第71話


---

 マガの負傷はそこまで酷くはなかった様子で、ラムタルの救護班が適切な処置を施してくれた後はベッドに休ませる事になり、忙しく動きまわる救護班の替わりにジャックがマガの側の椅子に腰を下ろしていた。
 ついでに見てもらったジュエルのアザのできた手首は冷やして湿布を巻くに留まったが、手首よりも肩に負荷がかかってしまった可能性が高いと診察され、そばで狼狽えていたルードヴィッヒがさらに顔色を悪くしていた。
 ジャックはルードヴィッヒの武術サポートを任されているが、今の精神状況の彼に万全の試合が行えるとは到底思えなかった。
 ルードヴィッヒの深層心理に根付くトラウマに加えてジュエルをも傷つけてしまったという精神不安は、大会が本格的に始まるまでに押さえられないかもしれない。
 特にルードヴィッヒが自身を魔具で飾る理由となったトラウマは確実に消せないだろうから。
--どうしたもんか…
 マガの意識がはっきりと戻るまでのついでとでも言わんばかりに救護班を手伝い始めたジュエル。その後をまるで子犬のように付いて回るルードヴィッヒを横目で眺めながら、ジャックは今後の展開を脳内でまとめていく。
 ルードヴィッヒの為に自分ができることはたかが知れている。
 それ以外に考えなければならないことはラムタル国にいる可能性のあるリーン姫の居場所のことだが、それもコウェルズに多くを任ることになるだろう。単独で動くにはこの大会でジャックは知られすぎた存在なのだから。
 ジャックとダニエルが大会のサポートに選ばれたのは、コウェルズの隠れ蓑としての理由も大きいから。
 どこまでも自分だけで行動しようとするコウェルズの短所も頭を悩ませる種だ。
 それに加えて、バオル国の不穏な行動。
 それも、狙いはジュエルだ。
 マガが脳震盪を起こしただけの存在だったなら救護班に任せてとっとと訓練場に戻ったが、マガからジュエルを狙う理由を聞き出せる可能性がある現状を手放すことはできなかった。
 ラムタル国の侍女は早々にバオル国に今朝のエル・フェアリアに対する無礼を抗議してくれたはずだというのに、バオル国の者達は意に介さず、それどころかさらに挑発までしたきたのだから。
「……ぅ」
 マガをベッドで休ませてから三十分ほど経った頃、ようやく目を覚ましたマガが無意識に上半身を起こそうとするのジャックは片手で制した。
 ジュエルとルードヴィッヒも気付いて近づいてこようとするのも無言で制し、カーテンで仕切られた隣にいるよう片手の合図で命じる。
『起きたな。痛みはないか?』
 マガが自分の居場所の確認をするように辺りを見回すのを見守ってから、軽く押さえつけていた手を離した。
『…あん、たは…』
 本調子でないことが明らかにわかる掠れた声に、力のない瞳。健康的に日焼けした中にまだらに混ざる灰色の肌も、不調を表すようにどこか全体的に白みを帯びている気がした。
『…父上、は…?』
 誰かを探すように彷徨わせ続ける視線が、まるで迷子の幼子のようで。
『…ここにバオル国の者はいない。じきに来るかも知れないがな』
 時間はあったというのに、誰ひとり負傷したマガの元に訪れないとは。
 バオル国の参加者はエル・フェアリアのように少数精鋭などではないはずだ。どういう事情があるかはわからないが、マガが自国の者達に見下されていたのは確実で。
 初日に手合わせをしたらしいトウヤが呟いた「私生児」という意味も、漠然とではあるがマガが見下されていた理由のひとつなのだろう。
 だとすれば、今マガが呟いた父上とは誰なのか。
『ご家族が一緒に来ているのか?』
 問いかけへの返答は無かった。
 話したくないのだろう。顔を逸らして聞こえないふりをする様子は本当に子供そのもののようで。
 だが、今のマガは完全に自分の心をコントロールできるほど意識がはっきりとしているわけではなさそうだった。
「…早く…認めてもらうんだ」
 バオル国の言葉で何かを呟いて、ゆっくりと上半身を起こして。
