第68話
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「おにーーーーちゃん!!おきてーーーーー!!」
意識が眠りの世界から舞い戻った瞬間、幼い声の爆音が鼓膜を殺しにかかってきた。
あまりの大声に飛び跳ねるように上半身を起こせば、寝ていた身体の上に勝手に乗っていたらしいミュスがコロリと隣に転がり落ちていく。
驚きすぎて心臓も凄まじい勢いで全身を叩いていた。
起こされる為だけに耳元で大声を出されたこともそうだが、ミュスが間近にいたというのに気づかなかったことへの驚きも大きい。今まで、こんなにも熟睡したことなど無かったから。昨夜眠れなかったことが嘘のようだ。
「起きたのなら朝食の準備を手伝っておくれ。布団を直して、外のカメから飲み水をお願い」
落ち着くために深呼吸をすれば鼻腔に香ばしいパンの匂いが充満するものだから、一気に空腹に苛まれた。どうやらまだまだ身体が力を蓄えたがっているらしい。
謎の気配から“逃げ出した”あの日、大量の魔力を消費したのだから。
「おにいちゃん、おはよう!」
「……はよ。父ちゃんと母ちゃんは?」
「ミュスだけなの!」
立ち上がりながら言われた通りに布団を直していく。ミュスは何が面白いのかじっと見つめてくるものだから、その視線に昨日も感じた妙な居心地の悪さと、同時に既視感も感じた。
「ミュスの両親はいつも村の人と仕事に出かけるからね。昨日一緒にいたのは特別だったんだよ」
「ばーちゃんが子守係ってこと?」
「見た通りね」
カチャカチャと皿同士の鳴り合う音を小さく響かせながら準備をしていく老女がパーシャの視線に気付いてニコリと微笑むものだから、ミュスに感じた既視感がどこからくるのかもわかってしまった。
「…ばーちゃんとミュス、血が繋がってるわけだ」
「何か言った?」
「なんでもない!」
独り言を聞かれたから、怒ったように玄関の扉を開けて外に出る。一緒についてきたミュスが水がめの場所を教えてくれて、小屋をぐるりと回って。
「--ほら、忘れ物だよ」
「はあ!?外に出た意味無いじゃん!!」
たどり着いたと思えば水がめの置かれた壁のすぐ上にある窓が開けられており、老女が三人分のコップの乗った盆をパーシャに渡してきた。
家の中からでも水を汲める仕様であるというのにわざわざ外に出されて、今度はしっかりと怒り節だ。
「少しは動かないとね」
クスクスと笑いながら窓を閉めてしまうから、八つ当たりのように水がめの蓋を開けて乱暴に水を汲んだ。
「ミュスもね、いつもそとにでるよ!」
無邪気なミュスはこの理不尽にまだ気づかない様子だ。
その瞳が盆を手にするパーシャをじっと見つめ続けるから、彼女から感じる妙な居心地の悪さの原因にため息をついた。
ミュスは老女と同じように、人を惹きつけようとしてくる。何もしなくてもだ。
恐らくこれが、老女が夜に言っていた「特殊な家系」に関係するのだろう。
まだ完全には老けきっていない老女だから妙な色気を感じた。ミュスはまだ子供だから、アンバランスが違和感だけを感じさせる。
パーシャだから気付けた違和感の正体。だから、老女に惹かれたのもパーシャの本心ではないと自分に言い聞かせて。
「おなかすいたーー!!」
「あ、こら、引っ張んなって」
家に戻ろうと足を運ばせようとした瞬間にミュスが服の裾を引っ張るものだから、せっかく汲んだ水が少し溢れてしまった。
パーシャと名前を分け与えてくれた女の子はどこまでも無邪気で、警戒心を見せなくて。
危険ではないだろうか。ふと感じてしまった微かな危機感を忘れないように、老女とミュスを注意深く観察することにした。
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老女の住む小屋で手伝いをしながら世話になるようになって数日が過ぎた。
色々観察してわかったことは、ミュスが住んでいる村の場所は小屋から少し離れた所にあり、そこの村人達は揃いも揃ってお人好しであるということだ。
小汚い少年の出現と生い立ちに誰もが声を揃えて「可哀想に」と同情して、小屋にミュスを預けていた両親が迎えにくるたびに村人がくれたというパーシャ宛のお土産があった。
