第71話


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「…ルードヴィッヒ様」
 呼び声の主は隣から。
 怪我人達の為に用意された広間から出たルードヴィッヒの隣を歩くジュエルは、不安そうな藍色の瞳を少しだけ涙で滲ませながら見上げてきていた。
「…えっと…どこかで休む?」
 提案したのは、ジュエルを思いやりたかったから。
 マガの元に訪れた横暴な振る舞いの老人と女相手に毅然と姿を現しはしたが、内心とても怖かったはずだ。
 ルードヴィッヒは老人達の前に出ようとするジュエルを止めたかったが、怒りに染まるその時の表情を思えばジュエルを守る為にジュエルの隣に立つことしかできなかった。
 ルードヴィッヒもジュエルも、バオル国の言葉はわかる。特にジュエルは完璧に言語を覚えており、マガの言葉は苦しく、老人達の言葉は許せるものはなかった。
 ルードヴィッヒの休もうという提案に小さく頷くジュエルと共に、一本道の回廊から降りて不思議な庭に出る。
 植物達が植えられた庭を穏やかに彩るのは、落ち着いた木目調の歯車がゆっくりと回る絡繰りの花壇だ。
 歯車がどこかで回るたびにどこかの絡繰りから水が少し溢れ出て、土に染み込んでいく。
 日除けの薄い傘を開く歯車や、間引きを行う絡繰り。花殻を拾う絡繰りも。
 何もかもが驚くほどスローペースで、だからこそ気持ちが落ち着いていくような気がした。
 はたして行きしなにこんな庭があっただろうか。それとも急を要していた為に気付かなかっただけか。
「ここに座ろう」
 ジュエルを促した場所は小さなテーブルの片側にだけ設置された背の低い長椅子で、隣り合いながら、少しだけ距離を取りながら、腰を落ち着けて庭園の世界観に浸る。
 最初は二人とも何も話さなかった。
 絡繰りの歯車と風に揺れる木の葉の音だけに耳を傾けながら、物騒だった先程を思い出す。
 ジュエルを庇うためとはいえ、怒りに身を任せてバオル国の女に魔具の剣先をいくつも向けた。
 純粋な怒りだけの感情だったと自分でもわかる。それ以外何もなかったのだ。
 以前暴走してしまった魔力に似ている気がしたが、今回はその暴走しようとする魔力が完璧に感情のコントロール下にあった。
 歪な形の魔具にしかならなかったのは、単純にルードヴィッヒの実力不足だ。
「…さっきはすまなかった…驚かせただろう?」
 ちらりと目を向ければ、ジュエルはちょこんと座った椅子の上で、自分の膝に両肘をついて両手に頬を預け、眼前に広がる穏やかな庭園を静かに眺めていて。
「…ジャック様みたいにスマートに助けてくださればよかったのに。あれではエル・フェアリアにも非があることになりますわ」
 客観的な発言にはぐうの音も出なかった。
 いつもいつも発言が可愛くない。そう思い眉間に皺が寄り。
「でも、格好良かったですわ!」
 こちらを向いたジュエルが、物心ついてからは一度たりとも向けてくれなかった満面の笑顔を初めて向けてくれた。
 一瞬、世界から音が飛んだ。気がした。
 ジュエルが満面の笑顔を向けるのは決まって兄であるミシェルにだけだったから。
 心から信頼している証のような笑顔。自分に向けられるなんて考えもしなかったのに。
「…ぁ」
「それにしても…バオル国の方々は本当に何を考えていらっしゃるのかしら…」
 話しかけようと開いた口は、先にジュエルが話し始めたことにより閉じられた。
「マガ様の発言も気になりますが…」
「…そうだな」
 あの笑顔を向けてくれた後ですぐにマガの件を話題にされて、不満がチリ、と腹をよじれさせる。
「…紛い物…」
 まるで独り言のように呟やかれたその単語は、マガがバオル国の言葉で口にしたものだ。
「自分は紛い物なんかじゃないって…」
「“紛い物”だから、マガ?…名前じゃなかったのか」
「なら名前は?」
「…知らないよ」
 マガの言葉は支離滅裂で、でも完全にわからないわけじゃなくて。
「…私を手に入れることができたら、名前が与えられると仰ってましたわね…だから朝から私の元へ来たのでしょうね」
「…そっちよりも、噂の方を気にするべきじゃないのか?ガードナーロッド家の噂が流されている様子だったじゃないか」
「あら、噂なら気にしませんわ。アリアさんも妙な噂を王城で広められてましたけど、噂なんて気にするだけ無意味と仰ってましたし」
 それが当然であることのように、あまりにもさらりとかわすジュエルにまた言葉を無くす。
