第69話
-----
朝も夕も関係なく浅い眠りの中に生きるようになった。
一日を横になった体勢で過ごすパージャにとって、今が朝だなどとわずかの興味も引くものではなくなってしまった。
呪いの傷のせいで眠っていても体力を消耗するから、痛みも疲れも身体にずしりとのし掛かって重みを増していくのだ。
何度目かもわからない激痛で起こされて、歯を食いしばって目を見開く。
傷に障らないよう浅い呼吸を行って、辺りの気配をさぐって。
ふと足元に違和感を感じて痛みが響かないようゆっくりとそちらに目を向ければ、パージャの足元でミュズが小さく丸くなって眠っているところだった。
まるで犬がするような体勢。
普段なら起こして隣に眠らせてやれたのに、今のパージャにはどうすることもできなかった。
痛みを堪えれば動くことはできる。しかし動くための気力など今は存在しないのだ。
窓から入り込むカーテン越しの朝日に柔らかく照らされて、ミュズの桜色の髪はふわりと暖かそうに輝く。
しかしその表情は、眠ったまま涙を流し続けるという心を強く苦しめるものだった。
--ミュズは王子に接触する--
ウインドが口にした言葉が何度も何度も頭の中で反芻されて、どういう意味なのか今すぐにでも知りたかった。
ファントムがミュズに何をさせるのか。
接触とは、ミュズに刃を持たせるということなのか、と。
エル・フェアリアを憎しむミュズなら、喜んで刃物を大国の王子に向けるだろう。
「……ミュズ」
かすれきった声で愛しい少女を呼べば、たった一度でミュズはゆっくりと目覚めてくれた。
夢うつつをさまよっているのか、ぼーっと視界の定まらない表情で辺りを見回して、パージャの姿にハッと我に帰る。
「パージャ!」
「っ…」
「あ…ごめんね…」
ミュズはベッドの上を四つん這いで動こうとしたものだから、ベッドの軋みがそのまま痛みとなってパージャに襲いかかる。
すぐに動きを止めたミュズがそろりとベッドを降りて、パージャの顔に近い場所に身を沈めて肩から上だけを見せてくれた。
「…あんな、ところで、寝てたら…風邪、引くから」
空中庭園内にはミュズ専用の部屋もあるのにと諭すが、ミュズは無言のまま首を横に振る。
「…ちゃんと、寝てる?ご飯も…食べてる?」
他愛無いお喋りなどする力も無い体で懸命に痛みを堪えて訊ねても、涙を滲ませるだけで答えてはくれなくて。
鼻をすする音が室内に静かに響き渡った。泣いているミュズを慰めてやれないのは、あの残酷な過去以来になってしまう。
それは、パージャにとって何よりもつらい事だった。
目の前にいるこの愛しい少女を慰める為なら。
「…ミュズ…こっち、おいで」
かすれる声で、ミュズを呼ぶ。
ミュズの為なら痛みに歪みそうになる表情もコントロールしてやる、と。
「…いいの?」
「うん…今は、落ち着いてる…から」
嘘も方便。
ミュズの為ならなんてことはない。
ミュズはなるべく振動を与えないように恐る恐るベッドに上がり、傷付いていない左肩にゆっくり頭を合わせてくる。そして撫でてやろうと動かそうとしていたパージャの手を止めて、そっと両手で握りしめてきた。
パージャに救いを求めるように。
事実、ミュズの心はパージャにしか救えない。
体は何度も激しい痛みに苦しめられたが、パージャはそれらを気力で押し殺し続けた。
真新しい痛みと、ずくずくと強く響く痛みと、ミュズと触れ合った箇所の温もりと。
どうしても滲む冷や汗に、どうか気付かないで。
「…パージャ…」
「……な、に」
「…頑張るからね」
呟かれた言葉に全身が弾かれた。
「っがああああ!!」
脳天まで斬り殺すような激痛に苛まれてのたうち回り、ようやく無意識のうちに身体を起こそうとしたのだと理解する。
ミュズの言葉が、パージャを反射的に動かしたのだ。
「パージャ!パージャ!!」
激しい痛みに全身をうずくまらせて、ミュズの悲鳴を間近に聞いて。
「パージャ!!」
「っ…しなくていい!!」
