第68話
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新たな名前を老女からもらってからまた数日が経った。
ミュスからミュズへ。パーシャからパージャへ。
ほんの少しだけ姿を変えた名前は、老女とパージャとミュズの三人しか知らない秘密だ。それでいいのか不安だったが、名前を隠すと守りの力が強くなるのだと教えてもらった。
それは貴族すら忘れ始めている昔からのまじないらしい。
貴族が持つ隠し名と呼ばれる第二の名前は、最初は身を守るためのものであったと。
老女はパージャの知らない知識をぽつりぽつりと教えてくれて、パージャも平穏を取り戻したというのに老女からさらに離れなくなっていた。
それは老女に惹かれているからというわけでは、今はもうない。
最初こそこの老女の不思議な魅力に当てられたが、今は純粋にこの老女から聞かされる知識が面白かった。
一気にまとめて教えてくれればいいのに、ふと思い出したように語って聞かせてくれるからなかなか離れがたい。
そしてミュズも、パージャから離れなくなっていた。
一日置きに小屋に泊まっては、パージャと同じ布団に眠りにつくのだ。
あのおぞましい気配に苛まれた時に小屋を出ると口にしてしまったからだろう。ミュズはパージャがいなくなることが怖いらしい。
それはとても心地良い感覚だった。
「ーーばーちゃん、明日はどうすんの?」
全てが日常と化し始めた夜、パージャはいつもの場所に布団を敷きながら、先にもぐり込んだミュズを抱き剥がしつつ自室にいる老女に問うた。
「村の人から薬を頼まれているんだ。薬草を頼みたいね」
「りょーかい。明日またどの種類の薬草か教えてよ」
老女の少し眠たそうな声を聞きながら、パージャも部屋の明かりを消して。
おやすみ、と最初に口にしたのはミュズだった。
子供と幼子ではあるが二人ではやや小さく感じる布団の中に、またも先にミュズがもぐり込んで、諦めながらパージャも隣に横になる。
「……もうちょっとゆずってよ…」
「やだ!!」
「あ、悪いんだー」
ど真ん中を陣取るミュズを強引に少し端にずらせば、面白かったのだろう、きゃあきゃあと笑いながらパージャの胸に身を寄せて。
その優しい暖かさがやけに胸を苛むのは、きっとミュズを大切に思い始めたからなのだろう。
パージャに名前を分け与えてくれただけでなく、パージャの為に名前の形が変わることも受け入れてくれた女の子。
このあまりに小さな身体でパージャを癒してくれる大切な存在。
気付き始めていた。ミュズに惹かれている心に。しかしそれは、欲望に満ちたものではなかった。
まだミュズが小さいからなのか、それとも感謝の気持ちが大きいからなのか。これが真心なのだと思えるほど、ミュズが愛おしい。
だからこそ。
ーーここには長くいられない…
寝付きの良いミュズはパージャの胸に顔をうずめながら、すでに片足を夢の世界に浸している。
あと数秒すれば完全に夢の中だろう。そう悟って思わず微笑んで、寂しさで苦しくなった。
いくら今が平和であっても。ずっと続くわけではないのだ。
パージャの人生は物心ついた時からすでに、何者かに追われる日々だった。
場所を変え名前を変え、匿われた先で傷付き、追っ手に傷付けられ、命からがら逃げ続けてきた。
それがもう終わりだなどと思えない。
老女はパージャに救いが訪れると言ってくれたが、その救いも迎えに来る気配が無いのだから、もう本当に、ここには長くいられない。
パージャにとって一番安全なのは、あのおぞましい追っ手の気配を感じる前に逃げることなのだ。だから、逃げるなら今がチャンスなのだ。
だというのに。
ーーなんで…
寝息を立て始めたミュズ。彼女のそばから離れたくないとパージャの全てが訴えてくる。
逃げなければ。でも、そばにいたい。
サクラと名付けられた時に見せてもらった桜の花びらと同じ髪の色をしたこの小さな女の子とずっと一緒にいたいのだ。
二つの矛盾する思いが胸の中をぐちゃぐちゃに引っ掻き回すから気持ち悪くなる。痛みを感じるほどのこの感覚が幻だとは思えないほどに。
村人は優しい。ミュズの両親もパージャが小屋にいることが当たり前のように接してくれるようになった。老女もパージャを本当の孫のように接してくれる。
何もかも、ミュズがパージャを見つけてくれたから。
ーー俺は、どうしたらいい?
