第75話


ーーー

 王婆達の動きは迅速だった。
 伝達鳥を使い、物々しい雰囲気を醸し出す遊郭街の自警団の者達と中央警備隊の護衛員達、そして馬車を王都兵舎まで呼びつけ、兵舎内の見えにくい端に待機させておく。
 その間にマリオンを襲った男が闇市の者達の手により解放され、遊郭街の者達と闇市の者達が睨み合った。
 男は闇市の者達によって早々に兵舎を連れ出されたが、遊郭街の者達が見えたことによりマリオンがここにいるのだと勘づいたように帰ることを嫌がった。
 しかし無理やり兵舎から連れ出されていく。
 その様子を兵舎の最上階の窓から見つめていたのは楼主で、男が闇市の者達と完全にいなくなるまでひと言も発さずに睨み続け、視界に入らなくなってからようやく向き直った。
「一応は闇市の方角です」
 闇市側も遊郭街と表立って敵対したくはないはずで、しばらくの間は男を監視してくれると信じたい。
 王都兵達も遊郭側の味方になってくれている中、モーティシアが静かに待機する一室にいないのはマリオンとテューラだけだった。
 あらかたの事情は少し前に話しており、今は準備の為に二人は隣の部屋にいるのだ。
 物々しい空気の中、ようやく響いてきた扉を叩く音。
 すぐに入室を果たすマリオンとテューラは、互いの衣服を靴まで交換し、髪型も互いのスタイルに変えていた。
 身長と顔までは変えられないが、顔を隠す為にストールがテューラの手の中にある。
 二人が戻ってきたことにより、王婆は自ら二人の元へと足を運んだ。
「あなたの身辺の安全を完全に手に入れるまで、決して彼の家から出てはいけません。万が一何かあったなら、すぐに伝達鳥を飛ばしなさい」
 身辺の安全とは、男が完全にマリオンを諦めるか、この世から消えるかを指している。
 そしてそれは、モーティシアがガウェに直接話すことによって決まるのだろう。
 ガウェが話を聞いてくれるかはわからない。
 まだ彼に気を許されていない自覚があるからだ。
 それにもしマリオンを救う為に闇市側と交渉してくれたとしても、まだ若いガウェの言うことを聞くとも限らず、さらに別の問題もある。
 マリオンは憔悴しきって今にも泣き出しそうな表情をしており、テューラや王婆達と離れることに不安しかないのだとありありと示していた。
 王婆がモーティシアの魔術の一片だけを見て信用してくれたのは、長く生きた年数分、王城に勤める魔術師団のことも理解しているからだろう。
 しかしマリオンはまだ魔力というものの力を理解してはいないのだ。不安になるのは当然だと思えた。
「…マリオン」
 マリオンの隣に立っていたテューラが、不安を隠すようにマリオンを強く抱きしめた。
 身代わりとして遊郭街に戻る程度のことしか出来ない自分が歯痒いのだろうが、テューラも華奢な娘でしかなく、危ないことなど本当ならさせられない。
 楼主はテューラが身代わりとして衣服を交換することも難色を伝えてきたが、テューラの強い願いが勝ったのだ。
「…この髪飾り、しばらく持ってていい?お守りにしたいから」
「……もちろんよ」
 マリオンは自分の頭を飾る金縁の宝石を撫でて情けない笑顔を見せ、テューラも同じように泣き出しそうな笑顔で返して。
「…家での術式の準備もありますので、そろそろ出発したいのですが」
 あまり皆の邪魔にはなりたくなかったが、モーティシアもマリオンの安全を確保する為に時間が必要で、やむなく急かしてしまった言葉に全員の視線が向けられた。マリオンも改まるように胸に本だけを抱きしめて、自分を奮い立たせるように表情を強張らせる。
「…絶対にマリオンを守ってくださいね」
「任せてください」
 テューラにも頭を下げられてから、モーティシアは自分とマリオンに術式を組んだ魔力を放つ。
 不安げな表情を浮かべるマリオンの手に触れて、痛まない程度に強く握って。
 術式をかけ終えれば、テューラ達はモーティシアとマリオンを探すように視線が合わなくなった。