 親しい誰かがこう言ったからこうなのだと信じて疑わないなど。
「…気にするところだろう?」
「……では、ユナディクス国の皆様に聞いてみますわ。メデューサさんも知っていたら教えてくださるでしょうし」
 仲良くなった他国の侍女に尋ねると呑気な構えを見せてくる姿に少しイラついたのは、ルードヴィッヒが気にしすぎているからか。
「私の噂とマガ様の求婚は関係しているのでしょうね。バオル国の方は私とマガ様が似合うと口にされましたもの」
「…あいつのことなんて知らないよ」
 また話題がマガに戻り、苛立ちがぶり返した。
「…噂を気にしろと仰ったのはあなたでしょう?」
「そういうことじゃない!…あんなやつのことなんかいいんだ。君の噂が問題なんだから」
「マガ様があんな風にジャック様に訴えられましたのよ?心配じゃありませんの?」
 なぜルードヴィッヒがマガのことを心配しなければならないのだ。朝から最低な訪問でルードヴィッヒ達の前に訪れたというのに。その時ジュエルは怯えたというのに。
「君はもう少し自分の立場だけを気にするべきだ!虹の七都に連なる私達が他国で馬鹿にされているなんて許されることじゃない!」
 つい口に出た大きな声に、ジュエルがびくりと肩をすぼめるのがわかった。それでもルードヴィッヒの苛立ちは止まらない。
「…どんな噂かなんて知りませんもの…」
「あんな変な奴らに馬鹿にされたんだ。おかしな噂に決まってるだろ。早々にどうにかするべきだ」
「…そう?」
「当然だろ!」
 他人事のようなジュエルの代わりにイラついて語気を荒らげ続けて、不満そうな眼差しを向けられる。そしてジュエルは不満を飲み込む性格ではないのだ。
「…もっと優しく言ってくださってもいいでしょう?」
 唇を尖らせて軽く睨みつけてくるから、カチンと苛立ちはさらに増した。
 なぜマガやバオル国の者達でなく自分に不満が向けらるといのだ。
「君こそ立場を理解したらどうなんだ?」
 ジュエルの方に身体が前のめるが、勝ち気なジュエルも逃げはしない。
「さっきから立場立場って、どういう意味ですの?私は大会出場者の方々のサポートとして唯一選ばれた侍女の立場に恥じぬようつとめておりますわ!」
「だから他に気にするべきところがあるんだって言ってるだろ!!」
「それが大声で伝えるべきことですの!?いつも優しいミシェルお兄様やレイトル様を見習ってはいかが!?」
 その言葉に完全にキレた。
「優しい!?言っておくけど、ミシェル殿が私に優しかったことなんて一度たりとも無かったからな!訓練中はいつも私を目の敵にして暴力的で、王族付き候補に選ばれた後だって理不尽なものだったさ!」
 今までのミシェルに対する鬱憤を晴らすように、口は止まらなかった。
「君がくれたっていう騎士祝いのお菓子だってミシェル殿から受け取っていない!ミシェル殿はいつだって君と私が繋がるような事は絶対に許さなかったんだぞ!」
「お兄様を悪く言わないで!そんな人じゃないわ!!」
「私が受けた仕打ちを証言してくれる仲間なら沢山いるさ!いつもお兄様お兄様ばかり!私のことも同じくらい見てくれたらいいじゃないか!!」
 一気に言い捨てて、自分が何を口走ったかも気付かないまま唖然としているジュエルを睨みつけて。
「レイトル殿の事だってそうさ。ミシェル殿に雰囲気が似てるから気になってるだけだろ!?お兄様とは結ばれなくても、似ている他人ならチャンスがあるからな!!そのレイトル殿も、君みたいな子供じゃなくてアリア嬢みたいな落ち着いた大人の女性が好きみたいだけど!!」
 言い切った瞬間に、少し痛い程度の弱々しい手のひらがルードヴィッヒの頬を打った。
 ほんの少し視界が揺らぐ程度の衝撃。それでも、ジュエルには全力だった様子で。
 ルードヴィッヒの頬を打った手のひらでなく肩を庇いながら、ジュエルは涙を大量にこぼしながら強く睨みつけてくる。
 その肩はルードヴィッヒがジュエルの手首を強く引いた時に痛めてしまった肩だ。
「っ……そんなことっ…分かってますわ!!」
 叫びすぎて声を裏返しながら、泣きじゃくりながら、ジュエルは失恋を自覚しているのだと全身で叫んでくる。
「私は子供でっ…アリアさんみたいになれなくて…でもっ…お兄様に似てるからレイトル様を慕っていた訳ではありませんわ!!」
 今まで何度もジュエルを怒らせてきた。でも、こんなにも心を潰したような表情をさせたことなどなかったのに。
 踏み込んではいけない心の領域に踏み込んでしまったのだと気付いた時には遅すぎて。
