第57話


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「--あ…」
 エルザがその後ろ姿を見かけたのは、日の傾き始めた時間帯だった。
 統括する国立事業の職務を終わらせた帰りの王城。正面玄関はまだ遠いが、小さくともその後ろ姿を見間違えるはずがない。
 野性的に跳ねる銀の髪を束ねた彼は、昼間は少し様子がおかしかった。
 よそよそしいというよりも、まるでエルザを見ないようにしていたかのような。
「ニコル殿…どちらに向かわれるのでしょうか」
 エルザの後ろに控えていた護衛のセシルも同じようにニコルの背中を見かけて首をかしげる。
 アリアもいないのに王城に用事など、と。
「…もしかしてエルザ様に会いに?」
 クラークの言葉に胸が高鳴ったのは、自分もそうではないかと思ってしまったからだ。
 私に会いに。
 だって二人は想い合う恋人なのだから。
 ときめく鼓動は耳元で響くようで、顔が熱くなっていく気がする。
「部屋に戻りましょうか?」
 本当は書物庫に向かうつもりだったが、セシルに提案されて赤い顔を二人に見せてしまい。
 わかりやすい性格だとは昔からよく言われていた。
 赤面するエルザにセシルとクラークは微笑みを浮かべるから、あたふたと慌ててしまって。
「どうされます?」
「も、戻ってみます!」
 書物庫か自室か。
 訊ねられて、返答は反射のように口をついて出た。
 もしニコルがエルザに会いに来てくれたなら。
 いつもは夜に、姿を見られないよう人目を忍んで会いに来てくれていたが。
 堂々と会えたら。
 誰にも遠慮することなくニコルの隣にいられたら。
 ずっとそう思っていたのだ。
 昼間は人目を気にしろと告げられて悲しかった。
 王族付きの騎士達はエルザとニコルの仲を知っている様子だが、公言したわけではないのだから仕方ないが。
 ニコルの隣にいたい。
 一番近くで、愛して、愛されて。
 今まで何度もニコルの周りに女性の影がある話を聞かされてきた。
 妹だとしても、ニコルがアリアを大切にしてエルザより優先するのもつらかった。
 公言したい。
 宣言してほしい。
 エルザに口付けをくれたその唇で、エルザを女にしたその腕で。
「エルザ様?」
 自室に戻ると決めながらも足をすくませ動かせずにいたエルザの顔を、クラークが急かすように覗き込んでくる。
「あ、も、申し訳ございません…向かいましょうか」
 呼び掛けられたことでようやく呆けていたことに気付き、自分の中にある嫉妬や不安を無理矢理隅に押しやるように気持ちを切り替えてから、エルザは二人を連れて王城へ戻っていった。

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 王城に入り、あまり人の気配の無い上階に進んでいく。
 上階には王族達の居住スペースと賓客用の部屋が存在するが、ニコルが足を向けたのは賓客用の中でもさらに最奥に用意された場所だった。
 進めば進むほど静まり返るのは、王城を任された最も階級の高い侍女達ですら足を踏み込まないよう命じられているからだろう。
 廊下の窓もカーテンで閉めきられているので、夕暮れと相俟って辺りは底冷えするような薄闇と化している。
 ニコルの目指す部屋の前には二人の魔術師がおり、彼らがニコルに気付くと同時に、自分より年嵩の二人にニコルから頭を下げた。
 二人もニコルに頭を下げるが、ここにニコルが来たことには眉をひそめる。
「何用ですかな?」
 相手は警戒しながら問うてくるが、隠す必要もないのですぐに口を開き。
「この部屋にいる娘と話をさせてもらいます」
 中に捕らえられたエレッテに用があると告げれば、魔術師達はニコルを睨みつけるように同時に眉をひそめた。
「私はコウェルズ様と先の戦闘に出ています。彼女の存在ももちろん知っています。その上で彼女に話があるのです」
 ニコルがエレッテを訊ねた理由は個人的なものだが、そこまで話すつもりはない。
 喧嘩を売るようにやや荒く言えば、二人は気分を悪くしたようにまた眉をひそめた。
 若い魔術師と違い、騎士に怯えはしないか。
「申し訳無いですが、誰の立ち入りも許されておりません。どうぞお引き取りを」
 エレッテの警備は厳重だと思ってはいたが、ニコルの見立てだけでも結界は何重にも貼られている。恐らくそれだけではないだろう。
 それに加えて高位の魔術師となれば、ニコルが謀反に走ったところで城内の狭さでは太刀打ち出来ない。
 ニコルもふらりと立ち寄ってしまったところがあるので、誰の許可も手に入れていないのだ。
 魔術師団長リナトは難色を示す可能性があるとしても、コウェルズに許可を求めればふたつ返事で手に入れられるはずだ。だがコウェルズに会いたくはない。
 エレッテはニコルのことをニコルよりもよく知ると口にした。
 本人よりも。
 それがどういう意味なのか。
 ニコルよりも父を、両親を知ると話した理由は何なのか。
 意味深な発言はニコルの心をいたずらに弄ぼうとする。
 父に否定されたニコルに、まるでまだ家族が残るかのように。
 話せるものは何でも話すとエレッテは言った。

