第70話


第70話

 ニコルとアリアが休暇を名目に王城を出た翌朝、ガウェの個人邸宅に用意された部屋の出窓から見慣れない景色をボーッと眺めながら、ニコルはアリアの準備が終わるのを待っていた。
 食事はすでに済ませていて、今は自由時間だ。
 昨夜はニコル達と同じくこの家に世話になっているハイドランジア家の老夫婦達と静かに談笑しながら過ごした。
 ニコルとアリアの幼少期のこと、アリアの母であるマリラの幼少期のこと、そしてパージャの幼少期のことまで。
 二人が子供の頃のパージャを育てたことがあるとは調べがついていたが、聞けば聞くほど昔からパージャの性格は変わっていないのだと新たな発見があった。
 会話の中で少しだけマリラの妹であるガイアという名前も出てはきたが、ガイアが生まれてすぐにメディウム家は姿を消してしまったので、詳細を知ることは出来なかった。
 ただ“産まれたガイアを奪われてはならない”とメディウム家の者達は口にしていたらしく、それは恐らく魔術兵団のことではないだろうかとニコルはビデンスと話した。
 魔術兵団はリーン姫を土中に埋め、パージャのことも狙っていたのだから。
「--兄さーん…似合ってる?」
 仕事モードというわけではないが任務の名残りに頭を使おうとする意識がふと途切れたのは、アリアが部屋の間を移動できる扉を開けたからだった。
 扉という境界線を超えてニコルの部屋に入ってくるアリアが身に纏うのは、薄緑色のシンプルだがレースの美しいシャツと、少し青みがかった紅色のくるぶし丈のスカートだ。
 スカートは片側に細身のリボンが二つ付いており、そのリボンでスカートのラインを調節できるという代物らしい。
 昨日服屋でどうしてもリボンの入った服を欲しがったアリアの為に店員の女性が見繕ってくれた服だ。
 ちなみにその女性店員から、二人のセンスはニコルは無難、アリアは幼児向けでやばいと言われている。
 やばいアリアの為に最大限好みに合わせて似合う服を数着見つけてきてくれたのだから、感謝しかなかった。
 ニコルではたしかに無難なワンピースしか選べないし、アリアは選ぶ服がことごとく似合わず消沈するから。
「似合ってる」
「…あたしもそう思う。あのお店の人に感謝だね」
 ニコルと同じことを考えていたらしいアリアも、新しい服にどこか照れながらもため息をついていた。
「兄さんは昨日とあんまり変わらないね」
 ニコルの選んだ今日の服は昨日の上下黒から上だけ濃紺に変わっただけだ。 
「無難な男だからな。俺は」
「無難でもいいよー。あたしなんて酷い言われようだったのに…あ、そうだ!」
 昨日の服屋での談笑を思い出して笑い合っていれば、何か思い出したようにアリアは自室に戻り、数秒してから紐状のものを持って戻ってきた。
 それは水色の細身のリボンタイで、アリアはニコルに許可を得ないまま首元に紐を通してリボンを作った。
「昨日、お店の人が選んでくれたんだよ!兄さんの無難服をオシャレに見せる魔法の装備だって!色違い形違いでいくつか買ったよ!」
 それは買わされただけではないのだろうか。
 ニコルが呆れるより先にアリアが喜ぶものだから、拒否権は最初から存在しないも同然だった。
「よし!これで二人とも準備万端だね!みんな早く来ないかなぁ」
 みんな。それが今日の予定だ。
 連絡が来たのは昨夜の食事中で、治癒魔術護衛部隊全員とガウェが個人邸宅に訪れることが決まったのだ。
 皆も一泊するらしく、朝から使用人達は準備に忙しそうにしていた。
 まったくロワイエット様は!とは使用人達を束ねるネミダラの言葉だ。泊まるだけなら何でもないが、酒池肉林の如く盛大な準備をしておくよう言付けてきたらしい。
「あたしも手伝えるなら何でも手伝うのに」
 ニコルのそばいたアリアはそのまま出窓から下を眺めて、庭の中を動き回る使用人達と、その中で優雅に席についてお茶を飲んでいるハイドランジア夫妻に見入っていた。
「手伝い不要は王城と同じだな」
「王城でも侍女のみんなが全部しちゃうもんね。力技まで侍女の仕事って聞いた時はちょっとびっくりしたけど」
