第67話
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まるで知らない国を歩くように辺りを見回しながら移動して、初めての外での食事は簡単な屋台で売られていた一人サイズの具材豊富なバケットだった。
ニコルは肉のはさまった豪快なバケットを選び、アリアは野菜が中心の小ぶりなものを。小鳥には店主から売り物にならなくなったバケットのまだ食べられる部位をただでもらえた。
購入する際に店の主人に給金が詰まった財布を見られて、それでは危険だと銀行の場所を教えられたが、あまり銀行のシステムを知らないので行くのはガウェの個人邸宅に到着してからでいいだろうと二人で決めた。
途中の露店では飲み物を買って、店のそばで遊んでいた子供達に勧められるままに選んだ味はアリアには果物の甘く美味しいものだったのに、ニコルに選ばれたものはあえて苦すぎる薬草だけで作られた代物でひと口目から吐き出してしまった。
一気に飲めと命じてきた子供達はお腹を抱えて笑っていたので、中身が何かわかっていたのだろう。
いくら薬草に長けたニコルでも混ぜ合わされすぎたその液体の内容まではわからなかったので店主に尋ねれば、あらゆる薬草を混ぜ合わせすぎていっそ清々しいまでに効果が何もかも吹き飛んでいるという不味いだけの最悪の代物だった。ただ便秘の者には人気らしい。
口の中をアリアの飲み物で癒してから、子供達のリーダー格の一人をお金で釣ってニコルの残りを一気飲みをさせて。
また進む先にあったのは、アクセサリーなどの露店が並ぶ通りだった。
色とりどりの綺麗な石のアクセサリーや木目の美しい民族具に二人で目を奪われるが、買うのはまた後日にしようととりあえずはガウェの個人邸宅を目指す。
数日お世話になるのだからと二人で選んだのは途中の露店で味見分をもらって美味しかった花形のクッキーだが、買った後になってガウェの邸宅で働く者達の口に合うのか心配になってきた。上位貴族の屋敷では使用人も貴族である場合が多いと聞いたからだ。
王城を出て進む道を選んでいたなら高価な代物の多い場所にたどり着いていただろうが、ニコルとアリアは無意識に堅苦しい場所でなく落ち着ける空間を選んで歩いていたのだ。
この数日間に何がしたいかを話して、何を買いたいかを話して、でも暗黙の了解であるかのように城に戻ることは話さなかった。
今は忘れる時間が必要なのだ。
周りが気を使ってくれるほどに。
そしてニコル自身が驚くほどに、王城の中で味わい続けた酷い頭痛や気持ち悪さが今は消え去っていた。
たかが城から出たというだけで、ここまで自分の身体がクリアに感じられるなど。
吸い込む空気は重くなくて、肩や腕が軽い。
なんてわかりやすい身体だと自分自身を笑いながら、無意識のうちに何度も深呼吸をしていた。そんな自分自身を笑いながら、しかし嘲笑うことはしなかった。
ひとしきり歩き回って、ようやくガウェの邸宅に足を向けて行く。
その途中でまた面白そうな店を発見して、進んで、また見つけてと。
何度も何度も寄り道を繰り返しながらようやくたどり着いた邸宅の集合区画では、色とりどり形違いの面白い邸宅群にアリアがポカンと口を開けていた。
ニコルも以前来た時は驚いたものだ。
いくつもある邸宅を眺めながら、その最奥を目指していく。ガウェだけでなく上位貴族の土地は一番立地条件の良い場所にあらかじめ確保されているらしく、聞いたことだけあるフレイムローズの珍邸宅もゆっくり眺めることができた。
王城に勤める貴族達の個人邸宅とはいえ平民達の姿が多いのは、貴族達が競うように風変わりな建物を建てることがここ数年のブームになっており、その為一種の王都観光名物になっているのだ。
そのブームの火付け役になったのがフレイムローズの珍邸宅だとまでは知らないが。
観光客に紛れながら奥へ進んで、ようやく到着するガウェの個人邸宅の前で。
門の前に静かに立つ背筋の伸びた老人二人に気付き、ニコルの足も止まった。
ニコルの気配に気づいたかのように二人はこちらに目を向け、そして穏やかな笑顔で会釈をくれる。
「兄さん?」
二人に気付いてはいないアリアは急に足を止めたニコルに首をかしげるが、視線の先を追って二人に気付き、悟ってから慌てて頭を下げた。
「…行こう」
ニコルも頭を下げて、二人に近づいて行く。区画内最大のガウェ・ヴェルドゥーラ邸宅へ。
王都内では闇市付近でも見かけないだろうほどのボロ布を身に纏う二人の若者が最上位貴族の門をくぐった瞬間を、観光に訪れていた身なりの良い平民達は驚きで口を開けたまま見守ることしかできないでいた。