穏やかに眠るミュズを守るようにそっと抱きしめて頭を撫でてやりながら、未だに痛む胸に問いかける。
逃げろ、と理性が説得してくる。
ここにいたい、と心が叫ぶ。
ーー何もかも。明日決めよう。
今は胸が痛むから、明日決めるんだ。
毎日毎晩のように明日に持ち越すことで自分を正当化しながら、パージャも闇に馴染み始めた視界を瞼でそっと遮断した。
まだ眠くはないが、目を閉じていればいつか眠れて朝になるから。
視界が遮断されたことによって聴覚が鋭くなり、老女がまだ起きている静かな音が子守唄のように響いてきて。
「…おやすみ、パージャ」
ふと優しく響いた声が夢なのか現実なのか、理解する前に意識は夢の世界へと向かってしまった。
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「えっと、じゃあいつもの三種類だけね。多めに取ってくるわ」
翌朝、朝食を済ませたパージャは老女の仕事の手伝いの為に籠を片手に薬草の最終確認を行っていた。
摘んでくる薬草は見慣れたいつもの三種類。右手に籠、左手にミュズ。
「そんなに多くなくて構わないよ。また取りに行けばいいんだからね」
「んーでも、時期的にそろそろ取れにくくなるぜ?この三種類なら乾燥させても効能変わんねーから取っとくわ」
まるで昔からここにいるかのような口調で、ミュズに手を引かれながら小屋を後にする。
薬草の群生地は小屋から少し離れているが、その辺りは歩き慣れたミュズのおかげで迷うことはほとんどなかった。ミュズの弱点はまだ薬草の見分け方が曖昧だということだ。
葉のつき方や新芽のつく場所、そういったものを説明したことはあるが、いまいち理解はしてもらえなかった。まだ幼いのだから仕方ないのだが、お手伝いと称して無用の雑草を籠に放り込まれるのは仕事人として少しだけむかっ腹だ。今まではミュズのお手伝いだったのだから、後から来たパージャはお手伝いの先輩に強く出ることはできないのだが。
「とうちゃく!!おにいちゃん、どっちがいっぱいとれるか、きょうそうだよ!」
ミュズはパージャから手を離すとそのままの勢いで籠を奪い、近場の木の根元に籠を置いて開始の合図を告げた。
探している薬草がその籠の下敷きになってしまったことは見落としているらしい。
「あんま遠くいかないでねー」
「わかってるもん!」
土地勘はミュズの方が上なのだが、年上ぶって軽く怒らせてしまう。
やれやれとパージャも薬草を探し始めれば、季節の変化が目当ての薬草以外にも訪れていることに気付けた。
あまり長くこの場所にいたつもりはないが、あまりの楽しさに時間を忘れてしまっていたのだろうか。
薬草を摘みながら、頼まれた以外にも必要になりそうなものを摘みながら、昨晩だけでなくずっと考えていたことを思い出す。
ーー長くここにはいられない。
自分の身を守る為には、ここに長く居座ってはいけないのだ。
それがわからないほど子供のつもりはない。それくらいわかってる。
だから。
「…だよなぁ」
誰ともなしに決意を呟く。
ミュズは今日は両親と一緒に家に帰る日だ。だから、今晩がいいだろう。
ミュズが小屋にいる日は駄目だから。
出ていくことは誰にも伝えない。もちろん老女にも。
眠れないから夜風に当たってくると、そう伝えて外に出て、小屋に戻らなければいいだけだ。簡単なことだ。
…簡単な。
「……簡単なわけねーだろ…」
嫌だ。
ここにいたい。
ずっとここに。
老女の手伝いをしながら、面白い話を聞かせてもらいながら、ミュズの両親に子供扱いされながら、村人たちに可愛がられながら、ミュズのそばにいながら。
当たり前に与えられるべき平穏が欲しい。
