第76話
第76話
暗闇の中で目が覚めた。
仰向けの体勢。何も見えず、とても静かで。
ジュエルが朧げながらも思い出すのは、王子が兄がわりとなってくれた眠る前の出来事だ。
何があったのか尋ねられながらも、優しく寝かしつけてくれた。
手慣れてはいたが、ジュエルが馴染んだ兄の面影はなかった。それでも安心して眠りに付けたのは、彼が誰かの優しい兄だからだ。
コウェルズ王子が兄となってくれたことは思い出せるのに、それ以外は記憶が少し混濁して上手く思い出せない。
ベッドの中で、暗闇に馴染んできた目を動かして視界を広げて。
上半身を起こしてみたのは、睡魔が消え始めてからだ。
眠くない。段々と頭はすっきり冴えていった。瞼だけまだ重いから、起きたいのか眠りたいのかがわからなくなりそうだが。
自分は確かルードヴィッヒと喧嘩してしまって、見知らぬ男の子が手を引いてくれて、とても綺麗な女の人が怪我を癒してくれた。
それだけのはず。たぶん。
ぼうっとゆるい意識は、それだけしか思い出さない。
半ば無意識のように治癒魔術に癒された手首に触れて、暗闇の中であの女性を思い浮かべる。
とても綺麗で、笑った顔は可愛くて、真剣な顔は美しかった。
アリアとはレベルが違うとジュエルでもわかるほど洗練された治癒魔術。
先天的に治癒魔力を持たない者が治癒魔術を会得しようとすれば、短くても修行に10年かかるという。彼女の技術は、恐らく生まれつきだ。
第二姫エルザが治癒魔術会得の為に訓練を行っていることはエル・フェアリア王城ではすでに周知の事実となっているが、もし完璧に使いこなせるようになっても国内に二人しか治癒魔術師はいないということになる。
それがどれほど国力を下げているか、ジュエルも学んで理解している。
もしあの美しい女性のような治癒魔術師がもっとエル・フェアリアにいてくれたら。
そう考えながら、もう一度あの美しさを思い出して、頬が熱くなった。
自分が今何を考えているのか、わからなくなってくるようで混乱する。
閉められたカーテンの向こうはまだ暗そうで、何時頃なのか検討もつかないままで。
キシ、と軽い音を響かせながらベッドを降りて、目が馴染み始めた闇の中を手探りで歩き進んだ。
いくつかの障害物に手を添えながら、ようやくたどり着いた扉を開けて。
ふわりと薄暗い応接室のソファーに、コウェルズが一人で座っていた。
コウェルズも物音に気付きジュエルに目を向けてきて、その視線に誘導されるかのように無言で近付いていく。
言葉が出なかったのは、コウェルズ王子と口走ることができず、なおかつエテルネルとしての名も寝起きの脳裏に浮かばなかったからだ。
自分はこの人を何と呼んでいたのだろうか。何と呼ぶべきなのだろうか。
混乱したのは、恐らく彼が兄代わりとなってくれたから。
寝起きのジュエルが混乱するほど、不安だった心に兄としての優しさをくれた人。
「…起きて平気ですか?お嬢様」
コウェルズに促されるままソファーの端に座り、言葉にできないまま小さく頷いた。
静かな闇に包まれた室内。足の短いテーブルの上にある灯火だけが、灯りの量を絡繰りに制御されて優しくゆるく辺りを照らしている。
「数時間眠ってましたからね。お腹が空いているなら何か用意させますよ」
王子でありながら、楽しそうに従者の真似事をする。
立ち上がろうとしたコウェルズを止めて、言葉を発する為に深呼吸をした。
「……」
だが何を言葉にすればよいのかも分からず、音は漏れてくれなかった。
「…皆さん心配していました。ですが無事に戻ってこられて、安心しました」
優しい声で、優しい言葉をくれる。
その優しさに応えるようにそっと微笑んで、コウェルズが今まで読んでいたらしい本を彼の膝の上に見つけた。
「…その本は?」
表紙の文字はエル・フェアリアの文字だ。
「ああ、これは持ってきた本ですよ。少し調べたいことがありましたから」