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「…あれ?いつからいたの?」
素っ頓狂なアクセルの声は、十数分静かに佇んでいたモーティシアの耳にはあまりにも間抜けに響いてきた。
「あなたが集中されている間は呼んでも無駄ですからね…まあ二、三分ですよ」
任務に従事するアクセルの心を乱さない為の嘘は、そうなんだ、と嘘だとばれないまま素直に受け止められた。
「一人?アリアの護衛時間じゃなかったっけ?」
「その件を話しにきたのです」
「え?」
アリアとニコルが城を出たことを知らないのは、後はアクセルだけなのだ。
レイトルと行動を共にしながら魔術師団長と騎士団長に話をつけ、その後も二人の王城不在を仲間達に伝える為に動き回った。
トリッシュにも、セクトルにも、ミシェルにもだ。
そしてミシェルには、元のミモザ姫付きに戻るよう頭を下げた。
元々ニコルの穴埋めの為だけにアリアの護衛に入ってもらっていただけなのだから感謝することは当然で、ミシェルが不満を口にすることもなかった。
白々しいほどに淡々としたあっけない終わり。第一姫であるミモザの元に戻れるならば、騎士のミシェルとしては万々歳だろう。ミシェル・ガードナーロッド個人としてはどうなのかはわからないが。
「もしかしてアリアに何かあった?」
机に置かれている奇妙な短剣から離れ、焦りを見せながらモーティシアに詰め寄るアクセルの肩に安心しなさいと手を置きながら、ニコルとアリアの不在を静かに告げていく。
モーティシアの説明に最初は構えていたアクセルも次第に体から力を緩めていく。しかし反比例するように表情は暗くなっていった。
「--特にニコルが心配でしたからね。いっそ二人で休んでくればいいと城外での休暇を与えました。一、二日の予定でしたが、騎士団長殿もニコルを案じていた様子で、騎士団長直々に改めて命令で数日の休暇ですよ」
「…なんか大変なことになってるんだな」
ニコルとエルザ姫の縺れた関係のことは口にせず、ニコルの身だけを案じるようにした内容。それ以外はアクセルには不要だろうとあえて伝えはしなかった。
「前の戦闘でニコルもアリアも大変だったもんな。モーティシアが外出を許可するなんて思わなかったけど、ゆっくりする時間はたしかに必要だったよ」
心配するのが当たり前なのだと暗に口にするようなアクセルに、自分の気持ちの変化を告げるべきなのか揺らいでしまう。
どうやらレイトルに指摘された無意識の自分の自覚は、なかなかモーティシアの国益主義を崩そうとしているかのようだ。
国益。それだけが全てのはずだった。
国の為になら個の犠牲は仕方のないことだと割り切れる精神力こそが自分のはずなのに。だというのに、今のモーティシアはニコルとアリアを案じている。
案じるものははたしてそれだけだろうか?
今だけ、このわずかな期間だけニコルとアリアに限られた自由を押し付けるだけで。
「…アクセル。アリアを妻に迎える気はありませんか?」
苦渋の決断をするかのように、モーティシアの声は掠れて震えていた。
言葉の後の静けさはアクセルが固まっただけが原因ではないのだろう。
モーティシア自身も普段のように畳み掛ける言葉が出てこないから。
「……何言ってるの?」
あまりにも強張った言葉が十数秒後にようやく返ってきて、逃げ場所を探すように身体ごとアクセルから目を逸らした。
「言葉通りの意味です…片思いの相手にはふられているのでしょう?」
「何で知ってるんだよ!?」
次の返答はモーティシアの言葉に被された。
アクセルに片思いの相手がいたことくらい確認済みで、その相手に玉砕したこともすぐに情報として入っている。
アクセルはアリアの夫候補の一人として護衛部隊に選ばれたのだから。
「あなたがアリアを望んでくれるなら、ミシェル殿より魔力の強いあなたを国は後押しする」
そしてアクセルには悪いが、今の状況をモーティシアは手放したくはなかった。
「ミシェル殿では…アリアは幸せにはなれません」
国のためなどでなく、アリアのために。
今までのモーティシアからは想像もつかないだろう言葉遣いに、アクセルは自分の失恋を暴露されたことも忘れてモーティシアを穴のあくほどに見つめた。
「何でそんな…俺は…」
「もうあなたが最後の砦なのです…アリアの未来を案じるならアリアを選んでください!」
「モーティシア!!」
一喝で人の心が変わるはずがないとわかっていながら声を荒らげて、アクセルの困惑の表情に不快感が多く足されたのを目にした。
「…何があったの?俺がアリアの護衛から抜けてまだ少ししか経ってないはずだろ?」
