第75話


第75話

 事件に巻き込まれてからまだ一時間ほどしか経っていないだろうが、モーティシアはマリオンと共に王都の兵舎に訪れていた。
 先に兵舎に連行されていた男は地下牢に入れられていると聞かされ、モーティシア達は最も離れているという最上階の一室に案内された。
 兵達が聞き出した男の犯行動機はやはりマリオンへの恋慕で、結婚を考えるほど愛していたマリオンがモーティシアと親しげに朝食を取っていることが許せなかったと教えられた。
 たったそれだけのことで殺そうとするなどあまりにもおぞましいが、男はマリオンが遊郭街を出た早朝から後をつけていたことも知らされて、落ち着きを取り戻し始めていたマリオンがまた全身を強張らせてしまう。
 もしモーティシアと出会う前に犯行に及ばれていたら、確実に殺されていた。
 男からの話の一部始終を聞かされ、次はマリオンからの話を聞きたいと言われたと同時に、扉がコンコンと叩かれた。
 入室許可と共に入ってくるのは三人の男女だ。
 そのうちの二人にはモーティシアも見覚えがあった。
 一人はマリオンが働く店の楼主で、無事のマリオンをひと目見て、強張っていたのだろう表情をほっと安堵させた。
 もう一人は以前ニコルの相手をしてくれたテューラで、こちらはマリオンを見つけた瞬間に走り寄ってきて、同じく立ち上がったマリオンと強く抱きしめ合う。
 二人とも安堵の涙を流して、テューラは言葉なくマリオンの身体の至る所を怪我が無いか探してはもう一度と抱きしめて。
「…この度は娘を助けていただき誠にありがとうございます」
 三人目の人物は身なりを美しく整えた、年齢を感じさせないほどの艶やかさを持った老女だった。
 マリオンを娘と呼び、兵達に頭を下げる。それに倣うように、隣で楼主も深く頭を下げた。
「王婆様…」
 マリオンが驚きと共に老女に頭を下げる。
 王婆と呼ばれる彼女のことは、モーティシアも聞いたことがあった。
 王都の遊郭を統べる遊郭街の女王。
 王婆がここまでわざわざ足を運んで彼女を娘と呼んだと言うことは、マリオンは遊郭街の次代を担う存在の一人として認められているということだ。
 独特の遊郭の歴史と規律を守る為に、王婆は将来性のある遊女を未来の王婆候補として育てるという。
 しかし候補として選ばれた遊女が遊郭に残って王婆になりたいわけではなく、多くの娘達は遊郭を出て行く為、王婆候補の遊女は何人もいるのだ。
 そしてマリオンはその一人だったのだ。
 動揺して瞳を揺らすマリオンに王婆は近付き、優しく微笑んでその頬を撫でて。
「無事で何よりだわ」
 慈愛に満ちた瞳はモーティシアにも向けられ、淑やかな動作で頭を下げられた。
「マリオンを守ってくださり、誠にありがとうございます。あらかたの事情は聞かせていただきましたわ。モーティシア様」
 名前まで知られた状況でのあらかたの事情とは、モーティシアがマリオンの為についた嘘のことを言っているのだろう。
 婚約者と偽ったことは浅はかな発言だとは思うが、後悔は今もしていない。
 そうでなければ、今頃別室で事情を聞かれていただろうから。
 王婆の登場にさすがの王都兵達も動揺を隠さずにいたが、椅子に座るよう促してくれた。
 しかし座するのは王婆と楼主のみで、テューラはその後ろに立つ。
 マリオンも同じようにテューラの隣に立ち、必然的にモーティシアもマリオンを中心にするように横並びに立った。
「マリオンを襲った男性については、私達にも情報があります」
 口を開くのは王婆だ。
 曰く、その男はマリオンが遊女となった頃からの熱烈な客で、身請け話も早くから言われていたこと。いつかは家族の元に帰ると願うマリオンの意思でその話は流されていたこと。
 マリオンが家の借金を返済し終えた為に悪魔喰らいをやめたので、特殊性癖を持つ男はマリオンの元に通うことができなくなっていたこと、最近の男の遊郭街での素行から、マリオンには内密に護衛が付けられていたこと。
 男がどれほど悪質であったかは、楼主が持ち出した資料からも明らかだった。
 まるでこうなる日が来ることを見越して、マリオンを守る為に準備していたかのように。