「…ジュエ」
「嫌いよっ!!あなたなんか大嫌い!!」
 両手で顔を隠して、全身でルードヴィッヒを拒絶してくる。
 その瞬間に受けた心の痛みは、今までルードヴィッヒが生きてきた中でのどの心の痛みより鋭利で苦しいものだった。
殺されかけて、犯されかけた、その時よりも。
『ーーだれ?』
 そこに響いた第三者の声は、ルードヴィッヒとジュエルを驚かせるに充分だった。
 同時に声のした方に目を向けて、ジュエルと年齢の近そうな銀髪の少年を見つける。
『…だれ?どうしてここに入ってこれたの?』
 ふわりと軽く風になびく、癖のある髪質。目元は前髪で隠れてしまっていたが、銀色がそう見せるのか、ニコルやアリアに似ている気がした。
 少年は不思議そうな表情でゆっくりとルードヴィッヒ達に近づいてきて。
 あ、と呟いて、ジュエルが泣いていると気付いた様子だった。
『…これは』
 思わず弁明しようとした次の瞬間、突然駆け出してきた少年がジュエルの痛めていない方の手を取り、ルードヴィッヒから離れるように走り出した。
「は!?待て!!」
 思わず母国で叫んで、
「女の子に乱暴するやつの言葉なんて聞かないよ!!」
 返ってくる言葉もエル・フェアリア語だった。
 しかしジュエルが連れて行かれた事実の方が重要で追いかけようとしたのに。
「早くここから出て行って!!」
 ジュエルを連れ去りながら走る少年がこちらに振り向き、風の力を受けて目元を隠していた前髪が浮かび上がる。
 視界がかち合ったその瞬間、ルードヴィッヒの瞳に映る世界が凄まじい情報に溢れて暗転した。
「っぁ…」
 痛みのない衝撃に両眼を強く塞ぐ。
 そして次に目を開けた時、ルードヴィッヒの目の前から少年がジュエルごと消え去ってしまっていた。
 瞳に違和感も感じられない。
 ただ、まるで白昼夢かのように。
「…ジュエル?ジュエル!?」
 拐われた。
 そう気付いた瞬間に恐怖が全身を舐めた。
 庭園内を見回しても人の気配を感じられず、少年が逃げた方向に走っても誰もいない。
 焦る気持ちとは正反対な穏やかな世界の中で、心臓だけが荒れ狂うように脈打っていく。
 どうすればいい?
 混乱が全身を包み込んでいく。完全に自分自身の責任だと頭を抱えて、そんな場合ではないとまた走り出そうとして。
「ジュエルー!!」大切な幼なじみを探して大声で呼びかけ続け、走り続ける。
 庭園内は非情なほど広く、ジュエルの気配も何も存在しなくて。
 走り続けて、探し続けて。せめて誰かいてくれたら。そう思った次の瞬間、視界の片隅に見慣れ始めた衣服が揺れて目に留まった。
 ラムタルの侍女に用意されたドレスを纏う人物を見かけて、藁にもすがる思いでその侍女のもとに走り寄る。
 もはやルードヴィッヒにはどうすることもできないほど焦っており、ジュエルを見つけ出すための全てがその侍女の肩にのしかかるとでも言えるほどの思いで全力で走って。
 侍女もこちらに気付いて目を向けてくれてーー
「ーーなんで…」
 薄桃色の、短い髪。
 思わず立ち止まり、呼吸も忘れて彼女に見入った。
 探していたのだ。彼女を。
 だが、なぜ今見つかるのだ。
「……ミュズ」
 無意識のような呟きに、ミュズも眉をひそめてルードヴィッヒに目を合わせた。
「…何でここにいるの」
 驚いたというよりは、怒りに溢れるような眼差し。
 彼女を忘れたことはない。彼女を、その名前を。
「……ミュズ…私を覚えている?」
「…ルードヴィッヒ」
 質問はすぐに返されたのに、喜びなど今は存在しなくて。
「あ、ここにジュエル…エル・フェアリアの侍女が来なかったか?子供に連れ去られたんだ!」
「…いるわけない。ここには入れないはずだもん。あんたも早く出てって」
 以前のような笑顔は見せてくれない。初対面当時の冷たさでもない。
 完全に敵視する眼差しで、ミュズがルードヴィッヒの前に立ち塞がっていた。
「…そんなこと…さっきまで一緒にいたんだ!銀髪の少年がジュエルを!!」
「……銀髪?」
「ああ!」
 どんな小さな手掛かりでもいいからジュエルを早く見つけ出さないといけないのに、ミュズは少し俯き、やがて口元を醜く歪ませるような笑みを見せてきた。
「…じゃあもう見つからない」
「……え?」
「一生見つからない!!ずっとね!!あははははははははは!!」
 静かな庭園に似合わない、おぞましい笑い声。
 ミュズのどこからそんな音が出ているのか疑いたくなるほどの。
