第73話
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日は完全に沈んだ。闇に瞬く星々も薄雲のせいでまばらにしか見えない夜空を、ガイアは静かに見上げていた。
ラムタル王家のみ休むことを許されたその庭園内に居られる理由は、ガイアがファントムの仲間であり妻だからだ。
飛行船、空中庭園には今も苦しむパージャがいて、息子のルクレスティードはウインドと共に王城内のどこかにいるのだろうが、そのどちらにも合流するつもりはなくて。
それより今は一人でいたかった。
昼頃に見た光景が忘れられないから。
ロードはガイアの目の前で、幼い少女を愛おしそうに抱き、その額にそっと口付けたのだ。
ファントムをロードと呼ぶことを許されたのはガイアだけのはずなのに、少女も彼のことをロードと呼んだ。
彼が隠そうとする最後の子供なのかとも考えたが、それならばあれほど驚いた様子は見せないはずだ。
ルクレスティードが連れてきて、傷ついていた肩を治してあげた少女。彼女を前にした時、ガイアも確かに彼女に対して愛おしさを感じてしまったのだ。
それは幼い可愛らしさが理由だと思っていたが。
「…カトレア王妃…」
ロードが呼んだ、その名前。
ロードがまだエル・フェアリア王子だった頃に共に王城にいた、当時の王の後妻の女性。
王の子供を身籠って後妻の王妃となり、後のデルグ王を産んだ人。
おそらくあの少女は、その生まれ変わりなのだろう。
カトレア王妃はロスト・ロード王子を暗殺した罪で公開処刑となったが、ロード自身の口から彼女の話を聞いたことは無い。
だから何も知らないままだった。
知ろうとも思わないほど、頭の片隅にすら存在しなかったのに。
ロードがあれほど愛おしそうにしていた姿がひどく胸を掻きむしる。
ロードにとってただの継母などでないはずだ。
もっと別の、もっと、心から愛おしいと思えるほどの存在。
それはもしかしたら、彼がガイア以上に愛するほど。
どれだけ考えても分かるはずがないのに、まるで夜空に答えを求めるかのように静かに見上げ続けていた。
その視線の端で何かの影が揺れたから、無意識のようにそちらに目を向ける。
「…ロード」
その影は見慣れた人のもので、ふらりとこの場所を離れた彼が再び訪れた理由など考えないようにしてその瞳を見つめ続けた。
キュッと唇を噛んで、ふいに溢れそうになった涙を堪えて。
ロードは何も話さない。
ただ静かにガイアを見つめ返してくるだけだ。
見慣れた美しい人。
風も吹かないから、あまりに静かすぎてまるで死人のようで。
「…ロー」
陶器のように冷たそうな頬に触れようと伸ばしたガイアの手を、ロードは掴んで引き寄せた。
力強い大きな手がガイアをロードに近付けて、もう片方の腕で腰から引き寄せられて。
掴まれた手首の温かさが離れると、次は首筋にその手が回った。
そして、いつも通りの強引で気ままな口付け。
まるでおもちゃのように勝手気ままに、ガイアの気持ちなどお構い無しに蹂躙される。
その唇は、あの少女の額には愛おしそうに触れたではないか。
「ーーやめて!」
激しい嫉妬が悲しみとなり、泣き声のように裏返る声で拒絶してしまった。
拒絶は彼が最も嫌う行為で、その後に待ち受けるのはつらい“躾”の時間だというのに。
ザァ、と血の気が引いていく。
唇は離れてもロードの腕は離れないから、ガイアは囚われたままで。
その表情を見るのが恐ろしくてガイアはすぐに視線を落としていた。
だが普段ならすぐに怒りの気配を感じるというのに、今日は何にも圧迫されることなく、ガイアは無意識に見上げてしまった。
