第72話


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 話せることは全て話した。
 顔色は青白いまま、ルードヴィッヒはソファーの端に座り、遠のこうとする気を何とか掴んで自分に押し留め続けていた。
 室内にいるのはルードヴィッヒとコウェルズだけ。ジャックとダニエルはいなくなったジュエルを探す為に出払っている。
 俯くルードヴィッヒの視界にギリギリ入り込むのはコウェルズの足元だけだ。同じようにソファーに座ってはいるが、イライラと指先が肘掛けを叩いているのは見ずとも気付いている。
 話せることは、本当に全て話した。
 ジャックと離れてから休憩の為に寄り道をした庭園。そこでの口論、突然現れた少年に拐われたジュエル、追いかけたのに、少年とジュエルの姿は一瞬で消えてしまった。その後ラムタルの侍女に見つかり、自分がいた場所が王族の庭園であったことも、侍女達がジュエルを見つけてくれると言ったことも。
 話せることは全て。
 ようやく再会できたミュズのことは話さなかった。話せるものではない、と。
 それが最善の選択だったのかなんてわからない。いや、最善であるはずがないとわかっている。だが言えなかった。
 たった一度行動を共にしただけのミュズを庇いたいからコウェルズ達に話さなかったのか、それともあんな気がふれてしまったかのような姿を、ルードヴィッヒ自身が受け入れられなかったからか。
 わからないまま説明して、ジャック達は部屋を出て。
「…自分が何をしでかしたのか、わかっているかい?」
 コウェルズの言葉は穏やかなままだったが、今まで聞いたことがないと言えるほど冷めた声色をしていた。
 互いに目を合わさないまま。
 ルードヴィッヒは声を出せず、頷くことすら体が強張ってできなかった。
 全身の骨に冷たい鉄の棒を通されたかのように、わずかも身動きが取れなくなる。
 騎士となってから失態ばかりで、それでも自分を奮い立たせてきたというのに、今回ばかりは体の奥深くから崩れ落ちそうになる。
 不甲斐ないとすら思えないほど。
 消えてしまいたいと心から願うほど。
 もしジュエルに何かあったら、もし本当にミュズが何かしでかしていたなら。
 でも、ミュズのことを口にできないまま。
 何もかもがルードヴィッヒの心を蝕んで、気力を弱らせていく。
 意識が本当に飛びそうになった時にようやく扉の開く音が聞こえてきて、ルードヴィッヒは真っ白になった顔を弾かれたかのように扉に向けた。
 削がれた気力の中で奇妙に揺らぐ視界では、コウェルズが立ち上がって扉に近付いていくのが見える。
 扉の向こうからはジャックとダニエルの二人だけ。
 断片的に聞き取れた会話は、ラムタルの侍女達がジャック達に「ジュエル嬢は安全に見つけ出して送り届ける」と言われたという内容だけだった。
 それはルードヴィッヒも言われたものだ。
 何もかも変わらない。
「おい、ルードヴィッヒ」
 ふと肩を揺さぶられて、両頬を掴まれて上向かされた。
「…酷い顔色だな…」
 顔を掴んできたのはジャックで、両横にはダニエルとコウェルズがいる。
「侍女からも話は聞いた。場所が場所だけに安全であることは確実だそうだ。ジュエル嬢を拐ったっていう子供も、バインド王が王家の庭園に入ることを許可した治癒魔術師一家の子供だそうだ。だからジュエル嬢の身の安全だけは安心しとけ」
 ルードヴィッヒを安心させる為の言葉だろうが、その声色は先ほどのコウェルズのように冷たい。
 言葉を終わらせたジャックは手を離すとコウェルズと共に何か相談を始め、代わりにダニエルがルードヴィッヒの隣に子供一人分の距離を開けて座ってくれる。
 その手にはいつの間にか用意してくれていたティーカップがあり、湯気の立つカップをルードヴィッヒに持たせてくれた。
「飲みなさい。少しは気分が紛れるから」
