けて。
「……」
　小箱の中にあったのは、一枚のカードだ。
　書斎に来い。
　たったそれだけの言葉で誰が呼び出したのか理解する。
『…ご案内いたします』
　イリュシーの言葉は、強制的なニュアンスを多く含んでいた。
　絶対的な忠誠を王に誓っているのだろう。
　バインドに比べれば、コウェルズなど幼い子供同然だと。
　コウェルズの手の中にある呼び出しのカードを見たジャックとダニエルも、互いに目を合わせて状況を理解した。
　バインドとは話したいとは思っていた。だが、状況に対して急すぎる。それでも。
『…すぐに向かいましょう』
　余裕すらうかがえるほどの極上の笑みを浮かべれば、イリュシーは驚きながらもわずかに頬を赤く染めた。
　立ち上がり、イリュシーについて向かおうとして。
「…エテルネル」
　腕を引いて止めたのはジャックで。
「何もかも、全部自分で決めようとだけはするな。お前の味方は多いんだからな」
　優しい指摘は、コウェルズをよく知るが故の。
「……わかっていますよ」
　どこかくすぐったい言葉にふわりと笑んで、違和感からこちらに目を向けてくるジュエルとルードヴィッヒにも手だけを振って。
　あまりに突然すぎるが、頭は妙に冴えている。
　何を話すのか、何を言われるのか、何を聞くべきか。
　彼の書斎まではしばらく時間があり、頭の整理は充分につくことはわかっている。
　部屋を出てイリュシーの少し後ろを歩きながら、コウェルズは改めて再会するバインドへの警戒を強めた。

－－－－－