「…モーティシアさん」
 マリオンも自分がテューラ達の視界から消えた様子に気付いて不安げに見上げてくる。
 モーティシアとマリオンを視認できるのは、今や互いだけなのだ。
「声は周りにも聞こえます。外ではなるべく話さないようにしてください」
 質問は全て後にして、今は安全の為に動いてくれと。
 マリオンを連れて早々に兵舎を出て行こうとするモーティシアに、視線も合わないまま王婆が立ち上がった。
「モーティシア様も、万が一危険が及んだ場合はいつでも私たちを頼ってくださいね。私たちも、マリオンを守ってくださるあなたを守ります」
 心強い王婆の言葉に、見えないとわかっていながらもモーティシアは頭を下げた。
「…ありがとうございます。とても心強く思います」
 そして、今度こそマリオンを連れて王都兵舎から離れた。
 部屋を抜け、階段を降り、自分たちの足で出て行く。
 馬は使えず、ここからモーティシアの個人邸宅までは少し時間がかかるが。
 マリオンは兵舎の敷地を出る際に、ここまで来てくれた自警団と警備隊の者達にも視線を送るが、彼らもマリオンに気付くことはもちろんなかった。
 モーティシアが告げたことを忠実に守って口を開かずついてくる。
 小柄な彼女の歩幅に合わせて意識して歩みを遅くするが、気を抜くと焦るように早歩こうとする自分がいて。
 昼前の時間帯は人の足も多く、モーティシア達が見えないのでぶつかりそうになることも何度もあったが、注意して歩みを進め続けた。
 王城に向かって大通りをひたすら無言で歩き、途中の道を曲がる。
 じきに王城勤め達に割り振られる居住区画に入れる。そう安堵したモーティシアの視線の向こうで、見知った者達がこちらに向かって歩き近付いてくる姿を見つけた。
 トリッシュ、アクセル、レイトル、セクトル、ガウェの五人で、だらだらと散歩するかのように歩いて向かう場所は王城だろう。
 モーティシアと違い、この五人は昼過ぎには城に戻らなければならないのだから。
 親しい者たちの登場に、しかしモーティシアは自分も彼らに気付いていないかのようにひたすら家路だけを求めた。
 マリオンの腕を引きながら、彼らを横目に見ることもせずに。
「ーーーー」
 道路を挟んで彼らとすれ違った瞬間、歩みを止めてこちらに振り向いてきたのはアクセルだけだった。
「…どうしたんだよ?」
「……いや…わかんないや」
 術式の解読に長けたアクセルだけが、モーティシアの発動している魔力の術式に反応したのか。しかし気にするほどでもないと結論付けて去って行く。
 遠い場所から聞こえてくる声は少しだけ不満そうで、それが彼らしくて、モーティシアは少しだけ笑ってしまった。
 王城勤めの居住区画の中で、モーティシアの生まれた下位貴族に割り振られているのは区画の入り口近くで、その中でもさらに独身者向けに区画分けされた道を進んで。
「…入って」
 到着した家の門を開けて、マリオンの腕を離すことなく小声で短く伝えた。
 今も不安げに怯えるマリオンはまだ無言を守って、言われるがままにモーティシアの家に入って行く。
 門を抜けて、玄関の扉をわずかに開けて、二人で入ってからすぐに閉めて。
 自分の家だというのに、まるで侵入者のような気分だった。
 玄関の扉を閉めてすぐに、昔生み出した結界用の術式をいくつも発動させる。
 マリオンはひたすらモーティシアを見守って立ち尽くし、モーティシアの視界に早く自分が映ることを待つかのようだった。
「……お待たせしました。よくここまで頑張りましたねーー 」
 今できる範囲の全ての術式を発動し終えてから、一息つく前にマリオンに向き直った瞬間、マリオンはモーティシアの胸に強く飛び込んできた。
 本ごと飛び込まれて、うまい具合に鳩尾に固く強い衝撃が走る。