 今回はマガの背中を支えて身を起こすのを手助けしてやるが、ベッドから下りることは許さなかった。
 木製のコップに入った水を手渡して、ひと口でいいからと飲ませて。
『…ジュエル嬢に合わせてください』
 眉根を寄せて苦しみから逃れるように水を飲み干したマガは、唇の端からこぼれた水を乱暴に拭いながら、まだ視界の揺らぐ瞳をジャックに向かわせてそう願ってきた。
『…落ち着け。どうして彼女にこだわるんだ』
『約束してくれたんだっ…父上が…ジュエル嬢を手に入れたなら名前を与えてくれると!だから早くっ…』
 まるで夢うつつの区別がついていなさそうな様子で、苦痛から解放されたがるように。
『落ち着くんだ…お前はマガなんだろう』
「俺は“マガイモノ”なんかじゃない!!」
 室内中に響き渡る怒声。
 しかしバオル国の言葉はジャックにはわからず、マガが何を伝えたかったのか理解することはできなかった。
『…頼むよ…ジュエル嬢に会わせてくれ…そしたら俺は…“俺”になれるんだ』
『--何をしているんですか!患者を興奮させないでください!』
 ジャックにつがりつこうとするマガの両腕を押さえれば、怒声を聞いて駆けつけた救護班がジャックに注意しながらマガをベッドに横たえさせた。
 意識や傷の確認を改めて行って、再度ジャックに注意してからまた離れていく。
 外傷を作ってくる者は出場者だけではなく、戦闘サポートの方が多いのが現状なのだ。それに出場者ではないサポート員の負傷程度で希少な治癒魔術師が出てきてくれるはずもなく、慌ただしいラムタルの救護班達は「無事なら勝手に休んでろ」とばかりにマガ達のことには深く介入してこなかった。
 そして今はそれが有り難くもある。
『…お前達バオル国の者が何を考えているのかわからない以上、ガードナーロッド家の末姫に会わせるはずがないだろう。エル・フェアリアとバオルでは国の規模がまず違う。それにガードナーロッド家はエル・フェアリアの中央のひとつを任された重要な家柄なんだ。中規模程度の国でも手出しできないほど高貴な家柄なんだよ…言っちゃ悪いがお前の立場じゃ、一生かけても無理なんだ。わかったならとっとと諦めとけ』
 他人から聞いた私生児という出自を隠すように、しかしはっきりと諭すように。
『…愛があれば』
『無いだろう?そんなものはどこにも…お前にあるのはジュエルを使って何かしら企んでる弱い頭だけだ。エル・フェアリアとバオルはほぼ関わりのない国同士だが、ラムタルとバオルは話が別だろ…ラムタルを敵に回すつもりか?』
 脅しがようやく現実味を帯びたのは、バオル国にとってラムタルは依存度の高い同盟国だからだ。
 国土だけならラムタルはエル・フェアリアよりも広く、豊かな実りも多い。近隣諸国に安く譲れるほどに。そしてバオルの最大の水源はラムタルにあるのだ。
 中規模国だが資源に乏しいバオルは、ラムタルに睨まれたくはないはずだ。
『いい加減気付け。大戦中ならまだしも、今のラムタルはエル・フェアリアとかなり親しい間柄なんだ。それに藍都の特産品である刺繍やレースはラムタルで必需品に近いほどの人気がある。国民のためにも、何かあればラムタルはバオルを見限るぞ』
 まずは目の前の小さな不安の種を取り除きたいというのがジャックの本音で、その為の脅しにマガが力をなくしたように瞳を閉じて。
『…なら俺は…どうすれば父上に認められるんだ…』
 やるせない無気力な笑みは、マガから年相応の感情を奪っている様子を見せた。
 非常識な行動を見せたかと思えば、年齢には不釣り合いなほどの虚しい感情を見せてくる。
 そしてそれはどうやら彼が何度も口にした父親が関係しているのだろうと気付けた。
 私生児と聞いた。その彼が求める父上とはどんな存在なのか。
 気になる存在がどういった人物であるのか、知る機会はあまりにも早く訪れた。
『--失礼する』
 誰かが訪れたことは、話しかけられるよりも先にマガの表情が変わったことで気付いていた。
