第73話


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 うろうろ、うろうろ、と。
 ルードヴィッヒは自分が部屋中を意味もなく歩き回っていることに気付いていたが、全身にじわりと蠢く不安感や焦りが気持ち悪くてどうしても動きを止めることができなかった。
 ジャックとダニエルは落ち着いた様子でソファーでお茶を飲むという呑気なもので。
 何度も視線を向けるのはコウェルズも共に入っていったジュエルのいる寝室の扉で、謎の焦りから唇を噛み、歩き続ける足は何度も毛の長い絨毯に取られてつんのめった。
「…何だ、間違いがあるとでも思ってるのか?」
「……そういうわけでは…」
 呆れたようにジャックにため息をつかれて、視線は扉に向けたまま否定にもならない否定をして。
「状況を掴むにはエテルネルに任せる以外無い。わかったらそこ座れ」
「…はい」
 妙に焦る気持ちを抑えることができないまま、言われた通りにソファーに座る。
 座った途端に貧乏揺すりをしてしまい、聞こえてきたため息はふたつ分。
 それでも止まらないのは、ここにいる誰よりもジュエルを心配したからだ。もちろん、自分の失態のせいなのだが。
 突然現れた少年にジュエルを拐われて、ようやく見つかったと思ったら眠った状態のまま、ファントムの仲間だろう青年によって返された。
 目覚めたと思えば泣きじゃくり、そしてコウェルズだけに安心感を求めるようにルードヴィッヒの目の届かない場所へと。
 情けなくて、苛立って、焦って。
 どこまでも役立たずな自分がひどく惨めで、強く歯を食いしばる。
 ルードヴィッヒと離れた間に何があったのかは当然聞かなければならないことだが、自分は待つことしかできないなど。
「……十回目」
「…え?」
「お前の盛大なため息の回数だ」
 ふとジャックが数字を口にして、ルードヴィッヒが自分でも気づかぬ内にため息ばかりついていたことを教えてくれた。
「指を噛むのもやめなさい」
 ダニエルからは別の指摘を。それにも気付かなかった。気付いてみれば確かに親指の爪が自分の歯で割られた後だ。
「…自分の失態がそんなに不安か?」
「……いえ、私はただ…」
「ならジュエル嬢の心配か」
「…………はい」
 口ごもり小さくなる声。スカイが隣にいたら「はっきり話せ」とぶん殴られていただろう。
 それほど心配でたまらない。
「何がそこまで心配なんだ?」
 ふいに訪ねられた言葉に、思考は固まる。
 ジャックとダニエル、二人の視線はまっすぐで、ルードヴィッヒを内側からえぐり取ろうとするようだった。
「……それは…」
 問われた質問に返せない。
「ジュエル嬢がお前とはぐれた間に何もなかったか心配してるんじゃないのか?」
 返答するより先に正解を口にされて、しかしそのことは今のルードヴィッヒの頭の中にはなかった。
 いや、少しは考えていたはずだ。だがそれ以上に不安に思うことがあったのだ。
 それは、いったい何なのか。
 言葉は出せないまま、固まったまま。
「…ジュエル嬢がエテルネルと二人でいるのが嫌か?」
「そんなっ……ことは…」
 ないと言い切れない自分がいる。
 言葉は喉に詰まったように出てこない。
 うつむいて、身を守るように利き手でもう片側の腕を掴み、強く握り締めた。
「…なぁルードヴィッヒ。お前、ジュエル嬢のことをどう思ってるんだ」
「……え?」
 思いもよらない問いかけに、また思考は停止する。
「……どうって…」
 訊ねられた意味を理解できなくて、ただひたすら言葉に迷って。
「…ジュエルは…たまにとはいえ幼い頃から交流がありましたし…」
 紫都と藍都は領土が隣り合うから、頻度は少ないが交流はしっかりあった。
 そんな中で歳の近いルードヴィッヒとジュエルは。
「…妹…みたいな?」
 自分に本当の弟妹はいないから首を傾げなが呟けば、一拍置いてから二人分の盛大なため息が部屋中に響き渡った。
 いったい何なのだとさらに困惑する中で、ダニエルが落ち着きを取り戻そうとするかのようにカップの中の残りを一気に飲み干して。
「そういえば君は、リーン様以外に探したい女性がいるとかで捜索部隊に志願したらしいな」
 突然ミュズのことを話題に挙げられて肝が冷えた。
 ジュエルとはぐれた後にミュズと再会できて、なおかつそのことをダニエル達に伝えていないのだから。
「その女性とはどういう間柄なんだ?」
「どうと言われても…パージャの、敵の家族の女の子で…一度会っただけで…」
 どんな間柄でもない。
 たった一日、それも数時間だけ共に行動しただけの、
「…他人……です」
 自分で口にして、胸が傷付いたように軋んだ。
