第72話
第72話
腕を引かれて走り続ける。
しかし掴まれた手首は労わるように優しくて、ジュエルは驚きはしたものの怯えることはなかった。
ラムタルの不思議な庭園でルードヴィッヒと口論になっている最中に突然現れた、ジュエルと同じ年頃の銀髪の少年。
「…そろそろ、大丈夫、かな?」
一分ほど走り続けた頃合いで足をゆっくりと止めた少年が振り向いてきて、前髪で隠れた目元は見えないまま、にこりと微笑まれた。
「大会期間中は悪いことする奴もいるって聞いてたから。ここならもう安全だよ!」
少年はラムタル語ではなく流暢なエル・フェアリアの言語で話してくれて。
『あ、さっきの奴がエル・フェアリア語だったから…もしかして別の国の子?』
困惑しながら言語を変えてくれるから、少しおかしくて笑ってしまった。
「…エル・フェアリアで合ってますわ」
涙は止まったがいまだに鼻声で、恥ずかしくて俯きながら鼻をすすって。
「大丈夫?」
少年はルードヴィッヒがジュエルを危険な目に合わせていたと思い込んでいる様子で、取り出したハンカチをそっと手に握らせてくれた。
薄紫のハンカチは上質な絹で出来ており、少年が位の高い家柄の子供なのだと認識する。
「…喧嘩しただけで酷いことをされたわけではありませんわ」
「え…でも肩を庇ってたよね?」
勘違いさせてしまっていることが申し訳なくて説明をしても、少年は首を傾げて自分が目にした状況を冷静に分析する。
肩を痛めたのは確かだし痛めた理由もルードヴィッヒだが、それは先ほどの口論が理由ではないのだ。
「肩は痛めています…でもそれは、私がルードヴィッヒ様を…あの場にいた彼の頬を叩いたからですわ」
正直に全て話すのは時間が長くなってしまうので、あの場だけでの内容に留めて説明をするが、少年は納得した様子を見せなかった。手首には湿布が巻かれてはいるが、袖で見えることはないのが幸いだ。
「…女の子が叩くって…酷いことをされたから叩いたんじゃないの?」
少年の中ではどうしてもルードヴィッヒが悪者に見える様子で、だが酷いことをされたからと言われてしまうと、ジュエルにとってはまさしくその通りだった。
ルードヴィッヒはジュエルの恋心を冒涜したのだ。
それはどんな悪口よりもつらい言葉だった。
思い出してまた涙が溢れてきて、慌てた少年がジュエルに渡したハンカチをそっと奪って涙を拭ってくれる。
力任せでない、どこまでも優しい手つきだった。
ルードヴィッヒとは正反対の優しさ。年上の幼なじみは、いつも強い力だったから。
でも、力は強かったが、あんな風にジュエルの気持ちを傷つけることなど今までなかったのに。
無性に悲しくて、涙は少しも止まってはくれなかった。
「っ…ぅ」
グズグズと鼻をすすり続けて、少しだけ嗚咽を漏らして涙を零し続ける。
あんな喧嘩、今までしたことはなかったのだ。
口喧嘩なら何度もある。でもいつだって早々に折れるのはルードヴィッヒだったのに。
少年は涙を零し続けるジュエルにひたすら付き合ってくれて、その優しさは今まで触れたことのない分類のものだった。
ミシェルのように全てを任せてしまえるほどのものではなく、友のように共感してくれるものでもない。ただ静かにそばにいてくれる。
「…も…大丈夫…ありがとうございました」
声だけなら何も大丈夫なことはないが、ジュエルがそう告げた通りに頬からハンカチを当ててくれていた手は離れて、またジュエルの手にハンカチを持たせてくれて。
自分より少しだけ背の高い少年を見上げれば、にこりと笑ってくれた。
無性に、彼のことが知りたくなった。
「あの…お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「ぼく?ルクレスティードだよ。君は?」
知りたかったものがすぐに知れて、自分にも興味を持ってくれたような言葉がまた嬉しくて。でも、自分の礼儀の無さが恥ずかしくもなった。
名乗りもせずに、先に尋ねるなど。
「…大変失礼いたしました…私はジュエル・ガードナーロッド・アルウィナと申します。エル・フェアリアから参りました」
丁寧に自己紹介をすれば、ルクレスティードはあはは、と嬉しそうに笑ってくれた。