 声のした方に目を向ければ、肥え太った老人と、その背中を支えて付き従う女がつまらなさそうな表情で立っている。
 女の方はジャックと歳が近そうだったが年相応に落ち着いた雰囲気はなく、ジャックの視線に気付くと妙に艶かしい仕草で老人の胸元に手を添えた。
『我が国の訓練サポートが世話になったな。感謝しよう』
 感謝と口にしながらも、向けられるのは蔑むような眼差しだけだ。老人を気にせずマガにまた視線を戻せば、マガは存在を消すかのように俯くだけだった。
 その姿だけで、この老人が誰なのかすぐに気付く。
『ずいぶんと遅い迎えだな。バオル国は数だけを揃えたらしい』
 ジャックも形式的に立ち上がりはするが、申し訳程度の挨拶すらしなかった。向こうがしないならこちらもする必要はない。
 老いて冥途からの迎えが近いだろう老人と比べれば遥かに生命力のみなぎる雄々しいジャックに、老人の隣に立つ女が見惚れるような視線を向けてくる。その視線に気付いた老人が、嫉妬の怒りをぶつけるようにジャックを強く睨みつけてきた。
 だがその視線にびくりと怯えるのはマガで。
「何をしている!さっさと来ないか!恥晒しが!!」
 怯えたマガに気付いたように母国語で叫ぶ老人に、大広間中がビリっと凍りつく静寂に包まれた。
 何と言ったのか。バオル国の言語がわからないジャックだったが、息を殺しながらベッドを降りようとするマガを見て言葉の意味がわかった。
『医師からの診察内容も聞かずに動かすつもりか?彼はまだ安静が必要だ』
『これはバオル国の問題だ。口出しなどやめてもらおう』
『我が国の侍女が既に今朝から巻き込まれている。ここで問題を大きくするつもりか?』
 マガがベッドから下りないよう片手で制しながら、老人を睨みつけながら。
「…ああ…“あの有名なガードナーロッド家”の末娘のことか」
 老人はジャックがバオル国の言語を理解できないと悟った上でニヤリと笑い、またも蔑んだような声を発した。
 何と言ったのか分からずとも声のニュアンスで雰囲気は伝わる。
 ジャックが眉を潜めたのと、背後の気配が動いたのは同時だった。
 ジャックの後ろ、簡単なカーテンの仕切りの向こうにはジュエルとルードヴィッヒがいる場所から。
「…私が何か?」
 自ら姿を現したジュエルは、言葉は少ないとはいえ流暢なバオル国の言語を口にした。
 ジュエルの隣にはルードヴィッヒが立ち、苛立つように老人を睨みつけている。
『…これはこれは…貴女がガードナーロッド嬢でしたか』
 老人は突然のジュエルの登場に驚いて言葉を少しどもらせたが、すぐに骨の髄まで舐め回すような視線をジュエルに向けた。
『…幼い少女だとは聞いておったがここまでとは…エル・フェアリアはラムタルをずいぶん見下していると見える』
 ふん、と鼻で強く笑う老人の隣では女がクスクスといらやしく微笑み、ジュエルの前に堂々と立ち塞がった。
『噂の少女がこんなに小さな女の子だなんて…でも女は女ですものね』
 含みのあるわざとらしい言葉で、まるで挑発するように。
『ジュエル嬢、ルードヴィッヒと先に戻るといい。マガは心配するな』
 標的となり始めたジュエルをこの場から遠ざけるためのジャックの言葉に、ルードヴィッヒがエスコートするようにジュエルの肩にぎこちなく触れてこの場から離そうとした。
 だがジュエルは動かなかった。
『噂がどんなものかは知りませんが、噂なんてものを攻撃の剣とするなんて、愚かな方ですわね。こんなにも頭の悪い方を連れてくるなんて、バオル国は相当ラムタル国を甘く見ていらっしゃるのね』
 怒りを隠し切れていない早口で、言葉の前半は女に向けて、後半は老人を睨みつけながら。
 幼い声に不釣り合いな凛とした声の強さに、辺りから注がれる視線が全てジュエルに向いた。
 女もまさか幼い子供から反論されるとは思っていなかったのだろう。正面から愚かと告げられて一気に顔を怒りの赤に染め上げる。
『っっこの!!』