もう逃げ回りたくなんかない。追われたくない。名前も変えたくない。このままいたい。ここにいたい。
なんで。
なんで、俺だけが。
「ーーーっ」
涙が突然溢れ出す。
ミュズがいなくてよかったと他人事のように感じながら、自分の人生を生まれて初めて悲観した。
ここがあまりにも優しいから。
快楽の為にいたぶってくる醜く太った女なんかいない。何人もの男の相手をさせられる姿を見たがる糞爺もいない。子供を殺して快感を得るおぞましい貴族もいない。家畜にも劣る日々を強要するクズもいない。排泄物だけを与えてくる鬼畜もいない。
ここはパージャに、そんなひどい世界など初めから存在しなかったと優しく抱きしめてくれるから。
もう、あんな世界にいたくない。
ぼろぼろとこぼれ出す涙が止まらない。拭くこともしなかった。
サクラと名付けてくれた優しい人達の元でも、人生を悲観なんてしなかったのに。
恨みがつのる。今までの人生に。そうせざるをえなかった世界に。
こんなにも暖かな世界もあるとなぜ教えたのだと。
立ち尽くしたまま声もあげずにひとしきり泣いて、涙が止まる頃にようやく一度だけ涙に濡れた頬を瞼ごと強くこすった。
悲惨な世界で生きることに慣れすぎて、自分の幸せを諦めていた。
死なせてもくれないくせに。今さら幸せを感じさせて。
「…でも、バイバイだ」
この幸せな世界を、幸せを感じられている間に、もう充分だと自分に言い聞かせる。
充分すぎるほど幸せを感じたと、自己暗示のように。
そうでもしないと、あまりにもひどいじゃないか。
「おにいちゃーー」
パージャから離れていたミュズが、茂みから顔を見せたと思った瞬間に足を滑らせて顔面から思いきり倒れ込んだ。
「ミュズ!!」
思わず叫んで走り寄って、倒れたままのミュズを抱き起こす。幸い土と草がクッションになって軽い擦り傷だけで外傷はなさそうだが、ミュズの表情がパージャを目に写した途端に泣き出しそうなものになった。
やはり痛かったのか。そう思った考えが間違っていたとわかったのは、
「…なんでないてるの?」
今にも泣き出しそうなミュズが、そう口にしたからだった。
言われて数秒は意味がわからなかった。しかし、自分がさっきまで泣いていたことを思い出して。
「…おにいちゃん…」
小さな身体をそっと抱き寄せて、ミュズの暖かさを身体に刻みつけた。
「…いっぱい泣いちゃった…今まで、ミュズに会うまで、つらいことが多すぎたから」
こんな話はミュズにすることではないだろうに、それでもミュズに聞いてもらいたかった。
今日でお別れだからと、それは言わずに。
「俺ね、今までいっぱいつらかったんだ…でも気付かないフリをしてたんだ。だってさ…気付いちゃったら…もう無理だろ?」
また涙が溢れる。
おぞましい追っ手から逃れる為に、おぞましい世界にいたなどと。逃げても逃げなくても地獄だったじゃないかと。
気付かなければ楽だったのに。
ミュズは何も言わない。
パージャの話す意味がわからないのだろう。
それでも、パージャの言いたい思いを理解してくれるかのように、パージャを抱きしめ返してくれた。
その後は二人とも無言で、ただ静かに抱きしめ合っていた。
離さなかったのはパージャだ。だがミュズも、懸命にパージャの悲しみを受け止めてくれた。
ほんとうに、こんなにも小さな身体のどこにこんなにも大きな慈しみがあるというのだ。
こんな恨みしかない世界が、ミュズのおかげで愛しさを感じるようになる。
「…ミュズに会えて良かったよ」
たとえ明日からまた地獄を味わうことになっても、この幸せな日々のせいで地獄を地獄だと意識するようになったとしても。
この幸せを糧に生きていくから。
さよなら、と心の中だけで呟いて。
「…俺が泣いちゃったって、ばーちゃんに言わないでね。恥ずかしいからさ」