 我が強くて、喧嘩っ早くて、無邪気で、不気味な少女。
 ようやく再会できたと思ったら、その様子は以前とは違っていた。でも。
「…他人ですが…恐らく好意を抱いています」
 自分の気持ちを偽らずに口にしたのは、リーン姫を探す二人に申し訳なかったからだ。
 二人にだけではない。コウェルズにも。
「たった一度しか会っていない相手なのにか」
「はい。もし何も知らずにファントムの仲間として手伝わされているのなら、助け出したいと思っています」
 俯いたまま、しかし言葉はしっかりとしていく。
 ファントムは王族だとは聞いた。ニコルの父親で、かつてのロスト・ロード王子だと。
 でもそれがどれほど重要かなどルードヴィッヒには深くわからない。
 わかるのは、自分の中に芽生えている気持ちだけだ。
 ミュズに惹かれているのだと。
「ジュエル嬢を放置しても、か?」
 その問いかけには、強く反発するように苛立ちを込めて顔を上げた。
「そんなことはありません!」
 苛立って、睨みつけて。
「探してる奴を追うためにジュエル嬢を置き去りにはしないと言えるか?」
 ジャックに問われて、眉をひそめた。
 でも言葉は出てこなかった。
 まるでジュエルとミュズを天秤にかけるような。
「今日でさえジュエル嬢を連れ去られる失態を犯しておいて、二度とそんな失態はしないと宣言もできないか」
 呆れるような、ダニエルの声。
 強く唇を噛んで、視線も落ちた。
「…ジュエルを守ります。何があっても」
 たとえミュズが目の前にまた現れてくれても。なのに。
「まあ、もうお前にジュエル嬢を頼むことはしないがな。エル・フェアリアに戻るまでジュエル嬢は俺達の側にいさせることになる」
「…どうして」
「お前がそれを聞くのか?」
 冷たく切り捨てるような言葉。
 耳に馴染んで意味をしっかり理解した瞬間に、胸の奥がよじれかえるほどのつらい痛みを味わった。
 理由などわかっていることだ。
 二度と失敗が起きないようにするための最も簡単な方法。任せなければいいだけのこと。
 それほどのことをルードヴィッヒはしてしまったのだ。
 王族の護衛騎士を目指しておきながら。
 じわりと視界が滲む。
 涙腺が緩んだのだと気付いてすぐに全身は硬直した。
 その場で置物のように固まって、呆然とするだけの存在になりさがる。
 弁解の言葉すら浮かばない。
 何か話したいのに、何も浮かんでくれない。
「…もう休みなさい」
 立ち尽くすルードヴィッヒに、温情を与えるとでも言わんばかりにダニエルが優しく告げてくれた。
 後は任せて、ルードヴィッヒは休めばいいと。
 でも、それは。
「……嫌です」
 ようやく言葉を口にする。
 はっきりと、二人を睨みつけようとするほど見つめながら、涙だけはこぼすまいと堪えて。
「…ここにいます…ジュエルの安全がわかるまで」
 たとえ誰にも護衛を望まれなかったとしても、ここから絶対に離れないと。
 汚名返上の為ではない。
 そんな志の高さからではない。
 がむしゃらに、不器用に、彼女のそばにいたい。
「自分の立場を考えるんだ。君が今一番に考えなければならないことはジュエル嬢の護衛じゃない。リーン様の捜索でもない。大会に無事出場し、良くも悪くも結果を残すことだ」
 ダニエルは諭そうとしてくるが、首を縦には振らなかった。
「…そんなに焦ったって、お前の失態が消えるわけじゃないぞ」
「そんなことわかってます!」
 ダニエルと違って口調の厳しいジャックに対して、どうしても自分の思いと違う指摘をされたことへの苛立ちが収まらなくなってくる。
 失態を消したいわけじゃない。そんなことは望んでいない。
 ただルードヴィッヒが望むのは。
「…ルードヴィッヒ。君にとってジュエル嬢はどういう存在なんだ?」
 先ほどジャックから訊ねられたと同じ質問を、今度はダニエルから問われる。
 ルードヴィッヒがここに残りたい理由は。
 ジュエルのそばにいたい理由は。
「…エテルネルがジュエルを連れて行って、どう思った?」
 ルードヴィッヒの思いは。
 そう思った理由は。
「…ジュエルが私を頼らないのが…悔しかったです」
 目覚めて泣き出したジュエルは、ルードヴィッヒでなくコウェルズに安心感を求めた。
 慕う兄にすがるように。
 ルードヴィッヒにはそれがないと暗に告げて。
 それがひどく悔しかった。
「…いつもいつも、ジュエルはミシェル殿ばかり慕って…でも今は、ミシェル殿はいないのに…」
 ぼろぼろとこぼれ始めた本音を、双子は静かに聞いてくれる。
「確かに私はジュエルを見失いました…怪我は負わせるし、ジュエルが傷付くことを口にしてしまうし。でも…」
