第76話
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絡繰りを駆使したラムタル王城の大浴場は、多くの人で賑わっていた。
ジャック達三人をジュエルの警護に置いて先に大浴場を楽しんだコウェルズは、浴場内で鉢合わせたクイとトウヤに血相を変えられた。
まさかコウェルズが大浴場を使うとは思いもよらなかったのだろう。
気まずそうな二人は置いて気ままなラジアータと共に絡繰りの大浴場を楽しみ、気分転換をしっかり済ませて広間に戻る。
コウェルズと入れ替わりでジャック達は大浴場に向かい、一人でジュエルを待つ間に思考を巡らせたのは昼前の出来事についてだ。
昼食時も、簡単な他国との交流時も、ラジアータと楽しんだ入浴時も頭の中で考えていたこと。
それは、アン王女とオリクスから頼まれた願いだ。
ラムタルとの対話を有利に進めるためにもバオル国の話を聞けとバインドは言った。
その内容は、あまりにも私的なものすぎた。
エル・フェアリアにとっては毒にも薬にもならないこと。
バオル国にとっては少しだけ有利不利が出てくる程度の。
なぜそんな頼みをコウェルズ達に願ったのか。
理由は聞いた。だが答えはまだ出してはいない。
どうしたものか。ロビーの壁際に背を預けながら一人しずかに考え続けるコウェルズの足元に影が伸びたのは、しばらく経ってからだった。
ちらりと顔を向ければ、異国の娘達が頬を赤らめてコウェルズの前に立つ。
三人だ。いずれも眼差しで、コウェルズの視線を浴びて嬉しそうに微笑んで。
『あの、エル・フェアリア剣術出場者の方ですよね?』
問われたので微笑みで返せば、キャア、と嬉しそうな声が。
『初めまして!アークエズメルからサポートとして参りました、テ』
『ああ、オデット姫様の婚約者様がいらっしゃる国ですね』
名乗られる前に、無難な話題でさらりと躱す。
『そうなんです!それで、あの』
『ジュエルお嬢様がオデット様と仲が良く、ナノア殿下のお話もよく耳にしています』
『あの…そうですね』
コウェルズが話を聞くつもりがないことを早くも悟った様子で、三人の娘達は少し残念そうな笑みを浮かべて諦めてくれる。
アークエズメル国の無駄にプライドが高い国民性のお陰で、しがみつかれることを何とか避けることができた。
アークエズメル国のナノア王子とオデットの婚約はそのうち解消してやろうと思っていることは、まだコウェルズとミモザだけの秘密だ。
「…エテルネル?」
そこへ、コウェルズが待っていた幼いお嬢様が入浴を済ませて呼びかけてくれた。
ジュエルの隣にはメデューサがいてくれて、その後ろにもユナディクスのサポートの娘達が付いているので、それなりの人数になってしまった。
『お帰りなさいませ、ジュエルお嬢様。メデューサ嬢、並びにユナディクスの皆様も、お嬢様を連れて行ってくださり感謝しています』
人当たりの良い笑みを浮かべて、ジュエルと共に頭を下げる。
その様子にコウェルズの正体を知るメデューサだけは固まったが、他の者達は朗らかにいてくれた。
『初めまして、ジュエルお嬢様、ユナディクス国の皆様』
そこに先にコウェルズに声をかけていたアークエズメルの娘達が近付いて、手にしていた箱をそれぞれジュエルとメデューサ達に柔らかな手つきで差し出す。
『私達はアークエズメルのサポートとして参りました。今日の出会いが良き始まりの日となりますよう、どうか我が国の特産を受け取ってください』
恐らくコウェルズ個人に近づく為に持ってきたのだろう贈り物を、とっとと諦めて新しい出会いの為の贈り物とする。
心根たくましい娘達の態度はいっそ清々しく、見ていてとても楽しめた。
アークエズメルの特産といえば、カラフルで美しい宝石菓子のはずだ。
特別な製法で作られるその菓子は見た目こそ宝石のように美しいが、口に入れると極上の甘さを残して一瞬で消えてしまうのだ。
娘達の憧れともいえるほど見た目も味も最高の逸品を知らない者がいるはずもなく、素直に受け取ったジュエル達は今まで聞いたこともないほどの嬉しそうな甲高い声を上げた。
好みの男を前にした時の甘さを含んだ声とはまた別の、本気の喜びの声だ。
宝石菓子を中心に夢中になって盛り上がる三国の娘達を生ぬるい目で見守っていれば、ようやく出てきたジャック達と目が合った。
合流しようと向かってくるジャック達に最初に向けられた視線は女絡みを疑うような視線だったので、苦笑いを浮かべながら宝石菓子を指し示して。