数日もすればミュスの両親も警戒を完全に解いており、あつかいも“可哀想な少年”から“ミュスの兄”に変わっていた。二人もお人好し加減では村人と引けを取らなかったので、ここで育って愛を育んだ夫婦なのだろうと想像がついた。
老女は村の中では医師のような立場にあるらしく、たまに村人が病気や怪我を訴えて小屋に訪れる時は目深にフードを被って対応していた。恐らくそれは人を惹きつける力を弱くするための顔隠しなのだろう。
ミュスはどこまでも安定して人懐っこく、訪れた村人が誰であれ膝の上によじ登る。村人達にとっても可愛い娘や孫に近い様子で、愛されて育っていることが目に見えてわかる光景は見ていて少しつらいものがあった。
あまりにも自分の生い立ちとは正反対な村人達。
今まで生きてきた世界とは何だったのか問いたくなるほど甘くて優しい世界。
どうしようもない疑問はミュスが朗らかに笑うたびに積もるようだった。それでも、あまりの居心地の良さが村から離れる意思を削いでいくのだ。
苦しくなる思いとは裏腹にミュスはまるで優先するかのように一番懐いてくれた。その姿を見て憎たらしいという思いは生まれなかったが、ミュスの瞳は心を妙にざわつかせるからたちが悪い。
「ーーあれ、あの二人は?」
ある日の夕方、いつもならミュスを迎えにくる時間だというのに訪れる気配のない両親が気になり老女に問えば、仕事で遠くの街に行くために帰りが遅くなる為、今日はミュスも小屋に泊まるというのとを教えられた。
「…何それ知らなかったんだけど」
「ミュスを預かる時間はあんたいつも寝てるじゃないか」
「……いや、あの二人が早いんだって」
この小屋に来てからの睡眠の質は異常に良く、毎朝ミュスに起こされるという日課が続いていた。遅くまで眠っているわけではないのだが。
ミュスの両親は朝早くから仕事に出るらしく、その為にミュスも早い時間帯に小屋に預けられていた。
ミュスが昼過ぎに眠くなって昼寝をするのも朝の早さが原因で間違いないだろう。ミュスは無邪気で人懐っこくはあるが、走り回ったりとはしゃいで疲れる性質ではなかったから。
「そういうわけだから、今日はミュスと寝てあげてね」
「は?何で?」
「あんたが使ってる布団は、元々ミュスが泊まりに来た時に使っていたもんだからさ」
「いやいや、ばーちゃんと寝たらいいじゃん。ばーちゃんのベッドでかいんだし、ミュス一人くらいいても平気だろ?」
「私には夜でもやらなきゃならないことがあるんだよ」
真剣な抗議をまるで相手にしない老女が夕食の準備を手伝っておくれとミュスを呼ぶ。部屋のすみで今日摘んできた薬草の余りで遊んでいたミュスはすぐに老女のそばに向かって膝のあたりにしがみつき、手伝えることが嬉しいのか満面の笑みを浮かべていた。
「パーシャ、あんたは外から薪を取ってきておくれ」
「へいへい」
夕食時の役目もすでに決まりきったことなので、慣れた足取りで小屋を出る。小屋の外壁に沿うように積まれた薪を数本手にして、そういえば家の中のストックもじきに無くなると余分にもう少し手にして。
ザァ、と。
突風のように一度だけ強く吹いた風の中におぞましい気配を感じ取って、手にしていた薪を落として固まった。
「--中にお入り!」
全身の強張りを解いたのは小屋の扉を開けた老女の叱責のような強い声で、その声に拠り所を求めるように薪を拾うことも忘れて飛び入る。
震えの始まっていた身体を、老女は強く抱きしめてくれた。そしてそのまま庇いながら小屋の扉を閉めて。
特殊な結界は普段と変わらず、扉が閉められた瞬間に発動した。
「…おばあちゃん?おにいちゃん?」
テーブルに皿を置いていたミュスが首を傾げながら近くに来るが老女はこちらを優先してくれて、身体を支えて椅子に座らせてくれる。
「…おにいちゃん、どこかわるいの?」
様子がおかしいせいか、ミュスも泣き出しそうな表情で覗き込んできて。
「…ダイジョーブ。何でもないよ」
ようやく音にできた言葉は、端々が震えて揺れて、とても弱々しかった。
その間に老女は離れて扉以外にも部屋中の窓に手を触れていく。恐らく防御結界を強化しているのだろうことは、波のように身体に当たる不思議な魔力の気配から感じ取れた。
「…ばーちゃん…俺」
不安を口にしようとしても老女は足を止めずに小屋中を歩き回り、今は邪魔をしてはいけないと口を閉じて大人しく見守ることにする。拳は両手とも強く握りしめてしまっており、ふと右手に小さな温もりが広がったと思ってみれば、それはミュスが握りこぶしにそっと手を添えてくれたからだった。