 マリオンに付けられていた護衛は今日も朝から付かず離れずの場所で待機していたが、モーティシアが現れたことと、遊郭街を出てしまっていたことを理由に男の登場にも王都兵を呼ぶに留めたらしい。
 それを聞いて、モーティシアも王都兵の早い登場に納得した。
 誰かが呼んでくれたのだとは思っていたが、まさかマリオンに付けられていた遊郭街の護衛だったとは。
 マリオンが自ら説明するよりもわかりやすい説明と資料に、兵達も顔を見合わせて頷き合う。
 遊郭街は闇市と同じく基本的に王都兵は介入出来ないが、マリオンが襲われた場所のお陰で男を正式に捕らえることができるのだ。
 男を捕らえる為の資料も全て揃えられている。
 モーティシアも一緒に襲われたことも、プラスに働くだろう。
 事は思ったより早く解決するかもしれない。そう思い小さなため息をひとつ付いて、モーティシアは隣に立つマリオンを見下ろした。
 小柄な彼女は王婆の後ろで凛と立ちはするが、まだ恐怖に打ち勝てていないことは細部からひしひしと伝わる。
 さらに隣に立つテューラもそれに気付いているようにマリオンの様子をちらちらとうかがって。
「犯行当時の状況は多くの人の目に触れていますし、あの男はすぐ刑罰に処されるでしょう。これだけの立証があれば、いくら未遂とはいえ重罪は確定です」
 この国では殺人は終身刑、未遂でも状況に応じ、軽くても十年以上の懲役刑がある。
 男の見た目の年齢と、モーティシアがちらりと見た資料中の遊郭街での犯行を含めても、生きて牢から出られる事は無いだろうと思えた。
 だがそれは、あくまで真っ当な人であればの話だった。
「失礼します!」
 ノックも無く突然入室してくるのは新たな王都兵で、その慌てた様子に全員の視線が集中する。
 マリオンが怯えて身を寄せるのは、モーティシアではなくテューラの方だった。
「…どうした?」
「…暴行犯の身元が発覚しました…あの男は闇市の幹部の息子で…じきに迎えが来ます…」
 闇市。その言葉に、室内中がシンと静まり返る。
 遊郭街と闇市。どちらも王都兵が介入する事が出来ないのは暗黙の了解だ。さらに幹部の息子ともなれば、このままでは男が何の罰も受けずに解放されてしまう。
 いくらマリオンの襲われた場所が王都兵の守る領域であったとしても。
 しかし襲われたのはマリオンだけではなく、モーティシアはそのことをすぐ口にしようとしたが、止めたのは王婆だった。
「…マリオンの“婚約者”である以上、あなたがどこに籍を置こうが遊郭側の人間ですよ」
 彼女の為にと付いた嘘が、まさかこんな形で足を引っ張るとは。
 遊郭とは関係ないただの行きずりの知人程度だと本当のことを言っていれば、モーティシアが襲われたという事で男を捕らえることができたのに。
 こうなるかもしれない可能性にまで頭を働かせることが出来なかった自分に対して、モーティシアは強い苛立ちを感じた。
 いくらモーティシアが王城に勤める魔術師だったとしても。
 闇市は身内の行いに対して迅速だ。しかも被害者は一般市民ではないのだから、すぐに男が兵舎を出て行くことは容易に想像できた。
「ーーマリオン!」
 モーティシアの隣で、恐怖を思い出したかのようにマリオンがふらりと倒れた。
 床近くで咄嗟に抱き止めるが、襲われた時と同じように全身の血の気が引いてしまっていた。
「お隣の部屋が空いているなら、少しの間だけ貸していただけますか?」
 その様子を見て、王婆は兵士に問いかけて。
 どうぞ、と告げられて、王婆はテューラに向き直った。
「マリオンを連れて行きなさい。しっかりと温めてあげて」
 それだけの言葉で王婆の言いたいところを全て理解したように、テューラはすぐにモーティシアの腕の中からマリオンを引き寄せた。
「モーティシア様、あなたは残ってくださいね」
 一緒に着いて行こうとしたモーティシアに、まだ話は終わらないと王婆が止める。テューラが二人の王都兵と共に部屋を後にするのを見送ってから、モーティシアは残った兵と共に王婆に目を向ける。
「…もうマリオンは遊女としては働けないでしょう。武闘経験のいっさい無い子ですからね。恐怖に支配されて、客と二人きりになれば心を壊します」