 その痛みを何とか堪えて、抱きしめてやることはせず両肩に手を置くだけに留めた。肩を震わせるマリオンが落ち着くまでぽんぽんと指先だけで慰めて。
「…ごめんなさい」
 ようやく口を開いたかと思えば、弱々しい謝罪に思わず眉を顰めた。
 モーティシアは巻き込まれただけだが、それはマリオンも同じなのだ。だがマリオンは、何度も謝罪を繰り返してくる。
「ごめんなさい…ごめんなさい……」
 自分に責任があると言いかねないほど深い悲しみを声に滲ませ、鼻を詰まらせ、やがて泣き始めた。
「……ここは安全ですから…沢山泣きなさい」
「ーーふ、う、うぁぁぁ…」
 恐怖と安堵の入り混じる泣き声が、静かな家に深くこだまする。
 今まで堰き止めていたものが全て溢れ出たかのように、マリオンは本を強く抱きしめながら、モーティシアの胸から離れず泣きじゃくり続けた。
 こんなにも弱々しい娘が、男と一対一となる仕事を続けていたなど信じられないほどだ。
 腰を抜かしてその場にへたり込むマリオンに合わせてモーティシアも床に腰を下ろし、肩に置き続けていた腕をその小さな背中に回した。
 マリオンに非など一切存在しない。
 全ては自分の感情をコントロールできなかったあの男の責任だ。
 だから謝る必要など無くて、だがモーティシアは、そう伝えることはせずただ彼女の背中を優しく撫で続けた。

ーーー

 マリオンがやっと落ち着いたのは、数十分は経った頃だろうか。
 モーティシアの腕の中でもぞ、と新たな動きを見せたことに気付いて見下ろせば、泣きすぎて目と鼻を真っ赤にしたマリオンが、潤んだ瞳のまま情けないほど眉尻を下げて見上げてくるところだった。
「…ごめんなさい」
 何度も口にしてきた謝罪をまた。
 今度はじっと見上げてきながら呟くものだから、とうとうモーティシアも小さなため息をついてしまった。
「あなたが謝る必要なんてないんです」
 頭を撫でることに慣れてしまったかのようにまたその髪に触れて、二度ほど撫でて。
 もう謝罪は受け付けない。そう言葉で示しても、マリオンも納得はしなかった。
「…そんなことない」
 涙声のまま、詰まらせた鼻をスン、とすすりながら。
「…たしかに私は巻き込まれただけですが、あなたも同じくおかしな男に巻き込まれただけでしょう」
「そんな風に思えない!」
 あの男はマリオンの客だった。
 だが、だからと責任を感じるなど。しかしモーティシアも自分がマリオンの立場だったならと考えて、責任をかけらも感じないなど無理かと少しだけ気持ちを汲んでやった。本当に自分がマリオンの立場なら男に対して怒りしか湧かないが。
「ではこうしましょう。私の家にいる間は、誠心誠意掃除をしてください。一人ではどうも怠けてしまって、掃除を疎かにしてしまうので」
 そもそもマリオンを家に置く間は彼女を雇うという体裁を持つことにしていたので、改めてそう伝える。
 息をするように簡単な防御結界を発動するだけで苦手な自宅の掃除をしてもらえるなら、安いものだ。贅沢などできない下位貴族の生まれとはいえ、マリオン一人くらい十二分に養える給金はある。
「安全を確保するまでここはあなたの家です。準備しておきたいこともありますし、とっとと案内しますよ」
 騎士と違って鍛えていないモーティシアでも軽々と抱き上げることができるマリオンを立ち上がらせて、背中を押して強引に歩かせる。
 小さな玄関ホールを抜ければすぐに一室があり、そこはモーティシアが早朝にだらけていた場所だ。
 外套をぬいで鞄と共にソファーに放り投げ、雑多な自宅に改めて目を遠くする。
 誰も家に呼ばないので誰にも見られないと思っていたモーティシアの怠惰な一面を、まさかこんな形で他人に知られるとは、と。
 自分に対して憧れじみた想いを抱いていただろうマリオンがどう思うかとちらりと目を向ければ、彼女はうず高く積まれた本たちに目を丸くしていた。そして。
「…夢の世界みたい」
 ぽつりと呟かれた独り言に、思わず吹き出した。我慢しようと堪えるが、やはり無理だ。