とたんに、雷に打たれたように身動きが取れなくなる。
押さえつけられたからではない。
ロードはただガイアを見下ろすだけだった。
何もしてこない。
だが、あまりにも苦しそうな表情をするものだから。
「……ロード?」
今まで見たこともないほど苦しそうな、悲しそうな様子で、拒絶を恐れるとでもいうほどに切実な眼差しを向けられる。
こんな人間らしい彼を、今まで見たことがあっただろうか。
「ロード、どうしたの?」
あまりにも悲しそうな顔をするものだから、ガイアもつられて眉根を寄せて。
「…私は……何を間違った」
彼の吐息に混じる、泣いているかのような声。
その声が不安に震えるから、ガイアは彼の両頬に手を添えて、自ら唇を合わせた。
慈しむように、優しく守るように、大切に。
ただひたすら優しさだけを表す口付けにロードが反応を示したのは数秒経ってからだった。
ガイアの愛を求めるように情熱的で切実な深い口付け。
舌が交わり、吸われ、押し入ってくる。
どろどろに溶け合うような長い時間の後にようやく唇は離れたが、ロードの両腕はガイアを抱きしめて離れなかった。
今この瞬間の彼は、ガイアしか目に写していないと分かるほどで。
「…あなたを愛してる」
誰にも彼を取られたくなくて、ついこぼれた言葉に、ロードが少しだけ目を見開いた。
今までガイアが自らの意思でロードに愛情表現を言葉にしたことはなかった。
ロードは自分の気が向いた時にガイアを味わい、ガイアからの愛の言葉も半ば強要されて口にしたものばかり。
ガイアから寄り添うこともあったが、いつも言葉にはしてこなかったから。
でも今日は言葉にしなければいけない気がして、そして今のロードにもその言葉が必要で。
「…ロード」
名前を呼べば、まるで温もりを求めるかのように彼の唇が首筋をつたい、ガイアに合図を送る。
拒みはしない。そもそも今まで拒むことなど許されなかったが、今日だけは様子が異なり、その手つきや舌使いからどこか臆病に感じるほどの人間味を感じた。
体は自然に東家に置かれた椅子に向かい、どちらともなく唇を合わせ、協力し合うように互いの衣服をはだけさせていく。
強引なものなど何ひとつ存在しない。
蹂躙されることもない。
まるで、愛を確認するための儀式のように。
豊満な胸がドレスから溢れて外気に触れ、寒さを感じる前に大切そうに彼の手に包まれる。
硬くなろうとする胸の先端が、手のひらの温もりと優しさにまどろむようにまた柔らかくほどけていく。
ロードの唇は先ほどガイアの首筋を舐めた後は、どこをさまようこともせずに口付けだけを行った。
啄むように、とろけ合うように。
互いの呼吸を吸い合い、味わい、また口付ける。
何もかもがゆったりと穏やかな水流に身を任せるような時間。
互いの身体を知り尽くしているからこそ、互いが本当に満たされる方法を知るのだと。
執拗な愛撫のない理性的な情交。しかし、この上なく満たされる時間。
今までの一方的で深く激しい行為から一変しているというのに、まるで昔から知るかのように互いを慈しみ合っていた。
それは、二人の魂が元はひとつだったからなのだろうか。
少しだけ唇を離して、背中に両腕がまわって抱き寄せられる。はだけたロードの胸部にガイアの胸がふわりと密着し、情事に最も関わる秘部には触れ合いもしないまま、熱く反り立ったものに入口を塞がれた。
触れられていないはずなのにどろどろに濡れているのが自分でもわかるほどで、それが恥ずかしくて頬を赤らめて。
ちらりと見上げれば、どこか不安げな笑顔が。
「…ロード…」
