第75話
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全ての準備が終えた時、日は完全に落ちて夜空を満天の星が瞬いていた。
モーティシアの瞳にはそれ以外にも国の結界となる虹がいくつもかかる様子が見えるが、魔力を持たない多くの平民にはただの星空としか思わないだろう。
夜ともなれば完全に冷え切るはずの冬のバルコニーだというのに外套もなく椅子に寛いでいられる理由は、準備の副産物だ。
少しひやりとする程度に抑えられて、頭を冷やすには丁度いい温度。
マリオンを守る防御結界を張る為にモーティシアが行ったのは、隣近所の個人邸宅の持ち主である仲間達に伝達鳥を飛ばすことだった。
全員顔見知りの魔術師であったおかげで、本格的な実験をしたいから邸宅の一部に結界を張らせてほしいと頼めば全員からすぐに快諾の返答があった。
自宅で行える結界は全て終わらせ、近隣も巻き込んで完璧にマリオンの存在を消して。
万が一怪しまれたとしても、この辺りは魔術師が多い為に魔術実験で通る。それほどに邸宅を巻き込んだ個人実験は魔術師達の共通の趣味なのだから。
ひと段落ついたことで休憩したくてバルコニーを選んだのは、ここからなら眠るマリオンをぎりぎり確認できるからだった。
テューラの衣服を抱いて眠り続けるマリオン。起こしたくなくて、ベッドのシーツはそのままだ。
激しいほどの快楽の時間を思い出しそうになり、眉を顰めて夜空を仰ぐ。
あれはマリオンが男から受けた恐怖を忘れる為に手を貸しただけの行為であり、それ以上の感情など無いと自分自身に言い聞かせる。
のめり込むな、深入りするな、と。
そこまで考えて、自宅で守ることを決めたほどには深入りしている事実に苦笑する。
たかが一人の遊女の為にやりすぎだろうと心のどこかで何かが嘲笑ってくる。
彼女は何人何十人、何百人もの男と身体を交わらせ、快楽の表情をモーティシア以外にも見せてきたはずだ。だから先程の行為中に彼女の姿に魅入ったなど馬鹿らしいと。
そう思えば思うほど、自分自身がそう思いたいだけだろうと心の一部に閉めた蓋を開けようとする気持ちがあって。
深く考えるな。心に何度も言い聞かせてきた言葉をもう一度思い浮かばせて、夜空を見上げていた視線を室内のマリオンに向けた。
朝から今まで、濃密すぎる怒涛の一日だった。
その一日を、彼女と過ごしたのだ。
モーティシアが静かに見つめる先で、まるで視線が目覚ましであるかのようにベッドの上でゆっくりとマリオンが起き上がった。
最初のうちは呆けたまま辺りを見回しており、モーティシアがバルコニーにいることに気付いてほっと安堵の表情を浮かべる。
バルコニーと部屋を隔てるガラス戸越しに目が合うから、指先で彼女のそばに着替えがあることを示す。
その合図にすぐに気付いてくれて、マリオンはモーティシアが寝巻きにしていたシャツを手に取った。
ずっと抱きしめていたテューラの衣服をようやく離して、体に合わない大きなシャツを上から着て。
モーティシアが大柄というわけではないのにマリオンが小柄なせいで、ゆったりと着心地の良い寝巻きは襟が肩までずり落ちて妙な見栄えにさせる。
下も用意していたというのに気付いていないのか、マリオンはそれだけを纏ってベットから降りた。
丈も膝上まであるので局部が見えるわけではないが、生足は目に悪い。
腰をかばって少し歩きにくそうに近付いて、ガラス扉を少しだけ開けて。
「…モーティシアさん」
「……バルコニーにも結界が張ってあるから、出てきても平気ですよ」
大丈夫だからおいでと手を差し出すが、マリオンは夜空を見上げ、モーティシアに視線を戻し、そして最後にうつむいた。
言葉もなく首を横に振って、唇を噛み締めている。
怖いのだと全身で訴えかける様子に、小さなため息は漏れた。
「…では夕食にしましょうか。昼間も食べていないから、お腹が空いているでしょう」
無理やりバルコニーに出して怖がらせたくはなくて、安心できると自分で気付くまでは仕方ないと部屋に戻る。
「パンとスープくらいしか用意がありませんが、いいですね?」
ガウェの邸宅のように使用人が何人もいて急な来客の為に万全の準備が出来るほどの甲斐性は無いが、最低限空腹を満たせるだけの保存はある。バルコニーから部屋に戻り、二階を後にする為に早々に歩きながら話せば、後を付いてくる気配を見せていたマリオンが突然動きを止めた。
どうしたのかと振り返れば、マリオンは顔を真っ赤にして下腹部のさらに下のあたりを押さえている。
「…マリオン?」