「ーーっ…あっははははは!あなた、どこに夢があると言うんですか!」
「だって、こんなに本がたくさんあるから!!」
 マリオンも、子供のような発言だったかと恥じらって顔を真っ赤にして。
 収納棚の許容範囲を軽々と超えている書物の量は、本が好きなマリオンにはたしかに夢のようなのかもしれない。
 自分も子供の頃は本に囲まれていたと、過去を話していたから。
 マリオンと会話する中で彼女の好みの本も家に多く置いていることを覚えていたから、モーティシアは笑いを堪えようと努めた。
「この家にある本はどれでも好きに読んでいいですよ。しばらく家に閉じ込めてしまうことになるので、気晴らしにはなるでしょう」
 笑いを何とか堪えはするが、上がった口角はしばらくその状態を維持しそうだ。
 モーティシアの様子にマリオンは恥ずかしそうに眉間に皺を軽く寄せていた。
「さあ、案内を続けますよ」
 今いた場所は隣に炊事場があり、今は少ないが食料もきちんと届けさせると約束する。王城にある施設を使用すれば、ここに食料を届けてもらうことも容易だ。
 入った部屋を出てもう一度玄関ホールに戻ってから、玄関隣の外套や靴を収納する為の小部屋に案内すれば、そこにあったのは外套や靴では無くまたもうず高く積まれた本ばかりであることに今度はマリオンが思いきり吹き出した。
「量!!」
「仕方ないでしょう…本棚だけでは足りないんです」
 王城に与えられた自室を整頓すればするだけ、この小さな邸宅は本に埋もれていったのだから。
 笑いたければ笑えと放置して、手洗い場と風呂場も指先だけで場所を示してから、今度は二階に上がって行く。
 階段も当然のように端の一段ずつに本を積んでいるが、歩くには不便さは無い。
 マリオンは楽しむように本の表紙や背表紙に書かれた題名を見ながら後ろをついてきて、上りきった二階に足を踏み入れてから、また息を呑んでいた。
 どうせ自分だけの家なのだからとモーティシアは邸宅を建てる際に、二階の部屋分けは不要だと丸々一室にしたのだ。
 そのお陰で小さな邸宅の割にはとても広く感じるだろう。
 壁は一面を本棚にして、研究用の大机を二つと、端にはベッドがひとつ、ベッドのそばに小さなテーブルがひとつ。
 申し訳程度の大きさの衣装棚も半分以上が書類に埋もれていた。
「ベッドも衣服も、しばらくはあるもので我慢してください」
「…モーティシアさんのベッド、使ってもいいの?」
「…どこで寝るつもりです?」
 まさか床で眠らせるとでも思われていたのだろうか。
「露台にも外からは見えない強めの結界を貼っておくので、外の空気を感じたくなったら露台で我慢してください」
 露台にはモーティシアも休憩用にとシンプルな椅子と小さめの机を用意していたので、わずかながらの気晴らしにはなるだろうと考えた。
「あとは……必要なものがあったら教えてください」
 男の一人暮らしの中で突然暮らすことになったのだから、必要なものばかりだろう。モーティシアもその辺りは気を使うつもりではいるが、全て察せるはずもない。
 マリオンはひたすらモーティシアの後を歩いてきたが、少しだけ辺りを見回してから、やがて何かに気づいたかのようにベッドのそばに向かっていった。
 ベッド上にももちろん本は積んであるが、そこにあるのは物語が多い。

睡眠という最もくつろげる場所に物語が集まるのは必然じみて、そしてその中にはモーティシアとマリオンを繋げたあの物語もあった。
「……なつかしい」
 マリオンは第一巻に当たる本を手に取り、胸に抱いていた新書と手の上で並べて。
「最初って、こんなに薄かったんだね」
「…言われてみればそうですね」
 物語が進むにつれて、本の厚みは増していった。
 新刊は愛読者を長年待たせ続けた謝罪をするかのように読み応えのありそうな厚みをしている。
「この本も…読んでいい?」
