第66話
第66話
ラムタル王城から眺める夜空は、エル・フェアリアとは星の位置が違って見えた。
夜にだけキラキラと輝く小さな光達。
手に届かないほど高い場所で瞬く「星」と呼ばれるあの光が何であるのかは未だに解明されていない。
コウェルズは不思議な星を見上げながら、じきに訪れるはずの伝達鳥を待っていた。
エル・フェアリアとは連絡を取り合うことにもちろんなっている。だが最新の注意を払う為に声を通す伝達鳥ではなく手紙のやり取りと決めていた。
言葉なら誰かに聞かれてしまうかもしれないが、特殊な魔力で書かれた手紙ならコウェルズ以外には見ることが出来ないからだ。
窓の外からは遠くから聞こえてくる宴会の音が微かに響いてくる。
大会出場者やその関係者たちが異国同士陽気に酒を飲み交わしているのだろう。危険も多い大会だが、それだけが全てではないのだ。大会に訪れる者は出場者と関係者だけでなく将来有望な戦士の卵も多く、強くなることに妥協を許さない者達にとって経験者達の言葉は何より貴重な宝なのだから。
ラムタルに到着してから初めての夜。入浴から戻ったジュエル達と合流して夕食を食べて、是非とも話をしたいという者達に後日と約束をしてから部屋に戻りくつろいで。
ジャックとダニエルの顔を立てて大人しくしているが、今すぐに部屋を抜けて調べ回りたい気持ちは膨れ上がるばかりだった。
心残りが多いから。
ナイナーダに襲われたミモザのこと、ヨーシュカが告げたサリアのこと。
それ以外にも勿論あるが、脳裏によぎる不安の多くはその二つが占めていた。
コウェルズはファントムの居場所がラムタルにあると確信する為に、リーンを取り戻す為に、そしてエル・フェアリア王の件を口にする為にここに訪れた。それがはたして最善であったのか、動きもせず何もしなければ今さら揺らぐ自分がいるのだ。
失敗などしてこなかった人生。それがファントムに関わってから苦渋を舐め続けるばかりとなった。
だからなのか、これが本当に正しかったのかがわからないでいる。
考えても後戻りなどできないというのに。
今までの自分ならばそんなこと申し訳程度にも考えなかった。絶対的な自信に満ち満ちて、成功する結果しか見えていなかったし実際に成功し続けていたのだから。
「上には上がいる…」
いつだったか誰かが言っていた気がする。
コウェルズにとってその相手はファントムだったのだ。
本来ならばエル・フェアリア王となるはずだった人。
大戦時代に生まれ、数え切れないほどの成功を手に入れてきた、偉大な。
そんな男でも、失敗はあったのだろうか?
「…何だ?」
ファントムの失敗を頭の中だけで探そうとした矢先に、夜空に不穏な動きを見つけて眉をひそめた。
ラムタルの夜空だというのに、既視感を感じる動きがあったのだ。
天空塔を見上げた時のような不自然な空の動き。だがラムタルに天空塔と似た物体があるなどと聞いたことはない。
しかし見間違いと肩をすくめるには強く胸につっかえて外れなかった。
恐らくは気のせいではない。そう強く言い聞かせて注意深く夜空を探るが、気のせいだとあざ笑うかのように美しい星々が瞬くだけだった。
--仕方ない
何がファントムやリーンに繋がるかはわからないのだ。それとなく探りを入れようと窓から離れようとしたところで、空の一部に待ち望んだ伝達鳥を見つけて改めて向き直った。
夜空の下でわかりにくいが、四羽の鳥達が迷わずコウェルズに向かってくる。
伝達鳥はそのうちの一羽だけで、あとの三羽は伝達鳥を守るように見事な陣形のまま飛んでいた。
いずれも特殊な訓練を積んだ優秀な鳥達で、コウェルズがどこにいようとも迷うことなく訪れてくれるのだ。
大会中は他国の者達もよく伝達鳥を飛ばして連絡のやり取りをするので、コウェルズの鳥達が訪れること自体には何ら目立つ要素はなかった。
窓から離れて鳥達を待ち、数秒のちに無事に夜空から机の隅に降り立つ四羽を見届けてから窓を閉める。
中型の伝達鳥と、それより少し大きい護衛鳥達。
