第56話
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「ミモザ!!」
その呼び声が響いた場所は、エル・フェアリア政務棟の正面玄関だった。
呼び掛けられたミモザと彼女の騎士二人が声の方へと振り向けば、何やら大型犬の絡繰りを引きながらヴァルツが慌てながら駆け寄ってきて。
大国ラムタルの王弟であるヴァルツは現在エル・フェアリアでは賓客扱いであるために一応護衛が付けられていたのだが、毎回有り得ない素早さで撒かれてしまうので今や誰ひとり側に騎士はいない。
ヴァルツには自衛策があるのでもはや誰も気にはしないのだが、ミモザはたった一人でいるヴァルツには最初に眉根を寄せる表情を毎回向けてしまっていた。
言っても無駄なので表情はすぐに元の落ち着きある美貌を取り戻すが。
「ヴァルツ様、そちらは?」
呼び止めた理由でなく絡繰りの正体を訊ねるのも、それをミモザ達に見せる為に呼び止めたのだと理解しているからで。
「コウェルズからの頼まれものだ!今からコウェルズに会いに行くのだろう?ようやくラムタルから飛行船が届いたからな!私も共に向かおう!」
ヴァルツはミモザの向かう先に自分も用があると告げながら、大型犬の絡繰りに繋がれた紐を見ろとばかりにミモザに差し出す。
「…飛行、船?」
ミモザの目に映るのはただの犬の絡繰りだが。
材質は木と鉄のようだが、本物の犬のように滑らかな動きを実現させているのは上質な魔力だろう。
「ミモザも聞いておるだろう?明日ラムタルへ出発するコウェルズ達を乗せて進む船がこれだ!今は犬型だが充分な魔力を注ぎ込めば十人くらいは乗せて浮かぶ小型船になろう!」
兄上が貸してくれたのだ!と。
嬉しそうなヴァルツが示すのは、コウェルズがラムタルで開かれる剣武大会に出場する件だ。
ミモザは省かれた剣武大会出場者を決める話し合い。その過程でコウェルズがラムタルに向かう為の飛行船をヴァルツごしにバインド王へと頼んだのだろう。
ミモザが話し合いの席から省かれた理由は単純に、コウェルズの剣術試合出場の話を拒否すると見越されたからだ。
ファントムの件もあり、誰もが今年の剣武大会への出場は無いのだろうと思っていた矢先に、コウェルズはいとも簡単に関係者だけを集めてとっとと出場者と同行者と行程を決めてしまった。
「コウェルズも名前を偽って出場するのだろう?まだ剣術試合の出場者は未定となっているらしいが」
大会に出場するのは剣術と武術でそれぞれ一名ずつだが、武術試合に出場するルードヴィッヒだけが正式発表されただけなのだ。
「昨日の今日に加えて明日出発となると休む暇も無いだろうが、この小型船は兄上の力作だからな!二日間の乗り心地は抜群で…お、怒っておるのか?」
兄が相談もなく勝手に出場その他を決めてしまったことを思い出して表情は無意識のうちにしかめっ面になっていた様子で、異変に気付いたヴァルツが怒られることを怖がる幼子のように肩をすぼめた。
「…怒ってなんていませんわ」
溜め息混じりに否定してみるが、説得力は無いだろう。ヴァルツはミモザの顔色を窺いながら一歩だけ後ずさってしまった。
「…お兄様の元に向かいましょう」
年下の婚約者のまだまだ幼い部分に少しだけ呆れながら、ミモザはくるりと身体の向きを進むべき方向へ直す。
そうすればヴァルツはすぐに隣に並び、一行の歩みは再開した。
後ろを歩く騎士達はどうやら絡繰りの犬に興味があるらしく、背中ごしにも感じる柔らかな気配は犬を本物のように見ているのだろう。
たしかに滑らかな動きは本物そのものだとミモザも思ってしまうが、正体は小型とはいえ人を十人も乗せて飛ぶ飛行船だ。
