第74話


-----

 飲みすぎて頭を押さえて目覚めたのは、アリアだけではなかった。
 いつも起きるよりは少しだけ遅い朝の時間帯。顔を洗ってから着替えて階下の応接室に向かえば、ガウェとニコルとモーティシア以外が揃っていた。頭を押さえているのは全員だ。
「おはよう。モーティシアは早くに出たみたい」
 一番最初にアリアに笑顔を向けてくれるのはレイトルで、アリアも嬉しそうに微笑んでから最初はレイトルだけに、そして次にみんなに挨拶をした。
 セクトルとアクセルは完全に気持ち悪そうに頭を抱えていて、レイトルとトリッシュはまだ無事そうではある。
「酔い覚まし、アリアも食べてな」
 トリッシュが渡してくれるのはお粥の入った小ぶりの深皿で、レイトルの隣に座ってからデザートスプーンで少しずつ食べてみる。
 味は薄いが苦かった。
「セクトルとアクセルはしばらく動かせないね」
「飲みまくってたもんな」
 まだ二日酔いの軽いレイトルとトリッシュは情けなく笑うだけだが、名前を挙げられた二人は反論もなく揃ってソファーに撃沈した。
「兄さんとガウェさんは大丈夫なんですか」
「あんま大丈夫そうじゃなかったけど、俺ら程度じゃないかな?」
「じゃあモーティシアさんは?もう出たって言ってましたけど」
「あいつはザルだから酔わないよ。清々しく新しい本を買いに行ったはずだぜ」
 ここにいない三人の様子を教えてくれるトリッシュが、恐らくこの中では一番ましなのだろう。レイトルは笑顔を向けてはくれるが、頭が痛いのか口を開く様子はなかった。
「本のこととなると周りが見えなくなるんだとしても、せめて朝くらい皆と過ごしてから出りゃいいのに」
「そんなに楽しみにしてた本なんですか。どんな内容なんですか?」
「俺は読んだことないけど、あいつには珍しく恋愛ものだな」
 トリッシュの説明を「違う」と即座に否定したのは、俯いていたセクトルだった。
「…冒険ものだ。恋愛要素はあるけど少ない」
「そうなのか?」
 両側のこめかみを指で押さえながら苦しそうだというのに話してくれる姿に申し訳なさが生まれるが、本の内容の方が気になった。
 だがセクトルはそこで言葉をやめてしまい、代わりに教えてくれるのはレイトルだった。
「長く続く物語だよ。本筋は賢者の孫の青年と国を追われたお姫様の話しで、お姫様を連れて逃げながら世界中を旅して回るんだ。細かい設定や人間模様が人気の作品だよ」
「面白そう、あたしも読んでみたいです」
「王城の書物庫にあるから、帰ってきたら借りてみようか」
「はい!」
「無理無理。あの本人気だから書物庫で借りれるのだいぶ先になるぜ。ジャスミンが持ってるから今度貸してくれるか聞いてみるわ」
 本を読んだことはなくてもどれほど人気なのかは婚約者から聞かされているのだろう。トリッシュは簡単な口約束をくれて、アリアもそれほど人気のある物語がとても気になってしまった。
 そもそもモーティシアが知識書以外を読むこと自体が珍しいと思うのに、恋愛要素も絡む内容であると聞くとさらに気になってしまう。
 まだしばらく城下にいたいが、王城に戻った時の楽しみができたことは良かったと思ってしまった。
「ま、本を早く欲しいからとっととここを出てったなんて、モーティシアの口実なんだろうけどな」
 一杯の水を一気に飲み干して、どこか気に入らない様子でトリッシュは難しい顔をしながら腕を組んで。
「どういうことですか?」
「あいつなりの気の使い方ってことだろ、たぶんだけど。急に国の利益よりアリア個人の未来を選んだんだ。俺だってまだ信じられないからな」
 表面上は穏やかなのに、気難しい性格をしているからと。
「彼は優しいところもあるじゃないか」
「…だからこそだよ。あいつの優しさは、万人受けするもんじゃないからな」
 この部屋の中ではトリッシュが一番モーティシアと長く関わっていたのだろう。性格を知っているからこそまだ信じられないというその理由は。
「あいつが国の利益を選んでたのは、それだけで国が潤って平民がさらに豊かに暮らせるからだ。本で知った貧しいやつらを救いたいんだよ。あいつは」
 この国の現状を、実際に見てはいなくても、知識という形で知ったから。