四羽は特別にあつらえた装備に身を包んでおり、コウェルズは最初に伝達鳥から装備を外し、護衛の三羽の装備もそれぞれ外してやった。
「この魔力は…フレイムローズのものだね」
鉄でできた装備は長距離を飛ぶ鳥達には重く見えるが、魔力を染み込ませている為に飛んでいる間は一切負荷がかからない仕組みになっている。
普段は魔術師達の魔力を染み込ませているはずだが、フレイムローズが頼み込んだのだろう。
馴染んだ特殊な魔力に微笑みながら伝達鳥が運んでくれた手紙を受け取れば、広げた高級な紙には何も書かれてはいなかった。
コウェルズだけが見ることを許された内容なのだから当然だ。その手紙を広げたまま静かに目を閉じて、少し難しい術式を成功させる為に深呼吸をする。
次に目を開けた時、コウェルズの両目は金の輝きの中に一切交わることを許さないかのような赤を宿していた。
それは虹の一色を持つミモザの赤に近い色で、その赤がコウェルズの目にだけ見える文字を紙から脳内へと取り込んでくれる。
特殊な術式により手紙に文字が浮かんで見えているわけではない。その目で見ても手紙には何も書かれていないのだ。だというのに刻まれた文章はするするとコウェルズにエル・フェアリアの現状を伝えてくれた。
その多くは政務に関わることであり、コウェルズがいなくてもミモザの力だけで不都合なく進んでいると書かれている。
城内でコウェルズの不在を怪しむ声は無く、王都で大きな事故が起きてもいない。フレイムローズの故郷である赤都では領主夫人が数ヶ月ぶりの発作を起こしたが、他の都市でも困ったことは起きていないようで安心した。
未だに争いの収まらない国境付近では、ファントムの件でエル・フェアリアが弱体化したとでも思ったのか以前よりも戦闘が過激になっており頭が少し痛いが、青都と藍都からそれぞれの精鋭領兵団を一部隊ずつ送り出すことが決まったと書かれているので、これで相手が引いてくれることを願いたいものだ。
それでも戦火が鎮まらないならば最終的には騎士団と魔術師団を出すことになるだろう。
--…ニコルとアリアの故郷付近の戦闘が一番激しくなっているな
二人が育ったカリューシャ地方は元々小さな王国のあった場所だ。大戦中にその小国は無謀にもエル・フェアリアに戦いを挑み、優秀なロスト・ロードが指揮を取る必要も無いほどあっけなく敗北して消滅した。
だが生き残っていた亡国の者達が、今もまだ国土を奪い返そうと躍起になっているのだ。
コウェルズからすればため息しか出ない代物だ。
カリューシャ地方などエル・フェアリアには不要の土地であったというのに、戦勝国としてその土地をならして小国が治めていた時よりもまだ何とか住みやすくした途端に生き残り達が「土地を返せ」と挑んできたのだから。
不要な土地などどうなろうが痛くも痒くもないが、そこにはすでにエル・フェアリアの民が住んでいるので放置もできず。
いっそニコルに戦闘の指揮を取らせてみようか。
そんなことを考えてみた矢先に最後となった文面が脳内に届き、そのあまりの内容にコウェルズは怒りに手紙を持つ手を震わせて握りしめてしまい、伸ばしても無駄だろうほどの皺を手紙につけてしまった。
書かれていた内容は、エルザについての悲しい文章だ。
ニコルがエルザに別れを告げた。それだけで今エルザがどうなってしまっているか手に取るようにわかった。
周りが不安になるほど恋愛に対して純粋すぎるエルザが、突然の別れを簡単に受け止められるはずがないのだ。
--どういうことだ…
ニコルという生真面目な男が、エルザに手を出しておいて簡単に別れを告げるはずがないと思っていた。
ニコルがエルザを抱いたその日、コウェルズはそうと知りながら無垢なエルザを獣と化したニコルの元に向かわせたのだから。
そしてニコルには、手を出したのは自分で決めたことだろうと言いくるめた。
生真面目な者にしか効かない、魔力を持たない言葉の呪文。
コウェルズは生真面目な者達に対してよくその言葉を使ってきたのだ。罠にかけた相手にありもしない責任感を生み出させ、罪悪感を感じさせて逃げられないように仕向けてきた。
だというのになぜ?