まだ幼い女の子なのに、側にいてくれようとする。その健気な優しさが嬉しくて、この小さなミュスに安心を求めて。
「…ミュス」
そっと呼べば、ミュスはいつものように膝の上に乗ってくれた。
まるで抱き合うように向かい合って。
守るように抱きしめるのはこちらだというのに、ミュスに守られていた。
「…これで大丈夫だろう」
最後に自室に向かっていた老女が戻ってきてくれた時、怯える身体からようやく強張りがほとんど消えてくれていた。
「…ばーちゃん」
「…ひとまずはこれで間に合うはず」
外に出た瞬間に感じたあの悪寒の正体を教えてくれないまま安心を与えようとするのは、それだけおぞましい存在に対する危機的状況がすぐそばまであったからなのだろう。
「…俺を助けてくれるって人は?…いつ来るんだよ」
もし本当に存在するならもう来てもいいはずではないのか。老女がその存在を教えてくれてから数日経っているというのに。
「ずいぶん遠い国にいたみたいでね…到着に時間がかかっているの」
浮かない表情で教えてくれながら、老女は頭を抱えるように額に手を当てながら小さなため息をひとつついた。
そのまま重い足取りで向かいの椅子に腰掛け、老女の方に顔を向けた不安そうなミュスに疲れた微笑みを返して。
老女の表情を読み取ったのだろうか。ミュスは不安を拭い去るように、あるいはこちらの不安を引き取るように、幼い力で強く擦り寄った。そんなミュスの頭を撫でて。
説明はできないと、老女は数日前の夜に告げてきた。
説明はできない。しかし救いが訪れると。
だが外で浴びたあの気配は、本能を刺激する。
“逃げろ”という、生きるための本能を。
「俺…ここを出るよ」
ポツリと呟いた言葉は、空気に消えるように弱々しかった。あまりに力の入らない、諦めきったような。
こちらに向けられる眼差しは二種類。老女の険しい視線と、ミュスの不安そうな視線と。
「いつもそうだったからダイジョーブ。あれを感じたら、逃げる合図にしてたから…そうやって今まで何とか生きてこれたから」
そうやって生きてきた。気配を察したら逃げて、場所を変えて名前を変えて生きてきたのだ。
いくつも与えられてきた名前。捨てたくなかった名前も有る。ミュスが分けてくれたこのパーシャという名前だって、手放したくないほど愛おしい。でも。
「…名前が無いと言っていたね」
「…そだけど?」
そんな過去に気付くように、老女は今までに聞いたことのない真剣な表情を向けてくる。
名前など持たないと最初に説明した。それは、以前の名前を捨てた証だ。
「…もしかして、その土地土地で名前を変えて来たのかい?」
名前を捨てて、潜り込んだ先で人々に新しい名前を付けられてきた。
こちらの人生を見てきたわけでもないのに言い当ててしまった老女に思わず喉がヒクつくように黙り込んでしまい、返答の代わりに小さく頷いた。
そのまま思案に押し黙ってしまう老女の代わりにミュスが身動いで涙を見せてくる。
「…おにいちゃん、どこかいっちゃうの?」
詰まった鼻をスンとすすりながら、唇を震わせながら。
「…いっちゃ、やだぁ…」
押し黙るのはこちらも同じで、その肯定の意味を理解して大粒の涙を溢れさせて。
どうしようもないほど表情を歪ませて泣くミュスの涙と鼻水を服の袖で拭いても、後から後から溢れて止まらなかった。
「……パーシャ。名前を変えるよ。ミュスもね。パーシャの名前はもともとミュスのものだから、二人とも変えなければ意味をなさない」
そこに、強い声が割って入る。
老女の言葉の意味がわからなかった。
「何言って…」
「名前はまじないのひとつにもなるのさ。お前を隠してくれる手段のひとつにね」
「待てって!意味わかんないんだけど!」
ミュスを抱き上げてテーブルの上に座らせて、ハンカチで丁寧にミュスの涙を拭いていく。
「ばーちゃん!!」
ちゃんと説明をしてほしい。そう非難するように老女を睨みつけても、彼女はミュスを見ていたから気付いていない様子だった。
いや、気付いていないのではなく、それよりも優先するべきことがあるのだろう。
「…ミュス。パーシャを助けたい?」
子供を落ち着かせるための、わざとゆっくりと話すような口調で。