 どうやら本当に学が無いらしい女は怒りに任せて平手をジュエルに思い切りぶつけようとしたが、振り下ろされることは無かった。
 ジャックの見ている前で、ジュエルが打たれるなんてそんな暴挙を許すはずがない。
 女がジュエルに手を振り上げた瞬間にジャックは魔具で縄を生み出して女の腕を縛り上げていた。
『ルードヴィッヒ!お前はいい!!』
 だがそれよりも先にルードヴィッヒが怒りの形相で全身から魔力を溢れさせ、形の歪な剣をいくつも生み出して女の全身に切っ先を向けていた。
人を殺すほどの形相で、ルードヴィッヒが女を睨みつけ続ける。
「ルードヴィッヒ!!」
 ジャックの二度目の声かけにも動じず、怒りの眼差しはさらに強さを増して。
「ヒ……」
 女が先ほどまで赤かった顔を生気のない白に変えて、ジャックに腕を縄で捕らえられたままその場に腰を抜かす。それでもルードヴィッヒの魔具の切っ先が女から逸れることはなかった。
「…私なら大丈夫ですわ…落ち着いて、ルードヴィッヒ様…」
 怒りに染まるルードヴィッヒを止められるのは自分だけだとでも確信するように、落ち着いた声はジュエルのものだ。
 数え切れないほどの魔具の切っ先が女に向いている中、ルードヴィッヒの怒りを静めるためにジュエルの小さな手のひらが強く握りしめられた彼の拳に触れる。その数秒のちにルードヴィッヒは女からジュエルに視線を移し、ゆっくりと魔具を消し去った。
『…ルードヴィッヒ、ジュエルを連れて先に戻っていろ』
 ルードヴィッヒがようやく落ち着いたので改めて命じれば、うなずくだけだったが今度こそ返事があった。
 ジュエルの肩に触れて、促すようにその場を離れていく。
「ーーぁ」
 背中を向けるジュエルを追おうとするように身動ぎしたマガを強い力で押さえつけて、ジャックは二人を見送った。
 残されたのはジャックとバオル国の三人だけで、老人は最初こそルードヴィッヒの魔具に圧倒されて恐怖に固まっていたが、やがて怒りに震えるようにジャックを睨みつけてきた。
『こ、こんな無礼が許されると思うな!まさか殺そうとするなど!!なんて恐ろしい国だ!!』
『この場にいたのは我々だけでじゃない。何があってこのような事態に陥ったかは目撃していた者達が証言してくれることだろう』
 ジャックの言う通り、怪我人の多く集まる広間には沢山の人間がおり、ジャック達の一連のいざこざを目の当たりにしているのだ。
 女の腕を縛っていた魔具を消して、ため息をひとつ付いて。
 挑発されてジュエルに危害を加えられそうになったのは確かだが、ルードヴィッヒの脅しも行き過ぎたものだった。
 間にラムタルが入ってくれたとして、どこまで騒動が落ち着くかはわからない。
『今朝からのことも含めて、我々エル・フェアリアは正式に大会本部に抗議する。そちらも言いたいことがあるなら同じようにすればいい』
『なんだと!?こちらが悪いように言うとは』
『大会本部の指示に従え。お前達とこれ以上話す気はない』
 苛立って今にも掴みかかってきそうな老人を無視して、ジャックはマガに向き直る。
 喚き続ける老人に怯え俯くマガの顔に触れてゆっくりとジャックを見上げさせて、親が子供を安心させるように、頬を優しく撫でてやった。
『どうやら救護班がラムタルの大会関係者を呼びに行ってくれている様子だ。お前は今朝のこともあるから大会預かりになるだろう。バオル国の陣営にもしばらくは戻れないことを覚悟して…今は休んでおけ』
 打ち付けた頭には触れない。そして肩や背中周りも。
 そこには、マガが意識を朦朧とさせている間に救護班と確認した古傷が多数見つかったからだ。新しい傷も、もちろん。
 恐らくは虐待。それも、国ぐるみの。
『大会預かりになるまではここにいてやるさ』
 いまだに喚き散らしている老人を完全に無視して、ニッと笑ってみせて。
 ジャックにはこの大会期間中にやらなければならないことがいくつも存在する。
 だがこの若者を放置しておくことなど、ジャックの性格が許せるはずがなかった。

ーーーーー
 
3/4ページ
スキ