エルザに手を出してしまった。だから、たとえ愛せなくても離れることは無いだろうと思っていたのに。
手紙にはそれ以上の情報は無く、コウェルズには今現在のエル・フェアリア王城内の状況を知る術が無い。
通話型の伝達鳥は大会中は危険ばかりであまり使えない。故郷に戻ることも許されない。
--何があった…
そしてエルザは今どうなっている?
大切な妹を罠にはめたのはコウェルズだ。ニコルの中にある守るべきエル・フェアリア王家の血を手に入れる為にエルザを使ってしまった。
だがエルザは大切なかけがえのない存在なのだ。
泣かせたいわけじゃない。悲しませたいわけじゃない。
たとえニコルの心が折れて歪であろうとも、ニコルがエルザのものであればよかったのに。そしてニコルはエルザのものとなったはずなのに。
--どこで読み間違えた?
どこかわからない。
生真面目なニコルがエルザを捨てる原因などあるはずがないと。
どう考えを巡らせてみても。
妹達を大切に愛していたとしても両親を愛したことのないコウェルズに、ニコルの心を読めるはずがなかったのだ。
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彼女がアリア。
エレッテの闇色の眼に映る美しい娘がアリアだと教えられて一番最初に思ったことは、ガイアに似ているということだった。
アリアはガイアの姪に当たるはずなので面影程度であれ似ていて当然だが、ニコルの弟であるルクレスティードとはあまり似ていない気がした。
そう思えば銀の髪の色がニコルとアリアを兄妹と説明されれば納得する程度に近しく見せはするが、眉目はあまり似ていない。
アリアには人としての優しい面差しがあるが、ニコルにあるのはファントムの面影だからだろう。ルクレスティードもきっとファントムに似ている。彼自身は母に似たと口にしていたが、成長すればニコルのようにファントムに似るだろう。
アリアとニコルを目に映してから、同じ呪いを受けた仲間を思い目を伏せる。
それでも彼らの質問に答えながら、伏せ続けようとする顔を何度も上げて。
話がしたい、と。
そう願い出たアリアの声に、辺りの空気が静まり返る気配をぞくりと感じ取った。
その冷え込むような気配を醸し出すのはニコルと、そしてエレッテの側でエレッテを監視しているガウェだ。
「…二人になんて出来るはずないだろ。あいつは捕虜だぞ」
「でも兄さんやガウェさんじゃ聞き出せないこともあるわ」
ガイアには無い芯の強さで、アリアがニコルに詰め寄る。その様子を眺めている間に、エレッテの隣でガウェが静かに動き、何かをフレイムローズの護衛蝶に指示していた。
「…話すならここで話せばいいだろ」
「今の兄さんとガウェさんの側じゃ、話したくても話せないことだってあるわ」
アリアは引かない性格なのか、強くニコルに詰め寄ってエレッテとの対話を願ってくれるが、その様子には混乱することしかできなかった。
ニコルの言う通りだからだ。エレッテがニコルの立場であったとして、絶対に敵側の人間と大切な家族を二人になどさせられない。
いったいアリアがエレッテに何を聞きたいのか。それも、ニコルもガウェもフレイムローズもいない状況でなど。
だがエレッテに発言の権利など無く、静かに見守ることしか許されなかった。
「お願い兄さん…兄さんはあたしに、兄さんを教えてくれる為にあの人と合わせたんでしょ?だったら…あたしはもっと知りたいことがあるよ」
アリアの切実な声にニコルが喉を締め付けられたように固まり、しばらくしてからアリアの両肩をしっかり掴みながらも、拒絶するようにかすかに視線を逸らした。
「…今話した以上の話なんか無い」