すがろうとするミュズに告げた言葉は、まるで吐き捨てるかのようだった。
「…パージャ」
自分が否定されたと思ったのだろう、パージャの叫びにびくりと全身を硬直させて、涙を何度も溢れさせて。
「…ファントムに…何か言われたんだろ?……何も聞かなくて、いい…何もするな」
ミュズを否定したわけではないと伝えたくて、痛みを堪えて言葉を紡ぐ。
ウインドはミュズがコウェルズ王子に接触すると教えてきた。
ミュズにそんな残酷なことをさせられるはずがないのに。
エル・フェアリアと聞くだけで激しい憎しみに囚われるミュズを、なぜ王子と接触させなければならない。
「…ファントムの、言葉なんて…聞かなくていい…俺が全部、ミュズの、嫌なもの全部…無くしてやるから…」
痛みに朦朧として上手く言葉を組み合わせられない。
「…パージャ」
「何も…しなくていいんだ」
愛しいから、とは言えないまま。
普段の自分はどう頭を回転させていたのか不思議なほどに、選ぶ言葉の質は貧相だった。
それでも伝えるのは、とても大切な人だからだ。
だというのに、大切だという強い思いはパージャだけのものではなくて。
「…今朝ね」
ミュズはパージャの負担にならないようにと身体をベッドから起こし、ふと思い出したように小さな声で呟いた。
「…ここにくる前」
ミュズも言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「大きな犬の形をした絡繰りが、ファントムにじゃれつくのを見たの」
どこか蔑むような、憐むような口調で。
「ファントムは鬱陶しそうだったけど、どうしても犬はじゃれてきてね」
その瞳にはパージャ以外、光すら映らないまま。
「そしたら、ラムタルの侍女が来て、慌てて犬を引き剥がしてさ」
ミュズが何を言いたいのか、静かに耳を傾けることしか出来なかった。
「その侍女が言ってた。この犬は飛行船になる絡繰りで、エル・フェアリアに貸し出されたものだ、って。大会が終わって出場者達が無事に国に戻るまでは貸し出されてて、それまでこの犬は魔力提供者のそばにいるはずなのに、って」
不愉快そうなファントムと、離れない絡繰りと、困惑の強い侍女を見た。そうしてミュズは、何かしらの確証を得たようだった。
「飛行船の魔力提供者が王子だってことは知ってる」
そこで、ミュズがそっとベッドに両手を添えて、笑みを浮かべた。
まるで自分を押し殺したような、本音の見えない不気味で魅力的な笑みを。
ミュズの頭のネジは飛んでいる、とはウインドの言葉だ。そしてその言葉を、パージャは否定できなかった。
「王子のところに行くはずだった絡繰りが、ファントムのところに来た…同じ王族だからって、それだけの理由じゃないよね」
頭のネジは飛んでいる。でも、ミュズは馬鹿ではない。
ほんのひと握りしか知らないその真実に、ミュズは気付いてしまった。
ニコル、リーン、ルクレスティード。あともう一人いることは、ミュズも知っているのだから。
「…私ね…ずっと、パージャに守ってもらってきたんだなって…ほんとに思ってたの…だから、今度は私がパージャを守る番」
「…ミュズ…何も…」
「ううん…パージャこそ、今は何もしないで休んでて」
この危うい少女を、今のパージャでは止められない。
「…パージャの為なら、何だってできるよ」
まるで誘惑するように艶かしくベッドに乗り上げて、そのままパージャの隣に身体を寝かせてくる。
ゆっくりとした動作だった為に身体に負担はかからなかったが、ミュズの本音の見えない視線は精神を削るようだった。
「…パージャ」
微笑みながら、壊れたように。
「…パージャ…」
名前を読んでくれながら、そっと瞳を閉じていく。
今まで大切に大事に守ってきて、上手くいかない現実の歯痒さから切り離し続けてきた。
その代償を支払えとでも告げるようにパージャが身動きの取れない状況で、ミュズの心の破壊が急速に進行していく音を聞くことしかできなかった。
第69話 終