第70話
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真面目な話も馬鹿騒ぎも、時間が経てば思い出のひとつに様変わる。
ガウェの個人邸宅に用意された仮の自室の窓から夜空を眺めていたニコルは、一階から聞こえる騒ぎ声にフッと穏やかに微笑んだ。
妹と仲間達が談話室で酒を煽りながら笑い合っているだろうから。
つい数時間前のことが、鮮明に思い出されるというのに懐かしくも感じる。
部屋に引きこもってしまったアリアの手を引いてレイトルが戻ってきた後、アリアを中心に重苦しい今後の重要な話し合いが行われた。
からかわれると思っていたのだろうアリアは、モーティシアの話す自身の今後について表情を引きつらせていた。
レイトルと恋人関係になれたことに幸せだけを感じるには、自分の立場が重要すぎたから。
アリアはレイトルと心を通わせた。しかし今はまだそのことを知られてはいけないのだと。だからカモフラージュの為に、護衛部隊内のニコルとトリッシュ以外の四人がアリアに好意を持って接しているように見せるという奇妙な展開。
アリアを苦しめる城内での嫌な噂も味方につけて、全てはアリアとレイトルが無事に結ばれる為に。
アリアはモーティシアから聞かされる王城上層部の思惑に驚きつつも、少しは頭の中で考えていた様子で、モーティシア達が守ってくれることに心から頭を下げて感謝していた。
モーティシア達にだけではない。その裏で完璧な後ろ盾となる為に動いてくれるガウェにも。
レイトルはどこか複雑そうな表情をしていたが、レイトルだけではアリアを守れないという事実に傷付いている様子も見せて。
世界は幸せだけを与えてはくれないのだ。
しかし幸せを掴む為の道を用意してくれていた。
涙をぽろぽろとこぼしながら感謝の気持ちを口にし続けるアリアを止めたのはガウェだった。
早いがいいだろう、と使用人達を呼び寄せ、談話室に食事や酒を大量に持って来させたのだ。
エル・フェアリアで最高位の貴族であるガウェが直々に命じて用意させた逸品。これを半日で用意させる為に使用人達がひと月分と同じ量の仕事をこなしてくれた、とガウェが得意げに笑う後ろで使用人達を束ねるネミダラの目が笑っていなかったのは見間違いではない。
酒類は元々地下に豊富に保存されていたそうだが、料理の数が凄まじかった。
品良く、それでいて豪勢に。
下位貴族のモーティシア達どころか中位貴族の中でも上位の家柄にあたるレイトルとセクトルすら驚くような逸品ばかり用意され、それでもガウェは準備時間さえあればと少し不満げにしていて。
そんな豪華な食事にニコルはアリアと共に目を丸くし、談話室で始まった宴会に最初は戸惑いつつ、慣れ始めてからはテーブルマナーもほどほどに思いきり飲食を楽しんだ。
あまり酒に馴染んでこなかったアリアは最初に悪酔いしなくなる薬膳料理を食べてから色々な酒に少しずつ手を出し、ほろりと酔った後はニコルではなくレイトルの隣を独占していた。開き直ったその態度はもう微笑ましさしかなくて、アリアに抱いていた屈折した愛情は遊郭のテューラに以前言われたように勘違いだったかのように思えるほどで。
宴会が進めば進むほど楽しそうに笑うアリアが、心から大切な家族として愛おしく思えた。
自分自身の今までのありとあらゆる罪が許されたと思えるほどの清々しさ。
仲間達と飲んでいるだけなのに、あまりにも幸せで。
王城に残してきた気の滅入るような日々すら心から消え去ったと同時に、突然ぽろりと一雫だけ涙がこぼれ落ちたのだ。
あ、泣いちまう。
そう思ったとたんに、思わず額を押さえるようにして顔を隠してしまった。
「悪い、ちょっと酒がまわったから軽く抜いてくる」
逃げの言葉は誰にも怪しまれずに、気分を落ち着かせる為に部屋に戻って。
見上げた夜空にまた涙が溢れた。
泣いているのに、とても気持ちが清々しいのだ。
胸が軽くて、ただただ微笑みが続く。
軽い酔いも手伝ったせいか、アリアの恋模様を心から祝福できるとわかったからか。
とにかく、今は何もかもが幸せだと感じられた。
ずっと続くわけではない幸福。それでも、この時間はこれからのニコルの大切な思い出になって心を癒し続けるのだろう。
「--ニコル様」
