第73話


第73話

 腕にあった少女の重みがいまだに染み付いて離れない。
 不可解な感覚を消し去る為に早歩きになるウインドの後ろで、ルクレスティードが「待って!」と駆け足となった。

 それは数十分前だったろうか。ファントムに呼び出されて王家の庭園に向かってみれば、見知らぬ少女がファントムに抱きかかえられていた。
 そばには不安げに眉をひそめるガイアがいて、ルクレスティードはファントムの隣で見知らぬ少女を起こそうと軽く揺さぶっていて。
「…なんだよ、そのガキ」
 ミュズより幼そうな、清らかな藍色の髪の少女。
 ひと目見て驚いたのは、ファントムが大切そうに抱きかかえていたからだ。
 妻であるはずのガイアですら横暴に扱う身勝手なこの男が、まだ幼い少女とはいえ他人を思いやるなど。
 ガイアの視線も、少女を心配するというよりもファントムの行動を訝しむものだった。
「この娘をエル・フェアリアの者達のいる部屋に届けてやれ」
「は?」
 呼ばれた理由が見知らぬ少女だろうとは思ったが、何を言い出すのだ。
「そいつエル・フェアリアの奴かよ。じゃあ唯一の向こうの侍女か。そんなもんラムタルの侍女にでも任せりゃいいだろ」
 ただでさえエル・フェアリアに喧嘩を売っている状況だというのに何を言い出すのだと鼻で笑うが、ファントムから返される冷たい視線に命令は本気なのだと気付く。
 エル・フェアリアの者達から身を隠しているわけではないが、堂々と目の前に現れても構わないと言えるほどの命令など、素直に聞き入れられるわけがない。
「…その辺にでも転がしてりゃいいだろ。わざわざ届けなくてもよ」
 まさか少女の身の危険を案じているとでもいうつもりなのか。それにしたってラムタルの侍女に任せればいいだけのものを、なぜわざわざウインドが届けなければならないのだ。
「それか、自分で送ってやれよ。そんなに大事そうに抱えるならよ」
 その言葉には、ファントムでなくガイアが視線を落とすという形で反応を見せてくる。
 まさかこんな小さな少女に嫉妬でもしているのかと思ったが、ガイアの唇は悲しげに閉じられたままだ。
 ガイアからファントムへと視線を戻せば、ファントムは静かに少女を見つめていて。
「…なんだよ、知り合いかよ」
 あまりにも普段のファントムからかけ離れた様子に、眉間のしわが深くなる。
「まさかそいつがあんたの最後の子供とか?」
 鼻で笑いながら、蔑むように訊ねてみる。
 ファントムにはルクレスティード、ニコル、リーンのほかにあと一人いると聞いていたから。
 返答などもちろん無いだろう。そう思っていた矢先に口を開いたのはルクレスティードだった。
「…カトレアって誰?」
 花の名前を口にして、それが人の名前であると問いかけの中に表して。
 少女のドレスの裾を少しだけつまみながら首を傾げるルクレスティードは、なぜかウインドに問いかけるような様子を見せた。
 そんなもの知るわけがない。
「カトレア?そいつの名前じゃないのかよ」
「違うよ。この子はジュエルだよ」
「…何だそりゃ?」
 突然知らない名前を出したかと思えば。
「お父様、カトレアって誰?どうしてこの子にそう言ったの?」
 今度はファントムに視線をしっかり向けて問いかけるルクレスティードに返された表情は、どこか苦しげに見えた。
 ファントムがこれほど人間味を見せるのも珍しい。
 そして。
「…カトレアは…彼女の魂の名前だ」
 大切なものを本当に大切に扱うように、ファントムの言葉に慈しみが混ざる。
 彼女とはファントムが抱く少女のことでいいのだろう。だが、魂とはどういう意味だ。
「…私から離れた魂が生まれ変わってお前達となったように…彼女も…」
 苦痛の表情を浮かべて、それだけでなく。
「ロード!?」
 ウインド達の目の前で、ファントムが少女の額に口付けを落としたのだ。
 一番驚いただろうガイアがファントムの名を呼んでも、ファントムは少女だけに視線を注ぎ続ける。
 それは数秒続き。
「…エル・フェアリアの者達の元へ届けろ。それだけでいい」
 かすれた小さな声で再び命じられて、今度は呆気にとられたままファントムから少女を託されて。
 カトレア、と聞いた。それはたしか、今は名前として禁句となるほどの罪人の名のはずだ。
 ロスト・ロード第一王子を暗殺した罪で処刑された、極悪非道の継母。そうエル・フェアリアの歴史で伝えられている女。
「おい待てよ!!」
 生まれ変わりというものがあることをウインドは身をもって理解している。とするなら、彼女はカトレア王妃の生まれ変わりだというのか。
 それならなぜ恨まない。なぜ慈しむ。
 訳もわからないまま、ファントムはウインドに背中を向けて立ち去っていく。