「城の侍女もそれなりに魔力でこなしてるからな。騎士と違って簡単な魔力操作だから、あんま訓練積まずともいけるらしい。あとなんか、力仕事を男手に任せると乱暴に扱うから騎士には任せないとも聞いたことがあるな。本当に重いものくらいしか頼まないんだと」
「それはわかるかも…でも掃除の仕事は魔術師団の管轄ってのは面白いよね。簡単な掃き掃除とかは侍女がするけど、ほとんどの掃除は魔術師団なんでしょ?」
「らしいな。その辺は俺は知らねぇわ」
 以前モーティシアに「読んでおけ」と渡された数冊の本の中にそのようなことが書かれていた気もするが、渡された最初の頃以降読んでいないので頭からほぼ抜けている。
 王城や貴族の基本知識が詰まった本は、はたしてどこにしまい込んだのだったか。
「みんなが来たら聞いてみよっか。モーティシアさんなら知ってるかもしれないし!」
「怒られるかもしれないぞ?」
「どうして?」
「“治癒魔術師とはいえ魔術師団員であるというのに、なぜ当然の知識も頭に入れておかないのですかあなたは!”ってな」
「あっははははは!言われそう!!」
 モーティシアの口調を真似ながら理由を告げれば、最初こそ大笑いしていたアリアだったが次第に笑いを小さくし、最終的に少しだけ頬を引きつらせた。
「…ほんとに言われそう。言われて、また本持ってきそう」
 せっかくの数日の休暇で文字や語学の勉強から離れられたというのに、と。
「…聞かないでおこう」
「…うん」
 怒られるとするなら兄妹同時にだろう。しかも恐らくニコルの方が多めに怒られる。
「みんなが来るとしたら、やっぱりお昼前なのかなぁ」
 そわそわとしていたアリアも気持ちを切り替えたのか出窓そばの椅子にゆっくり腰掛けて、二人して窓から空を眺めて。
「そういや、小鳥は?」
「お散歩に出てるよ」
「そうか。あいつがいたらガウェに何時ごろ来るのか聞けたのにな」
「…その手があったかぁ」
 恐らく朝方に無邪気に小鳥を外に送り出したのだろう。アリアは「早く帰ってきてー」と項垂れてしまった。
 王城を出たのは昨日だというのに、もう寂しいとでも言い出しそうなほど。
「…レイトルさん、急だったからびっくりしただろうなぁ」
 そしてその寂しいと思う相手は皆ではなく一人にだけ向けられているのだということを、無意識の独り言のように呟いて。
 婚約者だったはずの男に裏切られて傷心していたアリアはもういないと改めて認識させるほど、恋をした娘の瞳だった。
 エルザからも似たような眼差しを向けられ続けていたから気付けた。
「…びっくりはしただろうけど、安心もしただろうな。ようやくの休暇なんだから」
 昨日モーティシアに王城外での休暇を言い渡された時はかなり驚いていたレイトルだったが、少し考えればこれはアリアの為になるとわかってくれただろう。
 アリアを思っているレイトル。そしてアリアもレイトルを思っているのだろう事実に、もう嫉妬の心は生まれなかった。
 アリアは大切な“妹”だと自信を持って宣言できるほどだ。
「レイトル達が来るまで下でハイドランジア夫妻のお茶会に参加するか」
「うん!」
 待つだけも暇なだけだと立ち上がれば、アリアも隣を歩いてきて。
 部屋を出れば、準備に駆け足となっている使用人達に簡単に会釈される。手伝えないという理由から少し申し訳なく感じつつ、ニコルとアリアはハイドランジア夫妻の毎日の日課である庭でのお茶会に参加するため、まずはお菓子をもらおうと厨房へと向かっていった。

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 ハイドランジア夫妻のお茶会に合流して、ささやかな談笑に心をほぐして。
 ニコルがハイドランジア夫妻と外出したのは、ほんの数分前のことだ。
 話の流れから銀行に行って口座を作ることになり、それなら四人でというところでレイトルが先に邸宅に訪れたのだ。
 護衛部隊全員で訪れると思っていたのに一人だけ先に到着したのはモーティシアの命令らしく、来たのならちょうどいいとばかりにニコルはアリアにレイトルと家に残るよう言ってきた。
 到着早々護衛を任されたレイトルも爽やかに承諾してくれて、邸宅の広い庭に新しいお茶とお菓子が用意される。