「アリアと親しくなったからこそアリア個人の幸せを選んだとしても、それを省くくらいの平民の不幸が重なりゃ、あいつはまたアリアより国を選ぶぞ」
 それがモーティシアだと。
「あいつは優しさの視野が広すぎるんだよ。だから個人が見づらいし、自分の不利益も考えない」
 いくつもある優しさの、それがモーティシアの形。
「自分すら犠牲にできるところはセクトルに少し似てるけど、モーティシアの方が奥が深いね」
 レイトルは笑うしかないといった様子でセクトルを見るが、名前を出されたセクトルは二日酔いに負けて返す言葉も浮かばない様子だった。
「…お城に戻ったら、モーティシアさんとゆっくり話したいです。城下で休んでこいって言われてから、正面から話せてないから」
 アリアにとっては自分に繋がることだから、きちんと全てをぶつけて話したかった。
 突然休みを与えて、アリアの幸せを願ってくれて、それもモーティシアの優しさだというなら、あまりにもアリア本人との会話が少なすぎるから。
「兄さんもモーティシアさんと話してほしいし」
 以前のモーティシアならニコルは話すだけで気疲れを起こしたかもしれないが、今は違うと思えるから。
「ニコルがモーティシアと話しても、丸め込まれて終わりそうだぞ?」
 トリッシュの予想には思わず吹き出してしまった。たしかに丸め込まれそうだ。
「でも会話がないよりいいですよ」
「…そうだな」
 二人はアリアを守る部隊の隊長と副隊長なのだから。
「それで、ニコルとガウェ殿は何話してんだろうな?」
 話題に上がった兄は、親友と共にここにはいない。
 二人だけで話し合うなど、少し不安になってしまう。
 ただでさえ城を出る直前に、アリアはニコルとガウェと共に、城に捕らえたエレッテと会っているのだから。
 アリアだけがエレッテから聞いた、家族のこと。その間、ニコルとガウェは会話の聞こえない場所で待ってくれていたのだ。
 二人だけでいるというのなら、その会話はファントムかリーンの件に絞れそうなものだった。
 今どこにいて、何をしているのか。
 早くリーン姫を助けたい気持ちはアリアにも充分ある。でも、リーン姫を攫ったのがファントムだから。ニコルとアリアの父だから、もどかしい気持ちが溢れ、進もうとする足を止めさせる。
「……城に帰ってくるその日までは、何も考えずゆっくりしていなよ」
 考えすぎて眉間に皺を寄せてしまったアリアの手に触れてくれたのは、優しい笑顔を浮かべたレイトルだった。
 アリアが何を考えていたかなど知らないだろう。でも、表情を見て気持ちを察してくれたのだ。
 温かな心遣いに、アリアも少し情けない笑みを返した。
「あと少ししたらみなさん帰っちゃうんですし、最後は裏庭でゆっくりしませんか?」
 せっかく皆がいる休日の残りわずかな時間をせめて楽しみたいと考えたアリアの提案は、二日酔いの気分転換をしたい全員にこころよく受け入れられた。

-----

ズキズキとひどく痛む頭を何とか抑えるために、ガウェは薬草を浸したタオルで額を押さえていた。
 場所は最近とても美しくなった裏庭で、朝の寒さをタオルが吸収して気持ち良い。二日酔いさえなければだが。
 ガウェの座るテーブル一式の向かいにいるのはニコルで、同じく額にタオルを当てて項垂れていた。
 先にこの場所で休んでいたのはニコルで、ガウェはネミダラに告げてタオルを持って来させたのだ。他のメンバーも起きたら酔い止めの粥を食べさせると約束してくれたネミダラは、二日酔いに苦しむガウェとニコルの姿が面白かった様子で始終ニヤついていた。
 彼が去ればしばらく無言の時間は続いたが、薬草の香りが誤魔化してくれるのか少しだけ頭痛が緩和されたから、ガウェは向かいにいるニコルに目を向けた。
 髪を短くした姿は、ニコルが騎士となった頃を思い出させる。
 最初の頃の彼の印象は、認めるべき実力はあるが、無口でがさつ。汗をかいたからと城内で平気で上半身裸になるわ、騎士達だけでなく侍女にも乱暴な口調で話しかけるわ、食事の取り方に品はないわと目立ちすぎていた。
 フレイムローズとレイトルだけが唯一気安く話しかけ続けて、ようやく仲良くなりはじめてからはそれとなくニコルの態度を改めさせていった。
 ニコルも馬鹿ではなかったので、遠回しに「やめておけ」と告げれば何となく理解した様子で少しずつ改善していったのだ。
