第74話
第74話
それでは、と。
まだ日も顔を出さない早朝に、モーティシアはネミダラに頭を下げてから微笑んだ。
王城勤め達の居住区で最も豪華な邸宅の正門にはモーティシアとネミダラしかおらず、薄闇の中ただ一人だけでその邸宅を後にして。
治癒魔術師とその護衛部隊のみで行った豪華な宴から一夜明けて、まだ皆が眠る時間に一人だけでこの場を後にするのは、単純に他と顔を合わせるのが気まずかったからだ。
ほんの少し前まで、モーティシアの頭の中にはアリアに優秀な男を充てがうことしかなかった。それが突然アリアの幸せを望んでいると気付き心変わりをしたものだから、周りがそう簡単にモーティシアをすぐ信じるとは思えない。
せっかくの休みだ。モーティシア抜きで気持ちが楽になるのなら、そちらの方がモーティシア自身も気楽にいられるというものだ。
初冬の薄闇の中、白む吐息で指先を温めて。
モーティシアの個人邸宅はここから歩いて少しかかるが、馬の足より自力で歩きたい気分だったので体は軽く、時間帯のおかげか人のいない広い道はとても心地の良いものだった。
他の者達は今日の昼過ぎには邸宅を出て王城に戻るだろうが、モーティシアは今日も丸々休みを取っており、そして今日は個人的にとても重要な日で。
楽しみにしていた書物の新刊が発行されるのだ。
内容はモーティシアにしては珍しく冒険ものの恋物語なのだが、緻密な世界観は多くの知識を与えてくれた。
長く続く物語は幾度となく主人公とその恋人に危機を与えてきたが、いつだって知識が彼らを救ってきたから。
子供の頃から読んできた物語は、もしかしたらモーティシアが知識を欲しがるきっかけになっているのかもしれない。
作者の体調不良から数年間休載となっていたが、今日から物語は再び進み始めるのだ。そう思うだけで、まるで童心に帰ったかのように心はワクワクと浮かれた。
今日一日だけは、モーティシアも自分が治癒魔術師の護衛部隊長であることも、内密の任務のことも忘れるのだ。
もちろん綺麗さっぱり忘れたままでなどいられないが。
ゆっくりと自宅へと進み続けて、やはり馬の足を借りればよかったかと思い始めた頃合いでようやく小さな邸宅に到着して。
上位貴族や中位貴族の個人邸宅と違い、貧しい下位貴族の生まれであるモーティシアの個人邸宅は平民の暮らす家とそう変わりはない。
家は小さいので使用人もおらず、たまに遊びに来るような身内も恋人もいない。
寂しい男の一軒家に久しぶりに足を踏み込めば、部屋の中は以前訪れた時と全く同じ状態を保っていた。
本棚に収まりきらないほどの書物と書き物。机の上には脱ぎ散らかしたまま面倒で放置していた衣服が数着。
王城の外周中間棟にあるモーティシアの室内は小綺麗に整頓されているというのに、ここはあまりにも人間臭く雑多だった。
人目の無いところでまで品行方正でいられるものか。自室は少し汚いくらいが一番物事がはかどるというものだ。
それにしてもたまにしか帰ってこない我が家に久しぶりに戻ったら、脱ぎ散らかした衣服を今度こそ整頓しようと思っていたはずなのだが。
「…後でいいでしょう」
外套を脱がないままソファーに腰掛けて、だらけながら目を閉じて。
自分でも知らず知らずのうちに気を張っていたのだろう。自宅に戻った瞬間に気が抜けて、今にも寝落ちてしまいそうだった。
本屋が開くまでの時間は部屋の片付けをしようと心に刻んだ決意はどこで迷子になっているのだろうか。
思い返せば多くの出来事があったから、自宅に戻れば気が抜けるのも当然だ。
それに。
「……前にここに帰ったのはいつでしたっけ?」
自問自答したのは、だらける自分を肯定する為だ。
恐らくモーティシアだけではないはずだ。
ファントムに王城を襲われてからこちら、慌ただしい城内を駆けまわり続けていたのは王城勤め全員に言えることなのだから。
城下に家庭がある者でさえ家に帰れていない、という話も聞いていた。
静かに目を閉じて、本屋が開く時間まで瞑想でもしていようと思考を停止して。
アリア。
ふと、彼女を思い出す。
アクセルやトリッシュ、セクトルだけでなく、モーティシアも彼女の夫候補として名前が上がっていたのに、なぜ自分は彼女に近づかなかったのか。
答えはあまりにも簡単だった。