『…自分のこと、どれだけわかってる?』

 挑発するように。

『私はあなたの知らないあなたを知ってる…父親のことも、母親のことも…なんであなたが産まれたかも』

 なぜニコルが産まれたのか。
 それならすでに気付かされたが。

--…両親ならいる

『“育ての親”でしょ?二人とも』

--…違う

『ほら、何も知らないんじゃない』

 村でニコルを大切にしてくれた家族を、二人とも“育ての親”だとニコルに告げた。

『私は知ってるわ…あなたの父親が誰で、母親が誰か』

父が誰で、母は--
「…誰の許可があれば入れますか?」
 母は誰か。
 しこりのように胸に引っ掛かるその言葉の真意だけを頼りに。
 父に、ファントムに家族への思いを潰されたからか、心がこれ以上おかしくなることはないだろうと。
 ニコルに問われて二人は様子を窺うようにニコルや辺りを見回し、
「コウェルズ様か、リナト団長に」
「それ以外では?」
 わかりきっている人物の名前はいい。ニコルが欲しいのはそれ以外の人物だった。
「…クルーガー団長からではいけませんか?」
 今のニコルがまだ冷静に話せるとしたら、無駄な会話はしないでくれるクルーガーだけだろう。
 階級で語るならクルーガーはリナトと同じ団長の立場だ。それにエレッテの件を知っているのだから。
「クルーガー団長から許可を得たなら、入室を許していただけますか?」
 再度強く訊ねてみても、二人の表情が困惑に向かうだけで埒が明かない。
「…申し訳無いですが、魔術師団と騎士団では機関が違いますので」
 ようやく聞かされるのも却下の返事で。
 どうすればいい。
 このまま引き下がるか、それとも。
「…ニコル殿?」
 それとも、突破してしまうか。
 俯くニコルに二人が心配するように腕を伸ばす。
 その腕を払って、ニコルは扉を強く睨み付けた。
 どうせもう、自分は何をしても重い罰を与えられる立場ではなくなったのだ。
 そんな好都合をみすみす手放す必要もないだろう。
「--フレイムローズ!」
 扉を強く睨み付けて、ファントムにエレッテを守るよう命じられた友を呼ぶ。
 扉の内側にフレイムローズがいるわけではないが、赤子ほどもある巨大な魔眼蝶には聞こえているはずだ。
「ニコル殿!?」
「何を…」
 ニコルの突然の呼び掛けに魔術師は狼狽えるが、二人の視線はすぐに背後の扉に向けられた。
 結界で閉めきられた扉に異常な魔力量を感じたからだ。
 それが何であるのか、気付かない者などいない。
「フレイムローズ殿!?」
 ニコル達の目の前に、呼び掛けに応じてくれた巨大な魔眼蝶が姿を表す。
 恐らく一度身体を魔力の霧に戻して扉の隙間をぬい、再び身体を作り上げたのだろう。
 手のひらほどの大きさの時は何も思いはしなかったが、赤子ほどもあれば魔眼蝶はグロテスクで気味が悪い。
 だがニコルは怯まず。
「中に入れてくれ…彼女に聞きたいことがある」
 フレイムローズの力なら結界を突破できる。
 ニコルの頼みとフレイムローズの魔眼蝶に驚く魔術師は「やめなさい」と強く咎めたが、フレイムローズはニコルの味方でいてくれた。
 バチバチと雷のように結界の弾ける音が魔眼蝶を中心に閃光と共に響き、扉が開かれる。
「フレイムローズ!」
「いけません!!」
 勝手な行動に魔術師達は慌てるが、見えない力に押さえつけられているかのように身動きが取れない様子を見せた。
「…申し訳ございません。彼女から話を聞きたいだけですのでご安心を」
 逃がすわけではないのだと改まり、二人を置いて室内に入る。