素直に特殊な絡繰りを受け入れられない思いは強い。
わざとらしく犬を見ないそぶりを見せる姿をどう思ったのか、ヴァルツも気を使うように後ろの騎士に絡繰りの手綱を渡して。
年下に気を使わせるなんて。
そう軽い自己嫌悪に陥る頃には政務棟の上階を上りきっており、ミモザは通路の向こうに立つコウェルズの護衛達の姿に、気分を紛らわせるように小さな安堵の溜め息をついた。
兄が昨晩休まなかったことを知っているが、今は大丈夫なのだろうか。
近付けば副隊長であるアレックスとフレイムローズが頭を下げて、ミモザも微かな笑みを返した。
「お兄様は?」
「中に」
短い返答の後すぐにアレックスが扉を叩き、中にいるコウェルズに声をかける。
その間に不安げな視線を感じ、目を向ける先にいたのはフレイムローズで、エル・フェアリア唯一の魔眼を持つ彼はミモザに目を向けられるとすぐに顔を逸らしてしまった。
思うところがあるのはミモザだけではないということか。
王家に忠実なフレイムローズは、ミモザと同じ様にコウェルズを心配していることだろう。
「ミモザ様、ヴァルツ殿下、どうぞ中へ」
アレックスが道を開き、頭を下げて。
「先に入るぞ!」
絡繰りの手綱を改めて手にしたヴァルツは一番にと執務室に飛び込んでしまい、ミモザは騎士達に苦笑を見せてから同じく中に入った。
ミモザが入室すれば扉は静かに閉められて、少し肌寒い室内に窓が開けられているのだと気付く。
最近は冬の風の訪れと共に窓を締め切ることが増えたので、換気だろうかと思い顔をあげれば、
「--やあ、一緒にどう?」
コウェルズは窓枠に背中を預けながら資料を片手に、一口サイズに切られたパンをつまんでいるところだった。
「なんだ、それが昼の食事か?力にならんだろう」
「お腹にたまるなら今は充分だよ」
絡繰りと共に近付くヴァルツに食事を進めて、ヴァルツも当たり前のようにひとつ手にして。
「ミモザもどう?」
「私は遠慮いたしますわ」
「そう?」
同じように皿ごと向けられたが、ミモザは小さく手を振って拒んだ。
コウェルズがパンの乗る皿を再びテーブルに戻せばヴァルツがもう二つ三つと手を伸ばしている。
「…食べるか聞いたのはこっちだけど、少しは遠慮したらどうだい?」
「けちくさいことを言うな!私は成長期なのだぞ!!」
「成長期ならもっと栄養になるものを食べないと身長に繋がらないよ」
「うっ…」
気にしている点を突かれて、ヴァルツの手からパンが離れた。
「さあ、私も手を止めるから、先に話しておきたいことを話そうかな。ヴァルツ、君の用事はその絡繰りでいいんだね?」
「そうだ!頼まれていた飛行船だぞ!」
コウェルズに呼ばれたのはミモザだけだったが、用事があるからヴァルツも訪れたのだ。
先にそちらの用事を済ませたいのだろうコウェルズに合わせるように、ミモザは静かに身を引いた。
「大きめの絡繰りの犬にしか見えないんだけど、本当にこれが飛行船なのかい?」
「十人は軽く乗せることが可能な船だ!コウェルズの魔力があればこの大きさなら簡単に飛行船になろう。やってみるがいい」
絡繰りの手綱をコウェルズに渡して、ヴァルツが開け放たれた窓に近付く。
魔力と聞いてコウェルズがちらりとミモザを気にしたのは、コウェルズが魔力を使うということはそのまま魔力増幅装置を使用することに繋がるからだろう。
コウェルズの膨大な魔力をさらに強力なものにする指輪。だが使い方を誤れば。
「…自信がおありなのでしょう?どうぞご勝手に」
恐ろしい宝具だが、使わせないわけにもいかない。棘を含んだ言葉のままツンとそっぽを向くミモザに、コウェルズは申し訳なさそうな、やれやれと呆れるような苦笑いを浮かべた。