ふと扉を叩く軽い音が室内に響き、聴き慣れ始めたネミダラの落ち着いた声が部屋の向こう側からニコルを呼んだ。
この幸せな時間を準備してくれた功労者であるネミダラは、ニコルが「入ってください」と告げればすぐに扉を開けて、薬草の香る器を盆ごとニコルに見せてくれた。
「酔いが回ったと皆様から聴きましたので、アリア様も召し上がられたお薬をお持ちしましたよ」
「お薬」
薬膳料理をお薬と言われて思わず笑ってしまう。
少し強い香草の匂いに気付いたのは、盆を受け取ってからだった。
「…アリアが食べたものとは少し違うんですね。二種類ほど追加で混ぜましたか?」
子供の頃から薬草に馴染んできた鼻がその違いを嗅ぎ分けるから、ネミダラが驚いたように目を見開いて。
「惜しいですね。胃腸薬など三種類の薬草を追加で混ぜさせて頂きました。しかし違いに気付くとは…敏感な鼻をお持ちで」
「…昔から馴染んでいたもので」
あまり良い過去ではないが、そのおかげで助かってきた命だ。
「いただきます」
小さな器の中の少量のスープを、そのまま一気に飲み干す。鼻に抜けるのは主張の強い薬草の香りばかりだったが、味は整えられて逸品となっていた。ただし薬草の苦味を誤魔化す為の濃い味付けなので何杯もは無理だ。
「…ありがとう、ございます」
どろりと食道を落ちていく妙な感覚だけで酔いが覚めてしまいそうだが、数秒もすれば違和感は無くなり、むしろ満腹に近かった腹がまた空き始めたような感覚があった。
「空腹を感じてもほどほどで我慢してください。突然吐きまかすことになりますので」
「…水草のオルトですか。すごい貴重な薬草を使ってくれたんですね」
薬膳に使われた薬草のひとつを当てれば、ネミダラが悪戯っ子のようににやりと笑った。
貴重で即効性があるが、副作用の空腹感は少し厄介な代物だ。
「まだまだ宴会は続きますから、小一時間ほどは軽く飲む程度に徹していれば大丈夫ですよ」
「そうします」
ニコルの為だけに用意されたのだから不満など存在せず、むしろネミダラの茶目っ気に気持ちがほぐれて。
「…涙の跡がありますね」
ニコルの手から器を下げて、顔に目を向けられていないのに気付かれてしまった。
「…なんか、色々嬉しくなって」
苦しかったわけでも悲しかったわけでもないと伝えた言葉は自分でも驚くほど穏やかだった。
王城を少しだけ離れて、仲間達と飲み明かして。
「…本日の宴はロワイエット様がニコル様の為に用意を命じられました」
「ガウェが…俺の為に?」
「はい。本人はそうとは仰られないでしょうが、ロワイエット様に幼少期から仕えて参りましたので、そうなのだとすぐ気付きましたよ。急ごしらえのこの宴は、親友の為だと」
ガウェを幼い頃から知っているからこそ、ガウェが全てを語らずとも理解できるのだと。
少し自慢げに微笑むネミダラは、まるでガウェを我が子のように愛している様子を見せた。
とても羨ましくなるような、親の温かな面差し。
「邸宅にニコル様とアリア様をお招きすることになった時も、どこか嬉しそうにしておられて。“二人の気持ちの負担とならないように”と心配されてもいましたが、友を自宅に呼べることが嬉しいのだとすぐにわかりました。今までニコル様が友としていらしてくださったことはありませんでしたから」
そこまで言われて思い出すのは、今まで何度か呼ばれたことは確かにあった過去だ。
年に二度ほどレイトル、セクトル、フレイムローズも含め四人で邸宅に来ないか、と。
休暇を楽しもうと言ってくれる言葉を遠慮し続けていたのは、悪い気がしていたからだ。
親友、とネミダラはガウェから見たニコルをそう口にした。
ニコルももちろんガウェを大切な友だと思っていたが、どこかで線を引いてしまっていたのだと思い至る。
「ロワイエット様は心を許した相手にはどこまでも尽くしてしまう傾向にありますので、よろしければ今後も、招待された時はぜひ皆さんとお越し下さい…ロワイエット様が黄都に戻られましたら、寂しい思いもされるでしょうから」
「…そう、でしたね」
ガウェは黄都領主となったのだ。今はまだ引き継ぎの段階である為に騎士としても王城にいるが、遠くない未来に王城からいなくなってしまう。
「…俺の為に、黄都領主になったんでした」