「二人とも髪を切ったんだね」
 簡単な挨拶を終わらせて着席した後の最初の言葉はそれだった。
 昨日アリアもニコルも長かった髪に別れを告げた。
「…どうですか?」
 少しドキリとしたのは、似合わなかったらどうしようと不安になったからだ。
 微かに震えた声には気付かなかったように、レイトルは朗らかに笑っていた。
「とても似合ってるよ。なんだか自分が切った時を思い出す」
「そっか。レイトルさんも長かったんですよね」
「そ。名残惜しいかな?って思ったけど、案外楽で気に入った」
「同じです!」
 肩下までの長さに切り揃えた髪は、櫛で梳いた時にあまりにも軽くて驚いたものだ。
「もつれないし束ねやすいし、自分に一番合う髪型に気付いた感じです」
「確かに、さっぱりしてすごく似合ってるよ。今の服とも合ってるし。借りたの?」
「いえ、昨日買いました」
「そうなんだ…すごく可愛いね」
 褒めてくれた。ただそれだけがものすごく嬉しくて、頬が緩むから恥ずかしくて少しだけ俯いてしまう。
「昨日は突然で驚いたけど、ニコルもなんだかスッキリした顔してたし、王城から離れてよかったかもね。エルザ様の事もあるし」
「…エルザ様?何かあったんですか?」
「……ニコルから聞いてない?」
 そこでレイトルは少し困ったように表情を曇らせ、少し考えた後で口を開いてくれた。
「エルザ様に別れ話をしたらしいんだ」
「…ぇ」
 他の者達には聞こえないようにとアリアに顔を近付けて小声で教えてくれてから、また少し離れて。
「エルザ様は泣き崩れて会話も出来ない状況らしい…でもニコルも…」
 この数日、日ごとに表情が死んでいくニコルを心配し続けたアリア達だ。
「ミモザ様のこともあったから、城内でエルザ様が伏せてる理由を知ってる騎士の奴らはニコルに恨み節…外に出てほんとによかった」
「…そんなことになってたんですね」
 アリアが知るニコルの苦しみは、目下家族の事だった。
 エル・フェアリアの王族、ロスト・ロードだったファントム。その父に絶望を与えられて苦しんでいた中で、エルザ姫のことも拒絶したのだろうか。
「…意外だったよ。エルザ様のことは大切にするって思ってたから」
 レイトルの口調はニコルを責めるものではなかったが、本当に驚いている様子だった。ニコルはエルザの護衛として長く側にいたのだから当然なのだろうが、アリアの見方は違う。
「…あたしは…兄さんとエルザ様が付き合っても、長く続かないんだろうなって…ちょっと思ってました」
 アリアの見解に、レイトルは少し驚いていた。でも、本心だ。
「王族とか、平民だとか、育ってきた環境だとか…ほんとに、大事なことなんです…優しい世界しか知らないエルザ様じゃ、兄さんの心を支え切れないなって」
 アリアも今に至るまで、人には言えない事に手を染めようとした時もあった。父の為に、生きていく為に。
 アリアがせずに済んだのは、ニコルが代わりにしてくれたからだと気付いている。
 綺麗事など、夢ですら見せてくれない場所で育ったのだから。
「…だから…エルザ様には悪いけど…」
 現実は夢物語じゃないのだ、と。
「…男と女のことだもんね。部外者が口出すのもダメだろうし、ニコルがそう決めたのなら…私達はニコルに近いんだから支えてあげなきゃいけないね」
 その言葉は、今の王城にニコルの敵がどれほど多いのかを知らせてくれた気がした。
 王族を守る為の城だ。大半がエルザを哀れむのは目に見えている。そうでなくとも女の涙は男にとって分が悪い。
「…男と女って…いつも大変ですね…幸せそうだと羨ましいのに」
「…そうだね」
 幸せだけが続くならいいのに、現実は無情だ。
「…せっかく王城から出てすっきりしに来たのに、こんな話ばかりじゃダメだね」
 話題を変えようとレイトルは申し訳なさそうに笑ってくれて、つられて少しだけ笑い返した。
「レイトルさん達は一泊だけしていくんですよね?」
「その予定。アクセルも煮詰まってたから気分転換になるし…なんか全体的に気晴らしが必要な空気だったね」
「…ありますよね、そういう時」
「うん。みんなにとってちょうどよかったんだね。あ、でもミシェル殿は来ないよ」
 ふと出された名前に、何故だろうと首を傾げてしまう。