 湯気がルードヴィッヒの白くなった顔をくすぐり、爽やかな甘い香りが鼻腔に届く。しかし飲む気はなれなくて机に戻した。
 沈黙は恐らく数秒ほど。だがジャックやコウェルズとは違い、ダニエルの穏やかな空気はルードヴィッヒの神経をさらに削るようなことはしなかった。
 だからといって安心感まで与えてくれるわけではなかったが。
「…私とジャックはな」
 数秒の沈黙の後、ダニエルが口を開いて。
「…私達は、リーン様を守れなかった」
 会話の内容に、無意識にダニエルの方へ顔を向けてしまう。
「五年前だ。まだ騎士でなかったとはいえ、君も知っているだろう?私達は姫付きの護衛騎士でありながら、リーン様を守りきれなかった」
 守るべき対象を守れなかった。
 今のルードヴィッヒのように。
「その当時は…ご遺体すら見せてもらえなかった。今思えば生きていたのだからご遺体が無くて当然だったんだろうが…あの時は絶望したよ」
 五年前。ルードヴィッヒはまだ11歳で紫都の我が家にいた。リーン姫死亡の知らせからしばらく続いた喪に服す時間は、ルードヴィッヒに初めて人が死んだことによる日常の変化の異質を見せつけた。
「国王陛下から直接の命令があって離れていたんだ…リーン様を守ることが最重要事項だったのに」
 悔やんでも悔やみきれないと、ダニエルは言葉の端々から滲ませてくる。
「…君はどうするんだ?」
 そして問いかけてくるのは、ルードヴィッヒの問題点だ。
 未熟で不甲斐ないルードヴィッヒは、守るべき対象を目の前で奪われてしまった。
 大会に出場するルードヴィッヒにとって、ジュエルの細やかなサポートは何よりも重要なものだ。その対価に、ルードヴィッヒはジュエルを守らなければならないのだ。
「……もう一度探してきます」
「そういうことじゃない…その短絡的な思考をどうにかしよう」
 立ち上がろうとして、膝を押さえられて。
「ラムタルの侍女達は安全であるという確証がある様子だった。ここは彼女達に任せよう…任せるしかないというのが事実だが…君は、この大会の間にきちんと考えるんだ。エル・フェアリアの騎士にとって王族付きは誇りある任務だ。その任務を確実に全うする為に何が必要なのか。今の君に何が足りなくて、どうするべきなのかを」
「……足りないものだらけなのに、どうすればいいんですか…」
 思わず頭を抱えて呟いてしまった泣き言に、ダニエルはそっと肩を叩いてくれた。
「それがわかっているなら今はそれで充分だ。あらゆるもの達の全てを目に入れて、学んでいきなさい」
 肩から離れた手は頭を強めに撫でてくる。子供にするように、子犬にするように。
 お前は未熟なのだと伝えてくる手は、ルードヴィッヒと違って相手に対する力加減をしっかり理解しているものだった。
 コンコン、と。
 力の弱い女性の手で扉をノックされたのは、ちょうど全員が言葉を途切れさせていた時だった。
 どうぞ、とラムタル語で許可を伝えるのはジャックで、扉が開いてラムタルの侍女達が現れる。
『大変お待たせいたしました。ジュエル様が見つかりましたので、ご案内させていただきました』
『これはこれは…見つけてくださり本当にありがとうございます』
 侍女達は三人。ルードヴィッヒもすぐに立ち上がって全員で扉に近付けば、侍女達の向こうからは現れたのはジュエルだけではなかった。
 というより、ジュエルは眠った状態でルードヴィッヒ達の目の前に現れた。
 侍女達に促されて入室を果たす、ジュエルを横抱きにした大柄な若者。
 ラムタルの神官衣を纏った、目に痛い色合いのバンダナで髪の半分を覆った、闇色の青い髪と瞳の。
「……お前は…」
 若者の登場に、コウェルズの口調は険しくなる。
『…眠ってるだけだ。怪我も何もない』
 若者は見たくもないものを本能的に嫌うかのようにコウェルズを無視して、最も近くにいたジャックにジュエルを預ける。
 その顔はルードヴィッヒにも見覚えがあった。
 リーン姫がファントムに奪われたあの日、天空塔で、裏切り者となったパージャの隣に立っていたのだから。