アリアは明るく社交的で、勤勉な努力家。頭も良い。
だが、学がない。
王都やその周辺ならば平民でも当たり前に持つ学力を、アリアは持たなかった。
それは生まれた場所が原因なのだろうが、モーティシアはどうしてもそれを受け入れることができなかった。
なんて勝手な理由だろうと、自分自身に苦笑する。
年齢以上に大人びているアリアは、それだけの経験をしてきたのだろう。
どれほど過酷な場所で生まれ育ち、一日一日を懸命に生きたのか。
書類で読んだだけではわからないアリアの育った道筋はしかし、モーティシアからすれば当たり前である学力を持たないということだけで受け付けることができなかったのだ。
なんて失礼な話だろうと自分でも思う。
自分の魔力の質量が好ましい量ではないことも理由ではあったが、もし魔力量がトリッシュやアクセルと同量だったとしても、進んでアリアを獲得に動こうとはしなかっただろう。
それでも大切な仲間だという意識はしっかりと芽生えたから、その幸せを願って。
ーーやめよう。辛気臭い。
今考えるべきは、どう上手く上層部を騙すかだ。
アリアをミシェルに奪われない為に。
今まで二人を近づけようと動いていたモーティシアだったからこそ、先陣を切ってこれからはアリアを守らなければならないのだ。
それにはまず、仲間達に完全に信頼されることが一番重要だろう。
アクセルとレイトルは完全とは言わずともモーティシアを信じてくれている様子を見せるが、トリッシュやセクトルはまだ警戒心が多いから。ニコルとアリアも困惑が強い様子で、信頼にはまだ遠い。
「…トリック殿…私は貴方のようにはなれそうにありません」
呟いた相手は、王子から内密の任務を受ける部隊の先輩だ。
トリック・ブラックドラッグは、エル・フェアリア唯一の魔術騎士であり、モーティシアが目指そうとしていた隠密部隊のまとめ役だから。
どこの誰が何人いるかもわからない部隊。声をかけられたのは魔術師となったその頃から。
国の為に影から従事することに、誇りすら覚えた。
だが今はーー
軽いため息をついて、閉じていた瞳を開いて。
これは国を裏切ることになるのだろうか。
もしそうなるとしたら。
考え過ぎようとして、頭を振って無理やり思考を変える。
さきほどアリアのことを考えて辛気臭いと思考を変えたというのに、また辛気臭いことを考えてどうなるというのだ。
せっかくの一人での休みだ。有意義に休ませてもらわなければ。
恐らくこの一日が終わってしまったら、何かしらの決着がつくまではもう休みらしい休みなど手に入らないだろうから。
ぼうっと見上げていた天井から窓辺に視界を変えて、明るくなった朝の空を見つめて。
考え込みすぎていたのだろうが、ちょうど良い時間となっただろう。
ゆっくりと回り道をしながら歩けば、予約していた本屋が開く時間帯となるはずだ。
本を入れるための鞄は持つが、わずかな手荷物はすべて外套の中の懐に入れておいて、モーティシアは今日の主役となるべき本を手に入れる為に小さな我が家を後にした。
ーーー
遠回りをしながら進んだ城下町は、国の中で最も栄えている場所に恥じることなく朝から賑やかに彩られていた。
とは言ってもまだ商売を始めるにはほんの少し早かった様子で、辺りを賑やかにしているのは開店準備に追われて忙しそうな人々なのだが。
遠回りはしたつもりだったが、やはり家を出たのが早すぎたかともう一周しようかと考え始めたところで、
「ーー開店前に来たら売るって言ったのそっちじゃない!!」
賑やかな朝というには荒すぎる怒りの声が辺りに突然響き渡った。
いったいどこで喧嘩が始まっているのか、モーティシアは辺りを見回そうとしたが、人々が視線を向けるのはただ一箇所だけだったのですぐに場所は知れた。
そこはモーティシアが目的地としていた本屋の前で、その扉の前で女が二人睨み合っている。
一人は店の扉を守るように立つ本屋の女主人で、もう一人は背中しか見えないが、成人を迎えているだろうがまだ若そうな小柄な娘だった。
「あんなの体のいい断り文句だって気付かないのかい?あんたみたいなのに買いに来られると迷惑なのよ」
女主人は見下した蔑みの眼差しで目の前の娘を睨みつけており、何があったのかとモーティシアも眉を顰めてしまう。