名前を呼んでみても、彼はガイアを呼んでくれない。
でも、ガイアが好む口付けをくれる。
そのままゆっくりと挿入しようとするから、最初の痛みを怯えるように、ガイアは腰をわずかに引けさせてしまった。
この身体は少しの傷も許さないから、何度交わろうともガイアを処女に戻してしまう。だから、最初の挿入だけは少し怖くて、しかし今日はなぜか痛みを感じなかった。
本当にゆっくりと挿入されていくのを感じながら、わずかな圧迫感だけで痛みは存在しなかった。
まるで魂が身体ごとひとつに戻ろうとするかのように互いを抱きしめ合ったまま、ガイアの最奥まで到達する。
慣らしていない秘部はロードのものを全て収めることができないというのに、その瞳は満足そうに閉じられていた。
互いに動かない。だがそれがどうしようもなく気持ち良い。
静かに馴染むたびに少しずつ収まりきらなかった箇所も入り込んで、
「っっ……」
あまりの気持ち良さに深い快感が押し寄せ、ガイアの膣内が強く脈打った。
強制力のない安心感だけを得られる情事がこれほど気持ちよくて心地良いものだったなんて。
はぁ、と深く長い深呼吸して、また口付けて。
「…もう一度言ってくれないか?」
訊ねられた意味を問うより先に、
「……あなたを…愛してるわ」
答えは自然と口からこぼれた。
どうしてこれほどまでに様子が変わってしまったのか、これは一時的なものなのだろうかと考えてしまうが、今が幸せすぎて深く考えることができない。
それもこれも、あの少女が現れたからなのだろう。
絡繰り妖精は、あの少女とロードを会わせる為の悪戯をしたのだ。
そうだとしても。
「…愛してる」
自分の全てがロードのものであると同時に、彼もまた自分のものだと心から訴えるように、そっと呟いた。
ロードは言葉の代わりに口付けをくれる。
満足そうに、しかし少し悲しそうに。
その様子に、優しく達して満ち足りた胸に少しだけ寂しさが交じるが、背中に両腕を絡ませて先を促すことで寂しさだけを取り除こうとした。
ロードはガイアが求めるまま動いてくれる。
普段の強制的な快感ではない。ゆっくりと引き抜かれるたびに柔らかな快感が穏やかな波のように訪れ、奥に再び戻ってくるときも優しくて、恐怖は微塵も存在しなかった。
互いの吐息だけが静かな世界に溶けていく。
洗練された庭園の中で、あまりにも清らかに思えるほどだ。
ロードの律動が少しだけ早くなっても、心地良さは消えはしない。
何度も口付けて、何度も見つめ合って。
「ーーーっ」
頭を抱え込まれるように抱きしめられ、ほぐれた最奥に押し込まれたペニスが深く痙攣したと同時に、ガイアも快感の最高潮へと達した。
ドクドクと脈打たれる度に同じように何度も昂りを感じ、頭の中が白く弾けたようにふわふわと思考が曖昧になる。
浅い呼吸を何度か繰り返して、乾いた喉を潤すように空気を飲み込む。
ロードは上半身を少しだけ上げ、ガイアを見つめてからその胸に額を埋める。
その様子が可愛くて、ふふ、と微笑みながら彼の頭をそっと撫でた。
そこに。
「…ガイア」
行為の最中は呼んでくれなかった名前を呼ばれる。
じわりと汗ばむ身体をそのままに、顔を上げたロードは真剣な眼差しでガイアを見つめ続けてくれる。
「…あの娘のことだ」
愛情に溢れた情交の後の話題にするには心が苦しくなるが、ガイアは少しだけ悲しげに眉を顰めただけに留めて言葉を待った。
「…あの娘の魂は…カトレアのものだった」
その名前を聞かされて、どう思えばいいのかはわからない。ただロードの悲しみは魂を通じてガイアの心も強く悲しませた。