 ニコルが入室を果たせば扉はすぐに閉められ、フレイムローズに塞き止められていた結界が再び扉を被った。
 先ほどまで視界と聴覚に煩かったのが嘘のように。
 扉のすぐ側にいた魔眼蝶はバサリと翼を羽ばたかせると、すぐにベッドの方へと飛んでいってしまった。
 ベッドの方、エレッテが隅で膝を抱えている隣へと。
「……」
 ニコルはエレッテに目を向け、エレッテも突然のニコルの強引な訪問に驚いた様子を向ける。
『あまり長くはいられないよ。魔術師の一人がリナト団長を呼びに向かったから。焦ってる感じじゃないけど』
 扉の向こうの魔術師達も動いていると教えてくれるのはフレイムローズで、巨大な魔眼蝶から友の声が聞こえるのはやはり少し不気味だった。
「…悪い、助かった」
 それでもフレイムローズが動いてくれたことに感謝して。
 エレッテから目を離し、室内をぐるりと見回す。
 捕虜なのだから簡素なものだと思っていた室内は、異常なほどに豪華な品々に溢れていた。
 絢爛なドレス、美しい花束、希少な装飾品に、色とりどりのお菓子と高価な果物。
「何だよ、これ…」
 あまりにも異質すぎる光景に言葉はそれだけしか出てこず。
「…昨日から…たくさん…私に使えって…」
 唖然とするニコルに豪華な室内の理由を教えてくれたのはエレッテだった。
 まだ膝を抱えているが、ニコルに警戒する様子は見せない。それでも怖がらせたくはなかったので、ニコルは扉近くから足を動かしはしなかった。
「エレッテ嬢…」
「…呼び捨てでいい」
「…そうか…あんたに聞きたいことがあるから来たんだ」
 落ち着かないせいで首の後ろを掻きながら、エレッテや魔眼蝶に交互に視線を泳がせてしまいながら。
「…親のこと?」
 訊ねられたとき、ニコルの視線は床に落ちていた。
 上等な絨毯に目を向けたまま固まるのは、エレッテの言う通りのことが知りたかったからだ。
 コウェルズ達が血眼になってでも探そうとするファントムやリーン姫の居場所は今のニコルに興味など無くて。
 まるで母親が別にいるかのような言葉をエレッテは聞かせたのだ。
「俺の--」
「ここじゃ話せない」
 育ての親ではない母親とはどういう意味なのか。急くニコルを、エレッテは背中を丸めて膝に額を預けながら止める。
 拒絶されているわけではないとしても、その姿は全てを拒むかのようだった。
「…なんでだ」
「こんな結界だらけの場所で話せるはずない。…聞かれてるだろうから」
「な--」
 会話は余裕で漏れるだろうと。
 だがそこを指摘されれば、エレッテがわずかに隠してくれた優しさにも気付くことが出来た。
 ニコルは母親の件を聞きたかったのに、エレッテは「親」と誤魔化した。
 それだけ聞けば、コウェルズやリナトは父親であるファントムの件だと思うだろう。
 そんな話、コウェルズだけには聞かれたくない。
 彼はニコルを捕らえる為にあらゆる手を使おうとするのだから。
「……」
 迂闊だった。
 結界ならば聞き耳を立てられる手段もあることに気付いておくべきだったのに、そこまで頭は働かなかったのだから。
 ここまで強引に来ておいて、ゴールで到着理由を無くしてしまうとは。
「…リーン様は、無事なのか?」
 当たり障り無い会話を探してみれば、その程度しか見つからなくて、しかしエレッテは顔を上げてくれた。
 視線はニコルの足元にあるが、拒絶はしないままで。
「…動けるように訓練中のはず…五年間も土の中にいたから、身動きひとつ取れないから…」
 よそよそしく、しかし律儀に。
 五年という箇所が強調されたのは気のせいではないだろう。