「初めまして。よろしくね、ジュエル!」
高位の出自だと思っていたのにルクレスティードは無邪気な様子を見せてくれる。だが初対面で呼び捨てにされたというのに、不愉快な気持ちはいっさい無かった。
「こちらこそよろしくお願いしますわ。ルクレスティード様」
「様なんて付けなくていいよ。みんなルクレスティードとかティーって呼ぶから、ジュエルも好きに呼んで」
無邪気な笑顔のまま、愛称呼びまで許してくれる。
その笑顔につられるように笑って、少しだけ残っていた涙をハンカチで拭った。
「…そういえば…ルードヴィッヒ様はどこ?」
ルクレスティードに手を引かれてルードヴィッヒから離れはしたが、騎士として鍛えているはずなのに近づいてくる様子がない。
ルードヴィッヒはジュエル達の後を追っていたはずなのに。
きょろきょろと辺りを見回してみても穏やかな庭園が広がるばかりで、人の気配もジュエルを呼ぶ声も聞こえなかった。
まるでルードヴィッヒがいないみたいな。
「あいつならここにはいないよ。あいつの視界を撹乱して、ぼく達の姿が見えないようにしたから」
不安に駆られ始めた時にルクレスティードから聞かされた言葉は意味のわからないもので。
「……どういうことですの?」
「あいつからはぼく達がしばらく見えないから、その間にかなり離れたんだよ」
もう一度説明されても意味はわからないままだ。
「というか、なんでこの庭園にいるの?入れないはずなのに」
「え…」
この庭園とは、ルードヴィッヒと一緒に休んでいたこの場所のことなのだろうが、入れないもなにも封鎖などされていなかったのだが。
「普通に入れましたわ…訓練場と治療用の広間をつなぐ回廊を降りてすぐの。その庭園ではないのですか?」
「ちがうよ。ここはラムタル王家専用の庭園。王城の奥にあるから、そんな場所から入ってこれないはずなんだけど…」
ルクレスティードは首を傾げるが、ジュエルはそんな不思議な出来事よりも今自分がいる場所に驚いた。
「ここは王家の庭園なのですか!?」
「そうだけど」
思わず上がった大声に、自分自身の両手で口元を押さえて。
「た、大変…早く出ないと…」
「ぼくといれば大丈夫だよ。後で案内してあげるね」
慌てるジュエルがおかしいのか無邪気に笑われてしまうが、大丈夫だなんてどうして言えるのかと困惑してしまう。
現存するラムタルの王族は限られている。
それは現王であるバインドが前王である父を討った時に、同じく悪徳を好んだ王族を処刑していたからだ。
残っているのはバインド王と、今はエル・フェアリアでもてなされている王弟のヴァルツ。後は王位継承権もほとんど意味を為さないほど末端にも程がある者達ばかりで、それもラムタル王都からは離れた場所にいるはずだが。
ルクレスティードは大会時期に遊びにきたその末端の王族なのかと考えたが、もしそうなら情報が入るはずなのにそれもない。
あなたは何者、とは聞けなかった。
「ぼくのお母様が傷を治せるから、先に肩を治してもらおう。帰るのはそれからでいいよね?」
決定事項とでもいうように、また手を繋がれて歩き始める。
「さっきのやつも、たぶん庭師か誰かに庭園から追い出されるだろうから安心して」
それははたして安心していいものなのだろうか。
自然に手を繋がれたせいで胸が強く脈打つから、ルードヴィッヒの心配にはあまり心が向かなかった。
「あの、あなたのお母様は治癒魔術師なのですか?」
「そうだよ。前も瀕死の女の人を助けたんだ!」
「そうなのですか」
治癒魔術師ならばどの国でも重要人物である為に特別に王家の庭を訪れる許可を得ているのかもしれないと思えて、少しだけ安心して。
穏やかな庭園を二人でゆっくりと進む時間は、少しずつジュエルの心を癒してくれる。
自分の恋心が報われないことなどずっと前に気付いていた。でも口にしないことで、誰にも話題にさせないことで、少しずつ思いを癒していけるはずだったのに。
あんな形で指摘されるなんて思いもしなかったから、ふと喧嘩を思い出してしまい、また少しだけ涙が滲んだ。
「…痛い?」
ルクレスティードはすぐに気付いてくれて、隣を歩いてくれながら、身体に負担がかからないようにさらに歩みを遅くしてくれる。