「どうしてわかるの?」
問うたところでガイアにも答えは分かりきっているのに。
「私が彼女を間違えるはずがない…」
会ったこともないガイアですらあの少女に感じた愛情。
ロードはどこまで心を掻き乱されたというのか。
ガイアもそっと上半身を起こせば、まだ繋がっていた箇所からずるりとペニスが抜け落ちた。
ロードは自分の上着をガイアの背中にかけてくれて、無言のまま簡単な身支度を済ませていく。
「……教えて?」
その様子を静かに見上げていたガイアだったが、彼女のことが知りたくなって。
ガイアがまだ産まれる前の話だ。
その魂がロードであった頃に何があったのか。
ロードはガイアの隣に座ると、拠り所を求めるようにそっと肩を抱いてくれた。
そして、ぽつりぽつりと、過去をゆっくり思い出すように話し始める。
まだファントムがロードとして青春を謳歌していた時代。
大戦の最中。ロードは己の才能を見せびらかすほどの勢いで戦闘の指揮を取り、勝利を勝ち取り続けていた。
そして王城に戻れば、いつも彼女はいた。
当時の藍都唯一の姫君だったカトレア。
長く続く大戦の最中、戦闘力の無い七都の姫達は王城で保護されていたのだ。
その一人だったカトレアは他の姫達とは違い、ロードが王城に帰還しても功績を讃えて近づいてくることはしなかった。
当時のロードには歳の離れた幼すぎる婚約者が一応いたが、互いに交流など無くロード自身その婚約者に微塵の興味も持たなかった。
だが女に興味が無いわけではない。
近寄る姫君達は皆美しく、まだ若いロードにとって耳心地の良い言葉を並べ立ててくれる。
それはプライドを保ってくれたが、彼女だけは違った。
ロードの凱旋に顔を出しはするが形式的で、日中の大半を書物庫で過ごすが何かを学んでいる様子も見せない。
パラパラと気ままに本を開いては、興味を無くして元の場所に戻し、また別の本をパラパラと気ままに開くだけ。
夜会でダンスの相手を望めば踊ってはくれるが、会話もそこそこにすぐに去っていってしまう。
それは当時のロードにとって、プライドをひどく傷つけるものだった。
大戦の最中に手に入れたいくつもの武勲を讃えもせず、未来の王妃の座を狙った男女の駆け引きを行おうともせず。
自由気ままで、ロードの方から声をかけても藍都特有の傲慢な笑みだけを残して去っていくだけ。
長い藍色の髪をふわりと揺らしながら、労いの言葉を掛けてやるのは騎士達や魔術士達のみ。
気付けば、王城にいる間のロードの行動はカトレアを探すものばかりとなっていた。
いつも一人で書物庫にいてはくれたが、それもロードが毎日のように顔を見せるようになれば静かに消えてしまった。
話しかけようとすれば先に手近な者達と話し込んでしまう。
ロードがカトレアを探しているのだと悟られてしまってからは、夜会にもあまり姿を見せなくなった。
そしてまた数週間の戦闘を終えて帰ってきた時、彼女は完全にその姿を見せなかった。
あまりの傲慢さに激しい苛立ちを覚えた。
大国の王子が勝ち星を掲げて戻ってきたというのに、庇護下にいる姫が形式的な式にも姿を見せなくなるなど。
その日の凱旋式はほどほどに済ませ、勝利を祝う夜会で護衛の騎士達が止めるのも構わず次々に酒を煽った。
傲慢な女への苛立ちを抑えるための酒はしかし火に注ぐ油としかならず、苛立ちを隠さないまま護衛を断って一人で夜会を後にした。
大戦の英雄であるはずのロードを蔑ろにするカトレアにどうしてもひと言言ってやりたくて、彼女のいそうな場所をしらみ潰しに探しても、どこにもいなかった。
書物庫にも、庭園にも、カトレアが好んでいた場所のどこにも。