本の予約をしに行った際の女主人は気のいい人物だったというのに。
「お金はちゃんと持ってるって言ったでしょ!ちゃんと見せたし!そっちが言うように開店前にも来たんだから、それで売らないなんておかしいわよ!」
「なんと言われても、あんたみたいなのに店に入られたら、お客さんにどう思われるか分からないからね!うちは真っ当な人間にしか売らないんだよ」
「私が真っ当じゃないって言いたいわけ!?」
「そうじゃないか!」
ヒートアップしていく口論は周りの目を釘付けにしていく。誰も彼もが開店準備の忙しさから横目で見る程度だが、中にはモーティシアのように朝の散歩や買い物に来ている者もおり、なかなかの見せ物と化していた。
「…可哀想になぁ」
目的地である本屋の前で繰り広げられる口論を見つめることしかできなかったモーティシアの隣にふと足を止めて話しかけてきたのは、老いて腰の曲がった老人だった。
「……え?」
「あの女の子だよ。店主が変わる前なら売ってもらえたんだろうが」
この辺りをよく知るのだろう老人は、本屋の店主が変わったことを示す。確かに以前のこの本屋の店主はもっと老いた女だったから、恐らく代替わりしたのだろう。
なおも続く口論に先に逃げ出したのは、モーティシアの隣にいる老人だった。
朝からあんなもんは見たくない、そう告げてゆっくりと去っていき、見回せば他の通行人達も同じように「朝からやめてくれ」という顔つきになっている。
このままではモーティシアも本を手に入れられないが、喧嘩に巻き込まれるのはごめんだ。
どうすればよいのか、途方に暮れて立ち尽くしていれば、喧嘩真っ最中の女主人と目が合った。
「ーーあらあら、お客さん!予約してくれた人だね!すぐ店を開けるから中にどうぞ!」
まるで当てつけのように朗らかな声に変わる女主人につられるように、背中しか見えなかった喧嘩相手の娘がモーティシアに振り向いてきた。
「…………」
その娘と目が合った瞬間、どちらも思いきり固まって。
「ほらどきな!あんたと違って真っ当なお客さんなんだよ!」
「きゃ」
女が娘の肩を押し、誰に助けられることもなく倒れ込む。
「…なんだい、男がそばにいたら弱い子ぶって。これ以上邪魔するなら兵士を呼ぶよ。とっとと消えな」
女主人に手招きされて、店の扉に近づいていく。
娘はすがるような視線を向けてはきたが、口を閉じたままだった。
マリオン。
遊郭街で働く顔見知りの娘がなぜこんな場所にいるのか。
「ーーほら、お客さん、予約してくれてた本はちゃんと取り置いてるから、中にいらっしゃい」
はきはきとして朗らかな女主人の言葉は、そこだけ聞けば居心地良く感じるが、モーティシアの隣ではマリオンが屈辱に顔を赤くしている。
「……あの、彼女は」
「ああ、放っときな。それは客じゃないから。それより数年ぶりの物語の新刊なんだろ?早く読みたいでしょう」
マリオンを気にするモーティシアの背中を押してくるから中に促されて。
その合間にもちらりと目を向けたマリオンは、数年ぶりの物語の新刊という言葉にハッと反応し、泣き出しそうな顔になった。
それだけで、マリオンが何をここに求めてきたのかがわかってしまった。
悔しそうに唇を噛み締めて涙を堪え、俯いて走り去っていく。
「ああ、やっと帰ってくれたわ」
そんなマリオンの後ろ姿をため息と共に見送った女主人が、変なものを見せてすみませんねと謝罪をくれた。そして。
「あの女、遊郭で働いてるんだよ」
完全な侮蔑の感情を露わにしながら、女主人はモーティシアの予約した本を取りに奥へと入っていく。
「ただ働いてるだけなら私だって何とも思わないよ?だけどあの女はねぇ…」
何とも思わないと言いながら、その声には最初からひたすら蔑みしか感じられない。
「もう家の借金も無くなったのに、まだ遊女やってるっていうじゃなか。楽に働けて大金もらって、働くことの有り難みをわかっちゃいないのさ。そんな人間に本は売れないでしょう?」
モーティシアも自分と同じ意見であると信じて疑わないのだろう。無言を貫くモーティシアに、なおも言葉は続いていく。
「頭の悪い商売しかできないような人間に買われるなんて本が可哀想だ。お客さんみたいにちゃんと働いて自分のお金で買ってくれる人じゃなきゃね」