 そう伝えながら、王婆はモーティシアに楼主の持つ資料の中から数枚を渡してきた。
 ザッと目を通して、あまりの内容に強い嫌悪の眼差しとなってしまう。
 そこに書かれていたのは、マリオンが遊郭街で何度もあの男に襲われかけた内容だった。
 マリオンに身の危険があったのは、今日だけではなかったのだ。
 時間帯の多くは深夜から朝方にかけて。
 妓楼への侵入未遂も相次いでいる。
「遊女として働けない以上、遊女として店に置くことも、私のそばに置くこともできません…ですが家族の元に帰すのも…あの男の異常行動を考えれば…させることはできません」
 王婆の落ち着いた声の中に含まれる苛立ちは、彼女がどれほどマリオンを可愛がっているか、それと同時にどれほど遊郭街の規律を守っているかが窺い知れた。
 遊女であるなら、遊郭街の自警団は率先して守ってくれた。だが遊女として働けない者を優先して守ることはできない。
 色恋が人を狂わせる街なのだ。
 守るべき遊女の数は、あまりにも多いのだから。
「相手が闇市側の人間であるなら…遊郭街で守るにも、限界があります」
 そして遊郭街と闇市とは、大昔から不調和の関係だ。
 どちらも人を売るが、人との“調和”を売るとされる遊郭街と違い、闇市が売るのは“闇”そのものだから。
「…“婚約者”さん」
 そして、王婆の視線がモーティシアに訪れる。
「聞けば、あなたは王城に戻った治癒魔術師様をお守りしているとか」
 モーティシアが何者なのか完全に知っているという顔だった。
 なぜ知っているのか。簡単なことだ。
 遊郭街に遊びに訪れる王城の者達が語っているはずだ。
 城の者達の多くが遊郭で悪意を落として行くのだから。
「治癒魔術師様の兄君と現黄都領主は、親しい友人関係だとか」
 王婆の言いたいところを理解して、モーティシアは目を見開く。
 守れ、と。
 遊郭街はマリオンの為に今以上のことはできないから。
 何とかギリギリのラインで守り続けられたとしても、何度も襲われ続けるなら、そして殺されかけ続けるとしたら、マリオンの心は壊れてしまうから。
 婚約者だと偽ってでも守ろうとしたと言うならば、最後までケジメをつけろ、と。
 王婆の眼差しに、しかしモーティシアはすぐには返事ができなかった。
 たった数時間程度の嘘だと思っていたのだ。
 数時間だけでもマリオンの力になれるならと本当に思い、婚約者だと偽った。まさかこんな事態に陥るとは思わず。
「…話してはみます」
 話すだけなら簡単なはずだが、受け入れられるかはわからない。ガウェが黄都領主となってまだ日は浅いのだ。
「…この男は、毎日のように遊郭街に訪れていたのですか?」
 尋ねるのは、資料にそう書かれていたから。
 日付と出没場所は正確なのだろう。だとするなら、ほとんど毎日マリオンに近づこうとしている。
「…そうです。まさか闇市の人間だとは思いもよりませんでしたが」
 遊郭街と闇市はある意味で商売仇だ。闇市にも遊女はいるのだから。そして遊郭街は人の噂は多く集まるが、遊びに訪れる客そのものを調べることはまずしない。
 遊郭街独特の風習が、男の正体を見逃した。
 資料中で男は何度もマリオンに接触しようとしてはいるが、今朝のように殺そうとしている様子は見られない。
 ということは、今朝マリオンを殺そうとしたのは、モーティシアの存在が大きいのだろう。
 今日でようやく三度目の出会い。モーティシアにとっても楽しかった朝食の時間は、端から見ればどう映ったか。
 マリオンは何度もモーティシアに触れ、自分の持つフォークで果物をモーティシアの口に入れてもきた。
 それらの全てで、モーティシアはやれやれと諦めながらも嫌な素振りを見せなかったのだ。
 それが男の嫉妬心を殺意にまで突き動かした。
 紫都の実家に帰ることを濁していた本当の理由も、男の存在が原因だったのだろう。
 闇市側の人間に目をつけられて、そして殺意まで向けられて、マリオンが今後も遊郭街で無事でいられるはずがない。
「…ひとつ、提案させてください」