大会の醍醐味は戦士達の交流だけでないということを目にしたルードヴィッヒも、滅多にお目にかかれない宝石菓子を前に少し心を浮つかせた。
ユナディクスとアークエズメル国の娘達の中にジュエルと共に混ざっても違和感のないルードヴィッヒをしばらく見守ってから、娘達はそれぞれの国の戦士達に呼ばれて宝石菓子を囲む時間は終了となって。
「アークエズメルの皆さまから宝石菓子に合う紅茶の淹れ方を教わりましたの。部屋に戻ったらすぐにご用意しますわね!」
受け取ったお菓子の箱を大切そうに胸に抱えるジュエルがルードヴィッヒと共に戻ってきて、あ、と何か思い出したように表情が少しだけ陰った。
「…マガ様の分も、少し残しておいた方がいいですよね?」
ジュエルの言葉に、コウェルズ達は返事もなく黙ってしまった。
それはアン王女とオリクスの願いに通じるからだ。
「…まだ答えを出したわけじゃない。せっかく受け取った珍しいものなんだから、残さず楽しめば良いさ」
「確かに。宝石菓子はエル・フェアリアにもなかなか入ってこないからな」
ジャックとダニエルが気にするなとジュエルの肩を叩く隣で、ルードヴィッヒは不満顔を隠そうともしていなかった。
「とりあえず、一度部屋に戻りませんか?相談しなければならないことが山積みですから」
エテルネルとして言葉を丁寧に使いながら、有無を言わさず帰りの道を全員に歩かせて。
大浴場へと繋がる広間にはいくつかの道があり、その一つを選ぼうとしたコウェルズ達は、向かいから訪れた者達が足を止めたことに釣られて同じように立ち止まってしまった。
中央に近い場所で立ち止まってしまえば、自然と視線が集中してしまう。その中で。
『……これはこれは、エル・フェアリアの皆様ではありませんか』
対立するように立ちはだかるのは、バオル国の武術出場者の男と、そのサポートの者達だった。そしてその中には、マガの父親である老人と、抱きかかえるように付き従う女の姿もある。
『我が国の剣術出場者が何やら謝罪の場を設けたとか?何も聞いていないもので、何が言いたいのかよくわからなかったがな?』
コウェルズ達に頭を下げたオリクスがバオル国の剣術出場者であるとは謝罪の席で聞いており、彼のことを言っているのだとすぐに理解する。
オリクスはコウェルズ達との対話が終わってすぐ、問題を起こした彼らに注意をしたのだろう。
剣術出場者の陣営と武術出場者の陣営。二つの対立する陣営のお陰で、バオル国は一国でありながら二国存在するかのようだ。
そしてそれは、すでに他の国の耳にも入っているらしい。
奇妙な沈黙に包まれたホールの中で、バオル国のサポートの娘達がジュエルを目に留めて近寄ってきた。
『あなたがエル・フェアリアから唯一訪れたサポートのお嬢様ね。藍都の末姫様と聞いていましたが…』
そこで含むような笑みと共に言葉を止めて、他の娘達と目を合わせてさらに笑んだ。
明らかな嘲笑の眼差しは、こちらを挑発するためのものだろう。
昨日からの件で、エル・フェアリアとバオルが何か問題を起こしそうな雰囲気には他国の者達も気付いているはずだ。
その中で。
バオル国の娘達の声は大きくはなかったので他国の者達には聞こえてはいないだろう。それに、会話自体は諍うほどでもない。だが娘の一人がちらりとルードヴィッヒに目を向けたことで、彼らの考えを読むことができた。
ルードヴィッヒは昨日、ジュエルを庇う為に行き過ぎた行動に出た。それを狙っている、と。
案の定ルードヴィッヒはジュエルに向けられた挑発に激しく怒り、今にも掴みかかりそうな様子を見せた。
関わるつもりはないというのに、これではこちらにも非があるように思われてしまいかねない。
コウェルズの合図を聞くよりも先にジャックとダニエルはルードヴィッヒを下げようと動こうとしたが、
「…ひどい」
ぽつりと、本当に小さく呟かれた言葉に、広間中の全ての視線がジュエルへと向いた。
ジュエルは唇を強く閉じて、真っ向から娘達を見つめている。
睨みつけるわけではなく、ただ強い眼差しで。
その顔色が、赤く染まった。
その後すぐに涙が滲んで、コウェルズ達の見ている前でジュエルが慌てて涙を隠すように顔を逸らすしぐさを見せた。
ルードヴィッヒですらぽかんとジュエルを見つめたのは、こんな場面で涙を見せるような少女ではないと知っているからだ。
だというのに。