背表紙の文字を目で追えば、歴代の王と王妃の記録が記されている重要なものだとすぐ気付く。
「…何かわかりましたの?」
何を調べたいのかはわからないが尋ねてみれば、パラパラとページをめくってから、コウェルズは苛立ちを隠すかのように首の後ろを掻いた。
「どうやら歴代の王妃達は、皆一様に病弱だったらしい、と」
それはジュエルにとって初耳の情報だ。亡くなったクリスタル王妃が病弱だったことは知っていたが。
「どこまで遡っても、何百年も昔の王妃を調べても。健康だったはずの娘が、王妃となったとたんに、ね」
コウェルズの説明に胸の深いところが、ぎゅう、とゆっくりと痛んだ。
「…どうしてなのでしょう?」
「……原因を突き止めないといけませんね」
表情の読めない微笑みを口元だけに浮かべながら、コウェルズは本をテーブルに置く。
焦るように握り締められた拳は、彼が自分の婚約者を大切に思うが故なのだろう。
サリア王女は健康だ。
イリュエノッド国と繋がる為の政略結婚に、最初に選ばれていた病弱な第一王女との婚約を破棄してでも選んだほどに。
「……アリアの治癒魔術は怪我に特化したものらしくて、病気の治療には不向きらしい」
不意に溢れるように呟かれた言葉は、従者の仮面を完全に落とした王子の声だった。
どれほど彼女を愛しているかわかるほど。そしてどれほど亡くすことを恐れているかわかるほど。
コウェルズの虚しそうな様子に、ジュエルは先ほどとは違う胸の痛みを感じた。
もしかしたら自分を癒してくれた美しい治癒魔術師なら病気も癒してくれるかもしれないが、彼女はラムタルの治癒魔術師だ。
エル・フェアリアには現存たった一人だけ。
「…治癒魔術師を目指したいです」
考えるより先に、言葉はこぼれた。
姿勢はぴんと正したまま、まっすぐコウェルズを見つめたまま。
コウェルズもジュエルを見つめる。
驚いたように目を見開いて、真意を測るように口を閉ざして。
静寂。
そのすぐ後に、コウェルズが右腕をふわりと上げた。
その瞬間に金色の魔法陣が開き、二人だけの部屋に一瞬で広がって壁にぶつかり溶けた。
溶けきらなかった魔力がキラキラと淡く瞬きながら、ゆっくりと床に落ちて消えていく。
「……自分が何を言ったのかわかっているのかい?」
ようやく口を開いたコウェルズの背後に、エル・フェアリアの全てがのしかかっているように見えた。
訂正するなら今のうちだと、心の声が聞こえそうなほどに。
ジュエルがするりと滑らせたように口走った言葉は、あまりにも重要な事案なのだから。
もしただの貴族の娘が憧れだけを胸に抱いて口にしたなら、誰も相手にしなかっただろう。
しかしジュエルは、上質な魔力を持って生まれた上位貴族のまだ若い娘なのだ。
治癒魔術師となる為の最低10年という修行期間も、現在12歳のジュエルなら若くして会得できる可能性を存分に秘めている。
コウェルズが発動した魔法陣は、他の者達に会話の内容が漏れないようにする為の魔術のはずだ。
特殊な力を使って会話を秘匿するほどのことをジュエルは口にしてしまった。
「…もう少し、しっかりと考えてからまた聞かせてくれるかい?」
「いえ。目指したいです」
考える猶予を与えてくれようとする優しさを蹴って、自分とは思えないほど意思強い口調で言い切ってしまった。
今までの自分自身ならばありえない言葉。
いつだってジュエルの言葉は“誰かから聞いた事実”だった。
兄がそう言ったから、姉がそう言ったから、友がそう言ったから。
自分の未来すら、誰かに「こうだ」と言われると素直に信じてしまっていた。自分で考えることを、あまりしてこなかった。
次第に胸がドクドクと強く響き始めた。
両手がわずかに震える。
冷えた緊張が全身に襲い掛かろうとする。
「…治癒魔術師になりたいと思ったのはいつから?」
否定的な口調で質問されて、グッと言葉に詰まった。