「いつでも好きに読んでください」
 今朝、喫茶店でひたすら話題にした物語。もしマリオンが今日買いに来ていた本がこの物語ではなかったら、今こうして一緒にいることも無かったのだろう。
 それはマリオンが口にしていた通り、運命と呼べるものなのかもしれない。
「…少しゆっくりしていてください。下で準備をしてくるので」
 男に襲われてからここに到着するまで、怒涛の時間だったはずだ。
 休んでいればいいと背中を向けようとすれば、マリオンは手にしていた二冊の本をベッドに置いて、深く頭を下げた。
「あの…本当にありがとうございますーー」
 命の危険を感じてから、ここに来るまで。
 どれほど恐ろしかったか、そして今もどれほど怯えているのか。
 下げていた頭を上げたマリオンは、また不意に大粒の涙を溢れさせた。
 まるで自分でも知らないうちに突然決壊したかのように、ボロボロと涙があふれ流れていく。
「ーーっ」
 わけもわからないうちに突然泣き出してしまったことに、マリオン自身が驚いたように顔を押さえて、モーティシアの視線が自分に向かないように隠した。
 今日だけで何度目の涙なのだろうか。
 今もまだ、どれほどの不安と恐怖に苛まれているのだろうか。
 嫉妬と憤怒の殺意にあてられながら、何度もナイフを振り下ろされ続けて、マリオンは何度心を深く刺され続けたのだろうか。
 怪我もなく生きていてよかったと、本当にそんな簡単に「よかった」などと口にできるのだろうか。
 モーティシアでさえ、ナイフを持ったあの男の凄まじい形相をしばらく忘れられそうにないのに。
「…休みましょう」
 離れようとしていた歩みをもう一度マリオンに向けて、その隣に立って、彼女の肩を抱いた。
 ベッドに座らせれば、モーティシアが離れていくことを恐れるように、胸に強く縋り付いてくる。
 縋れるものがモーティシアしかいなくなってしまったのだと、ふと理解する。
 王婆達がいた時、マリオンはひたすらテューラのそばから離れなかった。テューラがいなければ、王婆か楼主に縋っていただろう。
 彼女は口達者なだけの、ただのか弱い娘なのだと改めて認識する。
 男にも知られておらず、なおかついくつもの防御結界を貼れるこの家はマリオンにとって遊郭よりも安全だろう。だがマリオンの心が壊れない為に必要な救いが、ここにはモーティシアしかいないのだ。
「ごめん、なさ…少しだけ…」
 ガクガクと震えながら、救いを求め続けて。
「あいつ…客の時からっ…」
 恐怖を吐き出そうとして、しかし出来なくて。
 震えの止まらないマリオンを、強引に上向かせた。
 今目の前にいるのはあの男ではないのだと、焦点が定まらずに揺れる瞳をモーティシアに向けさせて、頬の涙を何度も拭ってやる。
「…モーティシアさん…」
 パニックにはならず、ただ恐怖に静かに怯える泣き姿のまま、マリオンは眉尻を大きく下げながらそっと唇を寄せてきた。
 予想していなかった行動に身動きひとつせずいれば、柔らかくはあるが冷たい感触を自身の唇に感じた。
 小刻みに震える吐息と、芯から冷え切った唇と。
 涙をこぼし続けるマリオンが、数秒経ってから静かに離れていった。
 当然のように見つめ合うその後、先に口を開くのはモーティシアで。
「…こんなことをさせる為に、あなたを家に迎えたのではありません」
 いくらモーティシアが男でも、いくらマリオンが遊女でも、たとえ一度でも肌を重ねた関係であったとしても。
「…違うよ…私が……忘れたいだけ…」
 しかしマリオンが温もりを求めたのは、目先の負い目が理由などではなかった。
「お願い……忘れたいよ…」
 掠れる声で、恐怖を消して、と。
 溢れ続ける涙がマリオンの瞳を溶かしてしまったかのようだった。
 マリオンの恐怖が今日始まったわけではないのだと、先程の言葉を思い出して気付く。
 あの男はマリオンを欲して、悪魔喰らいとして働いている間は何度も通っていたのだろう。