ミュズを離して、その頭を撫でて。
「…おにいちゃん」
立ち上がれば見上げてくれるミュズに、自分でも気付くくらい優しい眼差しを向けて。
「…ずっと、ミュズといてね」
あまりにも優しくて残酷な言葉に、視界はまたも涙でひどく歪んでしまった。
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その日はいつもと何の代わり映えもなかった。
ミュズとパージャを送り出して、自分は村人達に頼まれていた薬を調合して。
老女にとっての日常。
パージャがこの小屋に訪れてその正体が発覚した時は驚いたが。
闇色に変色してしまったあの人の魂のかけらを持って生まれてきた少年。言い方を変えてしまえば、彼はあの人の生まれ変わりだ。
すぐにあの人に伝達鳥を送ったが、運命のいたずらか、あの人はあまりにも遠い国に滞在していた。
それでも、もうすぐだと信じたい。
いまだに変わらない姿のまま、自分が奪われた全てを取り戻そうと世界を恨み続ける人。
あの人の心をーー
「…忘れもの?」
ふと小屋の扉が開いて、子供の気配が老女の部屋にも伝わってきた。外出してから時間が経っていないので二人が忘れ物でもしたのかと自室から出た老女は、
「ーー久しぶりだな。クィルモア」
自分の名を呼ばれ、そのおぞましさに、目の前に広がる光景に驚愕した。
あまりに凄惨な状況に悲鳴すら上がらない。クィルモアと自分を呼んだ男が、パージャと似た年頃の少女の首を背後から短刀で横に薙ぎ払った後だったからだ。
パージャ達と間違えた子供の気配がこの少女のものだったのだと理解する。
背後から首を切られ、少女が床に倒れて痙攣しながら絶命した。
クィルモアもよく知る、村に住む病弱な少女だった。今日の薬は彼女のためのものだったのに。
「っっ…ナイナーダ!!」
何十年経とうが忘れることなどできないその男を睨みつけながら、クィルモアは自室側へと一歩後ずさった。だが敵は他にもすでに侵入しており、背後から捕らわれる。
「随分と老いたものだ…しかし老いてなおこの魅力か…さすがはメディウム家の者なだけはある」
クックッと嫌な笑みを浮かべながら、ナイナーダがクィルモアの顎を掴んで上向かせた。
「それに、ここに我々の探している魂もあることがわかった。お前には感謝しかないな。そこで、あとひとつ教えてほしいことがあるんだが」
ナイナーダの仲間達が容赦なく腕を拘束してくる痛みに表情を歪めれば、嬉しそうに笑みがいっそう強くなる。
「…あなたに教えることなど何ひとつ存在しないわ…裏切り者になんて」
「裏切る?とんでもない誤解だ…メディウムとして天空塔に隔離され、彼の流れに浸され続けたお前達なら理解できるだろう?あの時ほど解放に最も近い時などなかったと。女神の末裔として未だに理不尽に罪を償わされ続けるものとしてな!!」
過去に本当は何があったのか。クィルモア達は知るからこそ王の側についた。しかしナイナーダは。
「…理性も保てないけだものに、教えることなんて何ひとつありはしない!!」
叫んだ瞬間、意識が遠のいた。
暴力的なまでに凄まじい魔力に体の内側から拘束されたのだと理解する。
クィルモアのメディウムとしての力は、治癒の力と簡単な防御結界にしか使えないから、自分を守りきることなど到底出来なくて。
ーー逃げて、パージャ…
ナイナーダの知りたいことなど、パージャの名前以外にありえない。賢い少年は、その判断が自分を守っているとは知らずに名前を捨てながら生きてきたのだから。
「……どうされますか?」
雲をつかむようにギリギリの所で保たれた意識が、霞のように消えていきそうになりながらも声を拾う。