「…今です」
素直な返答。
たった今、まるで思いつきかのような。
「治癒魔術師になる為の修行は、そんな軽はずみな思いつきで出来るものではないよ」
「…浅はかに聞こえるのはわかっていますわ!…でも…」
そこで言葉は止まった。
コウェルズを説得する為の言葉が出てこないのだ。
どれほど頭を回転させようとしても、なぜか真っ白のまま。
自分が今までどれほど他人の言葉を借りてきたかを痛感する。
悔しくて頬から表情が硬く強張っていくのがわかる。同時に涙が滲んだ。
「……本気です」
ギリギリ音を保つ程度のかすれた声でそう伝えることが精一杯だった。
たしかに昨日まで治癒魔術師を目指そうなど考えなかった。
でも今は、焦がれるほどの思いがある。
圧倒的な治癒魔術を見せつけられて、憧れることは浅ましいことなのか。
「今は本当に本気だとして、それが一過性ではないと言い切れるかい?治癒魔術師獲得は国の悲願だ。修行を始めた後でもう嫌だとは逃げられないんだよ」
「絶対に逃げません!」
そんな簡単な言葉しか口にできない状況で、どこまで説得できるのかわからないが、諦めたくはなかった。
ひたすら真剣な眼差しを向け続けるジュエルに、コウェルズは視線を落としてため息をひとつついた。大腿に両肘をついて、まるで深く考え込むように険しい様子を醸し出す。
「…君が本当に治癒魔術師を目指すとして…私が国に伝えればすぐに準備は整えられる。数年は藍都に戻ることも出来ないし、他国に長期滞在も有り得る。君の為の護衛部隊もすぐに用意されるから、君一人の為に騎士団と魔術師団を巻き込むことにもなる。万が一君が逃げるようなことがあれば、ガードナーロッド家への批判は凄まじいものになるよ。ただでさえ…」
それ以上の言葉はコウェルズが自身で止めた。
ただでさえ、何なのか。
見当は付く。
ただでさえ、藍都の長女と次女の王城での悪評は凄まじいものなのだから。
ジュエルにとっては優しい人たち。だが他者からの評価は、ジュエルも知っている。
「…信じていただけないのは承知しています…でも、信じてください」
説得の言葉なんて出てくるはずもないまま、不器用な自分自身の言葉を必死に絞り出す。
自分で考えて自分で口にする言葉がこれほど難しいなんて思いもしなかった。
なんて未熟なのだろう。涙はまた滲んだ。
それでも真剣にコウェルズを見つめ続ける。それしか出来ないから、まるで睨みつけるほどに。
また数秒の沈黙が続き、小さく息をつく音が室内に響いた。
根負けするかのようにコウェルズが頭を掻く。
「…まだ君の言葉を信用できない。しばらく考えさせてもらう…今は大会のサポートに従事して、治癒魔術師の件は私から訊ねないかぎり自分からは絶対に口にしないと誓いなさい」
大人が子供に諭すような命令口調。
悔しくて唇を噛みそうになったが、ジュエルは静かに俯いて、少ししてから頷いた。
「…お腹は空いてる?」
「……すいていませ」
最後の発音は必然的に無音となった。
悔しさが涙と変わらないように必死だったから。
浅はかと取られても仕方ない。
それでも悔しい。
「じゃあ、もう一度休んでおいで。朝食までには起こすから」
まるで見限るかのような冷たい口調に、思わず強い眼差しを向けるが、すぐに耐えられなくなり、走り去るようにしてその場を離れて部屋に戻った。
悔しい。
悔しいとしか思えない。
強く閉めた扉に背を預けて、ボロボロと涙をこぼす。
きっと説得の材料は山ほど存在したはずなのに、ジュエルの中にある言葉の手札は何もなかった。
自分がどれほど周りの言葉だけで生きてきたかがわかった。
自分自身で考えて話すことをしてこなかったと痛感した。
それを、自分の成長だ、一歩前進したのだと思えるほどの肯定姿勢もあるはずがなくて。
腰を落として、涙を溢れさせ続けた。