「…そうか」
 互いに気を使うような中で、羽を羽ばたかせながら魔眼蝶がニコルに近付いてきた。
 何だろうと目を向ければ、魔眼蝶はニコルの背中に周り、移動させるように押してくる。
「何だよ」
『慰めたりとか、話し相手になってあげてよ…ここに来る世話係の魔術師、なんか裏があるみたいで好きになれないんだ』
 フレイムローズがニコルに何をさせたいのか。エレッテに聞かれないよう囁かれた内容の裏とは、そのままコウェルズ達に通じているということなのだろうが。
 フレイムローズはファントム直々にエレッテを守るよう命じられた。
 コウェルズを慕ってはいるが、エレッテの身の件に関してはファントムの言葉の方が強いのだろう。
 無意味なニコルではなく、ファントムにとって大切な人間。
 エレッテはファントムの分身であるとまで言わしめて、ファントムにとってニコルが無用の長物であるという事実を教えた。
「っ…」
 父はニコルの首に刃を向けることも、腹を刺し貫くことも何とも思わず実行したのだから。
 幼い頃から待ち焦がれた実父。だが彼は。
 反発したことの方が多かった。それでも。
 ニコルが父を心から慕っていたのだと気付いた瞬間に、ファントムはニコルの心を踏みにじったのだ。
 踏みにじられて、息子より重要な存在がいると言われて。
 フレイムローズの導きでニコルはベッドのすぐそばまで押されたが、あの時の父の言葉を思い出してしまい、いたたまれなさからではなく嫉妬と拒絶心からエレッテに目を向けられなくなってしまった。
『エレッテ!ニコルは魔具の扱いがすっごい上手なんだよ!…ほらニコル!何か出して見せて!前に生体魔具の小さい版とか見せてくれたでしょ?あれ見せて!』
 無垢なフレイムローズは捕らえられたエレッテを楽しませようとニコルの背中を何度も押して願ってくる。
 もしかしたら、フレイムローズがニコルを中に入れてくれた理由は単にエレッテの気晴らしをさせたかったからなのかもしれない。
 そう思うと、自分が滑稽な道化に思えてならなかった。
 父に捨てられたのに、その父が救い出そうとした人物をなぜニコルが楽しませなければならないのだ。
『ねえ、ニコル!』
 親しい友も、ニコルよりエレッテの現状を憂いて。
 エレッテまでニコルに視線を向けてきて、たまらなく心が軋んだ。
『ニコル、お願い--』
「--悪い…」
 何度もニコルに頼み込むフレイムローズの魔眼蝶を腕で押し離して。
 自分が醜く変色していくような気持ちの悪さに苛まれて、吐き出すように逃れる。
『…ニコル?』
「…悪い。…今の俺じゃ…」
 たとえエレッテに非がなかったとしても、破壊されてしまった今のニコルの心では耐えられない。
「…勝手に入って悪かった」
 逃れるために動いてくれた足でそのまま扉に向かって、
「フレイムローズ、開けてくれ」
 外に出る為に、再び結界の対処をフレイムローズに願う。
『…ニコル』
 フレイムローズは戸惑うように魔眼蝶の羽を羽ばたかせて室内を右往左往したが、やがて諦めるように低い位置を飛びながら扉に近付いてくれた。
 魔眼の力で結界を歪める。その少し早く。
「…ニコルさん」
 話しかけられて、ニコルは視線の隅にエレッテが侵入する程度にだけ顔を向けた。
 ベッドの上で、エレッテは抱えていた膝を崩して、少し前のめるように体勢を変えていて。
「あ、の…」
 言いにくそうにどもり、しかし顔を上げて。
「…あなたのことを思っている人を知ってます…あなたが小さい頃から…あなたを心配して…幸せを願ってる人を」
