第76話


-----

 日は高く登った。
 ルードヴィッヒは心地良い日差しを頬に感じながら、訓練の為の軽い柔軟運動を行なっていた。
 隣にはジャックがいて、後の三人は離れた場所にいる。
 その離れた場所でコウェルズとダニエルは互いに剣を手に馴染ませながら話し込んでおり、ジュエルは静かに待機姿勢を見せて。
 唇を噛んで何やら我慢するようなジュエルの表情は、朝から見られたものだ。
 時折り俯きそうになり、慌てて頭を上げている。
 昨夜やはり何かあったんだと思ったが、話しかけることは朝から出来なかった。
「余所見すんな。そろそろやるぞ」
 痛くない程度に頭を叩かれ、ジャックの後を歩いていく。広い訓練場の開けた場所に向かうということはジュエル達よりさらに離れるということで、歩きながらも思わず振り返ってしまった。
 ジュエルはこちらを見ない。少し腹が立って、眉を顰めて顔の向きを戻した。
「……見てみろ。あいつすごいぞ」
 視界がジャックの背中を捕らえたとたんにどこかを指さされたからそちらに目をやれば、訓練場の端で兎の絡繰りを見つけて思わず引き攣る。
 昨日ルードヴィッヒを追いかけ回してボコボコにしてくれた恐怖の巨大絡繰り兎は、今はクイ、トウヤのそばでラジアータと戦闘を繰り広げていた。
 だが昨日醜態を晒したルードヴィッヒ達とは違い、ラジアータは難なく兎の突撃を躱していく。
 そばで見ているクイとトウヤもポカンと見入っており、周りにいる他国の者達まで訓練の手を止めていた。
 兎はラジアータを捕らえられない苛立ちを露わにするかのように何度も後ろ足を強く地面に叩きつけて、低い姿勢で前足ごと突っ込んでいくが、ラジアータはさらりと身軽に避け続けていた。
「風の動きに合わせているみたいだな…見えるのか?」
 ジャックは興味津々といった様子で目を輝かせながらラジアータの動きをブツブツと呟いて。
「……よく見ておけ。お前なら出来る動きだ」
「え?」
 ラジアータから目を離さないまま、ジャックは確かにそう言った。
「戦闘スタイルが似てるんだ。お前と同じで、筋力不足を身体のバネで補ってる。お前はまだ硬いがな」
 硬いとは身体のことなのだろう。ラムタルに到着する前の飛行線内でもジュエルに言われた。ジュエルというより、ジュエルを通したミシェルからだが。
「…柔軟性には自信があります」
 何となく不満が湧いて、唇を尖らせながら反論して。だが反論というより負け惜しみのように自分でも聴こえてしまう声色だった。
 ジャックも視線をルードヴィッヒに向けてくれて、数秒凝視してから笑われる。
「硬いって、そういうことじゃない。お前は十分に軟体だ。まだ動きの容量を掴めてないってことだよ」
 ひとしきり笑われてから、もう一度「よく見てろ」とラジアータへと視線を強要される。
 ラジアータはまるで目を閉じているかのように普段通りの気の抜けた表情のまま、突進し続ける兎を躱し続けている。
 時折り躱しがしらに兎の頭に手を添えて、強く押さえ込む素振りもないままポンッと地面に落とす。
 本当に軽い動き。だが兎は顎から地面に落ちて、辺りに土埃を上げさせた。
「敵の力に自分の力を少し添えて、動きの流れを変えたんだ。敵が受けたダメージは、そもそも敵が攻撃する際に発揮した力の分だから、ラジアータには少しのダメージも疲れもない」
 簡単そうに見えてかなり難しいことは、ルードヴィッヒも見ていてよくわかった。
 相手の攻撃を力で押さえ込む訓練ばかり行ってきた。その為に筋力も育ててきた。
「魔力の多い奴は筋肉が育ちにくい傾向にある。お前もそうだろ。なら戦闘スタイルを見直せ。お前の目指す武の動きは、ラジアータ寄りだ」
「…でもニコル殿は」
「あいつもお前が思うほど筋力が付くわけじゃないぞ。子供の頃から戦場で無理やり付いた筋肉があるってだけだ」
 戦場。その言葉に無意識に表情は凍りついた。
 ニコルが騎士となる前は戦闘の残る地域で兵士だったことは有名で、又聞きで聞いた戦場は、又聞きだというのに無情で凄惨だったから。
「じゃあ、こっちもそろそろ訓練開始だ」
 言いながらジャックは軽く走りながら身体をほぐし始めたので、ルードヴィッヒもそれに続いた。少し身体が温まる程度で済ませて、ちらりと周りの視線を窺って。
 エル・フェアリアというだけで他国の者達の興味は充分に注がれてはいたが、戦士達の大半がルードヴィッヒではなくジャックを見つめていた。
 大会の生きた伝説が間近にいるならルードヴィッヒでも注目するだろうが、少し腹が立ったのは自分に向けられる視線はどこか舐められたぬるいものばかりだったからだ。