 バオル国の者からジュエルを守る為に強く引いた細い手首。そのせいでジュエルは肩を痛めてしまった。
 その後はマガを心配するジュエルに苛立って口論となり、流れからジュエルの恋心を冒涜し、拒絶されてしまった。
 大嫌いだと泣きじゃくるジュエルの姿と声が頭から離れない。
 その様子を思い出してしまい、また胸の奥が強く痛んだ。
 幼い頃から、たまにとはいえ交流があって、その度に共に行動したのに。
 なのにどうして、ルードヴィッヒではなくコウェルズを安心感を得る為の相手に選んだのだ。
 たった一度の恋の冒涜が、そこまでルードヴィッヒへの信用を失わせたというのか。
 でも、その恋のせいで何度も泣いていたじゃないか。
 王城の片隅で、レイトルがアリアと微笑み合う様子を見ては、恋心が報われない現実にそっと泣いていたのを知っているのに。
「…相手が私だったら…絶対に泣かさないのに…」
 ポツリと呟いた本音を、二人は聞き漏らさなかった。
「…相手?」
「誰だ?」
 訊ねられて、すぐに力無い声でレイトルだと答えた。
 ルードヴィッヒに魔具を上手く操る為の訓練方法を教えてくれた人。そしてジュエルの片想いの相手。
 それだけのはずなのに。
 なぜか今は腹立たしくて。
「…君はジュエル嬢にとってのミシェルになりたいのか?それとも、レイトルか?」
 妹のような存在だと思っていた。
 でも、訊ねられても別にジュエルにとってのミシェルになりたいわけではない気がして。
 なら、レイトルは?
 ダニエルに訊ねられるままに自分自身にも問いかける。
 ジュエルにとってのレイトルは、恋心をもって慕う相手で。
 しかし今この場にレイトルがいたとしても、きっとジュエルはレイトルには安心感を求めなかった。
 ルードヴィッヒが求めるのは。
「…私、は…」
 そして、言葉は無意識に溢れ出す。
「…全部欲しい」
 頭を抱えて、渇望するように。
 その言葉がするりと溶け込むように全身に馴染んでいく。
 ああ、そうか、と。
 幼い頃から、いつもミシェルが目の敵にするからなるべく逃げていた。それは王城でも変わらなかった。
 しかし交流が無かったわけではなくて。
 だからミシェルの追撃は収まらなくて。
 ミシェルがルードヴィッヒにつらく当たるのは、ルードヴィッヒが秘めていた思いに気付いていたからなのだろう。
 ジュエルにとってのミシェルという立ち位置を欲していると。そしてジュエルが見つめる先にいるレイトルの立ち位置をも。
 ミシェルがレイトルにつらく当たらなかったのは、きっとレイトルがジュエルに興味を持たなかったからだ。
 でもルードヴィッヒは違う。
 気付いてしまったら、もう後には戻れなかった。
 今ここにミシェルはいないのに、ジュエルはルードヴィッヒでなくコウェルズを拠り所に選んだから不愉快だったのだと理解する。
 ミュズに惹かれている。
 でも。
 ジュエルの全ても欲している。
 どれもこれも、ルードヴィッヒの欲望だ。
 やがて沈黙が部屋中を包み込んだ。
 ジャックとダニエルが互いに目を見合わせる気配を感じたが、ルードヴィッヒはそちらを気にせずジュエルとコウェルズのいる部屋に目を向け続けた。
 なぜコウェルズなのだと、怒りを込めて睨み続ける。
 今この国でジュエルを一番よく知るのはルードヴィッヒなのに。
 全員が黙り込んでからコウェルズが部屋から一人で出てくるまで、時間はあまりかからなかった。
「ん、お嬢様は眠りましたよ」
 静かに扉を閉めて、エテルネルとしての静かな口調でジュエルの様子を伝えてくれる。
「ルードヴィッヒ殿から離れてから、治癒魔術師の女性に痛めた腕を治してもらったそうです。それ以降の記憶は曖昧で、闇色の虹達のこともわからないとか……何かありました?」
 コウェルズはルードヴィッヒ達を取り巻く異様な空気に気付いた様子で、面白そうにダニエルの隣に腰を下ろした。
 しかし誰も何があったかは口にしない。
「…じゃあ、今後について話しましょうか。主にラムタルにいる間のジュエルお嬢様の件で」
 コウェルズは穏やかな口調を崩さないまま、しかし先ほどルードヴィッヒがジャック達に責められた時のように冷めた視線を向けてきた。
 恐らく、ジュエルの安全をルードヴィッヒには任せないと告げてくるはずだ。
 ルードヴィッヒはただ唇を噛む。
 だが欲しいと思ったものを諦めるつもりはなくて。
 どれだけ時間がかかろうがもう一度チャンスを得る為に、ルードヴィッヒは拳を強く握りしめて全身に力を込めた。

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