「我々の気配と一度はぶつかりながらもこの土地から逃げなかった。まだ子供だ。ここに未練があるのだろう…村ごとーー」
そこで全てが遮断された。
ーーどうか、あの子を助けて。ーーは、残すから……
暗闇の中であの人に手を伸ばして、クィルモアはその救いが少しでも早く訪れることを願うことしかできなかった。
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ひとしきり泣いて、みっともない姿を見せて。
ミュズはパージャが泣き止むのをじっと待ってくれて、それからまた二人で一緒に歩きながら薬草を摘み続けた。
ミュズが間違えて摘んでくるただの草も籠の隅にまとめて、言われた以外にも今後必要になりそうな薬草を摘んで。
まるで今までのお詫びとお礼だとでも伝えられるほどの量を摘んで、籠をいっぱいにした。
「こんなにもたくさん!はじめて!!」
嬉しそうに満面の笑みで飛び跳ねるミュズが、少し離れた所に見つけた薬草をまた摘む。これ以上は籠からこぼれ落ちてしまうと考えながら、パージャは籠を片手にして目尻の下を少し痛いくらいの力で掻いた。
涙のせいで頬がいまだにヒリつくのだ。こんなにも泣いたことがなかったから、こんなふうに肌が痛むとも知らなかった。
目の周りの違和感が取れないから、小屋に帰ったらきっと老女にもバレてしまうだろう。下手をすれば今晩出て行こうと決意したことがバレてしまうかもしれない。
おそらく老女はパージャを止めようとするだろう。だから、頭の中でいくつかの言い訳を探して。
「…おにいちゃん…あれ、けむり?」
小屋に向かう帰り道。ミュズの指差す方向に目を向けて、力をなくした腕から籠が離れた。ザン、と落ちた衝撃でせっかく摘んだ薬草が辺りに散らばる。しかしパージャもミュズも、落とした薬草に目が行くことはなかった。
村の方向から立ち上る黒い煙。しかも、ひとつではない。いくつも、いくつも。
「…かじ?」
それにしては規模が大きすぎる。離れた場所からでも、その煙の量は尋常ではなかった。
その煙の立ち上る様子を以前にも見たことがある。
それは、戦だ。
小規模戦でも、黒い煙はいくつも上がっていた。
「ーーミュズ!ばーちゃんのとこに行くぞ!」
何かあったのだ。それが何か。恐らく、パージャが関係している。だってその黒煙を目にしたとたんに全身はあのおぞましさに包まれてしまったから。
逃げろと本能が告げる。しかしパージャは逃げられなかった。
ミュズを抱き上げて、老女のいるだろう小屋へと向かう。小屋の方向には何の異変もなかったから、老女は無事だと自分に言い聞かせた。
おぞましい気配にすくむ身体が何度も何度もミュズを置いて逃げろと命じて、その度に足が止まりそうになって。
それでも懸命に、ミュズを強く抱きしめたまま走り続けた。
「おにいちゃ…」
怖がるミュズがパージャに擦り寄る。この温もりを捨てられるはずがない。
ミュズを抱いて走る距離はあまりにも長く感じた。薬草を摘むためとはいえどうしてこんなにも離れた場所まで来てしまったのだと後悔するほどに長く感じる距離。
ほとんど獣道である道に足を取られないよう懸命にバランスを取りながら、心臓が凄まじく打ち鳴らされて呼吸が苦しくなり喉が痛むのを感じながら、走り続けてようやく戻ることができた小屋の前で。
「ばーちゃん!!」
ミュズを抱いたまま扉を開けたパージャは、足元に転がる少女の死体を見つけ、すぐにミュズの視界を奪うように頭を自分の首筋に固定した。
「…ばーちゃん…ばーちゃん!!」
何度叫んでも返答は聞こえない。
少女の死体をミュズに見せないように老女の部屋へ向かったが、そこにも誰もいなかった。
ただ、注視しなければわからない程度の散乱が目に映るだけだ。
いったいどこに?