「…別のところが痛むんです」
「…他も怪我してるの?そこもお母様に治してもらおう」
その提案には思わず笑ってしまった。
「治癒魔術師様でも、治せない場所ですわ」
心の痛みまで治せる治癒魔術師など存在しないだろう。
ルクレスティードはジュエルの言葉の意味を考えるように少し黙って、やがて察してくれたかのようにそのままそっとしておいてくれた。
繋いだ手だけが温かい。
もしかしたら、家族以外の人からこんな風に優しくされたのは初めてかもしれない、と感じ始めて。
行動力は強引な方なのだろう。でも心にある踏み込んではいけないラインをしっかりと見極めてくれている。
不思議な人だな、そう思えた。
「あ、いた!お母様!!」
しばらく二人で歩き続けた先にあったのは小さな神殿の入り口を模した東屋で、その中で優雅に本を読んでいた女性にたちまち視線を奪われてしまった。
ルクレスティードと同じ銀の髪の、ジュエルの目から見ても美しいと感じる女性。
女性はジュエルの存在に驚いたように立ち上がり、その肢体の美しさにさらに目を奪われてしまう。
長身で、身体のラインは蠱惑的で、あまりにも美しい。
化粧もドレスも宝飾品も、何もかもが色香をさらに引き立たせて、ジュエルが今まで見てきた誰よりも美しいのだと気付いた。
傾国の美姫と謳われるエルザ姫よりも。
「その子はどうしたの?」
「怪我してるんだ。治してくれる?」
女性は本を机に置いて近づいてきて、ルクレスティードの説明に困惑したように眉尻を下げた。
『どこが痛むの?大丈夫だから、見せてみて』
そっとしゃがんで、言葉をラムタルに変えて。
「あ、の…私…」
「…エル・フェアリアの子?」
「……あの…はい」
間近に来てくれた女性から薔薇のような香りがふわりと溢れて、瞳を閉じてなお感じられる美しさにどんどん顔が熱く赤くなるのを自覚した。
緊張しすぎて言葉が浮かばない。恥ずかしくて情けなくて、じわりと滲んだ涙を隠すように少しだけ俯いてしまった。
「こっちの肩を痛めたんだ」
ジュエルの代わりに説明をしてくれるルクレスティードが肩を指し示し、女性はそっと腕に触れてくれて。
「少し触るわね。痛かったらすぐに伝えて」
「…はい」
か細い声で頷くのが精一杯の状況の中で、そっと腕を持ち上げられて肩に手が添えられ、数秒後に袖をめくられた。
そうすれば先ほど救護室で手首に巻かれた応急処置程度の湿布が現れて、隣でルクレスティードが息を飲むのが伝わってくる。
「…誰かに強く引っ張られたの?」
女性の指摘は的確で、顔色を窺うように見上げながら少しだけ頷いて。
「……それもさっきのやつのせい?」
「…うん」
問いかけられるままに手を強く引いた犯人がルードヴィッヒであると伝えれば、ルクレスティードの表情がムッとした怒り顔に変わっていった。
「すごく意地悪なやつなんだね!」
「この傷はちがうの!私を庇うために手を引っ張ってくれて、その時に痛めただけだから…」
慌てて擁護すれば、ルクレスティードはすぐに不思議そうに首を傾げた。
「…さっきの喧嘩はほんとにたまたまで…普段はそんなことありませんわ…」
「……そっか」
いつもはそんなことはないから。そう伝えて、ようやくルクレスティードは話題を終えてくれた。
ルードヴィッヒへの不信感が無くなったかどうかまではわからないが、悪く言われてしまう言葉を聞かずに済むのはありがたい。大切な幼なじみなのだから。
「治していくわね。痛くはないけど、少し違和感はあるかも知れないわ」
「あの…よろしくお願いします」
女性はジュエル達の会話が終わるのを待ってくれていたかのように再び腕に添える手を動かし、まずは肩に手を置いた。
置かれた手から溢れるのは、キラキラと日光に輝く白い魔力だ。
治癒魔術師特有の白は、どこに漏れ消えることもなく全てジュエルの肩に集まっていく。
アリアが手当てしているのを見たことがあるが、その時は白い魔力がふわりと広がり続けて傷ついた箇所にだけ集まる様子はなかった。
恐らくそれはアリアとこの女性の魔力を操る精密度の違いなのだろう。アリアの魔力が分散しないよう、レイトルが魔力でカバーすると聞いたことがあるから。