あまりにも突然すぎる展開に困惑を示して、あまりにも勝手なモーティシアの言葉に不快感をぶつけて。
「…ミシェル殿では駄目なのです」
国益を選ぶなら、アリアが不幸になろうともミシェルで充分だった。だがモーティシアが今までミシェルに対して持っていた感情が不信感だけでないと気付いてしまったのだ。
だからといって今まで生きてきた中で大切にしてきた国益への思いも簡単に断ち切ることは出来ない。
国が潤うこととアリアが幸せになること。どちらも選ぶなら、もうアクセル以外に考えられなかった。
「……モーティシアはさ」
自分を呼ぶアクセルの声は今まで聞いたこともないほどに芯が通っていた。
今まで周りに見せていた頼りない姿からは想像もつかないほどにたくましい。その声が、モーティシアに質問を投げかける。
「…どうして自分はいかないの?」
どうしてモーティシアは。
ニコルとレイトル以外全員が夫候補なのだ。ニコルはアリアの兄だから。レイトルはニコルが望んだから護衛に選ばれただけ。
だから、モーティシアもアリアの夫として、国からふさわしいと望まれているというのに。
返答の言葉は出なかった。
その代わりとなるように、アクセルが口を開いてくれる。
「…俺だって好きな子に断られて、ちょっとは考えたよ。アリアとのこと…アリアと結婚したら楽しいんだろうなってことも考えた…でも違うだろ?」
国益は何よりも大切なものだ。
だが国益を選ぶには、アクセルもモーティシアもあまりにもアリアに近すぎた。
「アリアとレイトルが好き合ってることくらい、ずっと見てたんだからわかってるだろ?アリアが幸せになれる相手はもうレイトルしかいないって!」
ずっと側にいたのだ。だからこそアリアの見つめる視線の先にレイトルが増えたことも、レイトルと話すたびに嬉しそうに頬を染める姿にも気付いていた。
「モーティシアはさ、自分じゃアリアを幸せにできないから俺に押し付けただけだよ」
護衛という立場と、アリアの気安い性格。あまりにも近すぎたのだ。恋愛でなく家族愛とも言えるほどに。アリアの幸せを願うほどに。
「…それでも、レイトルでは駄目なのです」
護衛部隊長としてではなく、アリアの夫探しを一任されたモーティシアだからこそ気付けた上層部の動きが、レイトルでは駄目だと告げる。
「もしアリアがレイトルを選んでしまったら…国は二人を引き離すでしょう。レイトルの生まれであるミシュタト家そのものをレイトルごと辞令で僻地に飛ばすことなどあまりにも簡単なのですよ」
それは相愛関係にある恋人を永遠に引き裂くあまりにも悲しい未来だ。
「…アリアの幸せを思うなら、今の段階でレイトルを諦めてもらう以外にはありません」
今ならまだ少しの心の痛みで済むはずだからと。
「……そうだとして、なんでその重荷を俺に背負わせるの?自分は逃げて」
アクセルがモーティシアを責めるのは当然だ。
自分ではない他のものに押し付けて逃げているのは事実だから。
もしそうなればモーティシアは罪悪感を感じるだけでいいのだから、あまりにも楽な道だ。
あまりにも楽で、あまりにもつらい。
視線を落として、自分自身を守るように腕を組んで。
今のモーティシアに考えられるアリアの幸せはそれ以外にはないのだ。
ミシェルの底知れない悪意からアリアを守るには、モーティシアかアクセルが手を挙げる以外に道がない。
だがモーティシアには、その勇気がない。
レイトルを思うアリアにレイトルを諦めさせる勇気など。
一体どうすればいい?
アリアの幸せを考えるには、モーティシアの自我の目覚めは遅すぎた。その悔しさを殺すように、
「…ひとつだけ、方法があるかもしれない」
モーティシアを見つめるアクセルの声に、とても素晴らしい考えが思いついた者特有のはつらつさが芽吹いていた。
まるで今までのモーティシアの負を消し去るような眼差しで。
「国がレイトルを排除しようとするなら、国がなかなか手出しできない相手に後ろ盾になってもらったらいいんだよ!先手を打っておくんだ!!」
「…何を言って…」
否定しようとして、モーティシアの瞳にも望みが芽吹く。
レイトルを国から守れる唯一の存在がこんなにも近くに存在していたことを忘れるだなんて、と。
「黄都領主ガウェ・ヴェルドゥーラ!!ガウェ殿ならきっとレイトルを守ってくれるはずだよ!!」
あまりにも嬉しそうに身体ごと言葉を弾ませるアクセルの提案に、その力強さに、モーティシアの破顔はとても喜びにあふれたものとなった。
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