名前を呼ぶのと、コプ、と静かな水音が響くのは同時だった。途端にマリオンはさらに顔を赤くして少しだけ前屈みになる。
上着を着ただけの露出した脚の内股を、水音を響かせて溢れた液が伝った。
モーティシアが最奥に放ったものが、今になって出てきたのだ。
「…風呂場の場所は覚えていますね?夕食の用意をしておくので、先に汗を流してきてください」
気付かないふりをするわけではないが、あえて別の理由からだと階段を促して。
「…ありがと……」
マリオンは今にも消えてしまいそうな声で呟いて、顔を真っ赤にしたまま歩き方のおかしな早歩きでモーティシアの前を通り過ぎて行った。
トン、トン、とたどたどしく降りていく足音を聞いてから、モーティシアが足を運んだ場所はベッドの側だった。
眠る時の為にシーツを取り替えて、下まで染みている様子にため息をひとつ付いてから、魔力を少し発動させて。
熱で乾燥させる程度なら原始的で簡単なのだ。
魔力によって淡く光るモーティシアの手のひら。
濡れたベッドにその手をかざせば、光はその場所に留まった。
これでしばらくすれば乾いてくれるはずだと二階を後にして、食事の準備のために台所に向かって。
途中で聞こえてきた風呂の音は妙に静かで、その中にまた涙ぐんでいる音を聞く。
ここまで弱い娘だったのかと、心がシンと静まり返った。
モーティシアには今以上のことはマリオンには出来ない。
命の危険を回避する確実に安全な場所を与えてやれる自信があるが、不安な心まではどうもしてやれない。
マリオンがモーティシアを心から信用してくれなければ。
そしてそれは、どれほどの時間がかかるのだろうか。
「…馬鹿馬鹿しい」
思わず呟いたのは、彼女がこのままここに居続けることを前提に考えてしまったからだ。
とっとと解決してさっさと遊郭に帰すか家族の元に戻すことだけ考えればいいのだと頭を振って、風呂場のそばを離れる。
保存用の乾燥スープを水に戻して、熱して、乾パンを取り出して。
あまりに味気無いが、明日まではこれで我慢してもらわなければならない。
それ以降は王城の配達機関に頼めば大丈夫だろうとこの件も考えることをやめて、マリオンが戻るまでのつなぎとして手近な本を手にソファーに座る。
あまり頭には入ってこないまま目だけで文字を追い、無意味にページを進めて。
それを恐らく数分繰り返した頃。
トタトタと軽い音を立たせながら、マリオンが風呂から出てこちらに来ることには音で気付いていた。
形だけとはいえ、読み進めていた本の都合の良いところまで目で追っておきたいとマリオンを無視して文字だけを追って。
お湯の香りと、ふわりと重くなる肩と。
マリオンに背中ごしに抱きつかれて、さすがに本を閉じた。
テーブルに本を置いて待ってみても、マリオンは抱きしめる腕の力をキュっと強くするだけで。
「…どうしました?」
問いかけて、しばらく沈黙が続いて。
「……マ」
「いつお城に戻るの?」
数十秒経ってしびれを切らして名前を呼ぼうとしたところで、モーティシアの問いかけは質問で返された。
マリオンの言葉の真意は、自分がこの家で一人きりになることを指している。
それが怖いのだろう。
「そうですね…明日の昼前にはここを出なければいけません」
共にいられるぎりぎりの時間を告げれば、抱きしめてくる腕の力がさらに強くなった。
数秒後に、深呼吸のような長いため息を震えながら首筋にかけられた。
「近隣の邸宅とも連携して結界を張っています。安心しなさい」
「…そうじゃないよ……」
また涙声で、また耳元で。
ならどうしてほしいのか。問おうとして、先に口を塞がれた。
柔らかい唇の感触と、頬にかかる濡れた髪。
マリオンは体を離すとすぐにソファーの前にやって来て、モーティシアの腕の中に潜り込んできた。
「…一人にしないで…」
涙を浮かべて見上げてきて、切実に願って。
モーティシアの腕の中に収まるほどか弱い娘が、モーティシアだけを頼りにする。
「…モーティシアさん」
名前を呼ばれて、甘い疼きが全身を撫でた。
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欲望が芽吹く。
マリオンは自らまたモーティシアに唇を寄せて、服従するような眼差しをひたすら向けてくる。
それがひどく劣情を煽った。
所有欲、支配欲。
そういった全ての欲がモーティシアの心に根を張っていく感覚。
あまりに甘美な欲望が生まれたその瞬間、モーティシアの胸から国を思う気持ちは確かに小さく狭められてしまった。
第75話 終