胸が苦しくて、床にうずくまるように身を倒す。涙は止められないが、せめてのプライドが声を上げて泣くことを許さなかった。
せっかく見つけた、なりたい未来。
だがその未来を掴むための言葉すら浮かばない頭。
どこから変わればいいのか、何から始めればいいのか、何もかもわからなくて。
でも
ーー諦めたくない
強く、思う。
治癒魔術師の女性に憧れたのは確かだが、それだけではないことを、まずは言葉にしなければ。
そして自分が決して諦めないということを証明しなければ。
どうすればいいのかなどわからないが、絶対に。
上位貴族として生まれた誇り高い娘だというのに床にうずくまって泣き崩れたまま、ジュエルは怒りとも悲しみとも取れない熱い感情を強く胸に刻みつけた。
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「…結界を張りましたか?」
ジュエルが去った後すぐに室内の結界を解けば、ジュエルの部屋とは真逆の扉が開かれてジャックとダニエルが難しそうな顔をしながら現れた。
結界を張る間は外からは扉も開かなかったはずで、コウェルズの結界にすぐ気付いて待っていたのだろう。
「いったい何が…」
「ジュエルお嬢様と話していただけです」
口調をエテルネルに変えてニコリと微笑めば、ため息は同時に二つ分だ。
ソファーに座ったままのコウェルズの元に二人は揃って訪れるから、手近にあった紙にサラサラと文字を書く。
ジュエルが治癒魔術師になりたいと告げた。その文字を二人が見たことを確認してから、その紙をすぐに魔力で燃やす。
どこで誰が聞き耳を立てているかわからないのがこの大会だ。迂闊に言葉にできないことが面倒臭い。
コウェルズの両隣に座る二人は互いに目を合わせてから、静かにコウェルズの言葉を待ってくれた。
「突然言い出したことなので、まだ本心かどうか測れません。今は本気でも、明日明後日はわかりませんから。突発的に言ったようにしか聞こえなかったので、様子を見ます」
コウェルズが感じたことを嘘偽りなく伝える。
ジュエルが何を思って治癒魔術師になりたいと宣言したのかわからないが、信用するには彼女は若すぎた。
アリアとは訳が違うのだ。
エルザとも。
三人目の治癒魔術師として王城で囲うには、ジュエルはあまりにも未熟だ。
「…まあ、肯定的にみてやってもいいんじゃないか?」
宥めるような口調を聞かせるのはジャックだ。
「ジュエルが上の姉二人に似てないことはこの短期間でよくわかった。あの性格なら、一度言い出したことはきっちり守るんじゃないか?」
信じてやれ、と暗に言われて、反論しようとした言葉を飲み込む。確かに否定しかしていないと自分でも気付いたからだ。
だからとすぐ肯定的にはなれないが。
ジュエルの立場は、良くも悪くも重要なのだ。
「…そういえば、ルードヴィッヒ殿は?」
話題を変えるために出した名前は、もう一人の未熟者の名前だ。
「ああ、こんな近くで発動した結界の魔力にも気付かずに寝てるぞ」
「お前が扱きすぎたせいだろ」
行方不明だったジュエルが無事に戻って部屋で眠りについた後、興奮状態となっていたルードヴィッヒは無理やり訓練に連れ出され、戻ってきた瞬間に白目を剥いて気絶した。
そのまま今まで眠り続けているのだから、短時間で相当な訓練を課されたのだろう。
「…女の子に、騎士団レベルの訓練は耐えられるかな?」
治癒魔術師の訓練と騎士団の訓練は全く別物だ。だが、全て違うというわけではない。
そしてそれを肯定するかのように、ジャックとダニエルも顔を見合わせ、口を閉じた。
蝶よ花よと可愛がられて育ってきたジュエルに、辛い訓練をやり遂げる精神力が備わっているとは思えない。
この時点でのコウェルズ達のジュエルの評価は、そう決まってしまった。
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