そしてやっと、彼女に与えられた貴賓室の部屋の明かりが付いていることに気付いた。
そうとわかれば一直線にその部屋を目指した。
途中で侍女達に止められても話も聞かずに、ただ苛立ちのままに。
無礼を働く者に礼儀など必要ないとばかりに貴賓室の扉を開けて歩みを進めれば、最奥の寝室内で異変に気づいたらしいカトレアがゆっくりとこちらに身体ごと目を向けてくるところだった。
ベッドの上から、ひと目で高熱にうなされているとわかるほど赤い頬をしたまま。
室内にいた侍女はロードの突然の来訪に驚いたが、それよりもロードに頭を下げようとするカトレアを慌てて留め、ベットに押し倒してしまう。
それを見て、ようやく自分の失態に気付いた。
凱旋式に訪れなかったのも、夜会に姿を見せなかったのも、高熱にうなされていたからだった。
ロードは誰かからカトレアの話を聞こうともせず、貴賓室に押し入ろうとするのを止める侍女の話も聞かず、ただ苛立ちに任せて礼儀を欠いた。
だというのにカトレアは、ロードの来訪に気付いて、座った状態ですら苦しいにも関わらず今できる最善の礼儀を見せた。
一気に苛立ちは消え去り、酒も抜けた。
代わりに全身を襲ったのは、申し訳なさから来る激しい後悔だった。
無理はさせないからと侍女を下がらせて、ベッドのすぐそばでカトレアを見下ろした。
熱のせいで真っ赤になった頬と、涙でうるみ続ける瞳と、苦しげな息遣いと。
カトレアは何か話そうとしたが、声が枯れたのか少しの音も発することができなかった。
ロードも口を開かず、ただ見つめ合うだけの時間が訪れる。
静かな夜に、遠くから聞こえてくる夜会の音を聞きながら、ただ、互いを確認し合うだけの時間。
やがてうつら、とカトレアの瞳が揺れて、ロードは無意識のうちに彼女の汗ばむ額に手のひらを合わせた。
額のあまりの熱さに驚くが、カトレアは手のひらの冷たさが心地良いかのようにそっと瞳を閉じた。
ロードの手のひらにカトレアの体温が完全に移った頃合いで聞こえてきたのは、少し苦しげな寝息で。
カトレアが完全に寝入ったことを確認するまでは静かに見守り、ようやくその眠りに納得をしてから貴賓室を後にした。
外で待機していた侍女になぜ彼女を治癒魔術師に見せないのか問えば、カトレアが自ら断ったのだと教えられた。
負傷した騎士達に力を使ってほしい。熱程度なら数日休めば治るから、と。
それは傲慢と名高い藍都の家の者とは思えないほどの言葉だ。
おそらく他の七都から訪れている姫達でさえ、そんな言葉は浮かばなかっただろう。
いずれ王家の子供を産むかもしれない貴重な存在なのだ。高熱の影響で子供が産めなくなってしまったら、存在価値が無くなってしまうから。
そこまで考えてしまい、また少しだけ苛立ちが戻ってきた。
万が一とはいえ子供が産めなくなってしまうかもしれないというのに、自分の身を後回しにするなど。それは遠回しにロードを拒絶しているような気がして。
その足ですぐに治癒魔術師を一人呼び、眠るカトレアをすぐに治した。
回復した翌日、カトレアは早々に謁見を申し込んでくれた。
職務を放棄して会いに行けば、感謝の言葉は並べてくれたが、早々に立ち去ろうとするから。
王族付きも侍女達も下がらせて二人きりだった室内で、ロードは立ち去ろうとするカトレアの手を取った。
なぜ靡かない
素直に問えば、
随分前から夢中になっています
と。
ならばなぜ他の姫君達のようにロードの元に訪れないのか。
その答えは、いつも通りの傲慢な笑顔と共に教えてくれた。
恋の駆け引きとは、そういうものでしょう?