 悪魔喰らいの悪魔の由来は、あまりに特殊すぎる性癖のせいで。
 自分で決めた仕事だと割り切るには重すぎる恐怖を、何度もその身に受け続けてきたのだとしたら。
「モーティシアさんっ…」
 全身を恐怖に染め、泣きじゃくりながら救いを求めてくるマリオンを、モーティシアはゆっくりとした動作で引き寄せ、抱きしめた。
 人の欲には底が無い。
 深い闇ばかりのおぞましい欲を、好き好んで浴びたい娘がどこにいる。
 向けられ続けたその欲望の最果てで殺される可能性に気付かされて、正気を保ち続けられる人間がどこにいる。
「…私だけを見なさい」
 これからモーティシアが行おうとすることは、王城に仕える魔術師としての自分の誇りから大きく逸脱してしまう。
 だとしても、今は彼女を優先してやりたかった。
 守る為に引き寄せた。その続きを。
 抱きしめたまま再び上向かせて、そっと唇を合わせる。
 冷え切った肌を内側から温めてやるように、口内で自然に交わる舌が互いの体温を移し合った。
 静かな室内に乱れ始める呼吸音が小さく響き、体勢を整える為に離れようとしたモーティシアを追ってマリオンは弱々しくもすがり続けて離れなかった。
「…マリオン」
「やだぁ…」
 離れようとしたわけではないと伝えようとしても、マリオンは涙をこぼし続けながら離れない。
 まるでモーティシアから離れたら二度と自分を維持できなくなるとでもいうかのように性急だった。
 硬くなり始めた性器を服の上から指先で触れてから、器用に服をはだけさせてくる。
 唇は合わせたまま、互いの舌を吸い合うまま、細い指先はスルスルとモーティシアの衣服のベルトを外し、いとも簡単に直接触れてきた。
 このまま彼女の気の済むようにさせるべきなのかと、指先の感触にゾクリと快感を背筋に広がらせながら思う。
 マリオンは絶妙な力加減の指先は外さないまま、モーティシアの唇からは離れてすぐに身体をベットから床に落とした。
 モーティシアの両脚の間に収まって、すがるように性器に顔を寄せて。
 ふわりと咥えられて、緩やかな快感に思わず身震いをした。
 モーティシアの体温を移してもまだ冷えている口内のぬるく冷たい温度と、咥えたままゆっくりと動く舌と。
 久しぶりすぎる行為の感覚に、血液が集まって自身が一気に硬くなることを思い知らされる。
 性を謳歌する年齢であっても好んで女性の体を求めなかったのは、モーティシアにとっては読書と研究が何より優先できる楽しみだったからだ。だがそれでも本能には抗えない。
 快感の先を求めるように無意識にマリオンの頭を撫でて、マリオンもすがるような眼差しで見上げてきて。
 性器を咥えたまま涙目で見上げてくる姿に、劣情が芽生えるようだった。
 今の彼女には自分しかいないのだという奇妙な感情。
 モーティシアに嫌われまいとするかのような健気な奉仕に、快感とは別の身震いを全身に走らせた。
 最初こそゆっくりと奉仕を行っていたマリオンも、性器が硬さを増すごとに息を荒くして淫らになっていく。
 泣き顔のままうっとりと瞳をとろけさせて、頬は高揚して赤くなって。
 全てを味わい尽くすかのように舌を這わせて、モーティシアが感じる様子に嬉しそうに微笑んで。
 見た目だけなら清純そうなマリオンが夢中になって男の欲望を咥え続ける姿が、脳にこびり付こうとする。
 本と研究ばかりで何の色気もない禁欲的だった自宅が、本能に解放されたかのような。
「も、いいよね…いい…の」
 モーティシアが何も言わないことを良いことに満足するまで奉仕を続けたマリオンが、上の空のような独り言を呟きながら唇を離した。
 モーティシアの両脚の間に収まったまま衣服を脱いで、一糸纏わぬ姿になってからそっと立ち上がり。
「モーティシアさん…」
 自分は何も攻められていないというのに、マリオンの内腿はとろりとした透明な液が幾重にも糸を引きながら流れていた。