俯き、袖で涙を拭いて、顔を上げて。
痛ましいほどの庇護欲をそそらせるほど、鼻を赤くして涙を溜める姿は胸を打った。
ジュエルは涙をこぼすまいとするが、我慢して我慢して、結局いくつも溢れてしまう。
噛んでいた唇をさらに噛み締めて、つい先ほどもらった宝石菓子の入った小箱をきゅっと抱きしめて、言葉もなくただ悲しみのままに涙を見せる。
誰がどう見ても、健気で可哀想な女の子の姿だった。
ファントムが現れたお陰で混乱しているエル・フェアリア。だというのにラムタルの顔を立てる為に大会に訪れた高貴な身分の少女。
たった一人でサポートに訪れるなど、緊張と不安ばかりだったろうに、ジュエルは可愛らしくも丁寧な仕事を続けていた。
そんな女の子が見せた涙を、周りの者達がどう思うか。
ジュエルの涙にギョッとしたのはこの場にいる全員だったろう。
こんな場面で泣くはずのないジュエルを前に固まってしまったコウェルズ達よりも先に動いたのは、宝石菓子を囲みながら談笑し合った娘達だった。
『ジュエルお嬢様!』
メデューサを筆頭に駆け寄ってくるユナディクス国のサポートの娘達。そのすぐ後に、アークエズメル国の三人の娘も。
エル・フェアリアとバオルの間に壁となるように駆け寄ってきてくれた娘達は、メデューサ達ユナディクスの娘はジュエルを慰め、アークエズメルの三人は凛と胸を張ってバオル国の娘達を睨みつけた。
『…な、何よ』
『これ以上おかしなことをジュエルお嬢様に言うようなら、ラムタル国に動いていただきますわよ』
バオルがラムタルに頭が上がらない国であることを知った上での言葉に、娘達がグッと言葉を詰まらせた。
『…待ちたまえ…我々は彼女に何も言っていないぞ?』
バオル国の武術出場者の男がやや焦りを見せながらそう弁解するが、ユナディクスとアークエズメルの娘達はまるで気味の悪い者を見るように眼差しを嫌悪に染めた。
たしかに彼らは少し含みのあるという程度の言葉しか口にしてはいない。
だがジュエルを庇う娘達には思うところがある様子で。
『あなた達がおかしな事を吹聴していることは、ここにいる誰もが知っていますのよ。まあ、その噂話を口にされる度に他国の方々がうんざりしていることにも気付いていない様子ですから、仕方ないのかもしれませんけれど』
嘲笑と共に蔑む眼差しで見下されて、バオル国の者達が全員屈辱と怒りに震えた。
だが何も言い返すことは出来ず、周りの国々の冷めた視線を存分に浴びてから、ようやく踵を返して足早に去っていった。
『…バオル国は年々ガラが悪くなってきていますわね…オリクス様達はあんなにも紳士的で素敵ですのに』
アークエズメルの一人が最後につぶやいて、後の二人もうんうんと強く頷いて。
『…ジュエルお嬢様、大丈夫ですか?』
そして涙をこぼすジュエルのそばに寄り、メデューサ達とジュエルの無事を確認してくれた。
『…皆さん、お嬢様を助けていただき、ありがとうございます』
コウェルズの感謝の言葉には、当然だとでも言わんばかりの娘達の微笑みが返ってきた。
『バオル国の武術出場者側の方々は、自国と関係の無い他の国にも悪態をついています。もしまた彼らに因縁を付けられたら、すぐラムタル国に報告することをお勧めします』
『…もしかして、お嬢様方も?』
『はい。遠回しに宝石菓子を望まれたのですが、承諾せずにいましたら、すぐに』
アークエズメル国もバオル国との間に同盟関係が無いので問うてみれば、冷めた眼差しと共に案の定の出来事を聞いた。
娘達は泣き止んだジュエルにほっと胸を撫で下ろしながら優しい言葉をかけ続けてくれて、周りからの視線も気を使うかのように離れていった。
『本当に助かった。改めて礼をさせてほしい』
事が事だけにラムタルの侍女が近づいてくるのを最初に見かけたジャックが娘達に解散を告げれば、娘達も理解してくれてすぐ離れてくれて。
『ジュエルお嬢様、何かありましたらすぐに仰ってくださいね』
ジュエルの両手を取って救いを約束するメデューサに、まだ涙目のままのジュエルは情けなくも嬉しそうな笑顔を向けた。
こちらに到着したラムタルの侍女は簡単な説明だけで理解してすぐ離れていく。恐らくは泣いてしまったジュエルを慮ってくれたのだろうと悟り、コウェルズ達もジュエルを慰める為に早々に広間を後にして、部屋へと戻って。
道中が沈み切るように全員無言だったのは、ジュエルにどう声をかけてよいのか皆わからなかったからだ。