「まだまだ棘は鋭いね」
さらりとそんなことを口にするからミモザも意固地になってしまう面があるというのに。
「まあでもせっかく了承を得たんだし、軽く操作してみるよ」
ミモザの言葉を了承などと宣って、コウェルズはヴァルツと同じように窓側に体を向けて絡繰りの犬に繋がる手綱を強く握り締める。
魔力を込めているのだとはすぐに気付けた。
目には見えない力の流れを肌で感じる。
まるで空気中に存在する霊的な存在がコウェルズに味方するかのように。
コウェルズが魔力を手綱に送り込んで少し経ってから、絡繰りの犬が自ら窓辺に体を寄せ、窓枠に飛び乗った。
邪魔にならないようにと窓からわずかに離れるコウェルズとヴァルツだが、二人とも犬だけに集中して。
「広がるぞ、風の流れに気を付けるのだ」
ヴァルツが注意した後すぐに、犬は窓の向こうへと飛び出し
「---…」
空中で機械の骨組みを広げるように、姿形を変化させていった。
「…すごい」
思わず呟いてしまったミモザは慌てて口を塞ぐが、コウェルズやヴァルツには届かなかった様子だ。
二人も空に浮かぶ船に気を持っていかれていたのだろう。
窓の向こうに広がるのは、小型というには大きすぎる楕円形に浮かぶ船だった。
ファントム襲撃の際に見た巨大な飛行船には遠く及ばないが、十人は軽く乗せることが可能というだけあって飛行船は質量が凄まじい。
圧迫されるような感覚は、近すぎる距離だからというだけではないはずだ。
細やかな装飾もそうだが、本来なら水の上にあるはずの物質が浮いているという現実が呼吸を忘れさせようとする。
サリアも島国イリュエノッドからは空の道を使用したが、ラムタルのように凄まじい技術ではなく本当に原始的な魔力での浮遊だったのだから。
「兄上設計の小型船だ!速さも申し分ないぞ!」
「…絡繰り、か…本当にすごいね」
魔力を込めるだけで広がり動く。
ヴァルツは兄の力作を素直に自慢するだけだが、ラムタルという国が大国に伸し上がった最大の理由である技術を目の前にして、コウェルズは警戒するようにわずかに声を震わせた。
エル・フェアリアは虹と鉄の国だ。鉄に特化し、大量の鉄を今も産出し続けてそれらを強力な武具に加工するが、絡繰りという技術を前にすればあまりにもひねりのないものだろう。
もちろん鉄の産出だけがエル・フェアリアの力というわけではないが。
「ラムタルの絡繰り技術とエル・フェアリアの兵力が合わされば当面敵無しだろうね」
「それは兄上も言っておったぞ。個々の戦力こそエル・フェアリア最大の力だとな!」
個々の戦力こそ。
コウェルズの言いたいところを無意識に理解したのだろうヴァルツに、少し様子を窺うような眼差しが向けられたことをミモザは見逃さなかった。
しかしコウェルズの疑心の視線に気付かないヴァルツはどこまでも無邪気で、その様子に他でもないコウェルズ自らやれやれと苦笑を交ぜながら瞳に優しさを戻す。
ヴァルツは政務には向いていない。
それは素直すぎる性格故なのだから。
「個々の戦力、その頂点に当たるのが魔力を持つ貴族なのだろう?」
「大昔から戦争や内乱の前線で戦い続けてきたのが貴族だからね。だから魔力を持つのも貴族なのさ」
「ふぅむ…戦闘を続けるうちに身体が力を欲したのだろうな。だからエル・フェアリアの貴族達の魔力は他国に比べても質が良いのか」
産出する鉄と同等にエル・フェアリアの力の要となるのは人そのものだ。
「そ。だけど今の貴族は平和に慣れちゃって力を発揮できていないからね。ルードヴィッヒを筆頭に、少し手を加えさせてもらうよ…で、これ直すにはどうしたらいいんだい?」