 あまりに扇情的な姿に無意識に喉が鳴る。
「…モーティシアさん……」
 惚けたように名前を呼び続けながら、マリオンはモーティシアの上に跨ってきた。
 細い両腕を首に絡めてきて、近くなる呼吸に互いに見つめ合って。
 マリオンは腰を落とすことなく性器の先端で自身の秘部をゆっくりと慣らすようになぞり始める。
 焦らされるような快感にたまらず小ぶりのお尻に触れれば、マリオンは微かな羞恥心に視線を少しだけ下げてから、ゆっくりと腰を下ろしてモーティシアを飲み込んでいった。
「あぁ…」
「っ…」
 待ちわびた時間に、同時に吐息が漏れた。
 口内とは違う程よい圧迫感がモーティシアをねっとりと包んで絡め取ろうとする。
 じわりじわりと腰を下ろしてくるものだから、早く完全に飲み込ませたくて強く掻き抱くように背中と腰に両腕を回した。
「ーー待、ああぁっ!!」
 一気に全てを中に収められて、マリオンの口から甲高い悲鳴が上がる。ビクビクと腰を跳ねさせながら浮かそうとするから、逃がさない為に抱きしめ続けて。
 脊椎から全身に巡るかのような痙攣を腕の中でするから心配になってマリオンを見下ろせば、彼女はモーティシアに擦り寄りながらとろけきった表情を浮かべていた。
 そのまま全体重を預けて、吐息を耳元に聞かせてくる。程よい狭さと時折蠢く膣内に緩やかに性器が攻められるが、マリオンが動く気配はなかった。
 モーティシアの方も性欲に駆られているので動いてもいいものかと考えるが、耳元で聞こえてくる熱い吐息に混じった鼻をすする音に、理性がギリギリ勝ってくれた。
 これでは生殺しだと心の中でため息をつくが、声もなく再び泣き始めたマリオンに無理はさせたくなくて、何度目かもわからなくなりながら頭を撫でてやった。
 繋がったまま抱きしめ合う静かな時間。
 静かだが穏やかとは言い難いのは、蠢く膣内がモーティシアの本能を刺激し続けるからだ。
 耳元で声もなく泣き続けているからギリギリのところで理性を保てているが、早く動きたい衝動は時間が経つごとに増えていった。
 せめて性欲が減退してくれればいいのに、生殺しに気持ちが萎えるほど女体に興味がないわけではないのだ。
 自身の服越しでもわかる柔らかな肌の感触、耳にかかる吐息、ふわりと漂う甘い香り、そして深い繋がり。
 何もかもが、今すぐ本能に従いたくなるほど魅力的なのに。
 こんな時にまで理性的な自分の性格が恨めしく思う。
 己の中で葛藤を続け、ギリギリの状況下で理性が勝り続けて。
 どれほど我慢したかわからないが、秒でないことは確実だ。
 マリオンの膣壁は完全にモーティシアの性器と密着して、本当にひとつになってしまったかのような気分にさせる。
 ゆっくりと蠢き続けることでわずかな隙間すら無くしたかのように、完全な密着があった。
 このままでは離れられなくなる。そう思ってしまうほどの静寂の快楽の中、ようやくマリオンがほんの少しだけ身を起こした。
「…ぁ……ん」
 だが様子がおかしい。
 涙に濡れながら真っ赤になった頬と小刻みに震える吐息。少し身を起こしはしたが、それ以上は動けないとでも言うかのように身を強張らせる。
 だが完全な静止など不可能で、呼吸のたびに微かな喘ぎ声が漏れて。
 焦点の定まらない瞳と、時折かすかに痙攣する身体。
 感度が高まり続けていたのはマリオンも同じだったと気付いた瞬間、モーティシアは理性を切り離した。
 たまらなくなって体勢を変えてマリオンをベッドに押し付けるように横たえさせる。
 その間も二人は繋がったままで、突然の刺激が全身を襲い。
「きゃあああぁ!!」
 甘く甲高い悲鳴が室内中に響き渡る。
 モーティシアはギリギリの精神力で熱を放つことをこらえたが、マリオンは予想できなかった突然の快楽に激しく全身を痙攣させた。
 膣内が今まで感じたこともないほど激しく脈打ち、モーティシアを道連れにしようとする。
