第74話


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 モーティシアとマリオンの喫茶店での会話は、モーティシアが思っていた以上に充実した時間だった。
 互いに同じ本の感想や考察を口にしていく中でふと気付いたのは、女性と男性では見方が少し違う気がするということだ。
 モーティシアはこの本を少しだけ恋愛要素の含まれた冒険物語だと思っていたが、マリオンは恋愛も細やかに描写されていると口にした。
 そこで思い出したのは、トリッシュの婚約者であるジャスミンもこの本の恋愛要素を上げていたことだ。
 その話を聞いた時は、そんなに恋愛要素はあっただろうかと首を傾げたが、マリオンから話を聞けば聞くほど確かに恋愛模様がしっかりと織り込まれていたことに気付く。
 主人公とヒロインがただ広野を歩くだけのシーンでも、主人公が考えていたことはこの難局をどう乗り越えるかということで、ヒロインは隣から少し熱い眼差しを主人公に向けるだけだった。
 そのシーンは始終主人公視点の危機脱出に向けての思考が描かれていると思っていたのに、マリオンはそのシーンの端々に散りばめられたヒロインの少ない描写に多大な愛情を見つけていたのだ。
 それを聞かされて改めてそのシーンを思い返せば、主人公の思考しか考えていなかった自分自身にも気付けて。
 マリオンとの会話はまるで果てが見えないほど面白く、自分では考えもしなかった新しい見解に本の世界の視野が広がったことを感じた。
 考えていたよりも長く話し込んでいるなとふと思った頃、ちょうど会話が途切れたからかマリオンも果実水をひと口飲んでクスクスと何やら思い出したように微笑んだ。
「懐かしいなぁ…本の内容、こんなにも覚えてるなんて思わなかった」
 微笑むその理由は、どこか遠い過去を思い返すようで。
「最近は読んでいなかったのですか?」
 物語はたしかに数年ぶりの新刊だ。長く読み返していなくても当然だろうが、マリオンは笑みに微かな寂しさを含ませてみせた。
「全部売っちゃったから」
 そして、遠い瞳をしながら。
 あまりにも小さな声で呟くものだから、言葉を理解するのに数秒費やしてしまった。
「私の家ね、紫都にあって、平民にしてはそこそこお金持ってる家だったの。だから本は何冊でも買ってもらえた。でも親が詐欺にあって、すごい借金になっちゃって…」
 全部、売ったんだ。
 そう続く言葉は、虚しさに溢れかえっていた。
 マリオンが聞かせてくれた過去の一部分。その後の彼女の人生は、見ての通りなのだろう。
「働くことを決めたのは私自身なの。借金全部返したら、また本を買うんだって決めてたから。だから悪魔喰らいになってほとんど休まなかった」
 悪魔喰らいとなった遊女がどれほど過酷に働いているかなど、特殊な性癖など持たないモーティシアにはわからない。しかしその分多額の給金が支払われるから、マリオンはこの世界に自ら足を踏み込むならと迷わなかったのだろう。
「…では借金を全て返し終えたから本を?」
 尋ねれば、本当に恋をしているのだとわかるほど潤んだ瞳の愛らしい笑顔を向けられた。
「今はもう自由だけど、まだお店にはいるよ」
 返答は少しだけはぐらかすようで。
「だって、モーティシアさん、また来てくれるって約束したもんね」
 また翻弄してこようとするから、呆れたようにわざと視線を逸らした。
 以前媚薬香を吸ったニコルを連れて遊郭に訪れた時、迫ってくるマリオンにたしかに約束をしたが、そんな約束は簡単に反故にされると気付かないマリオンではないだろう。
 嘘は付かずに、だが本音も告げずに。
 恐らくは、自分が傷付かない為だ。
 モーティシアにその気がないことくらいマリオンはわかりきっているのだろう。だから。
「売っちゃった本を全部買い戻すのは無理だろうけど、せめて昔みたいに本に囲まれた部屋で暮らしたいっていうのが今の目標だから、もう少し働くかなぁ。紫都の図書館は家からは遠いし」
 本は決して安いものではない。
 貴族の中には読まずに飾る為だけに買うものもいるが。
「せめてこの物語はまた全部集めたいの。大好きな本だから」
 マリオンは内容をすぐに思い出せるほど熟読していた。
 他にもあの本も取り戻したい、と語る表情は嬉しそうで、本当に本を読むことが楽しいのだと信じられた。
 マリオンが語る中にはモーティシアも持っている本も何冊かあり、書物の好みも似ていることに気付いて。