「…そんなことないよ…兄さんはまだ知ることが怖いだけ…怖かったから、今まであたしに話してくれなかったんでしょ?…今やっと教えてくれたけど…それでも全部は怖いんでしょ?」
アリアは肩を掴むニコルの腕に手のひらを乗せて、全てを包み込むようにニコルへと歩み寄る。
体で、そして言葉で歩み寄るその姿はとても慈愛に満ちていた。
「兄さんの代わりにあたしが聞く。それで、あたしが全部受け止めて、いつか兄さんが知りたくなった時に、あたしが教える。ととさんのことも、兄さんのお母さんのことも……あたしたちの弟のことも」
あたしたちの。
その言葉に、ニコルの視線が無意識に上がっていた。
「兄さんの弟が、あたしの弟じゃないわけないでしょ…あたしたち、きっとまだまだ知らないままの幸せが沢山あるの。それを探しに行こうよ」
大丈夫、あたしがついてるよ。
どちらが年上かわからないような言葉に、ニコルの気配が先ほどより柔らかくなったことが目に見えるようだった。
「話はついたみたいだな」
そこにガウェがため息をつきながら再びエレッテの隣に足を止めて、魔具ではない魔力を手の中に出現させた。
エレッテとアリアとニコルの視線を受けたまま、ガウェはフレイムローズの護衛蝶に自分の魔力を食べさせて、こちらに来いとニコル達を手招きする。
「フレイムローズの蝶の形を変えさせる。この場所で個室の空間を作って、そこで話をさせれば俺たちはアリアから離れる必要も無くなるからな」
その言葉に驚くのはエレッテだけではなかった。
ニコルはアリアが説得できたとしても、ガウェは説得できないだろうと思っていたからだ。
だというのにガウェは最初からアリアの要求を飲む様子だったらしく、エレッテにはわからない魔力の準備を着々と進めていく。
「…いいの?」
思わず問いかければ睨みつけるような視線を返されてびくりと肩をすくませてしまう。
「…あの状態のアリアが言い出して、素直に諦めさせられる人間なんかいない。勝手に行動されてお前に会いに行かれるよりいい」
ガウェの言葉はエレッテに対してだけ鋭い棘を持っていたが、無視されるよりはマシだった。
「ガウェさん、兄さんよりあたしを理解してくれてるね」
ガウェのひと睨みを受けていないアリアは人ごとのようにクスクスと笑い、アリアの言葉にニコルがわずかに拗ねて口元を引き結ぶ。
「…エレッテ、さん。…兄さんのこと、あたしが聞いてもいいですか?」
ニコルの元からエレッテへと歩みを寄せるアリアの、数秒前の笑顔とは違う真摯な表情。その表情はニコルやルクレスティードを思うガイアによく似ていて、エレッテは声も出せずに頷くだけになってしまった。
「…いいか、もしアリアにおかしな行動をしてみろ。その身体を二つに分けて保管することになるから覚えておけ」
アリアと二人にはするが、それはエレッテを信用してのことではないと改めてガウェの殺気とともに教えられて、状況からして当たり前の言葉であるというのに強く唇を噛んでしまう。
ここに仲間はいないのだと改めて気付かされたからだろうか。
フレイムローズは今の所はファントムの命令を聞いてエレッテの味方でいてくれはするが、それが最後まで続くとは限らないのだから。
「…アリア、これを」
そしてニコルも。
女の手でも持ちやすいだろう小さな短剣の魔具を生み出して、アリアに持たせて。アリアは短剣が示す理由に驚きはしたが、それでニコルが安心できるならと素直に受け取っていた。
「フレイムローズの魔力がお前達を囲う。外にいる俺たちには話の内容は聞こえないが、フレイムローズの耳は塞げない。そこは目を瞑れ」
「…充分です。ありがとうございます、ガウェさん」
エレッテとアリアからニコルとガウェがわずかに離れて、頭上に飛び上がっていたフレイムローズの護衛蝶が姿を魔力の霧に戻すと同時に新しい姿へと作り変えられていく。