 何とか堪えることができたのは、腕の中で激しく乱れるマリオンがあまりにも可愛かったからだ。
 下品なほど淫らに本能のままの喘ぎ声を続けながら痙攣して、モーティシアの与える刺激を全身で示してくれる。
 もっと見たい。
 理性に勝った本能が、欲望に負けた。
 絶頂を迎えたがる本能を捩じ伏せて、何度も最奥を突き続ける。
 決して激しくも強くも無いというのに、マリオンは気が狂ったように喘ぎ続けた。
 このまま見続けていたいのに、絶頂の波が激しく駆け上がってくる。
 可愛い。もっと、壊れるまで喘がせたい。
 だが今すぐ最奥にぶち撒けて、自分のものにしたい。
 めちゃくちゃになる思考回路が、欲望のままに動き続けてたまらない。
 このまま二人で、快感の渦に飲み込まれたままいられそうなほど。
 マリオンは言語を忘れたかのように激しく喘ぎ続け、呼吸すらままならないほどだった。
 うねり続ける膣内が、今まで知りもしなかった女体への渇望を味わわせる。
ーー出る
 そう思った瞬間、モーティシアはマリオンの両脚を抱えて自身に引きずり寄せ、今までで一番深い場所までえぐり込ませた。
 同時に強すぎる快楽が全身を襲い、マリオンの腰も激しく脈打つ。
 男の喘ぎ声などみっともないと思っていたのに、あまりの快感に情けなくも声が漏れた。
 それ以上の甲高い悲鳴をマリオンが上げ続けていたから彼女には聞こえなかったかもしれないが、これほどまでに自身を見失うほどの行為があるなど思いもしなかった。
 快楽の後は一気に全身に倦怠感が襲い、引き寄せていたマリオンの両脚から力を無くしたように腕を離す。
 そのまま座った体勢だけは何とか維持できたが、気を抜くと今にも横になって眠ってしまいそうなほど無気力となっていた。
 目の前に広がる光景がどこか別の世界のようだ。
 モーティシアの見慣れたベッドの上で、何冊もの本と一緒に裸の娘が乱れている。
 マリオンは放心状態のまま涙を少しずつこぼし、時おりビクンと身体を跳ねさせながら浅い呼吸を繰り返している。
 いまだにつながり合う場所は、汗とは別の液で濡れつくしており、マリオンが大量に潮を吹いたのだと今ようやく気付いた。
 このままでは自分もマリオンの隣に横たわって動けなくなる。
 何もかも放り出して休みたいのは山々だが、戻ってきた理性が警笛のように喉の渇きを訴え始め、本能や欲望に負けたままでいたくなくて、戻ってきた理性を強く奮い立たせた。
 性器をずるりと引き抜けば、どちらのものかわからないほど混ざり合った液が重々しく糸を引く。
 マリオンも最後の快楽にびくびくと全身を震わせ、放心状態のまま少し怯えるように表情を強張らせた。
「…休んでいなさい」
 その額を撫でてやれば、モーティシアの声に瞳を閉じたままホッと安堵の息をひとつ付いてくれる。
 立ち上がれば、腰に不思議な鈍さが広がって少し歩きづらかった。
 一階に降りて、水を汲んで、また戻ってくるだけの単純な作業が妙にだるく時間がかかる。
 二人分の水のうち自分の分はマリオンの元に戻る間に一気に飲んでしまい、戻ってみれば彼女は静かに寝息をたてていて。
 横向きの姿勢で、子猫のように丸くなって胸元にしっかりと衣服を抱いている。
 その衣服は王都兵舎で交換したテューラのもののはずで、モーティシアではなくテューラに救いを求めるような様子に心がもやりと不快感に染まった。
 涙腺は今も決壊中だが、不安な様子は寝顔からは窺えない。
 ため息をひとつついて、そばのテーブルに水を置いて。
 不条理に命を狙われたマリオンの為にやることは山積みで、乱れた衣服をきちんと着直してから、心に芽吹きそうになった何かしらの感情には気付かないよう蓋をして、モーティシアは普段の自分を取り戻すように事務的に動き始めた。

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