 若者はジャックにジュエルを渡すとすぐに踵を返して立ち去ろうとする。その腕を掴んだのはコウェルズだった。
『待て!』
『触んな』
 互いに同時に言葉を放つ、その中に第三者の小さな驚きの声が交じる。
 その幼い声に全員が大柄な若者の後ろに目を向ける。そこにいたのは、ジュエルと同じ年頃の少年だった。
 その容姿に、ルードヴィッヒは言葉を詰まらせる。なぜなら、確かにジュエルを拐った少年のはずなのに、銀の髪は見事なほどの闇色の紫だったたからだ。
『部屋には入んなっつっただろ』
『だって…』
 若者は少年に怒り、少年は拗ねてみせて。
『…俺を探してたんだろ…俺は大会に出る。捕まえたきゃ…試合開始まで大人しくしてるんだな』
 ジュエルを渡したなら用はないとばかりに、若者はさっさと部屋を後にしてしまう。その表情は蔑みと苛立ちを最初から最後まで隠さず振りまき続けていた。
 そして。
『…ぼく、わかっちゃった』
 若者が去る数秒間、少年はルードヴィッヒには一瞥もくれずにコウェルズを眺め続けていた。
『…君は?』
 含み笑いを浮かべる少年に、コウェルズは奇妙なものを見るかのように眉根を寄せる。
『その顔もそっくり!運命ってすごいね!』
 それだけ言って、パタパタと走って若者の後に続いて。
『…申し訳ございませんが、詳しく説明することはできません。ジュエル様は無事ですので、どうぞ皆さまお休みくださいませ』
 突如現れて消えてしまった捜索対象の出現に唖然としたままのコウェルズ達を尻目に、侍女達も絡繰仕掛けであるかのように機械的に去っていく。
 扉が静かに閉められて、まるで最初からジュエルがいなくなってしまった騒動など無かったかのように流されて。
 追うこともできずに身体が動かなかった理由を、恐らく誰も説明することはできないだろう。
「…一度ジュエル嬢を起こそう。話を聞くのが先だ」
 何があったのか、どうなっているのか。
 なぜ探していた闇色の青年がこんな形で皆の前に姿を見せたのか。
 ジャックの腕の中で穏やかな寝息を立てるジュエルから話を聞く為に、ルードヴィッヒ達はソファーへと再び戻っていった。

ーーーーー

 記憶が混濁する。
 重く冷たい水の中に沈んでいくような感覚に襲われながら、ジュエルは自分のたかが12年程度の記憶には収まらないほどの奇妙な記憶が身体の内側を暴れ回る恐ろしい苦しみに呻いた。
 外側からの水の圧力。内側からの記憶の暴力。
 私は誰、と問いかけたくなった理由は、ジュエルではない誰かの身体に自分が入り込んでしまったような気持ちになったからだ。
 記憶の中の見覚えのある見知らぬ世界。
 視界は見慣れない高さから。髪の色は自分と変わらない。なのに腕に触れるほど長い。
 場所は見慣れたはずの王城で、でも美術品などの細部はことごとく違っていた。
 進み続ける自分はそのことに違和感など持たずに威風堂々と歩み続けて、前方に人影を見つけても視線のひとつも与えはしなかった。人影は壁に背中を預けながら、優雅に“私”を待っている。
 でも“私”はまるで何も存在しないかのように、彼の前を素通りした。
 その直後に腕を掴まれる。
 振り返ると同時に“私”は壁に追いやられ、美しく微笑む彼に口付けを与えられそうになった。
 それでも“私”は余裕の笑みを浮かべる。
 手にしていた扇で唇を守って、すぐに身体を離して。
 これが恋の駆け引きだと、私にはわからなくても“私”は知っている。
 “私”も彼を愛している。なのにつれなく接するのは、彼に追いすがってほしかったからだ。
 大戦に晒されて世界情勢は物騒なもの。でも“私”を取り巻く小さな世界は美しいまま。
 でもその美しい世界は、ある日突然消え去ってしまった。
 “私”の身体が彼以外の男に汚されて、王妃の地位で囚われた。
 そんなもの欲したことなど一度たりとも無い。
 “私”が望んだものは彼の隣にいられる人生だけ。彼の継母などという地位なんかじゃない。