マリオンの肩を持つわけではないが、あまりの言い草に眉間に皺が寄った。
遊郭の女達がどう働いているかなど知らないが、マリオンのいる店は王城が正式に認めた店だ。他のいくつもある店とは格が違う。仕事が何であれ王城御用達となるには厳しい審査があり、その審査を通過するのは一握り。もちろん賄賂も効きはしない。審査の頂点にいるのは第一姫ミモザなのだから。
「それにね、あの女、どうやら悪魔喰らいだって言うじゃないか。そんな人に店にあがられたら、うちにまで変な客が来ちまうよ」
悪魔喰らい。その言葉にスッと胸が冷えた。悪魔喰らいとは、特殊な性癖を持つ客を相手にする遊女のことを示す。
最も給金を得られるが、王城御用達でありながら悪魔喰らいだというなら、それは凄まじい努力をしてきたことになる。
しかしそこまでモーティシアが理解できるのは王城に勤めているからに他ならず、多くの者達の目にはマリオンは醜い存在に映るのだろう。
実際、王城内でも遊女を見下す者は多いのだから。
モーティシアがそこまで知っているのは、知識のおかげだった。本という、大切な知識の宝庫のおかげ。
否定も肯定もしないモーティシアに、女主人はひたすらマリオンへの、そして遊女達への悪口を止めなかった。
本を売りながら、あまりにも無知すぎる悪口を。
「ーーほら、用意できたよ」
「ありがとうございます」
悪口を聞いて欲しかったのかゆっくりと用意された本をようやく手に取り、モーティシアは軽く中を確認してから銅貨を差し出す。
「またいつでもどうぞ」
女主人はモーティシアに対して最後まで朗らかな笑顔を向け続けたが、モーティシアはほんのかすかな無理やりの微笑みを向けて小さく頭を下げただけで、すぐに店を後にした。
不愉快な言葉を聞かされて、またここで本を買うつもりはなくて。
マリオンの肩を持つわけではない。知識なく語る女を醜く感じた結果だ。
自分は知識があると勘違いした無知な女ほど醜いものはないと切実に思う。
無知であることを自覚して勉強を続けるアリアがとても立派に思えるほどだ。
もやもやとした胸のむかつきを自宅に持ち帰りたくはない。せっかくの休日の朝なのだからと、モーティシアは遠回りをして喫茶店に向かうことにした。
上手い具合に朝食は抜いていたので、本のプロローグを読みながらの馴染みの喫茶店というのも趣があるというものだ。
そんなふうに考えただけで気分はいくらか良くなるものだから、楽しみにしていた本というものの力はすごい。
眉間に寄っていた皺が自然とほぐれたのを感じながら、鞄に入れた本を鞄の上から撫でて。
「…………」
前から重い足取りでこちらに進んでくるマリオンを見つけて、思わず足を止めた。
彼女の方はどうやらモーティシアに気付いていない様子で、それは恐らく落ち込みすぎて下にしか目を向けていないからで。
マリオンが訪れた方向にはたしかもう一軒本屋があるはずで、そこでも本を売ってもらえなかったのだろうと思い至って。
今日を省けば二度しか会ったことのない娘だ。その二度ともマリオンはモーティシアに猛烈なアプローチをしてくれたというのに、視界にも入らない様子にちくりと胸が痛んだ。
「……人とぶつかりますよ。前を見て歩きなさい」
このままこけられても気分が悪いので声をかければ、マリオンは無意識のようにふわりと顔を上げ、ようやくその視界にモーティシアを入れてくれた。
「モーティシアさん……」
名前を覚えてくれていた様子で、マリオンは先ほどの本屋の入り口でのやり取りを思い出したのか恥辱に顔を赤くして俯いてしまう。
そのマリオンの目の前に、鞄に入れていた本を取り出して。
「あなたが買おうとしていたのは、この本で間違いないですか?」
事情はあらかた察したから、本に間違いが無いかだけ問うて。
本を見たとたんに涙を滲ませたマリオンが、数秒経ってからようやく頷いた。
「…そこの喫茶店に入っていてください。買ってきますから」
「え……でも」
「まさか喫茶店も追い返されるなんて言わないでしょうね?」
本屋には入れてもらえなかったから喫茶店でもそうなのかと尋ねるが、すぐに首を横に振られた。
「なら何か頼んで大人しく待っていなさい」