 大きな弟。仲良くなりはじめてからのガウェ達の中でのニコルの印象はそれだった。
 完全に信頼されるまではぎこちない笑みしか向けてこず、話しかければ話し返してくれる程度の距離感だった頃、ガウェにとって重大な事件が起きた。
 当時まだ8歳だったリーン姫の護衛中に、彼女を見失ったのだ。
 王城を少し外れた森の中で、一緒に花を摘んでいたというのに、突然。
 その日はリーンにねだられて、ラムタルの王バインドから送られた髪飾りで朝のセットをしていたから、それを隠したくてボリュームのある花の髪飾りを作っていたのに。
 リーンに似合うだろう小ぶりの淡い緑の花を摘んでから彼女に目を向けた時には、もういなかった。
 今でも覚えている、血の気が一気に失せる感覚。
 心臓を強く掴まれたように全身が強張り、数秒間動けなくなった。
 それでも何とか自身を奮い立たせて大声で名前を叫びながら辺りを歩き回った。
 たった一瞬目を離した隙にいなくなってしまったリーンは、近くにいるはずだと強く願うガウェの思いを打ち砕き続けた。
 どこにもいない、気配もない。
 リーンが自分の知らない場所にいくことなど無かったから、当時のガウェは何の打開策も考えつくことができなかった。
 ひたすら名前を叫んで、ひたすら走り回って。
 数十分は確実に探し続けていた。
 焦りすぎて意識が遠のこうとする中で、ようやく茂みがガサリと音を立てて、ガウェは全身でそちらに振り向いて。
 そこで見たものは有り得ない光景だった。
 他人に異常なほど怯えるリーンが、怯えた様子も見せずニコルに抱き上げられた状態で茂みから現れたのだ。
 リーンは自分の身の安全を託すかのようにしっかりとニコルの服を掴んでいて、首元に頭を委ねていて。
 表情は無いが、安心している時のリーンだとガウェには気付けた。
 有り得ない。そう思い固まるガウェに、ニコルはリーンを抱き上げたまま近づいて。
「…向こうにいたぞ」
 ニコルがリーンを下ろさずガウェに託してくるから、機械のように手を伸ばしてリーンを受け取った。
 リーンも普段の居場所に戻りたがるようにガウェに手を伸ばしてくれるが、ガウェの腕の中に戻ったとたん、じっとニコルを見上げた。
 まるで不思議なものを見るような目つきで、しかしいっさい怯えずに。
「…この辺、姫さま達の遊び場なんだな」
 ニコルはガウェにはわからない言葉を残して、とっとと立ち去ってしまった。
 その後ろ姿が見えなくなるまでリーンはニコルを見つめ続けて、ようやく見えなくなってから、やっとガウェに目を向けてくれた。
 その日から、リーンはニコルに対して何の抵抗もなく心を許すようになった。
 ガウェですら最初の頃は近づく度に泣かれ続け、やっと泣かなくなったとしても警戒心は持たれ続け、本当に心を許してもらえるまで数ヶ月はかかったのに。
 ニコルにはたった一日、いや、たった一瞬で。
 その日からしばらく、ガウェはまともにニコルを見ることができなかった。
 ガウェが苦労して苦労してやっと手に入れたリーンの親愛を、たった一瞬で手に入れたから。
 激しい嫉妬心。だが仲良くなり始め、ガウェを頼ることも増えていたニコルに敵対心を向けることもできなくて。
 ようやくまともに顔を向き合わせて話せるようになったのは、ニコルがエルザ姫付きとなってからだった。
 入団からわずか半年で王族付きに任命され、最初はリーン姫付きになる可能性が高かった。
 しかしガウェの知らない間にエルザはニコルに恋をして、彼が欲しくて泣いたのだ。
 エルザは涙を対価にニコルを王族付きとして自分のそばに向かえ、リーンに尽くす新たな騎士はいなくなってくれた。
 ニコルもエルザに特別な感情を抱いていると気付いたから、ようやくガウェは気を許して友情を育めるようになったのだ。
 リーンもニコルに怯えはしないが、ニコルのそばよりガウェのそばを選んでくれていたから。
 リーンの特別は自分だけなのだと改めて安心できたから。
 そんな歪な友情関係の始まりを、目の前で同じように二日酔いに悩まされるニコルは知りもしないだろう。
 王族付きとして同室になり、ガウェはリーンを、ニコルはエルザを思いながら育んだ友情関係。