 そのあまりにつらそうな背中の後について行くのはガイアだけだった。
 戸惑いの表情を浮かべたまま少女を少しだけ見つめて、ファントムの後を追っていく。
 その場に残されたウインドは、託された少女と、覗き込んでくるルクレスティードを交互に見やって。
「…俺が来る前に何があったんだ?」
「えっと…この子がこの庭に迷い込んだんだけど、元の場所に返してあげる前にお父様が来て、お父様はこの子のことをカトレアって呼びかけて…この子はお父様に“うそつき”って言って倒れて…」
 ルクレスティードの声は話していくうちに段々と不安げに小さくなっていく。
「…わけわかんねぇ」
 エル・フェアリアは、その存在全てがウインド達にとって恨むべき存在なのだ。
 恨んで、憎んで、その全てを奪い取ってようやくウインド達に平和が訪れる。
 だというのに、なぜファントムはこの少女を慈しんだ。
 もしカトレアという女の生まれ変わりだと本当に言うのなら、なぜ恨まず大切に扱うのだ。
 憎むべきだろうと腕の中にいる少女を強く睨みつけて、でも、なぜが本能がそう告げるように少女への不愉快な気持ちは続かなかった。
 そして無意識に少女を大切に横抱きにしていることにも気付く。
 ウインドの魂は、ファントムの魂のかけらのひとつだ。
 だというなら、ファントムが大切に扱うこの少女をウインドも大切に扱ってしまうというのか。
 わけが分からないまま、奇妙な感情に囚われたまま。
「…とっとと返してくる」
「待って!ぼくも行く!」
 歩き始めるウインドの後ろにルクレスティードが付いてきて、庭園の出入り口で侍女達と合流する。
 ウインド達を理解する高位の侍女達は何も聞かずに案内をしてくれて、エル・フェアリアの者達に用意された貴賓室まで大切に横抱きにし続けて。
 案内された部屋に入れば、エル・フェアリア王子の存在に怒りが一気に爆発しそうになり、それを無理やり押し留めて近くにいた騎士にいまだに眠る少女を託した。
 捨て台詞も適当に早々に立ち去って、いまだに腕に残る少女の重みにようやく苛立って。
「…ウインド」
 不安げに声の揺れるルクレスティードも、あの少女に何か引っかかるものがあるという様子を見せた。
 あの少女の名前はジュエルだとルクレスティードは告げた。
 その魂は、前世を覚えているわけではないだろう。
 現にウインドも、自分が前世でロスト・ロードだった記憶など無い。
 それはエレッテやパージャ、ガイアやルクレスティードも同じだ。
 だというのに、まるで魂が惹かれたかのように、あの少女に対してはエル・フェアリアへの怒りがこみ上がらなかった。
 腕に残る重みに感じる不可解な気持ちは、ただコウェルズ王子と対峙したことによる怒りが移っただけなのだろう。
 苛立ち混じりの早歩きもルクレスティードに袖を摘まれて速度を落としていく。
「…ぼくね、あの子にまた会うよ」
 隣を歩くルクレスティードは、どこまでも無邪気に笑っていた。
「また会うって約束したんだ。それにエル・フェアリアの人達に姿だって見られたから、別にこそこそしなくったっていいもんね」
 今日の突発的な睨み合いに怯えることなく、ルクレスティードは堂々として。
「王子様にも会ってくる」
「…やめとけ」
「えー、だって」
 何がそこまで嬉しいのかふふふ、と笑い続けながら、ルクレスティードはウインドの隣で楽しげにスキップをして。
「そういやお前、あの王子に“わかった”か何か言ってたな」
 ウインドが王子達の部屋を出ていく前にちらりと聞こえた言葉。
 王子への苛立ちで全ては聞こえなかったが。
「…えへへぇ…まだ内緒!」
 無邪気で小賢しいルクレスティードは、無邪気な様子だけを見せながら少しだけウインドの前を進んでいく。
「さっきの人たちもみんな、いつかお父様に跪くことになるんだね」
 さもそれが当然であると告げながら、楽しそうにくるりと一回転してみせて。
 あの少女を前にして様子のおかしかったファントム。
 ファントムがエル・フェアリアの王の座を取り戻すことはウインド達が解放されることに繋がる。だから手を貸してきた。だというのに、あの様子で大丈夫なのかと一抹の不安がよぎる。
 もし、あの少女がファントムの、ウインドの願いを遠ざけるというなら。
「…殺すか」
 拳を握りしめて、ポツリと呟いて。
「なんて言ったの?」
「…なんでもねぇ」
 そうはしたくないと本能が告げる。
 だがウインドが最も愛するエレッテはエル・フェアリアに囚われたまま。
 エレッテを救い出すためにも、ファントムの邪魔となるものは消さなければ。
 たとえそれが、あの少女だったとしても。

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