ガウェの父であるバルナ・ヴェルドゥーラが“平民が目障りだ”というくだらない理由だけでニコルを毒殺しようと企み、それを止める為にガウェは父から領主の座を奪った。
王城から離れることになるというのに、ニコルの為に。
今も鮮明に覚えている。
王家の慰霊祭の後の晩餐会の席で、ガウェが父親の企みを打ち破った。他の騎士達もニコルの為にガウェを手伝って、その中にはパージャの姿もあって。
ニコルだけが知らないところで、皆がニコルの為に動いてくれた事件。
その中心は、ニコルであり、ガウェでもあったのだ。
ある者はガウェを「薄情だ」と口にする。
別のある者はガウェを「温情の塊りだ」と口にする。
その違いは、ガウェにとってその人がいかに大切かどうかだ。
ニコルは知らず知らずのうちに、ガウェという温情を手に入れていたのだ。
そしてその見返りは、ニコルの単なる普段の行いだ。
「…俺は、すげぇ良い親友に恵まれたんですね」
また目頭が熱くなるから、親指と人差し指でグッと押さえて。
ニコルの為に動き、アリアとレイトルの為にも動き。
そうやって自分が大切にしたい人達にとことん尽くしてくれる。
「ロワイエット様の観察眼は素晴らしいものですからね。ニコル様という御親友を得られたのもロワイエット様の実力ですよ」
最後の最後に笑わせてくれるネミダラだったが、親馬鹿なのか本気でそう口にした様子だった。
「…酔いも落ち着いたのでそろそろ戻ります。美味しい食事の用意をありがとうございました」
改めて礼を述べれば、ネミダラは微笑みを絶やさないまま一礼をして、そっと部屋を後にした。
穏やかな気配が離れていくのを感じながら、先ほど見上げた夜空をもう一度目にしようと窓にそっと足を向けて。
ガウェやレイトル達という仲間の存在が改めて大切に感じられて、ネミダラの気配が完全に離れてから、ニコルも談話室に戻る為に窓から離れて部屋を出た。
廊下を歩けば普段は静かなはずの邸宅に明るく華やぐような笑い声が響いており、談話室に近付くたびにその暖かさは溢れていき。
「……悪い、落ち着いた」
談話室に戻ったニコルを迎えてくれたのは全員分の楽しそうな笑顔だった。
みんな程よく酔ったように緩んだ表情をしていて、ニコルの席を開けてくれる。
ガウェは何故かセクトルと共にアクセルを挟んで肩で押しており、酔った仏頂面二人にぎゅうぎゅうに押されたアクセルは楽しそうにへへへと笑っていた。
ガウェがこの場にいるアクセル達にも気を許したということが微笑ましくて、同じように笑ってしまう。
ニコルが座るのはアリアとトリッシュの間で、トリッシュが酒でなく白湯の入ったカップを渡してくれるのを素直に受け取って。
楽しい時間はまだ続くのだとすぐに理解して、それがまたとても嬉しくあった。
「兄さん、平気?」
「ああ」
ワイングラスを離さないまま心配してくれるアリアは飲み慣れない酒が気に入った様子で、ちびりちびりと口に送り続けている。
顔が赤くなり目元がとろんとしていたが、意識ははっきりとしている様子で口調もしっかりしていた。
「それが気に入ったのか」
「うん!一番!」
何種類もある高価な酒の中から、これがお気に入りだとクスクスと笑って。
「カトレアの花蜜を含ませたワインですね。今はあまり出回っていませんが、昔は女性人気が高かったと聞いていますよ」
アリアが手放さないワインが何なのかを教えてくれるモーティシアに、アリアがカトレア、とぽそりと呟いた。
「本で見ました。豪華な花でしたよね?」
「…まあ、そうですね」
「カトレアかぁ…」
その花の名前を気に入ったように何度も何度も口にして、口元を緩ませるように笑って。
「小鳥の名前、カトレアにしようかなぁ」
故郷の村の村長夫人から譲り受けた灰色の伝達鳥にその花の名前をつけようかと思案したアリアに、ニコル以外の全員が酔っていた表情を引きつらせた。
花の名前をつけようか、とは以前話していたはずなのに妙な空気になったことに、アリアも不安そうにニコルに目を向けてきて。
「…アリア…その花だけは、名前にしないほうがいいよ」
アリアの隣でレイトルが申し訳なさそうに呟いて、ニコルもふと思い出したある人物がいた。
ファントムとなったロスト・ロードを調べていた間に何度も目にしていたのだから。
「カトレア・ガードナーロッド…」