「魔力を送り込んだ本人の意思で可能だ。あ、それと、からくりに送り込んだ魔力が空になったら強制的に陸に降りて犬型に戻ってしまうから空の旅の途中でも定期的な魔力の補充はするのだぞ」
「へえ…本人の意思?」
ヴァルツからの簡単な説明に微かに頭を捻りながら、コウェルズは飛行船に繋がる手綱を軽く自分の方へと引いてみせる。
すると飛行船は広がった時と同じような動きで小さくなり、
「うわ!?」
大型犬に戻ると同時に本物の犬のように絡繰りは尻尾を振り回しながらコウェルズに飛びかかった。
突然襲われるような形になりコウェルズは犬共々床へと背中からダイブして。
「--何が!!」
バタンと倒れ込む音に敏感に反応した騎士達が扉を開けて室内を確認し、倒れているコウェルズを目の当たりにして目を点に変えた。
ミモザも最初はコウェルズが犬に襲われたように見えた。
だが今、絡繰りは主人に甘える犬のようにのしかかって鉄と木の舌でコウェルズの顔をべろべろと舐め回している。
「コウェルズの魔力が残る限り、この飛行船は犬型の時はコウェルズの護衛兼愛玩物になろうぞ!」
「…そういうことは最初に言ってほしいかな」
ヴァルツからの追加説明に、コウェルズは犬に顔を舐められるままに溜め息をついた。
どうやら大丈夫である様子に騎士達が笑いをこらえながら室内から去っていく。
「…お兄様、大丈夫ですか?」
ミモザが近付いて起き上がるコウェルズの手伝いになった時、兄は珍しく不貞腐れるようにツンと口を閉じてしまった。
こんな形で格好悪い姿をミモザや周りに見せるはめになって拗ねたのだろう。
「…ふふ」
珍しい兄の膨れっ面に、ミモザは自然と笑ってしまった。そしてその笑顔に反応するように犬がまだコウェルズの頬をベロンと舐める。
「…ミモザの笑顔が見られなかったら、こんな犬、処分している所だよ」
「何だ、気に入らんのか?」
不貞腐れるコウェルズから犬を離しながら、ヴァルツが「こんなに可愛いのに」と首を傾げる。
ラムタルから飛行船を借りられるように、コウェルズはヴァルツと共にバインド王に願い出たはずで、それなら。
「…もしかして他にも飛行船があったところをわざわざこの犬に指定したとか?」
「当たりだ!!兄上の所有物だが私のお気に入りなのだ!!」
どこまでも無邪気なヴァルツに、コウェルズは完全に脱力して再び床に背中を預けた。
「お兄様!こんな所に横にならずに早く起きてくださいませ!」
「うぅむ…気に入らんなら明日の出発まではミモザの魔力も足せばよい。コウェルズの魔力が満ちた状態だが、コウェルズを通してミモザの魔力を送り込めば犬はミモザにもなつくからな」
魔力に反応してなつく絡繰り犬。
コウェルズが犬嫌いというわけではないが、恥ずかしい目に合ってあまり素直に犬を受け入れることも難しい状況ならば。
「…お兄様がよろしいなら…一日お預かりしたいですが」
本当はずっと気にしていた。
大会に出場する為の絡繰りだったから心は頑なになって犬を見ないようにしていたが、本当はひと目見たときから触りたいと思ってしまっていたのだ。そこに加えてこんな可愛い仕草を見せられたら。
自分の思いを素直に告げれば、コウェルズだけでなくヴァルツも少し呆けるようにミモザを眺めてきた。
「…犬が欲しいならこんなのじゃなくても他に可愛い赤ちゃん犬を用意するよ?」
「お兄様ったら」
コウェルズはミモザの素直な思いに嫉妬するかのようにさらに犬を邪険に扱い、今度はヴァルツがその言い草に頬を膨らませて犬の身体に両手を回し、コウェルズから離した。
「兄上の力作だから貸してやったのだぞ!こんなの扱いするならミモザに貸す!ミモザ!コウェルズに魔力を送り込むのだ!」
ヴァルツはミモザの手を取りコウェルズに合わせて。