 なのに、今まで与えられてきた幸運の全ての代償を払えというように、悲しいことばかりが“私”を苛んだ。
 そんな人生を変えるために、自力で知識を貪った。
 日々弱る“私”の身に何が起きているのか。彼の身に何が起ころうとしているのか。
 彼が言ってくれた「必ず助ける」という言葉を信じて、何度悲しい現実に裏切られ続けようとも、その言葉だけを胸に抱いて“私”に許された権利をふるい続けた。
 でも残酷な運命を変える力は“私”には存在しなかった。
 絶望に身体が凍る。
 彼を永遠に失った。
 王妃として囚われた“私”に、運命は冤罪の罪まで与えた。
「必ず助ける」と言ったのに。
 何度も何度も裏切られて、それでも信じ続けていたのに。
 民衆の目の前で首を切り落とされる瞬間、その民衆の中に彼がいる気がして。
 激しく愛して、強く恨んで、それでも憎みきれなかった、命を落としてでも守りたかった、でも助けてほしかった人。
 ロード。
 彼と目が合ったような気がして。
「うそつき…」
 助けてほしかった。
 ずっと。
 首が落ちた、その瞬間まで。
 私の中の“私”の記憶が激流のように押し寄せて身体を潰そうと襲ってくる。
 私から身体を奪おうとする気なのかと恐ろしくなって、あらがうために全身をこわばらせた。
 でも。
ーー怖がらないで
 “私”が私に語りかけてくる。
 身体中、今もまだ苦しいまま。
ーー忘れなさい
 私の身体はひとつだけ。
 なのに“私”に抱きしめられた気がした。
ーー“私”とあなたは同じ魂。でも“私”はあなたじゃない
 暖かい。あれほどの悲しすぎる苦しみに全身傷付けられてきたはずなのに。
ーー“私”は生まれ変わったの。だからもう“私”はいない……だから、あなたは“私”を忘れなさい
 彼が“私”に気付いてくれた。また名前を呼んでくれたーー生きてくれていた。
 それだけで充分。
 あまりに悲しい人生。
 汚名は未だに語り継がれる。
 それでも。
ーーあなたはあなたの愛を見つけて。そして今度こそ…幸せになりましょうね
 “私”の記憶が薄れていく。それと同時に全身を苦しめる重く冷たい水の感触も体内を駆け回る恐怖も薄れていった。
 ああ、でも最後の言葉が彼に向けて「うそつき」なんて。
 心残り。でも仕方ないものねーー
 ふわりと消えた何かの感触を思い出せなくて、でもとても悲しくて。
「……ル………エル」
 誰かが名前を呼んでくれる。
 暗い闇の中。もはや何の感触も無い闇だけの世界で。
「ジュエル!!」
 闇を切り裂くような強い紫の輝きが、ジュエルの腕を掴んで強引に引きずり上げた。
 どうしていつも強引なの?
 その光が誰なのかわかりきっているから、痛くても我慢して引きずり上げてくれるに身を任せた。

ーーー

「ジュエル!!」
 目を覚ましたとたんに間近で叫ばれて、耳の中が痛くなった。
 でもそんな痛みも霞むほどに現状を理解できなくて、ジュエルは辺りを見回すこともせずに呆け続けてしまった。
「ジュエル!ジュエル!!」
「落ち着けルードヴィッヒ。お前がうるさいままでどうするんだ」
 名前を呼び続けてくれる幼馴染み。それをたしなめる上官。
 ここはラムタルの貴賓室で、目覚めたジュエルを覗き込むのは四人全員で。
 そこまでゆっくりと把握しながらも、ジュエルはなぜ自分がここにいるのかを上手く理解できずにいた。
 確か自分はこの部屋ではない別の場所にいたはずだ。
 ゆっくりと上半身を起こして辺りを見回せば、緊張していた四人の表情が少し落ち着いた気がした。
「…ここに横にしてからすぐに苦しそうにしていたから、心配したよ」
 ジュエルのそばにわざわざ膝をついて視線を合わせてくれるのはコウェルズだ。
 王子にそんな体勢を取らせてしまうなんてと慌てて身を起こそうとしたが、後ろからダニエルに無言で肩を押さえられた。