息切れを起こした頭は酸素不足のせいか思考をまとめてくれない。
もしかしたら村にいるのかもしれないと思って、そこでようやく逃げろという本能に従うように足が止まった。
今ならまだ、逃げられるかもしれない。
このまま、ミュズを連れたまま。
黒煙の立ち上る村が危険であることは考えずとも知れた。それならもう、村は助からないだろう。少女も殺されていた。恐らくパージャを追う者達に殺されたのだ。
今なら、まだ逃げられる。
優しくしてくれたミュズの両親や村人達を思い、老女を思い。それでも逃げることを選ぼうとする自分が浅ましくて吐き気が込み上げる。
「…ごめん、ミュズ」
ミュズを抱き上げたまま、パージャはこのまま逃げることを選んだ。
小屋を出て、村とは反対側へと逃げるのだ。
パージャの曖昧な魔力でどこまで切り抜けられるかはわからなかったが、それ以外に道などないはずだ。
だから、胸にくすぶる老女達への贖罪に苛まれる苦しみを押し殺して逃げるために小屋を出て。
「ーーずいぶんと長く逃げ回ってくれたものだな。しかしもう終わりだ」
外へ出た瞬間、押しつぶすようなおぞましい気配に全身がすくみあがり、身体は強制的に制止した。
パージャは男の顔を見る。他にも何人か人間は立っていたが、パージャの目にはたった一人の男しか凝視することができなかった。
パージャを苛み続けたおぞましい気配を醸し出す、浮かべた微笑みのあまりにも恐ろしい男。
声も何も出なかった。
目の前にいる男など知らないというのに、何かを思い出しそうな感覚が脳内を掻き回す。
過去にこの男と何かあったような。しかしそれはパージャではない記憶のようで、気持ちが悪い。不愉快で、怒りに溢れて、今にも殺してしまいたいほどの。
「そういえばこの小屋に住む女を探していたか?ほら、会わせてやろう」
男は笑みをさらに強くすると隣に立つ者に合図を出し、合図された者が何の重さも感じていないように人の形をしたそれを放り投げた。
まるで紙切れを捨てるような軽そうな投げ方と、投げられたそれが地面に落ちる音が一致しない。
そして、それは。
「きゃああああああああああ!!」
ミュズが耳元で絶叫する。
パージャに抱き上げられたままではあったが、頭を固定するパージャの腕が離れたことにより見てしまったのだ。
口から大量に血を流しながら虚ろに空を目に映す老女。ミュズの祖母で、パージャの恩人を。
「お前ら…」
死んでいることは明白だった。
生気のない肌が鮮やかな赤に彩られて、死してなお艶めかしい。
初めて凄まじい怒りが湧き上がるが、男が醸し出すおぞましさの前では弱々しい松明程度の力にもならなかった。
「勘違いはしないでくれ。彼女が勝手に死んだだけだ…どうしても教えるつもりなどないという意思表示だったんだろうが、まさか自ら舌を噛み切るとはな」
殺したのは自分たちではないと、殺人鬼の顔のまま。
「それも無駄な足掻きだったということだ。名前が知れずとも、お前がこの場に現れたならもはや名前など無意味だからな」
パージャを守るために、死を選んだ。
それを教えられて。
「ーーっ」
逃げるために走り出したパージャの背中に魔力の虫が絡みついて重くのしかかり、ミュズを抱いたまま意識は闇に呑まれてしまった。
第68話 終