自分でも驚くほどぶっきらぼうに言い捨てて、とっとと本屋に向かって。
少し歩いた先にあるその本屋でも何度か買い物をしたことがあったので、店主はモーティシアを見るなり嬉しそうにすぐ本を売ってくれた。
先ほどの女主人と同じような人当たりの良い笑顔で本を売ってくれたというのに、ここの主人もマリオンには本を売らなかったのだろう。
そんな差別があるなど知りもしなかった。
いや、聞いたことはあったが、実際に目の当たりにしたことはなかったのだ。だから差別を知っていたとしても、あるとは思わなかったのか。それとも自分には関係が無いからと見逃していたのか。
本を買えばとっとと指定した喫茶店に入って、店内の奥にいたマリオンの待つ席に向かって。
マリオンはモーティシアが到着するなり申し訳なさそうに眉根を寄せて立ち上がるから、すぐに本をテーブルに置いてやった。
二度会った時はモーティシアを手の平で転がす勢いだったというのに、こんなか弱い一面があったなど。
「……どうして」
ようやく口を開いたかと思えば、感謝ではなく疑問を口にされるとは。
それでもマリオンはやはり本を求めていた様子で、モーティシアに取り上げられまいとするかのように両の手を本の上に置いて物欲を示した。
「いくつか訊ねたいことがありましたので。あとは、同じ本を楽しみにしていた仲間と会えた喜び、とでもしておいてください」
立ち尽くすマリオンは放っておいて、とっとと店員にオーダーを通して自分は席につく。
訊ねたいことがあるというのは本心だ。
仕事につながる内容だが、休日であれ聞かないわけにはいかない。
「座りなさい。それはもうあなたの本ですから」
マリオンは数秒ほどためらう様子を見せたが、やがて同じように席につき、自分の鞄から小袋に入った銅貨を差し出してきた。
中はきっちり料金分で、彼女が本当に本を買うつもりであったことを示している。
モーティシアも贈るつもりではなかったので、関係性の線引きの為にも銅貨を受け取った。
「あの…ありがとう…」
マリオンの表情はまだ暗くはあったが、本を買えた現実がゆっくりと喜びを味わわせているかのように、柔らかな笑顔が浮かび始めていた。
そこにちょうどマリオンが頼んだらしい飲み物を店員が持ってきてくれて、慌てた様子で本をテーブルの端にずらしている。
「…あなた、飲み物だけで朝食は食べないのですか?」
「……え、だって…」
似合いもしない申し訳なさそうな殊勝な様子を見せてくるから、朝でも食べやすいだろうシンプルなケーキを代わりに頼んでやった。
店員が戻っていく姿を見送ってから、マリオンがまた申し訳なさそうに見上げてきて。
「…私、本買うつもりでしかなかったから…そんなに手持ち無い…」
「ここにいなさいと言った時点であなたに支払わせるつもりなんてありませんよ。似合わない表情はやめて、いつものあなたに戻ったらどうですか」
いつもといっても二度しか会ったことはないのだが、せっかくの待ちわびた日の朝なのだ。申し訳なさそうに眉を顰められるくらいなら、いっそ屈託なく笑ってくれていた方がこちらの気分も良い。
「…モーティシアさん、やっぱり優しいね。もっと好きになっちゃう」
「……そういうことは言わなくていいんです」
マリオンもまだ本調子ではなさそうだが、やっと笑ってくれた。
「それで、訊ねたいことってなに?私の休みの日とか?」
「…先ほどの本屋での差別の件です。他でも同じことがあるなら教えてください」
調子を取り戻し始めた途端に翻弄しようとしてくるから、すぐに本題に入った。
マリオンは本屋での一件を思い出してまた少し口元を引き攣らせたが、真面目な瞳になってくれた。
「別にあれくらい…いつものことだよ?どうしても手に入らない時は、楼主が人づてに頼んでくれるし」
「それがいけないことなんです。あなた達は王城御用達。国に身分を保障されているんです。そんなあなた達に物を売らないのは、国に歯向かうも同然の行為なんですから」
「……それは真っ当な職業の人たちにしか当てはまらないよ」
「国が必要だと認めたのだから、あなた達は真っ当に働く人間です。そこで働いているあなたがそんなことを言ってどうするんですか」
「じゃあ御用達の栄誉を与えられなかったお店の子達は真っ当じゃないの?同じように働いてて、なんで私たちは真っ当で、他のお店の子達は違うの?」