 結局ニコルはエルザへの愛を貫くことはできなかったが、ガウェは違うから。
 ファントムは、いずれリーンはガウェの元に戻ると約束した。それでも待つだけなどいられるはずもなくて。
 もしニコルと育んだ友情関係が今に生きるのだとしたら。
「…お前が城にいない間、お前達の礼装を調べてもいいか?」
 リーンの居場所を把握し、少しでも早くリーンを取り戻す為に。
 ガウェの頼みに、ニコルはタオルで額を押さえたままちらりと視線を向けてくる。
 そして。
「…切り刻まないならな」
 ガウェを信用して、深く考えずに了承してくれる。
 ニコルとアリアにとってその礼装がどれほど大切なものかはアリアの涙から理解した。だからもちろん切るなどしない。
 調べるだけだ。その細部まで。
 ファントムがラムタルにいるという確信を手に入れさえすれば、そこにリーンも必ずいるはずだから。
 闇市から流れてくるファントムの仲間の情報は本物か、撹乱か。
 調べ尽くして、必ず居場所を見つけるのだ。
 リーンのことだけに頭を使っていたガウェの耳に、
「もし切る必要があったら、俺のを切れよ」
 ふと侵入してきた音は、とても虚しい音だった。
 額にタオルを押しつけたまま、ニコルを見つめる。
 礼装のことだとはすぐに気付いた。
 そして。
「…絶対に切らない」
 お前にも大切なもののはずだ、と、そこまでは告げずに。
 ガウェにとってニコルはかけがえのない友となったから。
 友が悲しむことはできないと。
 リーンの為ならどんなことでも出来るはずなのに。
 自分の心のスペースに確かに存在するリーン以外の存在達に、ガウェは思わず笑みを浮かべた。
「ーー兄さん!ここにいたんだ!」
 そこに響いた第三者の声は嬉しそうにニコルに駆け寄り、ガウェにも朝の挨拶と共に頭を下げてくる。
 アリアはそこまで二日酔いに悩まされていないのか、表情も軽かった。
 その後ろからぞろぞろとついて来るのはレイトル達で、こちらはトリッシュ以外の顔色がほぼ死んでいる。
「モーティシアさんはもう出かけたって聞いた?」
「ネミダラ殿が教えてくれた……元気だな」
「みんなほど酷くないかな?」
 ニコルは眉をひそめたまま、無事そうなアリアを羨んでいる。
 ネミダラ特製の酔い止めを飲みつつの飲酒だったからだろうか。
「吐いたやつー」
 アリアの後ろに向けてニコルが問いかければ、手を挙げたのはセクトルとアクセルだけだった。
「お前まだ酒の加減知らないだろ。ああなったらマジで一日死ぬから気をつけろよ」
「はーい」
 反面教師だと言わんばかりにゆび指して、アリアもクスクスと笑って。
「気に入った酒があるなら、帰るときにいくつか持って帰るといい。毎日少しずつでも飲んで慣れるといいだろう」
 ガウェの提案には、アリアは目を大きくしてみせた。
「そんな、昨日たくさんもらったのに悪いですよ!」
 両手を振って断ってくるが、邸宅から酒が無くなって困るガウェではない。使用人達にも補充が出来ているなら好きに呑んでいいと伝えているのだから。
「買うにしても、まだ酒類を理解してないだろう。少し遅いが魔術師団入団の祝いとでも思ってくれればいい。治癒魔術師として酒の席にも呼ばれる時が必ず来るから、その練習用だ」
 そこまで言えば、アリアも少しだけ迷ったように言葉を探して、やがて嬉しそうに笑ってくれた。
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えちゃいますね」
 言葉の後にようやく全員がそろって裏庭のテーブル席につき、思い思いの態勢で二日酔いと闘う。
 まるでそうなることを見越していたかのようにネミダラはそっと現れて、酔いに悩まされる若者達の為に手ずから介抱してくれて。
「出発前に最後の薬草粥を用意しておきますよ。王城に戻られる皆様は早く仕事に専念できるよう、しっかりと苦味を効かせた粥にしておきますからご安心ください」
 最後の最後に伝えられた最強の薬草粥宣言に、邸宅に残るニコルとアリア以外が全員頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
 その姿を見て笑い声を上げるのも、やはりニコルとアリアだけだった。

-----
 
2/3ページ
スキ