「ーーだから、早く会いに来てくれないと、本を買い終えたら紫都に帰っちゃうかもよ?」
 いたずらな笑みを浮かべて、モーティシアを挑発して。
「家族の元に帰れるならよかったではありませんか」
 さらりとかわせば、寂しそうに微笑まれる。
「さあ、長く話したことですし、そろそろここを出ますよ」
「出た後は?」
「私もあなたもそれぞれの家に帰るだけです」
「えー」
「本を読みたいでしょう」
 別れの時間だと告げれば、駄々をこねられるかと思ったが、頬を膨らませながらもすぐにマリオンも帰り支度を始めていく。
 その様子を拍子抜けしながら見つめれば。
「…なぁに?一緒にいたくなっちゃったとかー?」
 にんまりと微笑みながら、服の裾をそっと摘まれた。
「馬鹿を言わない」
「ひどーい。私が馬鹿じゃないことくらい、もう気付いてるくせに」
 ふざけてじゃれてくるのはマリオンだが、それはそれで楽しいものだと思いながら。
 彼女が友としてそばにいるのも面白いかもしれない。
 馬鹿ではないことは、マリオンの言う通りとっくに気付いていたからそう思うが、彼女が好意を向けてくれている以上、友情関係など成り立たないだろう。
 財布を出そうとするマリオンを止めて、会計をとっとと済ませて。
「じゃあ…本当にありがとうございました」
 会計時は遠慮して店の前で待っててくれていたマリオンは、大事そうに本を抱きしめながら、モーティシアに少しだけ他人行儀な感謝の言葉を改めて伝えて頭を下げてくれた。
 ここで終わるのだと彼女も気づいているからこその今更な他人行儀なのだろう。
 楽しい時間はあっという間で、別れ間際の時間はどこか気まずく少し長い。
「じゃあ、あなたも気をつけてーー」
 彼女の為にもモーティシアから離れようと口にした最後の言葉は、マリオンの背後にかかる影に気付いて咄嗟に止まった。
 彼女の二の腕を掴んで無理矢理引き寄せたと同時に、強く響き渡る風を切る音。
 天高くから地面へと振り下ろされたナイフは、マリオンを完全に真っ二つに斬り殺す軌道にあった。
「きゃああああああああ!!」
 悲鳴は店内から。
 その様子を見ていた喫茶店内の客の悲鳴と、何が起きたのか分からないマリオンの表情がバランスを保ってはいなかった。
 強引に引き寄せられたマリオンは二の腕を掴まれた痛みに眉を顰めていたが、周りの、そしてモーティシアの視線の向かう先に気付いて振り返り、何かを理解したように表情をやっと青白くした。
 モーティシアとマリオンの目の前にいるのは、凄まじく太った醜い容姿の男だった。
 怒りから息は上がっており、呼吸困難なのかと思うほど激しい呼吸を繰り返している。
 血走る眼差しはモーティシアを睨みつけ、いく筋もの涙で頬をぐちゃぐちゃにしていた。
 マリオンを殺そうとしておきながら、完全にキレた怒りの矛先をモーティシアに向けてくるが、一度見れば忘れないほど醜い容姿の男をモーティシアは知らない。
「…ケセウさん」
 男と面識があるのは、マリオンの方だった。
 震える声で名前を呟き、ナイフを持ったまま異常な様子を見せる男に怯え、モーティシアにすがってくる。
 その光景を鬼の形相で見続けていた男が、突然その場に両膝をついて何度も何度も地面をナイフで強く刺し始めた。
「なんでっ…なんでだよおおおぉぉぉ!!」
 駄々っ子といえば聞こえはいいが、眼前のそれは何十年も昔に成人を迎えたはずの男だ。
「こんなにも愛したのにぃぃ!!君だけだって話したのにぃぃ!!」
 地響きのような野太い絶叫を辺りに響かせながら、涙を溢れさせては流し続けて怒りに身を任せる。その姿はただ恐怖しかなかった。
 男が何か叫ぶたびにマリオンは怯えてモーティシアにすがり、その様子にまた男が立ち上がってナイフを振り回してきた。
 もはや何を喚いているのかすらわからない。
 モーティシアが理解したのは、男がマリオンを、そしてモーティシアを殺そうとしていることだけだった。
「いやあああああっ!!」
 振りかざされたナイフにマリオンが悲鳴を上げるが、ナイフが落ちてくるよりモーティシアの防御結界が発動する方が早かった。
 キン、と甲高い音が響き渡り、振り下ろされたナイフが結界に阻まれて止まる。
 あまりに単純な結界で、透明な魔力の壁を使ったに過ぎず、男の恐ろしい形相が見えなくなったわけではなかった。
 男はただひたすらマリオンを凝視し、喚きながら何度も何度も壊れない結界に、その先にいるマリオンに向けてナイフを突き立て続けた。