訊ねられて、言葉に詰まった。
その言葉の使い方は、モーティシアがニコルやアリアにするように、とてもゆっくりとした、相手にわかりやすく伝えるためのものだ。
「…それは…あなた達の努力の賜物でしょう」
「王城御用達になることがどれくらい名誉あることかは知ってる。どれくらい審査が厳しいのかも。でも、その審査が私たちの職業に対してどれほど理不尽かわかってる?」
ただの商品なら、御用達として箔がつくだけだ。だが遊郭が売るのは人とその時間なのだ。
国の審査は楼主や遊女達の人となりだけでなく、その家族にも及ぶ。遊女がどれほど出来た娘だったとしても、家族に罪を犯したものがいれば認められない。
それだけでなく、どこか闇から買われ流れて身の上をはっきりとできない娘も認められないのだ。
そして、男娼宿はそもそも機会すら与えられない。
この国では実力があればどこまでも登っていくことができる。
だが、全ての者に平等に実力を示させる機会を与えるわけではないのだ。
「私たちは運が良かっただけ」
言葉の重みが、ずしりとモーティシアにのしかかった。
「……そうだったとしても、まずあなた達が自分に与えられた権利を主張することが、差別を無くす一歩目となるのではないですか?」
「…私たちは物じゃないんだよ」
「わかっています」
「わかってない。私たちは人間なの」
「そーー」
それくらいわかっている。そう口にしようとして、マリオンの真剣な眼差しに口は閉じた。 マリオンが口にした「私たち」とは遊郭街で働く者たち全員のことだと気付いたからだ。
「…物はいいじゃない。今は認められなくても、少しずつ良い物を選りすぐっていけばいつかは国に認められるかもしれないんだから」
自分たちが本当にただの物だったならと、マリオンは自分だけでなく遊郭街全てを憂う。わずかな量の言葉に、彼女が見てきたのだろうあまりに多くの悲しみの感情がうかがえた。
「差別が出来た理由、知ってる?遊郭に御用達の制度ができたからだよ…それまでは、一冊の本でも売ってもらえてたって。みんな遊女を憐れんでくれたから。人の心の優しさを変えたのは、人の嫉妬心を煽る制度を与えたからよ」
遊郭街にその制度が設けられたのは、二十年ほど前か。今はミモザが制度を取り仕切るが、当時は国王自ら遊女のために動いたと聞いたが。
憐れむ対象だった可哀想な遊女達。その一部だけを国は直々に守ると約束した。
「そもそも王城に住む貴族のための王城御用達なんてもの自体が差別なのに、そこから始まった差別を人の心から省けるわけがないわ」
あって当然と割り切る表情に、先ほど本を買えずに悲しんだ様子は見えない。
隠すことに長けた彼女の技なのだろうが、それはようやく人の心を理解する努力を始めたモーティシアの胸に突き刺さるものがあった。
「…私は制度やあなた達の上澄みしか見ていなかったようですね」
素直に項垂れれば、マリオンが手を伸ばして頭を撫でてくれた。
「……モーティシアさん、変わった?」
突然何を言い出すかと思えば、楽しそうな笑みを浮かべたマリオンと目が合う。
「前までのモーティシアさんなら、それでも冷静な理論で言いくるめてきたわ。でも今は、心がある」
モーティシアの頭から手を離して、どこか嬉しそうにしながら頼んだ果実水を飲んで。
「…あなた、私のことを優しいと言ってませんでしたか?」
「モーティシアさんが本当は優しい人だってことくらいちゃんと知ってるわ」
少ない言葉の中に、多くの情報を詰め込んでくる。
今日でまだ三度しか会っていないというのに、まるでモーティシアの全てを理解しているかのようで少しだけ癪に障る。
だがモーティシアを優しいと言ってくれるその音色はレイトルが教えてくれた、モーティシアですら知らなかった心の有り様と同じもので、気恥ずかしさから目を逸らしてしまった。
「きっと何かあったんだね。モーティシアさんにとって、本当に良いことが」
心の変化を良いことと言ってくれるその言葉遣いが嬉しかった。
国の繁栄か、アリアの幸せか、いまだに迷いもあった心を正しいと言ってくれた気がしたのだ。
マリオンに聞きたかった差別の件は、ここでたった一人に訊ねて終わるものではなかった。