それは見事な繭で、するすると包まれていくほど光が遮断され、すっぽりと覆われた瞬間にどこからか明かりが溢れるように、ぼんやりとした光のあふれる狭い空間にアリアと二人きりになった。
大人二人が座り込む程度の広さの繭の中で。
間近に佇むアリアが一番最初に行った行動は、ニコルから渡された短剣を地面に置くことだった。
「…こんなの持ってたら…ゆっくり話せないですよね」
声に宿るわざとらしい親しみの中に隠せないまま存在する緊張に、返す言葉はやはり出てくれなかった。
「とりあえず座りましょうか。せっかくフレイムローズが落ち着く空間を作ってくれたんだし」
先にアリアがその場に座って、エレッテも後に続いて。
冬の地面は冷たいと思ったが、魔力の影響なのか肌に伝わる寒気はいっさい感じられなかった。
「…えっと、改めて、初めまして。アリアです」
小さく頭を下げて、エレッテの表情から心を覗こうとするように見つめてくる。
エル・フェアリアでは嫌でも目につくだろう女性の高身長だが、互いに座れば気にするほどの差は無くなって。
「…エレッテ」
ぶっきらぼうに名前だけを告げて、また視線を落としてしまった。
アリアをどうこうするつもりはないのでニコルやガウェからの攻撃は無いだろうが、それでも警戒は消えなかった。当然だろう。痛みは怖いから。
「…ととさん…ファントムを知ってるんですよね?」
知りたいことがあると対話を願ったアリアが、エレッテが視線を上げる前に問うてくるのは当然のようにファントムの件で。
「…ととさんが兄さんを傷つけたって本当なんですか?」
いまだに信じられないと、嘘だと言ってほしそうな口調で切実にたずねてくる。
アリアはまだファントムを信じたいのだろう。きっとファントムは、アリアには無害な笑みを見せ続けたのだ。
それは、ファントムに守られたガイアですら逃れられないメディウム家の血の呪縛が、アリアを哀れに思わせたからか。
「…本当」
「どうして?」
事実に間髪入れずに拒絶のような問いをして、アリアがわずかに身体をこちらに寄せた。
なぜかなど。
それを言ってアリアがどう思うかは分からなかったが、暫く考えてからエレッテは事実だけを告げることに決める。
どれほど残酷な事実であるか、知ったアリアがどうなるかは考えないようにして。
「王子が私を捕らえていたから、ファントムは彼を人質にして私を解放させようとしたの」
ファントムの身体を苛む呪いを解放するためにエレッテは必要な存在だから。
それはさきほど話したことだ。アリアもひとつひとつ吟味するように思い出しているのか、言葉に詰まったまま数秒の時を流した。
暫く考え続けるアリアは拠り所を探すように服の胸元を強く握りしめて、
「…じゃあ、これを知ってる?」
しかし握りしめていたものは服ではなく、服の下に隠していた首飾りであると、大切そうに首元から取り出しながら問うてきた。
それは、赤色の古い石で。
「ととさんが、兄さんとあたしに持たせた石…共鳴石よ…これを知ってる?」
見た瞬間に、それが何であるのか気付けた。
「これは、兄さんを産んだ人が兄さんの為に守護の祈りをしたものだって聞いたの…これは、兄さんがずっと、今も愛されてる証拠なんでしょ?」
アリアが何を言っているのかわからない。
なぜならその石はガイアが持っていても意味は無いのだから。
石でなく、そのかけらと言うべきか。
「それは…」
アリアはその片割れをニコルが持つことこそが愛されている証だと告げようとするが、共鳴石とは名ばかりで、そんな安いものではないのだ。
いや、共鳴石も非常に希少価値の高い石ではあるが、アリアが首にする石はそれ以上の存在で。