 それだけは伝えなければならないと決意したような表情だった。
 ニコルが小さな頃から、ニコルを心配して、ニコルの幸せを願ってくれている人が。
「---」
 それはいったい--
「--何をしている!!」
 叱責は突然だった。
 扉の結界がフレイムローズの力ではない正規の力で開かれ、そこから表情を強張らせた魔術師団長リナトが強く扉を押し開きながら現れる。
 リナトはまずニコルに目を向け、すぐにエレッテにも鋭い眼光を突きつけた。
 その眼差しにエレッテがびくりと震えるが、フレイムローズの魔眼蝶が彼女の近くに寄るに任せてリナトはニコルの腕を掴み引いた。
 まるでエレッテから引き剥がすかのような状況だがされるがままになってしまい、痛いほどの力で強引に部屋から引きずり出される。
 扉はすぐに閉められ、ニコルが目を向けようとした時にはすでに結界が戻ってしまっていた。
「…団長」
「お前達はこのまま警備を続けろ…来なさい」
 リナトはニコルから手を離すと後をついてくるように告げて、足早にこの場を立ち去っていく。
 ものの数秒の出来事にニコルは戸惑うが、扉の前に立つ二人の魔術師の表情も強張っていたのでリナトが強く叱責したことが目に見えた。
 名残惜しむように扉に目を向けて、仕方無くリナトの後に続いて。
 歩き進めれば窓がカーテンに遮られなくなった場所まで進み、外は既に日が暮れているが、ニコルが朝に思った通り雨雲が重く空を被い尽くしている様子を目の当たりにした。
 いつ雨が降ってもおかしくないだろう。リナトの後に続きながらそんなことを思っていれば、
「…ここに」
 入れと扉を開けられたのは、エレッテのいる部屋から離れた賓客用の一室だった。
 促されるまま素直に従えば、後に続くようにリナトも入室をはたして扉を閉めて。
 暗い部屋。だがどちらも明かりを灯さなかった。
「…何を考えておられるのですか」
 人の目が無くなった途端に、リナトの口調は王家へのものに変わる。
「ロスト・ロード様の仲間とはいえ、まだ得体の知れぬ娘なのですよ?」
 かつての王子への忠誠心はあるが、だからといってエレッテにもかしずくわけではないということか。
「…その言葉遣いやめてください」
「ニコル様!」
「私はただの騎士です。やめてください」
 だとしても、ニコルも我慢などしていられない。
 こんな形の特別扱いを喜ばないことくらいわかっているはずなのに、リナトは自分の忠誠心を優先させているのだろう。
「…いったいどんな理由で中に入られたのですか?」
 俯くニコルにため息を聞かせてから、リナトは子供をあやすように訊ねてくる。
 リナトからすればニコルなどまだまだ子供なのだろうが、邪魔な敬語がニコルの胸中でさらに腹立たしいものに変わった。
「…その話し方やめてもらえませんか?」
 苛立ちは腹の奥底から沸き上がり、隠しきれない怒気として溢れ出す。
 さすがにそこまでくればリナトも気付いた様子だが、
「…ニコル様、どうか」
 それでもリナトは自分の忠誠心に従った。
 ニコルがどう考えていようが、胸を苦しめようがお構い無しに。
「…あんた、コウェルズ様から聞かされてんだろ…俺があいつにとって何の価値もない存在だってことをよ!!」
 まるで泣き声のように、怒声は悲鳴のような悲しい色を灯す。
 自分の口から父のことを話すことがこれほどつらいとは。
 視界が端から滲み、全体を被い尽くすまで数秒もかからなかった。
 無意味で、無駄で、無価値な存在。
 それがニコルだと彼が告げたのだ。
