第69話
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長い過去の夢から引きずり戻される感覚は、浜辺に打ち寄せる波の音に似ている気がした。
ザザ、と妙に耳に心地よい音が、過去から今が繋がるための意識の橋渡しをするような。
ゆっくりと目覚めたパージャが目にしたのは、見慣れた豪華な天井と、視界の端で闇色の藍の髪を揺らす極上の美女だ。
言葉は出さないまま、仲間であるガイアが室内の薬品の棚をひとつひとつ真剣に手にする様子を気配で感じ取る。
話しかけようにも身体中が痛くてたまらないのだから、パージャが起きたことにガイアが気付くまではこのままだ。右肩と腰の傷は未だに治らず、パージャを苦しめ続けているのだから。
痛みが走らないよう慎重に浅い呼吸を何度か繰り返し、ガイアの動きを室内に響き渡る音だけで把握して。
「…起きたのね」
「……つい、さっき……」
ようやくパージャに気付いてくれたガイアは、手にしていた薬品をテーブルに置いてからすぐそばまで来てくれた。
「あなたが眠っている間にロードが来て、いくつか試してくれたんだけど…」
試した、とは解呪のことだろう。
少しも治っていないパージャを瞳に写しながら、ガイアは申し訳なさそうに小さなため息をついた。
「思った以上に難しいみたい…せめてあなたを刺した剣があったらよかったんだけど…」
「…傷、だけじゃ……無理かも、ね」
痛みを怯えるように小さな声でゆっくりと話して、またガイアの申し訳なさそうな顔を見て。
「…もしかしたら、治す、そぶりなだけ…かもな」
「そんなことないわ!」
ファントムの行動を否定してみれば、火がついたようにガイアは否定する。
ファントムに一番押さえつけられていながら、どうしてここまで信用しようとするのか不思議でならない。
魔力の重ねがけで、大切な記憶を奪われているというのに。
哀れで、悲しい女。
「…あんた、さぁ……何も思い、出さないわけ?」
「え…」
ファントムがこの場にいたなら速攻で気絶させられただろう言葉を投げかけて、ガイアの様子を窺う。
ガイアの記憶を試すような言葉に、本人はただ困惑するばかりだ。
「…あの人が私に、何かしてるのは気付いてるわ」
何度も何度も魔力をかけられているのだ。気付かないわけがないと。ただ、それが何なのかは。
もちろん“それ”を消すための魔力操作だ。ガイアが気付かなくて当然なんだろうが。
「…ヒント……あんたが、どんな時、に…魔力はかけられた?」
パージャはもう気付いている。最初こそ憶測だったが、それは最近になって確信に変わったのだから。
もしその事実に気付いた時、ガイアはどうするのだろうか。
その行動によっては、ファントムを殺せるほどの威力となるだろう。
実質的な意味での殺しではないが、七つに分かたれたファントムの魂をさらに削るほどの。
それほどファントムにとってガイアは大切な存在だからだ。
黙り込むガイアの表情は見なくてもどんなものか理解できた。きっと諦めたような暗い顔で俯いているはずだ。
パージャもそれ以上は身体の痛みから話すことも億劫になり、気まずい沈黙が部屋中をさらに静かにするようだった。
それは数分は続いて。
「…減っている薬があるから…お城からもらってくるわ。何か必要なものはある?」
どうしようもない静寂から逃げようとするガイアに、パージャは何も答えなかった。
無視したわけではない。
言葉を発することすらつらいパージャを慮るようにガイアはそっと部屋を出ていく。
扉を開く振動すら傷に障るとでも言い出しそうなほど静かに出ていかれて。
一人きりになれば、静寂は変わらないはずなのに重苦しさはすぐに消えた。
最悪の過去の夢から目覚めても、最低が待っていたのだから人生を恨むしかない。
ミュズと出会って、自分の人生を初めて悲観した、その時と同じくらいつらい苦しい感情。
十年前、パージャはファントムに助けられた。
「救いがある」と老女が言ってくれたのに、その救いは無償ではなかった。
いったいあとどれだけ苦しめば救いが訪れるのだろうか。
そしてその救いの隣で、ミュズは笑顔でいられるのだろうか。
優しい笑顔で、パージャの傍で--
「--おい」
薄れ始めていた意識を呼び戻したのは、沈みきったような低い声だった。
声の主はまだ若いというのに、パージャと同じく痛めつけられてきた人生が声に凄みを足すような。
声の主の名前を口にすることはできなかった。
朦朧とし始める意識の中で何とか視線だけを向ければ、いつ部屋に入ってきたというのか、扉のそばにはウインドが。
パージャがこちらに戻ってきた時以降、顔を合わせることはなかったというのに。
「…お前、まだ死なねぇのかよ」
弱りきったパージャを鼻で笑って、ズカズカと無遠慮に近付いて容赦なくベッドに座って。
「--っ…」
ベッドが強く軋む振動で、パージャの傷はまた真新しい激痛を全身に走らせた。
ウインドは苦しむパージャをただ嘲笑うだけだ。
ミュズは一緒ではないらしく、しかし今はそれがありがたくもあった。
ミュズはパージャのこの姿を見ては泣きじゃくるから。
「お前、向こうで捕まってた方が絶対に楽だったぜ…」
わざとなのか無意識なのか、ベッドに座ったウインドが貧乏ゆすりをするものだから、微振動にじわりじわりと苦しめられる。
「エレッテのかわりに、お前が捕まってさえいれば…俺達みんな、もうしばらくは平和だったんだ」
「…なにが、言いたいん、だよ」
微振動からの痛みで気が狂いそうになるのを堪えながら、残してしまったエレッテを思い出して。
「ミュズは王子に接触する」
「……は?」
答えにならない言葉に、突然出された名前に、強く眉をひそめた。
「ファントムがミュズに命令した内容だよ。王子に近付けってな」
なんで、という言葉は音になってくれなかった。しかしウインドは、パージャの言いたいところを理解してくれて。
「ファントムの狙いがお前だからだよ…その為に、俺もエレッテも…」
言葉の後半は怒りを含んだ呟きに変わっていた。
もし身体が自由に動いたなら、ウインドを半殺しにしてでも理由を強引に聞き出したというのに、現実は痛ましい身体だ。
「……とっとと壊れちまえよ」
クックッと喉を鳴らすように静かで不気味な嘲笑を見せながら、最後にそれだけを言い残してウインドが立ち上がる。
「っ!!」
ウインドを捕まえようと強引に動かした腕はあっけなく空を切り、痛みに苦しむ無様な姿を大笑いされて。
「…じゃあな」
パージャの姿に満足したのか、ウインドは病んだ笑みを頬に張り付けたまま、来た時と同じように勝手に出て行ってしまった。
ウインドを捕まえようとしたまま崩れた体制に苦しめられながら、激痛の走る身体を時間をかけて鞭打って、何とか楽な姿勢に戻る。
ミュズが王子に接触するとはどういうことなのか。ファントムの狙いが自分だとはどういう意味なのか。
今のこのボロ雑巾のような身体でファントムに都合の良い動きなど不可能だろうに。
これほどまでに苦しんでいるというのに、まだ何かをさせるのか。
「…ミュズ」
会いたい。
その優しさにすがってしまったが故に平穏を奪ってしまった、この上なく愛しい少女。
「……ミュズ」
彼女の名前なら、どれほど身体が痛もうが呼び続けられるのに。
「--」
会いたい。
三度目の言葉は音にならず、痛みに歪むパージャの心に残酷なほどの不安感が植え付けられてしまった。
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