 完全に萎縮して固まっていたマリオンの腰が抜けて、咄嗟に抱きかかえて。
「触るなさわるなさわるな触るなぁぁぁぁァァァアァア!!!!」
「見なくていい!!」
 男の声に掻き消されないように、モーティシアも強く叫んでマリオンの顔を自分の胸元に当てる。
 騒ぎを聞きつけた王都兵が数人、騎乗してこちらに向かってきていることを目視してから、モーティシアは男が逃げられないよう結界の囲いを発動させた。
 それでも男はひたすらマリオンだけを標的にし、何度も何度もナイフを振り下ろし続けていた。
 一度見てしまったら網膜に染み付いて離れないほどの鬼の形相と、ナイフが結界に突き立てられる甲高い音、そして男の理解不可能な叫び声。
 その全てに襲い尽くされたかのように、マリオンはモーティシアの腕の中でガクガクと震え続けていた。
 あまりの出来事に彼女の本は地面に落ちていたが、気付いたのはたった今だ。
 辺りが騒然となる中でようやく王都兵達が到着し、モーティシアは兵の味方となるように結界内に閉じ込めた男に重力魔術を使って地面に押し付けた。ガクンと男が地に伏すが、ナイフは手から離れない。
 兵もモーティシアが魔術師だとすぐに理解して眼差しの合図だけで頷きあい、モーティシアが全ての魔術を解除すると同時にいっせいに取り囲んで男の身柄を確保した。
「お怪我は!?」
「ありません…彼女にも」
 男は完全に兵達に取り押さえられて、喚き続ける声は次第に咽び泣くものへと変わっていった。
 ナイフもすぐに取り払われ、この世に絶望するように涙を流し続けながらモーティシアを恨めしそうに睨みつけてくる。
 男の目に自分がどう映っているのかなど、おそらく答えは決まっているのだろう。
「マリオンちゃん…こっちを向いてくれよぉ…」
 野太い声が、弱々しくマリオンを呼ぶ。
 びくりとマリオンは怯えて震えるが、モーティシアはその肩を強く抱き止めて振り向かせなかった。
 見せられたものではない。
 そう判断したからだ。
 元々の容姿も手伝ってあまりにも恐ろしく醜い形相の男を、今の怯えきったマリオンに見せられるはずがないだろう。
 ナイフを何度も振りかざされたのだからなおさら。
「マリオンぢゃんんんんんん!!」
 まるで地響きのような怨みのこもる声に、マリオンがとうとうおかしな呼吸をしながら泣き始めた。
 王都兵達が数人がかりで男を引き剥がして連れて行き、一人の兵だけがモーティシア達のそばに留まるが、状況の説明など現状で出来るはずがなかった。
「落ち着きなさい。もうあの男は去りましたから…」
 その場に座らせて、涙をこぼし続けるマリオンの頬に手を添えて自分の方に振り向かせる。
 真っ白になった顔色と、焦点の合わない瞳。
 ガクガクと震え続ける全身と、疎かな呼吸。
 恐怖に全身を囚われていた。
「…マリオン…私を見なさい。マリオン」
 穏やかな口調で何度も彼女の名前を呼んで、何度も青白い頬を撫でて。
 それでも恐怖心から逃れられないマリオンの為に、モーティシアは一人残った兵に目を向けた。
「少しだけ時間をください。結界内で彼女の正気を取り戻させます」
「…わかりました」
 兵が頷くと同時に、モーティシアはマリオンごと周りに結界を貼った。
 それはモーティシア達からは外が見えず、外からもモーティシア達が見えない完全な光の壁の結界だ。
 自分たちだけを守る結界内は狭く、その中でモーティシアはマリオンの頬を指の甲で軽くはたいた。
「マリオン…ここにはもう私たちしかいません…自分の目でしっかりと見なさい」
 モーティシアとマリオンだけの世界だと伝えても、マリオンの瞳に正気は戻らない。
「…マリオン」
 時間が経てばいつかはマリオンも正気を取り戻すだろうが、兵達に状況の説明をしなければならないのだ。
「……私が付いていますよ」
 どうすることか最善なのか、数秒だけ考えた末にモーティシアが行ったのは、マリオンを優しく抱きしめることだった。
 小柄なマリオンの為に少し猫背になりながら、視界を隠さないように抱きしめる。
「私があなたを守りました。だからもう安全です」
 ぽん、ぽん、とゆっくり背中をたたきながら、優しい言葉を耳元で静かに囁き続けて。
「マリオン…見なさい。ここにはあなたと私しかいませんよ」
 何度も伝えて、安全だと知らせて。
 背中をさすりながら同じ内容の言葉を繰り返し続けるモーティシアに、マリオンがやっと反応を見せたのは数分経ってからだった。