コウェルズは今も手綱を掴んでいるので、ミモザが魔力を送り込めばそれで絡繰りに魔力が伝わるのだろう。
言われた通りミモザは兄に向けて魔力を流したが、
「…こらコウェルズ。ミモザの魔力を止めるな。犬に回せ」
コウェルズの不正に気付いたヴァルツが注意して、ようやくミモザの魔力は犬に届いた。
魔力量だけなら本当に少しだけだった。それだけでコウェルズだけに顔を向けていた絡繰りの犬はミモザに目を向け、そして先ほどコウェルズに行った熱烈な行為ではなく紳士的な様子でミモザの唇に鼻先を合わせて離れた。
それはまるで優しい口付けのようで。
絡繰りとはいえ突然の行為にミモザは思わず頬を赤らめ、
「…この絡繰り潰していいかな?」
「だ、駄目だぞ!…駄目だが…口付けも駄目なのだぁ!!」
コウェルズとヴァルツもそれぞれの反応を見せた。
その間にも犬はミモザの隣に落ち着き、静かに様子を窺っている。先ほどとは性格が全く違っていた。
「お、お兄様もいつまでも床にいないで、そろそろ立ってくださいませ」
顔が熱くて赤面していることに自分自身気付きながら、ミモザはコウェルズの腕を引っ張る。
そうすればコウェルズもようやく床から離れてくれて、起きると同時に胸ポケットに入れていたハンカチを取り出し、ミモザを引き寄せて唇を拭いてくれた。
「お兄様ったら…この子は絡繰りですのよ?」
「わかってても嫌なものは嫌なんだよ」
兄の嫉妬が可愛くてミモザもされるがままになるが、その隣ではヴァルツが先ほどのコウェルズ以上に頬を膨らませていた。
それが牽制のようにミモザの唇を拭われたことに対してか、それとも絡繰り犬を邪険にされたことに怒っているのかまではわからないが、前者なら嬉しいのにと思ってしまったことをミモザは胸の中に優しく秘めた。
「じゃあ飛行船のことは後でバインド王に謝辞を送るとして、そろそろミモザを呼んだ理由を話そうかな。ヴァルツもいてくれてちょうど良いかも」
ミモザを離して、ハンカチを直して。
コウェルズは机の上に置いていた資料を取りに向かい、数枚重なる紙をミモザに手渡した。
何だろう、とミモザが資料を読めば、隣にヴァルツが訪れて内容を覗き込んでくる。
資料といってもまだまとめられていない代物で、箇条書きにされている文面は。
「…ナイナーダが生きている?」
騎士団長クルーガー、そして魔術師団長リナトの証言を書き出した中に記される、生き続けるナイナーダの話。
「ですが彼は…」
「ファントム襲撃の際にパージャの仲間の青にやられたはず。なんだけどね…昨日の出撃で私もナイナーダをこの目にしたよ。正気を無くしたパージャにやられて今はどうかわからないけど、大戦時代から生きてるなら、今も王城のどこかで身体を休めているかもね」
大戦時代から。その言葉を聞くと同時に、ミモザも資料中に記された文のひとつに目を止めて深く眉間にしわを寄せる。
「ロスト・ロードに仕えていた王族付きだと?」
わざわざ朗読して聞かせてくれるのはヴァルツで、ミモザは資料を一枚めくり次を読み進めた。
「…クルーガーとリナトに術をかけて…記憶を操作?…ですがクルーガーはまだしもリナトに術など」
資料の二枚目に書き出されていたのは、クルーガーとリナトがナイナーダと共に生きた若い頃の記憶を頭から消されていた事実で、魔術師団長であるリナトにも術式を成功させていたことにミモザは驚いた。
「術をかけられる際に軽い戦闘にはなったみたいだけどね。魔術兵団全員対クルーガーとリナトの二人だけなら、多勢に無勢だったろう」
記憶の操作術は完全ではない。
術をかけられてしまえば自分から思い出すことは不可能だが、他者から注意深く訊ねられれば術は簡単に解けてしまうのだ。それでも。