 面倒なことに巻き込まれたという気持ちは多大にある。だが嘘をついてまで彼女を守りたいと思ってしまった気持ちは鉛のように重く、モーティシアの心から消えてくれない。
 婚約者だと偽った。その言葉を真実にするつもりは毛頭無い。だが、モーティシアには彼女を守れる特別な力が備わっている。
「私の家で、彼女を雇わせてください」
 匿うではなく、雇うと。
 モーティシアが治癒魔術師アリアの護衛に選ばれた理由は、夫候補であるとは別に、その魔力の傾向によるところが大きいのだ。
 人々を守る為にと幼少期から努力を惜しまなかった防御結界術。その実力は、魔術師団随一だ。 
「王城勤め達の居住区画にある私の家ならば、彼女を安全に守り通せると約束できます」
 いくつもの結界術をその家で調べ尽くし、新たな術式もその家で生み出した。
 一人暮らしの小さな家そのものが、ひとつの結界となるほど。
「…どうして、守る、ではなく雇うと?」
「……本を買う為にまだ遊女として働いていると聞きました。なら、私の家の家政婦として来ていただこうかと。賃金を支払うと同時に、確実な身の安全を確約します」
 モーティシアの言葉に、王婆と楼主は互いに目を合わせて沈黙する。
「…安全だと言える理由は?あなたは多くの時間を城内で過ごすはずです」
 訪ねてきたのは楼主の方だった。
「この国を守る術式の多くを、私があの家で生み出してきました。私の個人邸宅は、術式の縮図です」
 一見しただけならただの小さな貴族の家だ。だがあの家は多くの実験の跡が残っている。
「彼女一人なら気配ごと隠す程度、容易に出来ます」
 あまりに難しい事柄を、あまりに簡単に言い切れるほどに。
「彼女にとっても、一人の時間は大切ではないでしょうか?」
 モーティシアの自信のある言葉に、王婆の瞳の鋭さが増す。
「…では、あなたにマリオンの安全を任せられるという信用と信頼を、今見せていただけますか?」
 言葉は冷たい。だがモーティシアを甘く見ているのではないとはっきりわかった。
 マリオンが安全であると確信できる為の実力を示せと、信頼しようとしているのだと。
「…今すぐに」
 言うと同時に、モーティシアは室内に残っていた王都兵の一人にそっと腕を向けた。
 それだけだった。
 モーティシアにとっては息をするのと同じくらい簡単な術式の発動。
 魔力の渦すら見せないまま、モーティシア達の視界から王都兵が消え去った。
「ーー!?」
 残る者達がみな息を呑む。
 実際に消えたわけではない。光の屈折と魔力の壁を利用した、モーティシアの生み出した術式だ。
「…何か話していただけますか?」
「……あ、え…自分、ですか?」
 消された兵は、訳もわからず声を出す。
 誰もいないはずの、先ほどまで兵がいたはずの場所から声だけが聞こえてくるものだから、また周りが唖然として。
「少しだけ横に移動していただけますか?」
 モーティシアの指示に兵は素直に従ってくれて、二歩ほど歩いただろう場所で突如姿を現す。
「これは私が作り出した、その場所にいる人や物を隠す術式です。魔力によって定めた一定の場所内では、対象に決めた人や物が他者の目に映らなくなります。人以外の動物でも実証済みで、犬の嗅覚ですら見つけることは叶いませんでした。この術式は私にとって、離れていても維持できる初歩中の初歩です」
 兵がその場に戻れば、また姿は一瞬で消え去る。
 その様子を見せてから術式を解けば、現れた兵に皆が釘付けとなった。
「…私の実力はいかがでしょうか」
 マリオンを守る為の信用と信頼に足りるのか。
 問うたモーティシアに王婆が行ったことは、静かに立ち上がって正面を向き、ゆっくりと頭を下げることだった。
「…ぜひ、あの子をよろしくお願いします」
 遊郭街を統べる女王が、たかがモーティシアに。
 王婆がどれほどマリオンを、遊女達を大切に思っているかが窺い知れた。
「……必ずお守りします」
 その自信はある。実力もある。
 これが運命だなどとは微塵も思わない。命を脅かされている見知った娘をモーティシアだけが守れるというなら、それは運命ではなく必然なのだから。

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