挑発的に見上げてくる彼女に、思わず大笑いしてしまう。
確かにそうなのだろう。
ロードも男で、女の身体に興味を示す充分な年頃で。
そんな中で訪れる姫君達は、美しくはあったが、ただロードのプライドを心地良く持ち上げる程度にしかならなかった。
カトレアは七都の中での序列は最下位。
他の姫達からも釘を刺されていたことだろう。
だから、カトレアは知恵を働かせて、そして見事にロードの視線を手に入れたのだ。
ならばこれからは二人は恋仲になるのかと思えば、そうではなかった。
ロードにとってカトレアはまだ気になる程度の娘で、カトレアもそれに気付いており。
優雅な一礼の後に足取り軽く去っていくカトレアを、満足げに微笑みながらロードは見送った。
二人の勝負はその日から始まった。
どちらが先に、相手に心を明け渡すか。
ロードはわざと他の姫君に優しく接してみたり、かと思えばカトレアと二人きりになった途端に迫ってみたり、あらゆる手を尽くして彼女を心ごと手に入れようとした。
秘密裏に送った高価な装飾品をカトレアは翌日から身につけてくれる。だというのに彼女は何も変化など訪れていないかのように今まで通りだった。
藍色の宝石を金縁で取り囲んだ上等なネックレスもイヤリングも。まるで捕らえたのは自分であるかのように優雅に。
ロードが彼女を探せば、さらりとかわしていなくなる。
話しかけようとすれば先に手近な者と話し込むのも最初の頃のまま。
だがその何の変化も無い様子が、ロードの狩猟本能に火を付けた。
強引に壁に押しやって口付けてみようともした。
夜会の終わり頃を見計らって無理矢理連れ出してみたりもした。
そしてしまいには、他の姫君達を相手にすることをやめた。
カトレアを特別視していると、姫君達に暗に知らしめたのだ。
その姫君達の愕然とした表情を見て、ロードはようやく気付いた。
カトレアを完全に堕とそうとして、堕ち切っていたのは自分自身だったと。
どんな手を尽くしてもカトレアは普段通りのままだった。手を替え品を替えたのはロードの方だ。
自室のベットで笑い転げて、王族付き達に怪訝な目を向けられた。だが自分の感情に気付いた心はとても気分の良いものだった。
認めてしまえ。そして、彼女の手を取り片膝をつくのだ。
まるで童話の中の王子のように。虹の女神エル・フェアリアに愛を告げた初代の王ロードのように。
全ては明日に。
明日、自分は彼女のものとなると同時に彼女も自分のものとなるのだと。
だがロードは気付かなかった。
その日カトレアがロードの父である王に呼び出されたことに。
その翌日から、彼女が姿を表さなくなったことに。
どこにいるのか尋ねるより先に、次の戦闘が始まった。
それは数ヶ月かかる長期戦となり、ようやく勝利を勝ち取り王城に戻れたロードが目にしたのは、憔悴してやつれきったカトレアが腹を大きくしながら父王の隣に立つ姿だった。
笑顔はない。ロードを見ることもない。
父王はロードに告げる。
カトレアは王族の子供を身籠り、新たなる王妃となったと。
その時の父の顔など見はしなかった。
見続けたのはカトレアだけだ。
笑顔もなく、挑発的な瞳も消えた、全てに絶望した哀れな女となったカトレアに、ロードは言葉を失い続けた。
長かった戦闘を労う凱旋は豪華に執り行われ、その夜の夜会も今までの中で最も盛大なものだった。
姫君達はロードを囲み、ロードの目に留まろうと甲高い声を聞かせてくる。
そこで聞いたのは、カトレアの噂だった。
王に取り入り、子供を宿して王妃となったのだと。
浅ましい、おぞましい、と姫君達は笑みを浮かべながらロードに長々と話して聞かせてくれた。
美しい笑顔を浮かべながら醜く語り続ける姫君達から逃れて、父王の元へ向かって。
ロードと父王との関係はあまり良いものではなかった。
ロードがというよりも、父王がロードを避けていたのだ。
それはロードがあまりにも出来が良かったからだと自覚しており、そしてそれを肯定するように、父王はロードに笑ってみせた。
新たな母は気に入ったか、と。
俯き続けるカトレアの肩を抱き寄せて、息子に向けるものとしては異質な笑みを。