コウェルズでさえ、プライドの高いジュエルが涙を見せたことに内心で動揺しているのだから。
少女という年齢のわりによく泣くとはミシェルからは聞いていたし実際にその姿を目の当たりにもしてきたが、それは私的な場合に限っており、仕事に従事している時に泣きじゃくる娘ではない。
なら、なぜ泣いてしまったのか。
まさかコウェルズ達の目の届かない場所で何かあったのか。
そう思いながら部屋に戻って扉を完全に閉めてすぐ、ジュエルが先程の涙をまなじりに少し残したまま、平気な顔で頭を下げた。
「先ほどは見苦しい姿を見せてしまって、すみませんでした」
普段通りすぎる表情は、完全に先程の件について何も傷付いていないことを示している。
昨夜見せた涙とは、全く違う。
その様子に、また全員が固まった。
「……えぇっと…まさか…嘘泣き?」
コウェルズの問いかけは、小さな頷きで肯定された。
「悪質な言いがかりなどで困りそうになった場合は、その場に他国の者達もいるなら泣きなさいと侍女長達に言われましたので」
そしてケロリと伝えられる、嘘泣きの真実。
大人の侍女が冷静にもなれず泣き姿を見せたならただみっともないだけだ。だが未成年の少女であるジュエルなら、使い所を見誤らなければ最大級の威力となる。
高い出自の地位に驕らず、真面目で健気なサポートぶりを見せたジュエル。それ以外では子供らしい無邪気な姿も見せて。
わずかな時間だったが、目立つジュエルは他国からそんな評価を得ていた。
そんな女の子が、意地悪な者に関わってしまい、我慢したにもかかわらず我慢できずに泣いてしまったら、見ていた他国の者の目にどう映るか。
エル・フェアリアの王族付きの侍女達は、万が一を見越してジュエルに嘘泣きを教えていたのだ。
泣くのを我慢する様子を見せる為に、呼吸をしばらく止めて顔を赤くしてから、段階的に泣いていけ、と教えられた。そう話すジュエルの口調は、それが当然であるかのように何の疑問も持ってはいない。
「最終手段を使うには早い気はしましたが、バオル国とは昨日の事もありましたので、先手必勝とさせていただきました」
国が絡むほどの厄介ごとになる前に、相手からの悪意が離れて穏便に終わることが大前提だ、と侍女長達から教えられたのだと素直に話した後、もらった宝石菓子に興味が移った様子でそわそわと落ち着きがなくなり始め、お茶の用意をすると準備に向かってしまった。
残されたコウェルズ達はただ顔を見合わせる。
確かにジュエルの言う通り、無駄な厄介ごとにはならなかったのだろう。さすがのバオル国も、目の前でジュエルに泣かれて今後も無駄に絡んでくるとは思えない。
だがそうだとしても、コウェルズ達の心で何かが腑に落ちなかった。
「…まあ、周りを味方につけるのは、賢い戦い方ではあるんでしょうね」
女性ならではの戦い方とでも言うべきなのか。だが正攻法ではないだろうと思うもどかしい感情。
唯一の既婚者であるダニエルだけはジュエルの戦法に理解を示したが、コウェルズ達の胸にじわりと湧いた感情は、女性の強さと恐ろしさへの畏怖の念だった。
「…せっかくの宝石菓子だ。食べながら今後の相談をしよう」
ジャックが苦笑いを浮かべながらジュエルの後に続いていく。さらにその後を追うのはダニエルだが、こちらはジュエルを手伝う為に進路は少しだけ別方向だ。
共に残されたルードヴィッヒと目を合わせれば、困惑する眼差しはコウェルズ以上だった。
「…よろしいのでしょうか」
問いかけられたのは、嘘泣きで本当にバオル国との衝突が穏便に済むのかという疑問だろう。
「オリクス殿達からの頼み事がある以上、このままとは行かないさ」
今日はジュエルのお陰でこじれるほどの摩擦にはならなかった。
うまい具合にしばらくはバオル国も大人しくしてくれるかもしれない。
だが厄介ごとが消えたわけではないのだ。
「あんな国に関わる必要なんてないのでは…」
ルードヴィッヒの不満は最もだろう。コウェルズもエル・フェアリアの現状を考えればバオル国に関わってなどいたくない。だが。
「後ろ盾がいたんじゃね」
オリクスの後ろにはバオル国の消えた王女がいた。そしてその後ろには、バインドが。
「時間がない。最善を見つけよう」
ラムタルに到着して三日目。
短すぎる時間の中で、何が最も近道となるのか。頭を整理する為に、コウェルズはジュエルとダニエルが用意する茶席へと迷いそうになる足を進めた。
第76話 終