もしそうなら、この女性は凄い治癒魔術師ということになるのだろうか。
肩に痛みはなく、言われた通り少しだけ筋肉に直接撫でられるような違和感があったが、怖がるほどではない。
数秒もすれば女性の手は白い魔力を携えたままゆっくりと腕をつたって手の方へと移動して、手首でそっと止まった。
湿布越しでもわかる不思議な感覚。時間にすれば一分もかかっていない間の貴重な体験。
「…動かしてみて」
やがて白い魔力がふわりと消えて、女性に促されるがままに最初は手首を、その後に腕全体をゆっくりと動かしてみた。
「…痛みがありませんわ…」
まるで最初から何もなかったかのように。
「…すごいですわ!!」
「よかったわ」
治療中は少しは怯えた表情をしてしまっていたのだと自覚するほど、自分自身の笑顔に頬が緩くなるのがわかった。
「ありがとうございます!」
「いいのよ」
立ち上がる女性を見上げて満面の笑みで感謝すれば、女性も照れたように微笑んでくれる。
綺麗で、格好良くて、可愛い。
そんな女性の姿にまた頬が赤くなるのを感じながら、でも今は恥ずかしがって俯くなんて勿体ないことをしたくなくて。
「ぼくのお母様、凄いでしょ!」
「はい!治癒魔術を受けたのは初めてで…こんなに素敵だなんて!」
まるで心まで清々しく洗われたかのような心地良い感覚がまだ消えない。
「それで、あなたはどうしてこの場所に?…ここがどこか、わかっているかしら?」
余韻に浸り続けることができなかったのは、女性が少し困ったように眉尻を下げながら問うてきたからだった。
怒った様子はなく、単純に困り果てたような表情と口調。
ここがどこかは、もちろん知っている。
「…王家の庭園、と教えてもらいました」
教えてくれたのはルクレスティードだ。
「あの、私…まさか王家の庭園だなんて知らなくて…そんな奥まで来ていなかったんです。訓練場近くの庭園に入ったつもりで…本当なんです…」
信じてはもらえないかもしれないが、わざとではないことをわかってほしかった。証明できるものも無い状況であることは承知しているが。
それでも女性は静かにジュエルの言葉が終わるのを待ってくれて、少し考え込んだ表情を見せた後でルクレスティードへと目を向けて。
「…瞳の訓練をしていたの?」
「してないよ!!…この子と一緒にいたやつを引き離すのに一度だけ使ったけど…」
ジュエルにはわからない内々の会話に戸惑えば、女性は考えを巡らせるように庭園内をぐるりと見渡した。
時間がゆっくりと流れるような穏やかな場所である以外には、絡繰りの動く不思議な空間だとしか思えないが。
「…絡繰り妖精の悪戯、かしら…」
「絡繰り妖精?なにそれ?」
数秒考え込んだ後に言葉にされたのは、ジュエルはもちろん、ルクレスティードも知らないらしい言葉だった。
「数年に一度、あるそうよ。自分がいた場所から全く別の場所に知らない間に移動させられるの。この庭園のように絡繰りの多い場所で起こる現象だから、絡繰り妖精の悪戯と言われるんですって」
私も経験したことはないから詳しくはわからない、と首を傾げながらも教えてくれる女性は、辺りを見回していた視線をジュエルに合わせて。
「…絡繰り妖精の悪戯を経験した人達は、みんな何かしら大切な理由があって別の場所に移動させられると聞くわ。あなたにも何か大切な事が起こるのかもしれないわね」
ジュエルを責めずにいてくれるばかりか、そんな御伽噺のような不思議な現象を教えてくれて、微笑んでくれて。
「…そんなこと…あるんですか?」
「長い年月をかけてゆっくりと起こった現象だから、こうやって静かに言い伝えられているんでしょうね。あなたも体験したのだから、無いとは言えないでしょう」
「わざとじゃないって信じてくれるんですか?」
「嘘をついているかどうかくらい、見ていればわかるわ」
慈愛に満ちた微笑みが、ジュエルの中に満ちて残っていく。
「でもあまり長居させられないの。そろそろあの人が来るだろうから」
ごめんなさいね、と優しさの中に申し訳なさそうな様子を見せて、ここに新たな人物が訪れる可能性を告げる。
「お父様?」