「君たちの長期休暇が終わって王城に戻り次第、ニコルは正式に治癒魔術護衛部隊に戻ってくることに決まったからね。ミシェル殿はミモザ様からお借りしてたから、早々にお返ししたってわけさ」
「そうなんですか。戻ったら改めてお礼しないといけませんね」
 そうは口にしながらも、無意識にほっと息をついてしまったことには気付いていた。
「何かあった?」
 その何気ないしぐさを、レイトルも見逃さずにいてくれて。
「…何かあったわけじゃないんですけど…まぁ、その…」
 はぐらかすように言葉を濁すが、レイトルの視線は離れてくれない。レイトルへの想いを自覚したのだからあまり口にしたくない事だったが、視線はどうしても離れてくれそうにはなかった。そして。
「…男女間のこと?」
 問いかけに、心が鷲掴まれたように傷んだ。
「…まあ…はい」
 俯いて、レイトルの視線から逃れたまま。
「…ミシェルさんの気持ちには答えられないから…はぐらかすのも申し訳なく思ってたんで」
 どう伝えればいいのか迷いながらようやく出てくれた言葉に、え、と意外そうな相槌が返された。
「…まさか、ミシェル殿の気持ちに気付かないふりをしてたってこと?」
「……はい」
「…気付いてないんだと思ってた」
「それはさすがに。でも、気持ちをはっきり言われたわけじゃないから私も曖昧でしたけど…なるべく避けてたのは確かです」
 恋の駆け引きを、アリアは知らないふりで逃げていたと。
「…私も騙されてた。ほんとに気付いてないと思ってたから」
「まあ、まだ村にいた頃に、街で何度かはそんな事もあったから…はぐらかすそぶりくらいは」
 体目当て、顔目当てなら何度も経験していると告げれば、レイトルは眉を潜めたまま笑っていた。
「大変だったんだね」
「こっち来ても変わらないですよ」
「…今ちょっと、女の子が怖くなったよ」
「平穏無事に生きていくための知恵です!」
 城内で婚姻を前提にと直接言われ始めた当初はまだ男性不審があった為に怯えてしまっていたが、慣れてしまえばはぐらかすくらいは簡単だ。
 男性からの逆恨みや、それに通じる女性からのやっかみにも繋がらないように、さらりと躱して呑気にみせる手腕は無意識にできるまでになっていたのだから。
「…それって、私に対してもしてた?」
 苦笑いを浮かべながら、お茶をひと口飲んでから。
 置かれた食器のカチャ、と小さな音に耳を傾けながら、アリアは恐る恐るレイトルに目を向けた。
 きっとその瞳は、熱く潤んでいる。頬が熱いのを自分でも感じるほどなのだから。
 気持ちに気付く前から、レイトルに対してはぐらかしていなかった自分がいる。
「…あれ、寒い?中に入ろうか」
 だというのに、何を勘違いしたのかレイトルは素っ頓狂な心配で立ち上がり、自分の上着をアリアの肩にかけてくれた。
 寒いのは季節柄仕方ないことだが、これではアリアことを言えないではないか、と。
 レイトルの温もりが上着から伝わってくるのに、肝心なところは鈍感なのか。
「っ…気付いてないのは、レイトルさんの方じゃないですか!」
 先ほどのレイトルの言葉を持ち出して、立ち尽くすレイトルに強く睨みつけて。
「…え」
「あたし、とっくにレイトルさんのこと好きになってました!」
 大声で叫んでしまってから、そこがガウェの邸宅の庭で、なおかつ今夜泊まる数名の為に使用人達が準備にせわしなく動いていたのだと思い出した。
 思い出した時には固まっていた使用人達が「何も聞いていません」とばかりに仕事を再開しており、さらに正面玄関から庭に通じる道には、銀行から戻ってきていたニコルとハイドランジア夫妻だけでなく、ガウェやモーティシア達護衛部隊の顔ぶれも揃ってしまっていた。
 確実に聞いていただろう表情で。
「………まって…嘘でしょ!?いやああぁ!!」
 こんな状況で自分の気持ちを全員に知られるなんて。
 パニックに陥ったアリアは肩にかかるレイトルの上着を掴んだまま、目の前にある全てのものから逃げ出すために全力疾走で邸宅内へと走っていった。

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