「…それ…共鳴石じゃない」
言っていいものなのかわからない。
それをニコルとアリアに持たせていたことも知らなかった。
「…王子達には絶対に言わないで」
どう説明すれば良いのかわからず、他言はしないでと頼んで。
「それは…エル・フェアリアの古代兵器よ。赤を宿したネックレスでファントムが持ってる。あなたが持っているのは、そのかけら」
ガイアが守護の祈りを宿したかどうかはわからないので、言葉を濁して。
古代兵器が何を意味するのかはアリアもすぐ理解できた様子で、サッと頬が白くなる。
「でも、ととさんが兄さんに渡したものなの!ととさんも兄さんを心配している証拠でしょ!?」
あまりに切実な声に、ようやくアリアが何を欲しがっているのか気付いた。エレッテはニコルからの問いかけに、ファントムのガイアに対する異常な執着心を話したところだから。ファントムにはニコルなど不要と知らしめるような言葉で。
「…ガイアはニコルさんをずっと心配して、ずっと愛してるわ」
アリアはニコルが両親に愛されている事実が欲しいのだ。
「…いつも話して聞かせてくれるもの」
エレッテだってニコルに伝えたかったことだ。ガイアがどれほどニコルを愛し思っているか。しかし、アリアにはそれだけでは足りないのだろう。
ニコルが両親に愛されている事実が欲しい。しかしそれ以上に、会ったこともない母親よりも、ファントムがニコルを愛している事実が欲しい。
だが、その愛を確実にしてやれる言葉などエレッテには浮かばない。
「…ととさんは?」
アリアの言葉が鼻につまり始める。思わず見上げた先には、涙を瞳いっぱいに浮かべながらも我慢する苦しくも美しい表情があった。
今ニコルには何が必要なのか知る表情。
どう言葉をかけてやればいいのかわからない。
ファントムがニコルを何とも思っていないことだけははっきりと知っているから。
ルクレスティードはファントムの魔力だけでなく珍しい千里眼も持って生まれたから、ファントムの役に立つものとして側にいることを許されたのだ。
ファントムにとって役に立つ武器を何も持たずに生まれたニコルを、ファントムが息子というだけで無条件に愛するなどあり得ない。
「あなたの欲しい言葉はあげられない…私が口にできるのは、ガイアが本当にニコルさんを心配して愛してるってことだけ…ファントムは非情な人だから」
嘘でよければいくらでも話せたのだろう。ファントムもニコルを愛しているよと、たったそれだけで済むのだから。
「…でも、子供の頃に何度も兄さんに会いに来てたわ…」
アリアの震える声が胸をざわつかせる。
苦しそうに首にかけられた石を握りしめながら、俯いたまま涙の雫が落ちるのを見た。
「…それは、マリラ・メディウムがファントムにそう約束させたからだって聞いてる」
ガイアが一度だけ聞かせてくれた大切な約束。
「…ガイアがまだ赤ちゃんのニコルを手放すことを嫌がった時に、ファントムが無理やり引き剥がして、それを見てたマリラ・メディウムが毎年必ず会いにくるように約束させたって」
ガイアがニコルと会うことはファントムが許さなかったが。
「ニコルさんが成長していく様子を見せることで、父親としての意識を持たせたかったんじゃないかな」
結局ファントムに父親の自覚は芽生えなかったようだが。
いつの間にか顔を上げていたアリアが、エレッテが口にしなかった部分まで読み取ったかのようにボロボロと大粒の涙を流し始める。
愛は無いのだと、信じたくないだろうに。
「……じゃあ…弟のことを…教え…」
涙を止められないまま、何度も何度も袖でぬぐいながら、アリアが次に進むようにたずねてくる。
ニコルの代わりにニコルの全てを聞いて、全てを受け入れると宣言したことを実行するように。