「ええ。用件が終わり次第来ると言っていたわ」
ジュエルが首を傾げるより先に、誰が訪れるのか知れる。父親まで王家の庭園に入れるとは、よほど現王の信頼を得ているのだろう。ラムタル王バインドは、前王である父親とその一派を殺し尽くした事で、冷酷であまり人を信用しないと有名だから。
「…腕を治していただいて、本当にありがとうございます。エル・フェアリア藍都ガードナーロッド家の名にかけて、このご恩は決して忘れません。今すぐにとは参りませんが、必ずお礼をさせていただきます」
誰かが訪れなかったとしても、自分がここに長居してはいけないことくらいわかっている。
それでも、どの国でも大切に扱われる治癒魔術師から私的に怪我を癒してもらったというのに感謝の言葉だけで済ますことなど出来なくて、未来の話にはなってしまうが、ジュエルは必ず礼儀を果たすと心から告げた。
そして女性も、ジュエルの言いたいところを理解して微笑むだけに留めてくれて。
「ジュエルは大会の訓練場にいることが多くなるんだよね?また会いに行くね!」
ルクレスティードは無邪気にジュエルの手を取って、ぶんぶんと大きく振ってくる。
同じ年頃とはいえ男性にこんな形で接触されたことは初めてで驚いてしまうが、嫌な気持ちは無くて、むしろくすぐったいような感情が繋がれた手から伝わるようだった。
「ルクレスティード、彼女は大会の為に来てくれてるんだから、邪魔しちゃ駄目よ」
「わかってるよ!ジュエル、送ってあげるね!」
手を繋いだまま、今度は女性から離れていく道へと優しく引かれる。
別れの時間が訪れたことは少し寂しかったが、大会の終了まではまだ時間があるから、会う時間があるならと期待を胸に秘めることで我慢して。
「本当にありがとうございました!失礼いたしますね!」
短時間ではあったが、ジュエルの中に満ちるものを与えてくれた人に頭を下げて、ルクレスティードに引かれるままに帰ろうとして。
「…お父様…」
ルクレスティードが突然歩みを止めたから、ジュエルは少しだけその背中にぶつかってしまった。
まだ女性から少しも離れていない状況で、曲がり道から訪れた長身の人影が穏やかだった庭園内を張り詰めた空気に変えてしまう。
「えっと…この子、迷い込んじゃっただけなんだよ!絡繰り妖精の悪戯?っていうので…」
怒られることを嫌がりはぐらかす子供のような口調。たが怯えた様子はないので、そこまで怖がる必要はないと思うのに、一瞬にして庭園の空気を変えてしまった気配に、顔を上げることができなかった。
「…エル・フェアリアの者か。早く案内して返してやりなさい」
人影は艶やかな低い美声でそれだけを告げ、顔を上げないジュエルを気にする様子も見せずに歩みを続けて女性のいる方へと向かっていく。
その声は、どこか遠くの、ずっと昔に聞いたことがあるような気がして。
「行こう、ジュエル」
ルクレスティードが再び手を引いてくれる。しかし足が動かなかった。
怖くて怯えた訳ではない。
動くなと、胸の奥で頭の奥で、心の奥で誰かが命じてくるのだ。
わけのからない感情が、じわりじわりと浮かんできてはジュエルを覆っていく。
その人がジュエルの横を通り過ぎる瞬間、彼を知っているのだと魂が告げた。
空いている方の手で、彼の服の裾を弱い力で掴んで止める。
ーー私は“彼”を知っている…
そう、ずっと昔に。
激しく愛して、強く恨んで、それでも憎みきれなかった、命を落としてでも守りたかった、でも助けてほしかった人。
必ず助けると言ってくれた人。
彼、は。
「ろー…ど」
名前を呼んで、彼を見上げる。
同時に彼も、こちらを見てくれた。
彼に伝えたい言葉がある。
だというのに。
「…カトレア?」
「……うそつき」
彼が名前を呼んでくれたというのに、一番伝えたい言葉は出てきてくれなくて。
魂が何かを叫ぼうとする。
その重すぎる叫びが今のジュエルに支えられるはずもなくて、身体がぐらりと傾く。
会いたかった人が目の前にいるというのに、ジュエルの意識は彼の腕の中で深く暗転してしまった。
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