「ラジアータの動きを思い出して、お前なりに躱してみろ」
 言い終わると同時に、ジャックが残像を残して消えた。あまりに突然のことに身動きひとつ出来ないルードヴィッヒの背中を、少し強い程度の力が押さえつけてきた。
 ルードヴィッヒでも簡単に耐えられる程度の、ただ手のひらで押しただけの力。
 だが動けなかった。
 一瞬で背後に回ってきたジャックは、ルードヴィッヒが身を強張らせている状況にため息をひとつ付いて背中から手を離した。
「少しは動け。防御も無しか?」
「……すみません」
「…まあ、俺も急すぎたか」
 状況を理解してようやくバクバクと強く脈打ち始める心臓が呼吸まで揺らすようだった。
 背後のジャックへと身体を向けて、引き攣った顔で見上げてしまう。
「…背後がまだ無理なのか?」
「え?」
「…いや、いい」
 妙な問いかけに対する答えは切り捨てられて、考える為に黙ってしまったジャックをしばらく待った。
「ま、説明しなくても身体で覚えるだろ」
 そして勝手に何やら納得して、ルードヴィッヒの額に右手を当ててきた。
「今からお前を後ろに押す。ラジアータの動きを思い出してお前なりに対処してみろ」
 言い終わると同時に、先程背中を押したと同じくらいの強くない力で額を押されて、ルードヴィッヒは足を踏ん張ってそのまま額にかかる力を殺した。
「…違う」
 ジャックの手が離れて、もう一度ラジアータを見てみろと視線を誘導されて。
 離れた場所にいるラジアータは今も軽々と絡繰りの兎を躱しており、それを真似しろと言われてもいまいちピンとは来ない。
「よし、じゃあ今お前にしたことを俺にしてみろ。腹でいいぞ」
「え…」
「まずはコツを掴ませてやる。全力じゃなく軽く打ってこい」
 言われるまま、まだ頭が少し混乱するまま、ルードヴィッヒは先ほどジャックが打ってきたと同じくらいの力でジャックの腹を押してみた。途端。
 グンと身体が前のめり、倒れる寸前でジャックに身体を支えられる。
 あまりにも静かな訓練。だが心臓はまた強く跳ねた。
 たった一瞬の出来事だが、この感覚を覚えている。
「…今のは」
「単純な動きだろ?お前の腕を引いただけだ」
 ジャックは腹を打ってきたルードヴィッヒの動きに合わせて腕を掴んで引っぱった。構える動作もなく、ふいに。
 強く引いたわけではない。ルードヴィッヒの力加減以上の強さは無かった。
 それでも自分自身では「ここで止まる」と予想していた所で止まらず身体がそのまま前のめるのは、身体のコントロールを失ったような錯覚だ。
「身体の動く流れを勝手に流し続けてやったんだ。相手の攻撃を受け止められない時はこっちのスタイルの方が有利だな。ほんの少し流れを追加してやるだけで、相手は勝手に地面や壁に体当たりしてくれる。流れの力を強めて威力を上げてやるのも手だ」
「身体の…流れ」
 ジャックのわかりそうでわかりづらい説明も、ルードヴィッヒには身体で理解できそうな気がした。
「…飛行船内で、この感覚を味わいました」
 崩れた体勢を整えてジャックから数歩離れてから、思い出すのは飛行船が大きく揺れた時にジュエルをかばった身体の動きだ。
 突然の揺れにバランスを崩し、ジュエルにのしかかるように倒れた。だが次の瞬間にはルードヴィッヒはジュエルをかばって彼女の下敷きになっていた。
 無意識に身体が動いたものだから感覚を忘れないよう努めるだけで精一杯だったが、ジャックの説明に頭が知識として理解しようとしていた。
「もう一度打ってもいいですか?」
「ああ。力加減もお前のやりたいようにやってみろ」
 言われてすぐに構え、本気の三歩ほど手前程度の力で拳を打ち込む。
 ジャックはいとも簡単にその拳の上に手を添えて、少し早い力で引いた。
 拳の軌道が逸れた瞬間、全身のバランスが崩れる。その感覚を身体に染み込ませた。
「覚えがいいな。さすがだ」
 満足そうなジャックの声を頭上に聞きながら足を踏みしめて体勢を整え、すぐに二撃目を向ける。それも同じように流されて身体が地面に沈んだ所で、ジャックに足払いをかけた。
「面白い!」
 嬉しそうな声と同時に足払いの蹴りを進行方向にさらに蹴られ、ルードヴィッヒは身体の流れを押さえきれず今度こそ地面に沈んだ。
 まるで一撃ごとに速度が増していくような戦闘。
「何笑ってるんだ」
 指摘されて初めて、楽しさに笑みを浮かべていることに気付いた。
 立ち上がりながら顔についた土を払い、ジャックをまじまじと見上げる。