何が起きたかなど、彼女を見れば一目瞭然だった。
ロードは父に祝辞を述べる。
当たり障りない、型式に囚われたもの。
短い言葉だった。
だがその短い言葉だけで、カトレアの肩が強く揺れた。
それ以上は見ていられなくて、次の戦闘に備える為と告げてその場を離れた。
あまりにも酷すぎる結末だと、その時は思った。
だがこれが結末だと諦めるにはロードの往生際は悪かった。
人の目を偲んで侵入した、深夜のカトレアの寝室。
ロードに気付いたカトレアは、ベッドから身を起こして涙に濡れた顔を見せてくれる。
ロードが来たから泣いたのではない。ずっと泣いていたのだとすぐわかるほど痛ましい表情。
彼女は助けを求めてロードに手を伸ばし、しかしすぐに自ら手を引いて顔を背けた。
もう手遅れだと全身で告げてくる彼女を、強く引き寄せて抱きしめた。
最初は嫌がられた。
だがすぐに、拠り所を求めるようにロードに身体を預けた。
助けて
そう呟いて。
恋の駆け引きなどと宣って自分の気持ちをすぐに理解せず時間を無駄にしたせいで、彼女を奪われた。
だがこのまま終わらせるものか。
必ず助ける
強く抱きしめて、彼女に誓った。
人の気配に気付いてすぐにカトレアの寝室を抜け出し、己の頭の中で今後の展開を考えた。
彼女を取り戻す為に。
そしてその決意は、ロードだけのものではなかった。
深い絆で結ばれたとでもいうように、翌日からのカトレアも様変わりしていた。
王の隣に凛と立ち、ロードの義母として王妃の責務を全うしていく。
他者の目に写るカトレアは、可愛げのない女だったろう。
だがロードは理解できた。
カトレアの底知れぬ努力と、ロードを睨みつける強い視線の中に宿る唯一の信頼の証を。
大戦は終わらないまま月日が流れ、ロードはいくつもの勝利を国に捧げた。
カトレアは国の第二王子を産み、デルグと名付けた。
親子ほど歳の離れた弟をロードが抱き上げたことはない。
年月が進み、大戦を終結させ、デルグが言葉を覚えても、関わろうとはしなかった。
非凡すぎたロードとは打って変わって凡庸なデルグは、一部からは蔑まれたが、別の一部にはその凡庸さから深く愛されていた。
その一部にはカトレアも含まれていたことをロードは知っていた。
誰との子であれ、胸に芽吹いた母親としての愛情を潰すことは彼女には出来なかったのだ。
他者の目がある時は関心薄く見せながら、カトレアはデルグと二人になれば、ロードですら見たこともない母としての深い愛に溢れた笑顔を見せていた。
同時にカトレアが何か調べていることには気付いていた。
デルグを産んでからというもの、身体が弱くなり寝込むことが次第に増えつつあったカトレアが、何を調べていたのかは知らない。
しかしある日、彼女はロードに命じた。
ロストと名乗れ、と。
古代語で失われた者を意味する言葉。
ロードは消えたと。
ロスト・ロードと。
多くの者がカトレアの身勝手な命令に反論したが、カトレアの意思は揺るがなかった。
そしてその眼差しの意味を、ロードは知っていた。
何も聞くな。だが信じろ。
年月を経るごとに、互いに見つめ合うだけで変わらぬ愛を確認してきた。
その瞳が告げたのだ。
周りの者達がカトレアを罵る中で、ロードは命令を受け入れた。
彼女を信じたから。
カトレアは何かを必死に調べていた。そしてその結果がロストなのだと察することも出来た。
批判などものともせず、ロードは周りの者達にも呼び名を改めさせた。
拒絶反応を示す者達を宥めすかして強引に納得させる日々の中でカトレアは日を追うごとに悪女の汚名を着せられたが、ロードはその汚名をわざわざ消してやることはしなかった。
そんなことをすればカトレアの悪名はさらに広がるから。
それに、いつか必ずカトレアを取り戻すと決めていたから。
カトレアを取り戻せた時こそ、彼女の汚名は消え去るのだと信じて疑わなかった。
類稀なる才能を持って産まれた、勝利しか知らないロードの過信。
カトレアを、ロードは取り戻せなかった。
何が起きたのか、自分でも記憶が曖昧となり理解できなかった。