苦しいことばかりではないのだと知りたがるように。
「…ルクレスティード。素直で、すごく良い子で…いつも“兄さんに会いたい”って、願ってる。私みたいにファントムの魂のかけらを宿してるけど、幸せに育ってる」
母の愛を受けながら、仲間たちに思われながら健やかに成長を続けているルクレスティードは、唯一絶望を知らないファントムの一部だ。
「…兄さんに」
「うん。ずっとガイアが話すから、いつか家族になるんだって信じてるよ」
パージャが騎士として王城に潜入した時も、自分も行きたかったと拗ねていたくらいだ。拗ねて、駄々をこねて、ガイアを困らせた。
そのことも話すと、アリアが涙を浮かべたまま少しだけ笑った。
「…兄さんは、ちゃんと愛されてる」
「いつか一緒に暮らせることがガイアの夢だから、愛されてるよ」
ファントムさえ考えを改めてくれたなら、きっと誰もが羨む理想の家族になれるだろう。
「…そこに、あたしも入れてくれるかな」
切望するように呟かれたアリアのかすかな言葉を、エレッテは聞き逃しはしなかった。アリアはすぐに口をつぐむが、聞こえなかったことにはできないほどにアリアも家族の愛に憧れ飢えていることを知らせてくる。
だから。
「……ねえ」
悪魔が耳元で囁いたかのように、その考えが浮かんでいた。
「ファントムの側について」
まるで操られているかのように勝手に口がするすると動いて行く。
驚き固まるアリアを置き去りにしたまま、言葉は止まらない。
その言葉が操られたものでなくエレッテの意思だということだけははっきりとわかった。
「ファントムの望みさえ叶えば、私たちには平穏が手に入る。ガイアもルクレスティードも。あなた達にだって…家族一緒にいられるようになる」
治癒魔術師であるアリアをこちら側に引き込むことが出来たなら、間違いなくエレッテ達の願いは近付く。
「何言って…」
「私たちがリーン姫を救い出した時、殺したくて騎士達を殺したんじゃない。被害を最小限に抑えるための努力はしたわ。私たちは誰かを苦しめたいわけじゃない。平穏が欲しいだけだから。リーン姫も、みんなも、ファントムだって同じよ」
本来存在して当然の平穏を。
アリアが押し黙ったままなのをいいことに、考えさせる時間は与えなかった。
「私たちには魔力が備わってる。でもこれは元々ファントムのもので私たちはいらないし、ファントムは魔力を取り戻そうとしてる。魔力さえファントムに戻ったら呪いも解けるはずだから、そうすれば家族みんなでいられるし、ファントムだって未来に進める。今はニコルさんが見えてないだけで、ファントムだってきっと家族を愛し始める。ガイアはあなたのことも心配してたもの。当然家族になれるわ」
アリアの欲しいものをちらつかせながら、自分たちの近くに手繰り寄せていく。
「ファントムがニコルさんを刺したのは、王子が私を捕らえていたからよ。殺すつもりなんかじゃなかったのは傷を思い出してみればわかるはず」
ニコルが受けた傷は致死に至るものではなかったはずだ。
「ファントムの望みさえ叶えば、みんなに平穏が訪れるわ。私たちだけじゃない。この国全てに」
それは、歴史が変わるほどの壮大な望み。
「…ファントムが魔力と王座を取り戻せば…ロスト・ロードの治世が始まれば、誰にも苦しめられずに生きられるわ」
史実上コウェルズですら叶わないほどの偉業を成し遂げたロスト・ロードが戻れば。
「あなただって、今のこの国に苦しめられてきたんでしょう?」
エレッテの最後の言葉に全てを囚われたかのように、アリアの身体に最後まで染み付いて取れなかったエレッテへの警戒が消滅したのがわかった。
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