「飛行船内でも、私はこの動きをしていたみたいです」
「どんな訓練してたんだ?」
「いえ、訓練ではなくて…飛行船が強く揺れた時、私はジュエルを押し倒すように倒れたのですが、気付いたらジュエルを庇って下になっていたんです」
 身振り手振りを加えた説明をジャックは興味深そうに聞き入り、やがて感心するように息を抜いた笑みを浮かべた。
「さすがは紫都領主の息子だな。俺が教えるより御父上に訓練を頼んだ方がよかったかもな」
「父はそんなに凄いんですか?」
「訓練付けられてないのか?」
「…騎士になりたいと伝えてからは厳しく訓練されましたが…」
 幼い頃からルードヴィッヒもそれなりに剣武の腕を磨いてきたが、父親から直接指導された時間は短いと思う。
 それに父親の訓練は、まるで騎士団入りを目指すことをやめたくなるような暴力的なものばかりだった。
「俺も若い頃に数ヶ月ほど世話になったが…あの訓練を耐えたんなら、今のお前の成長速度も頷けるな」
「ジャック殿が?」
「ああ。力を流す動きはその時に知った戦闘スタイルだ。お前も御父上の扱きから無意識に学んでたんだろうな。感謝しろよ。お前みたいな小柄な戦士には最も有利なスタイルだ」
 最後に気にしている身長のことを口にされて、少しだけ腹が立ったがグッと我慢した。
「もう少し訓練を続けて感覚をしっかり掴ませてやりたかったが…何かあったみたいだな」
 訓練の中断を告げるジャックが目を向ける方向にいたのは、こちらに近づいてくるコウェルズ達だった。
 その後ろにはラムタルの侍女が一緒に来ており、何か用件があることを察する。
 ルードヴィッヒは全身についた土埃を払いながら訓練の強制終了に眉を顰め、それに気付いたジャックに苦笑されながら髪の土埃を払われたところでコウェルズ達が到着した。
 先頭にいるのはダニエルだ。
「バオル国から正式に謝罪したいとの連絡がありました。時間に余裕があるなら今から話を聞きに行きますが?」
 時間に余裕とは、ルードヴィッヒとコウェルズの訓練時間のことだろう。
 コウェルズは構わないといった様子を見せるが、ルードヴィッヒは強く不快感を表情で示した。
 マガや他のバオル国の者の顔など見たくないという苛立ちが強くある。それになぜ自分達が別の場所に足を運ばねばならないのかとも思うからだ。
「そんな顔するな。大会期間中に他国同士で揉め事があった場合は開催国が仲介として間に入る決まりなんだ。場所の提供もその一つなんだよ」
 ルードヴィッヒの不愉快な気持ちを察したジャックが肩を強めに叩きながら理由を説明してくれるが、納得など出来ない。
「あと、バオル国が先に手を出してきたとしても、お前が向こうの人間に剣先を向けた事実は変わらないだろ」
 ジュエルに手を挙げようとしたバオル国の女に、怒りから魔具を発動させたのはやり過ぎた事実だ。
「…私はよくても、ジュエルの気持ちは」
「構いませんわ」
 なんとか会わずに済む方法を探して口にした言葉はすぐにジュエル本人に切り捨てられた。
「大人になれ。向こうが謝罪したいって言うなら、聞いてやるのも国力だ。許す必要なんてない。大人の対応を見せてやればいいんだよ」
 国と国が絡む難しい問題にどこで折り合いを付けるか。
 諭されて、ルードヴィッヒは否も応も答えず口を閉じた。
 その様子を見て微笑むのはダニエルで。
『お待たせしました。こちらはいつでも時間を空けますよ』
『ありがとうございます。準備が出来次第改めてお呼びしますので、しばらくお待ちくださいませ』
 機械的なラムタルの侍女は頭を下げると静かに立ち去り、喧騒の絶えない訓練場でこの場所だけが妙に静かになった。
「向こう側が待たせることはないだろうから、すぐに呼ばれるだろう。端に寄るぞ」
 五人揃って移動する間、ルードヴィッヒはちらりとジュエルを見やった。
 昨日の件からの一番の被害者である彼女は、凛とした表情でただ真っ直ぐに前を見ている。そこに今朝から見せていたつらそうな様子は見当たらなかったが、バオル国からの急な連絡に無理やり表情を引き締めていると容易に想像がついた。
 なぜ向こうの都合に合わせなければならないのだと苛立ちはまだ消えないが、この中でルードヴィッヒに発言権があるはずもなくて。
 突然、訓練場の遠方からワァッと歓声と拍手が響き渡り、振り返ってみればラジアータが兎の絡繰りを倒して周りの者達が興奮している様子が見えた。

邪魔さえ入らなければしっかりと見れたはずの訓練風景を奪われて、ルードヴィッヒはさらに苛立ちを顔に示した。

-----
 
2/4ページ
スキ