「何を言ってるんだ!!」
 ミュズの口からそんなおぞましい音を聞きたくなくて、その腕を掴もうとして。
 寸前で逃げたミュズが、また先ほどのように醜く口元を歪ませて笑った。
「だって殺すから。あんたが見つけるのは死体になったエル・フェアリアの人間よ!!ああぁああははははははははは!!」
「ミュズ!!」
 おぞましくて、恐ろしくて。
 白昼夢の続きなのだろうか。そう思えるほどの、化物を目の前にしたかのような恐怖。
「ミュ」
『こちらで何をしていらっしゃるの!?』
 次に聞こえてきた言葉は背後から。
「ーーっ」
 腕を強く引かれて背後に目を向ければ、数名のラムタルの侍女達が険しい表情でルードヴィッヒを睨みつけていた。
『…エル・フェアリアの武術出場者様ですね。こちらで何を?この庭園は王族の方々専用の庭園。紫都の御子息であろうとも足を踏み込んでよい場所ではありませんわ』
『…王家の庭園?そんなはずは……』
 ラムタルの王族専用の庭園の場所は王城の最奥のはずだ。ルードヴィッヒ達は手前にしかいなかったというのに、あり得ない。
 だがラムタルの侍女は真剣で。
『…今回は見逃します。早くお帰りください』
『あ、待ってください!我が国の侍女が!!』
 そう口にして、ミュズのいる方向に目を向けて。
「…ミュズ?」
 姿の消えたミュズに、呆然と口を開くことしかできなかった。
『…藍都の姫君も来られていたのですか?』
『あ…そうです。…でも少年に連れ去られて…銀髪で、ジュエルと同じくらいの…12歳くらいの少年です!』
 その言葉に侍女達が互いに顔を見合わせ始める。
 それは目配せのようにも見えて、ルードヴィッヒの胸を不安がえぐっていき。
『…わかりました。後は私達に任せ、どうかお帰りくださいませ』
『ジュエルを見つけるまでは』
『帰り道がわからないのでしたら案内をお付けしますわ。藍都の姫君は必ず無事にお返しいたしますので、どうぞお帰りくださいませ』
 返事など聞かない。言うことを聞け、という圧を強く感じて、無理やり言葉を飲み込まされる。
 ようやくミュズを見つけたと思ったら、精神がおかしくなってしまった様子で、ジュエルからも目を離してしまって。
『…彼女を見つけないわけには』
 自分が今口にした“彼女”がジュエルを指すのかミュズを指すのかすらわからなくなってしまった。
『…ルードヴィッヒ様……どうぞ』
 その侍女は恐らくラムタル王城の中でも高位に位置するのだろう。同じことは口にせず、手のひらだけでルードヴィッヒが進むべき道を示した。
 そして道案内の為の侍女もすぐに歩き始めて、それに従う他にないと強烈な暗示がかけられたようにルードヴィッヒの足も重苦しくも動いていく。
 自分達は誰でも入ることのできる庭園で休んでいたはずだ。
 だというのにジュエルがさらわれて、おかしくなったミュズが現れて、ラムタルの侍女に自分の今いる場所がどこであるのか告げられて。
 何もかもが訳の分からない状況にある中で。
『…あの…ミュズ…という侍女を知っていますか?』
 強制的にルードヴィッヒを返す任をこなす侍女に尋ねてみても、なぜか返事は無かった。聞こえていないはずがないのに。
『…あの!』
『知りませんわ』
 もう一度尋ねた時、強くなった口調をさらに強い口調で押さえつけられた。
 知らない、ではない。聞くな、と命ずるような口調に思わず黙り込んでしまう。
 何かがおかしいとは、そこでようやく気付いたことだった。
 ジュエルが拐われた、それだけじゃない。
 リーン姫を捜索する部隊に所属する者として、ファントムを探す者として、そしてパージャを、友を探す者として。
 ルードヴィッヒが求める全てがここにあると、漠然とした確信が胸を占めていく。
『…早くお越し下さい』
 足を止めてしまったルードヴィッヒを冷たく責める侍女も、知っているのだ。
『………』
 尋ねようとした声は、音を発さずに消えていった。
 今ここで聞くことはできない。それはルードヴィッヒが今ここで行うことではないと自分自身が語りかけてくる。
ーージュエル…
 どうか、ミュズがジュエルに何かする前に、先に見つけ出して。
 自分の失態に唇を噛みしめながら、ルードヴィッヒはただ戻ることしか許されない庭園のレンガの道を不甲斐なく睨みつけることしかできなかった。

第71話 終
 
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