名前がロスト・ロードと変わってからさらに年月が経ったある日、ロードは禁止されていた地下の幽棲の間に降り、そこで意識を手放すほどの戦闘を行った。
敵は全魔術兵団。
そして、ロードの力を押さえつける謎の気配。
記憶が所々吹き飛ぶほど激しい戦闘の最中、ロードが取った行動は自ら魂を散らすことだった。
死ぬわけではない。
だが身体が引き裂かれるほど強烈な痛みを味わいながら、魂を潰し分けた。
全ては逃げるために。
死ぬことはできないから。
死んでしまったら、カトレアを救い出すことが出来ないから。
彼女の為に生きることを強く望み、彼女の為に逃げることを選び。
どうやって逃げ出せたのかわからない。
何が起きたのかもわからない。
気付いた時には、たった一人でみじめに地面に転がっていた。
城下町の外れ、闇市の中の、さらに奥まった場所で。
かつて鉄の採掘場として使われ、鉄が取れなくなった後は用済みとばかりに見捨てられたその入り口で、ロードは目覚めた。
どれほどの日数が経ったのかもわからないほど身体の衰えを感じて。
全身泥にまみれ、輝かしいほどだった黄金色の髪は血濡れたように重く醜い色に変わっていた。
闇市でもさらに身分の低い奴隷と見紛うほどみすぼらしい身なりのまま、全身を魂から切り裂くような痛みに耐えながら、曖昧な意識を取り戻すようにどこかを歩いていた。
まるで何かに導かれるように重い身体を引きずってひたすら歩き続けた。
渇ききった喉が呼吸のたびにロードの気道を傷付けていくのに、水のひとつも見つけられないまま。
歩いて、進んで。
カトレア
ただ彼女を探し求めて。
歩き続けた先で、突然の轟音に全身を苛まれた。
それは人々の叫び声で、かつてロードの凱旋の折に聞いた心地良いものとは真逆の汚く醜い音ばかりがあらゆる場所から怒号として響き渡っていた。
それがただ一点にだけ向けられていると気付き、その一点を目にして。
カトレア
彼女を思い、目を見開いた。
彼女がいたから。
王城の正門上、人々に晒されるように両腕を拘束されて。
ロードと同じようにみすぼらしい身なりのカトレアは、艶やかだった長い藍の髪を適当に切られ、首を晒すように上半身を折る姿勢を取らされていた。
殺せと、周りから怒号が飛ぶ。
殺せ。
王子を殺した罪を償え、と。
何が起きているのかわからなかった。
なぜ彼女があんな姿であんな場所にいるのかもわからなかった。
カトレアを助ける為に前に進もうとして、しかし怒り狂う人々に遮られて彼女のもとに進むことが叶わなかった。
カトレアの背後に立つ男が、巨大な斧を振りかざす。
狂ったように民達が歓声を上げる。
ロードが守ってきた者たちが、ロードを無視して、ロードが唯一愛する彼女を殺せと叫び続けて。
カトレア
声も出ない状況のまま、心で彼女を呼ぶ。
巨大な斧が振り下ろされるその数秒前に、ロードの強い思いに応えるように、カトレアはこちらを見た。
今まで、互いに見つめ合うだけで愛を確認してきた。
ほんの一瞬見つめ合うだけしか許されなかった中で。
そのほんの一瞬の間に全ての愛を伝えるように見つめ合ってきた。
これは見つめ合える最後の一瞬だと強烈に思い知らされる状況の中で。
ロードを見つけたカトレアの瞳が、表情ごと悲しく歪んだ。
カトレアの唇が動く。だが何を言おうとするより先に。
彼女の首は落ちた。
音が死に絶える。
何も聞こえなくなる。
視界が死に絶える。
何も見えなくなる。
だが実際に音はすぐそばにあり、視界は現実を見せ続けた。
聞こえるのに聞こえない。
見えるのに見えない。
奇妙な感覚。感情。
激情に変わる。怒り。恨み。
憎しみが魂の奥底から溢れかえる。
この世の全てが、ロードから彼女を奪い去った瞬間。
ロードが今まで守ってきてやった存在全てが、恨みの対象に変わる瞬間。
彼女の死を大手を振って喜ぶ醜い者達への激しい憎しみの感情。
今まで感じたこともないほどの闇に染まった魔力がロードの体内に溢れかえる。
それが呪いなのだと気付いた時には、ロードはもう、今までこの世に存在した自分とは違う存在に変わり果てたのだと自覚することしかできなかった。
ーーー