ミモザに直接伝える機会があれば大々的な見直しが行われる可能性が高いが、そうなったとしても長い年月がかかるだろう案件だ。
マリオンもモーティシアの様子からこの件は終わったと気付いた様子で。
「ほかに聞きたいことは?」
「…そうですね。用事も済ませたし、とっとと朝食を済ませて帰りますよ」
「え、ひどーい!」
せっかく会えたのにと慌てる姿に、ようやくモーティシアも表情を綻ばせることができた。
そこに都合よく食事が運ばれてきて、店側が気を遣ってくれたのか、後に頼んだマリオンへの朝食も一緒に持ってきてくれた。
マリオンにはひと口サイズのパウンドケーキが数種類ずつと果実が乗った可愛らしいケーキプレートで、モーティシアの方は朝からしっかりと肉料理だ。
「あなたはそれで足りますか?」
「……十分足りるけど…モーティシアさんはけっこう食べるんだね」
「そうですか?騎士達は私の三倍は食べますよ」
モーティシアの朝食は男が手を広げたと同じくらいの大きさのステーキ肉とサラダのセットだ。肉の厚みも十分あるので食べ応えがあり、この喫茶店を使う時は決まってこのメニューを頼んでいた。
「…王城の人たちって、すごい食べるんだね」
「魔力を使うと空腹がすごいですからね」
ナイフとフォークを使いこなして、いつも自分が食べるよりも少し小さいサイズに切り揃え、マリオンにもフォークを渡しておく。
「…食べていいの?」
「お好きにどうぞ。王城でもないのに堅苦しいのはごめんですから」
驚く様子はモーティシアが貴族だからなのだろう。だがモーティシアは下位貴族の中でもさらに身分は低い方で、そのおかげか食事のマナーに無駄なプライドは持ち合わせてはいない。
その時々に合わせた食べ方に文句をつける方が野暮というものだ。
「へへー、実はちょっと気になってたんだ。ひとついただきます!」
マリオンもさっそく一切れ頬張ってくれて、美味しそうに食べてくれる表情を不覚にも可愛いと思ってしまった。
相手は男の心理に長けた玄人だと心の中を戒めたのは自分の為だ。
「こうやって外で会えて、本まで同じものを買いに来てるなんて、ほんとに運命みたいだね」
「この本を楽しみにしていた人はごまんといます。魔術師団内でも話題に上がりましたからね」
お互いに食事を始めながら、以前と同じように好意を示してくるマリオンを適当にあしらう。
「でも外で会えたのはほんとに運命だと思うよ?今日が発売当日だったとしても、一日は長いんだし、本を扱う店もたくさんあるんだから」
「ただの偶然ですよ」
「じゃあモーティシアさんが私の為に本を買ってきてくれたのも偶然?再会できたことは偶然だったとしても、その後の流れまで偶然にはできないわ。だってモーティシアさんの意思で買ってきてくれたんだから」
調子を完全に取り戻したマリオンは、モーティシアが応戦の為に開こうとした口にフォークで刺した果実を突っ込んできた。
「偶然も必然も行動も、全部ひっくるめて運命だわ」
口数の減らないマリオンを前にして、反論も面倒になり咀嚼にだけ勤しむ。だが。
「本の主人公とヒロインだって、いろんな運命から一緒になれたんだから」
「…主人公の努力を運命の一言で片付けてほしくはないですね」
解釈違いに思わず不満は漏れた。
「その努力だって、努力につながるいろんな運命の出会いがあったからだもん」
「勤勉さという実力の賜物です」
「初期の頃の主人公のままだったらあんなに努力家になってないわ。たくさんの運命の出会いが今の主人公に変えたんですー!」
同じ本だというのに、読み手によって解釈は変わってくるということか。モーティシアは本の主人公がモーティシア好みの博識となるほど努力家であったことを評価していたが、マリオンは主人公が多くの人々との出会いを通じて成長した過程が好きな様子だった。
この会話は、面白い。
長く続く一つの本を、二人で思い返しながら熱く語っていく。
時折り解釈違いに対する不愉快に眉を顰めながら、でも、こんなシーンもあったなと笑いながら。
思いがけず楽しくなり始めた休日の朝。できれば長く楽しみたいと食事のペースを普段より遅らせながら、モーティシアはコロコロと表情を変えるマリオンを眺め続けていた。
ーーーーー