「…ルードヴィッヒやラムタルの侍女達から、君がどこにいたかの事情は聞いている…何があったんだい?」
 コウェルズは普段通りの口調で、まるで妹姫に接するように優しく問うてくる。
 その言葉の通りにジュエルは意識が途切れる前のことを思い出そうとした。
 ルードヴィッヒと口論になり、同じ年頃の少年に手を引かれてルードヴィッヒと離れて、綺麗な治癒魔術師の女性に出会って。それから。
 それからーー
「ジュエル?」
 涙があふれて、視界が霞む。
 コウェルズが心配するように手を伸ばしてくれたが、ジュエルはただどうしようもない悲しさを止めることもできずに両手で顔を覆った。
 思い出せない。でもとても苦しいことがあった。
 焦がれる思い。何にかはわからない。でも、途方もなく胸が締め付けられて。
「ぅ…ああぁ」
 自分の身に何が起きているのかわからない。どうしようもないほど、今まで感じたこともないほど、胸が軋み、涙があふれ続けていく。
 理由など知らない。わからない。でも確実に、ジュエルにとって悲しい何かがあったのだ。
「…ジュエル」
 頭にそっと手が触れる。それは大好きな兄の手のひらのような優しさで、ジュエルは無意識のようにその手の主に泣きすがった。
 涙は止まらないまま。訳がわからないまま。
「…ジュエル、何があったんだい?」
 泣きすがってしまった相手がコウェルズだと気付いてすぐに身体を離そうとしたが、慣れた手つきで抱きしめられて、頭を撫でられて。
 コウェルズにも妹達がいるから、そしてジュエルにも兄がいるから、抱きしめられるその距離はただ純粋にジュエルに安心感を与えてくれた。
「…わかりません…でもっ…」
 泣きすぎて鼻が詰まる。話したくても自分でもわからない。
「…何かされた?」
「いえ!…何もされてません…ほんとに、わからない、です…」
 涙は止まらない。悲しみは胸から溢れていくばかりで。
 大切なことを忘れてしまっている気がするのに、思い出せなくて、さらに胸が苦しくなるようで。
「…わかった。今日はもう休もうか」
 コウェルズの手は離れないまま、突如ふわりと浮遊感が全身を包んだ。
 それは、本来ならば有り得ない体勢で。
「二人で休むよ。後でまた皆で話そう」
 コウェルズに抱き上げられたジュエルの耳に、聞き間違いだと思えるほどの言葉が届く。
 しかし聞き間違いでないことは、驚いている他の三人の様子から気付いた。
「…何を言ってるんだ」
「コウェルズ様!?」
 ジャックの少し呆れたような口調と、ルードヴィッヒの焦り声。コウェルズの本名を口にしてしまったが為にその後すぐにジャックから思い切り頭を殴られて。
「このまま一人にはさせられない」
「…だからと一緒に眠るつもりか?」
「妹を安心させる為に大切なことは、この中じゃ私が一番わかっているだろうね」
 コウェルズは妹の扱いをわかっているから。
 そしてジュエルも、今は大好きな兄と同じ安心感を与えてくれるコウェルズから離れたくはなかった。
「だからって…」
 ジャックがさらに難色を示すが、ジュエルが無意識にコウェルズの服を弱々しく掴んだ様子を見て言葉を止める。
「…今のジュエルに必要なものは、安心できる存在なんだよ」
 そしてそれは、幼いジュエルには家族以外にはあり得ない。たとえ今だけの仮初めの兄だとしても。
 コウェルズが歩き始める振動が心地良くて、でも未だに胸は苦しく涙は止まらないまま。
「…大丈夫だよ。ここはもう、安心できる場所だから」
 耳に響く低く優しい声も、大好きな兄のように感じる。
 また少し鼻をすすって、胸を苦しめる何かから逃げるための安心感を得たくてギュッとすがって。
 途中でちらりと視界に入ったルードヴィッヒのひどく傷付いたような眼差しもすぐに忘れて、ジュエルは自分を今一番守ってくれる存在に涙ごと全てを委ね、静かに瞳を閉じた。

第72話 終
 
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