「恐らく魔術兵団は他の者にも術をかけているだろう…ミモザ、君には私がいない間、政務の他にもやってほしいことがあるんだ」
団長クラスの人間にも術をかけられるほどの。
そんな相手を敵に回しながらでもミモザにさせたいことを、ミモザは静かに悟ることが出来た。
「…城内の術をかけられた者を探し出して解除して回り、話を聞けばよろしいのですね?」
「--待て!」
予想するには簡単すぎるコウェルズの意思。だがヴァルツが慌ててミモザとコウェルズの間に入って。
「もしそんなことをしてミモザが狙われたらどうするのだ!?王族だからと手を抜く者達ではないのだろう!!」
王族ではなく王にのみ仕える魔術兵団。しかし現在エル・フェアリアに王はおらず、魔術兵団の動きは予測不可能で。
「ミモザにそんな危険な任を命じるなど私は反対だぞ!」
ミモザの腕をつかんで守るように引き寄せて、ヴァルツが強くコウェルズを睨み付ける。
ミモザは突然のヴァルツの行動にただ戸惑うことしか出来なかったがすぐに止めに入ろうとして、
「これはエル・フェアリアの問題だ。部外者は黙っていてほしいね」
「なっ…」
「…と言いたいところだけど」
コウェルズが意味深にヴァルツを止めた。
言葉はまるで鉛のように重たげで、コウェルズは今までにないほど緊張した様子でヴァルツを見据える。
「君にも頼みたいことがあるんだよ、ヴァルツ」
緊張の中に不安を交ぜて。
「な、なんだ…」
「簡単に思えて難しいかもしれないお願いかな」
ゆっくりと微笑み、コウェルズは視線をヴァルツからミモザに合わせた。
「私がいない間、ミモザを守り抜いてほしい。君がミモザの婚約者だという理由からじゃない。君の持つ29体の絡繰りが理由だ」
コウェルズがラムタルに向かっている間。
「…どういう意味だ?」
「リナトも術をかけられたんだ。エル・フェアリアの騎士や魔術師じゃ守りきれない可能性が高い。だけどラムタルの絡繰りなら、術者が生きている限り自動で動いてくれる。考えなど持たず、ミモザを守り抜けと命じればそれだけを実行する。そうだろ?」
必要なのはヴァルツではなく、ヴァルツがラムタルを出る際に持ち出した国宝級の絡繰りだと。
「君が操作する絡繰りとは別に、いくつかミモザに貸し出してくれないか?そうすれば君に万一のことがあってもミモザの力で絡繰りは動くだろうし、可能なら私の魔力を込めた絡繰りも作らせてくれ。ラムタルにいる間も魔力で動き続けるなら、それが最後の砦になってくれるだろう。バインド王には私がラムタルで事後承諾を掴んでくるから」
たたみかけるように絡繰りの使用を願われて、ヴァルツが表情だけで狼狽えて困惑の色を全面に押し出した。
「ミモザを完全に守る為には今回はエル・フェアリアの騎士や魔術師はほとんど当てにならないだろうからね。もちろんフレイムローズは例外だけど、隙間無くミモザを守りたいんだ」
まるでミモザが魔術兵団に狙われることは確実であるかのように。
だがそれほどの任であることは容易に想像がついて。
怖くはある。だがその先がリーンと繋がるなら。
「…お受けしますわ」
「ミモザ!!」
先に承諾をしたのはミモザだった。どういう形で狙われるかはわからない。命を奪われることはないだろうが、記憶の書き換えくらいなら魔術兵団は容易に行おうとするだろう。
それでもコウェルズがいない間に、彼らの情報を掴むのだ。
彼らはリーンを、大切な妹を生きたまま土中に埋めたのだから。
「ヴァルツ様も…どうか私をお守りくださいませ」
自分の出来ることを危険と共に受け入れると同時に、ミモザはヴァルツを真剣に見つめ、深く強く頭を下げた。
第56話 終