ポツリと呟く名前に、皆が肯定するように視線を伏せた。
「…誰?…ガードナーロッドってことは、ジュエルやミシェルさんと同じ藍都の人?」
アリアだけ知らないのは当然なのだろう。
「…デルグ様の母親だ…ロスト・ロード王子暗殺の罪で公開処刑になった」
その名前は貴族間でも禁句となってしまったのだから。
コウェルズ達の父親であるデルグ王。その彼を産んだ、後妻の王妃。
「…そうなんだ」
アリアもそこまで聞けばさすがに納得したように俯き、ワイングラスを手にしたまま膝の上に置いた。
「…まだまだ知らないことばっかりだなぁ」
「…まあ、誰も口にしようとしてこなかったから仕方ないよ。それにカトレアの花は今も人気だから、良いイメージだって強いし」
場の空気を誤魔化すように自分の無知をぼやくアリアに、隣でレイトルがフォローをくれて。
「アリアはまだまだ知らないことばかりでしょうから、王城に戻ってきたら良い本を用意してあげましょう」
「…しばらくはここにいたいなぁー」
モーティシアの冗談とは思えない発言には目を背けるから、アリア以外の全員が吹き出してしまった。
「明日になったらみんな王城に戻っちゃうんですよね。いつ頃ここを出るんですか?」
「私達は昼過ぎにはここを出るかな。モーティシアは王都に用事があるとかで昼前には出るらしいけど」
レイトルが教えてくれる明日の予定に、アリアが少し寂しそうに皆を見渡した。
「モーティシア、今日ここに来るのはついでで、数年ぶりに発行される明日の新刊目当てに王城を出たようなもんだからな。明日は本を手に入れたら自分の邸宅でじっくり読んで、王城に帰ってくるのは明後日だそうだ。これ幸いとばかりに休暇とってやんの」
「羽休めも仕事の一部ですから」
トリッシュの冷やかすような口調にも、モーティシアは鼻で笑って得意げだ。
「モーティシアさんも個人邸宅持ってるんですか!明日みんなで行ってみませんか!?」
「突撃はやめてください…ガウェ殿のこの邸宅と違って小さなものですから、全員で来られたら迷惑です」
モーティシアの言い分に納得するのはアクセルとトリッシュの二人だ。
「王城で働いてても貧乏下位貴族なら広い個人邸宅は建てられないよ。使用人も置かないのが普通だから、この家みたいに護衛になってくれる人もいないからアリアには危険だよ」
「ここは働いてる使用人も魔具を使える貴族だし、今はハイドランジア氏もいるから王都では王城に次いで安全だからな」
だからこそアリアの城外滞在が許されたのだと三人が笑う。
「…あれ、でもモーティシアさんがあたし達に王城を出ろって言ってくれた時は、まだガウェさんの邸宅に泊まるって話にはなってなかったですよね?」
「その辺りは私の計算通りだとでも思っておいてください」
「…つまり無計画だったわけか。ほんと、モーティシアらしくないな」
アリアの疑問をさらりとかわすモーティシアだったが、トリッシュの指摘にやや頭を抱えてしまった。そこは彼なりの反省点らしい。
「…つまりは、ガウェに感謝ってことだな…色々ありがとうな、ガウェ」
多くの温情を与えてくれる友へ。
ニコルの感謝の眼差しからガウェは目を逸らすが、それは照れ隠しだとわかるほどガウェの気配は穏やかだった。
「…そっか。あたし、守られてるんですもんね。皆さんにも、この家の人たちにも…ガウェさん、ありがとうございます」
「…構わない。その為の邸宅だ」
自分や仲間が安心して暮らせる場所。
それはとても魅力的だが、アリアはおそらく個人邸宅を持つことは出来ないのだろう。
「…飲もう。まだ開けてない果実酒も多い。アリアの気にいる酒がまだあるだろう」
皆の手が止まってしまったことに気付いて、ガウェが率先して振る舞ってくれて。
楽しい夜はまだ続くのだからと、ニコルはこちらに視線を向けていたアリアと目を合わせ、互いを思うように静かに笑い合った。
今日という日がどれほどニコルの心を癒してくれたか、ガウェ達はわからないだろう。
これほどまでに穏やかな気持ちでいられる時間は、必ずニコルの今後の味方となってくれるのだから。
ありがとう、と心の中で皆に呟いて。
「…入れてやるよ」
ガウェが持つグラスに新しく開けられた果実酒を注ぎ、何度目かもわからないほどの感謝の言葉をまた口にした。
第70話 終