ミュスは不安そうにこちらを一度視界に入れてから、また涙をこぼした。ミュスも理解が追いつかないのだろうことが目に見えてわかるほどだ。こんな幼い子供にわかるはずがないのに。
だというのに、ミュスは懸命に理解しようとしていた。
「…おにいちゃん、いなくならない?」
ミュスのまだまだ小さな世界ではそれが精一杯の思考で。でもそう思ってくれることが胸を優しく疼かせるように苛んだ。
「ミュスがパーシャを助けてくれたら、パーシャはここにいられるよ…ミュスにしか助けられない。ミュスだけがパーシャの希望なの」
ミュスが少年を見つけて、パーシャの名前を分け与えてしまったから。
まだ重い責任など持つ必要のない、守られるべき存在であるはずの幼いミュスに、パーシャという命が委ねられるほど。
やがてコクンと強く頷いたミュスの瞳からは、もう涙は溢れなかった。まだ眉尻を不安そうに下げてはいるが、唇は意志強く閉じられている。
「…パーシャもこっちに来なさい」
呼び寄せられるままに側に行けば、ミュスの隣に座らされる、テーブルの上に座るなど普段ならしないことだから、妙に座り心地が悪いような違和感ばかりがあった。
そんなパーシャを、ミュスが隣から擦り寄るように抱きしめてくれるから、パーシャもミュスを守るように肩に手を回した。
今から何が起きるのかなどわからないが、この老女にすべて任せていれば何もかも安心できる気がして。
「…名前は自分自身を守ってくれる最後の盾。隠し名を持たない者は、自分の名前を一度捨てて新しく手に入れれば、害を成そうとする者から隠れることができる」
まるで迷信のような説明。でも、なぜだか信頼ができた。
「ほんの少しで構わないの…その新しい名前を受け入れたなら」
老女は先にミュスの頭を優しく撫で、その小さな手を取った。
「…ミュス。あなたはパーシャの為に、自分の名前だったミュスパーシャを綺麗さっぱり諦めた。あなたならパーシャを守るための新しい名前もすぐに受け入れられるわ」
まだ幼い孫の勇気を褒め称えるように、何度も何度も頭を撫でてやって。
「名前はほんの少し変わるだけで構わない。それだけでも、充分あなた達を守ってくれるから」
思案する表情を見せる老女は、二人を守ってくれる名前を探してくれているのだろう。
しばらく目を閉じていた老女が次に目を開いた時。
「…ミュズ。パージャ。あなた達は二人でひとつの名前。互いが互いを守り合う為でもある名前…今からそう名乗りなさい。あなたはミュズ。そしてあなたはパージャよ」
それはあまりにも代わり映えのない名前のように感じられた。
変わったのはほんの少しだけだ。不安しか残らないほどに。だというのに。
「…パージャ」
先にミュズが名前を呼んだ。自分だと分かった時には、この小さな女の子の名前もミュズと脳内で書き換えられていた。
「…ミュズ」
呟いた名前は呼ぶ為ではなかったが、そっと胸に顔を埋められて。
「あなた達だから自分の新しい名前を受け入れられた。パージャは今までの経験から。ミュズはパージャに名前を分け与えたから」
そうでなければ不可能だったと。
それはとても不思議な感覚だった。まるで、視界がクリアになるようなーー
それに気付いてミュズを老女に託し、結界に守られた小屋の扉を開けて外へと勢いよく踏み出した。
恐怖に体がすくんで動けなくなるほどのおぞましさがあったはずの外気が、初めてこの場所を訪れた時のように澄み渡っていた。
「…これが、名前を変えるということよ。あなたは今まで無意識のうちにこうやって自分を守ってきたの」
後ろから声をかけてくれる老女が、パージャとなった彼に安全を与えてくれる。
言葉にならなかった。
今まで適当に名前をもらって生きていたつもりだったのに、まさかそれが自分を守っていただなどと。
「…さあ、夕食にしましょう。パージャ、ミュズと一緒に椅子に座ってなさい。今日は全部私が用意してあげる」
まだ不安そうなミュズがパージャの足に身体をくっつけてきて、歩きにくさを感じながら小屋に戻って扉を閉めて。
普段通りに戻ろうとする老女の背中を眺めながら、パージャは、そしてミュズは、新しくなった自分の名前を胸に、そして互いに刻み合った。
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