 ゆっくりとではあるが、震え続けていた身体が落ち着き始め、呼吸が整っていく。
「…マリオン?」
 それでももうしばらくは抱きしめ続けて、ようやく体を離して名前を呼んでみれば、まだ瞳は恐怖に揺れてはいたが正気を取り戻してモーティシアを見つめ返してきた。
「…落ち着きましたか?」
 冷たい頬を濡らす涙を指先で拭ってやれば、またじわりと瞳を潤ませてくる。しかし何とか堪えてくれて、マリオンはモーティシアを見上げ、ぐっと我慢するように唇を強く閉じた。
「あなたの身に何があったのか、王都兵に説明しなければなりません。今すぐ説明できますか?それともーー」
 もう少しだけ休みたいか。そう問いかけようとしたモーティシアの胸元に、マリオンは強く顔を押し付けるように身を寄せてきた。
 華奢な肩はまだ微かに震え、呼吸も少し浅い。
 マリオンはひと言も発せないままただモーティシアにすがるから、恐怖から冷え切った身体を温めてやるようにしっかりと抱きしめてやった。
「…あの男はもうあなたの近くにはいません。もう安全ですからね」
 だから結界を解くと暗に伝えれば、腕の中から小さく頷いて。
 両腕でマリオンを包んだまま結界を解けば、明かりの変化に怯えはしたが、静かに立ち上がって自分からモーティシアの胸から離れた。
 離れたマリオンが唯一モーティシアにすがったのは、抱きしめていた手に触れる冷たい指先だけだ。
「お待たせしました。彼女は無事です……男の方は?」
 マリオンを落ち着かせる間ずっと待ってくれていた王都兵に向き直れば、兵は男の連れて行かれた方向に目をやる。
 そちらには応援に駆けつけたらしい他の王都兵が数名聞き込みをしているだけで、男の姿は見当たらなかった。
「あの男はすでに王都兵舎に連行しています。被害を受けたのはあなた達二人ということで間違いはありませんか?」
「…はい」
 マリオンの代わりに頷いて、モーティシアは状況説明を自分のわかる範囲で伝え始める。
 突然ナイフを振りかざしてきた男が狙い続けたのはマリオンで、訳の分からない怨恨の言葉はマリオンとモーティシアの二人に。
 モーティシアには男に面識がなく、マリオンは男の、おそらく名前を知っていたことも、わかる範囲は全てを伝えた。
 モーティシアから王都兵に説明を求めることはせず、まだ恐怖に包まれているマリオンに問いかけることもせず、王都兵がマリオンに質問しようとした時にはもう少し待ってほしいとだけ頼んだ。
 しばらく経てば他の目撃者から状況を聞いていた兵達もこちらに向かってきて、そのうちの一人が落としていたマリオンの本を拾ってくれた。
 マリオンの代わりに本を受け取り、そっと本を返してやる。
 そうすればマリオンは恐怖心を無くす拠り所を本に向けるように、モーティシアから手を離して強く本を胸元に抱きかかえた。
「お二人には今から一緒に王都兵舎に来ていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「もちろんです。それと…」
 一瞬言うべきか迷ったが、モーティシアはすぐに迷いを切り捨て、マリオンを庇うようにそっと引き寄せた。そして。
「遊郭街の中央警備隊にも連絡をお願いします。彼女は国の保護対象です」
 その言葉で、マリオンが高級妓楼の遊女であることが兵達に知られてしまう。
 それでもすぐに発覚することだからとモーティシアは隠すことをせず、同時に兵達の眼差しがいっせいにマリオンに向くこともわかっていたので、マリオンがその瞳を正面から浴びることを避ける為、その視線が薄れるまでひたすら彼女を片腕で抱きしめ続けた。
 兵達に案内され、用意された馬車に二人で乗り込んでからも。彼女を守らねばならないと心が動いたから。
「…失礼ですが、お二人の関係は?」
 兵に問われ、思わずマリオンに目を向けてしまった。マリオンも様子を伺うような視線をモーティシアに向けてくるから。
「……婚約者です」
 友人関係では、今後の状況説明後に離される可能性が高い。恋人関係でも同じだ。被害者の為にそばにいることを許されるのは家族、その次に親戚。そして婚約関係にある者だけなのだ。
 だからついた咄嗟の嘘。
 恐怖に蹂躙された今の彼女を守るための判断が間違っているとは、少しも思えなかった。

第74話 終
 
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