 他の誰にそれを言われようが構わない。気にならない。
 だが父は。
 彼だけは。
「…ニコル様」
「俺はあいつじゃねえんだよ!!」
「わかっております」
「わかってねえだろうがっ!!」
 こんなにも苦しむのは、それだけ父を思っていたからだ。
 父が、ファントムが王族だと発覚した時よりも胸が掻きむしられるのは、王族などより家族への思いの方が大切だからで。
 胸が痛い。頭が痛い。
 喉の奥がひねり潰されるように軋む。
 全身が全ての存在を拒絶しようとする。
「…どうかお気を確かに」
「うるせえ!ふざけんじゃねえ!どいつもこいつも!!」
 リナトから伸ばされた腕を振り払い、殺意をもって睨み付ける。
 いっそ殺してしまいたい。
 自分を傷つけようとする全てを。
 何もかもを、この手で。
 何もかも--
「--ニコル!!」
 強い叱責は、ガツンとニコルの目を覚ました。
 聞きなれた声の、思わず肩をすぼめてしまいそうになる。
 リナトと同時に目を向けたのは部屋の扉で、そこにいたのは廊下の明かりを逆光のように背中に受けた、見慣れた人だった。
「…団、長」
「クルーガー…何のようだ?」
 まるで叱られた子供のようにニコルの声は弱まり、リナトは突然現れたクルーガーに眉をひそめた。
「…ニコルが勝手をしたようだな。私の指導が至らずすまなかった」
 クルーガーは騎士団長として、騎士ニコルの不手際に頭を下げる。
「ニコルの処罰はこちらで決めたいのだが、よろしいか?」
 そして近付き、ニコルの肩に手を置いて。
 勝手な行動に出たニコルを騎士として罰するというその言葉が、渇れた胸に強く染み渡る。
 思わずクルーガーに目を向けても、クルーガーは視線をくれはしなかったが。
「…そうだな。頼もう」
 そしてクルーガーの意図に気付くかのようにリナトも折れて。
 最初に動いたのはリナトだった。
 立ち尽くすニコルにはもう言葉を向けずに、扉から出ていく。
 残されたニコルの肩からクルーガーの手が離れ、急速に温もりが失われるような感覚が広がる。
「…団長」
 鼻がつまり、声はかすれて弱々しかった。
 大の大人であるはずなのに、自分の感情を制御できずにいたのだ。
「…勝手は勝手だ。明日のコウェルズ様達の出発までに、戦闘用兵馬の厩の掃除を終わらせろ」
 クルーガーは騎士団長としての立場でニコルに命じ、そのまま目を合わせることなく背中を見せてしまう。
 嗚呼、この人は。
 クルーガーはどこまでも、騎士団長であろうとしてくれる。
 アリアを王城に連れてくることになった際は苛立ちが勝ったのに、今は。
「…ありがとう、ございます」
 感謝の言葉は自然とあふれた。
 かすれた声のままだったが、今のニコルは先ほどまでの怒りが嘘のように消え去っていて。
「…コウェルズ様達の出発は明日の昼頃だ。急ぎなさい」
「…わかりました」
 急ぎなさいと言いながら、先に部屋を出ようと。
 ニコルの了解を聞けばその後クルーガーが去るのはすぐで、ニコルは夜の闇に満たされた室内に一人取り残され。
 エルザへの拒絶心、エレッテへのどうしようもない嫉妬、リナトへの殺意、クルーガーへの感謝。
 ぐずぐずになる感情は気持ちが悪いのに、最後の感謝がまだ気持ちを落ち着かせてくれて。
 その場に膝を曲げてしゃがみこみ、クルーガーの手が乗った側の腕で瞼を被い。
 ニコルが声もなく涙の筋を大量に頬に作るのと雨雲のかかる夜空が泣き始めたのは、同時のことだった。

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