第65話


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 凍りついたように動かないアリアの手を、そっと包んで引き寄せる。
「ととさんが…王家の人なんて…」
 信じられないと否定する方がおかしいほどの存在であることはアリアも理解している様子で、その後に続けたいだろう否定の言葉を無くしてしまう。
「……兄さん…」
 彼を父親に持つのだから、ニコルも。
 腕の中で見上げてくるアリアの視線がたまらなく痛かった。
「…自分が何なのか知ったのはまだ最近のことだ。城内でも少しの人数しか知らない。三団長と、ガウェとフレイムローズ、コウェルズ様とミモザ様、エルザ様、後はヴァルツ殿下とルードヴィッヒ殿くらいか…」
 王家の人間である事実がどれほどのことなのか。無邪気に喜べるものでないことはこの国に絡め取られたアリアにも痛いほどわかるのだろう。ニコルが淡々と語れるのはそこまでだった。
 それ以上のことは、まだ知らない。
 だからニコルは、自分の口から語ることのできる少ない情報をアリアに与えた後は、様子をうかがうようにエレッテに目を向けた。
 その視線の動きにアリアも気付き、同じようにエレッテを視界に入れる。
「…彼女は…俺が負傷した時に捕まえた親父の仲間だ」
 数日前に、ファントムに傷付けられた時に。
 アリアには誰に傷付けられたものかは言っていなかったが、負傷という言葉だけに反応してエレッテに向ける眼差しを険しいものに変える。
 誤解させてしまったか。そう思ったが、まだエレッテに対する気持ちの整理のつかない心が、アリアの誤解を解くことを拒絶した。
「…彼女が教えてくれたんだ。俺に、母親が別にいることを」
 遠回しに伝えられた真実を受け入れて、自分とアリアは血の繋がった兄妹ではないと受け入れて。
 エレッテはアリアに向けて静かに頭を下げると、ちらりとガウェを気にしてからニコル達のいる方へと近寄ろうとしたが、足を動かそうとしたとたんにガウェが鋭い動きでエレッテの行動を制した。
「アリアには近付くな」
『ガウェ!!』
 エレッテに警戒を見せるガウェと、その行動を強く非難する巨大な護衛蝶姿のフレイムローズと。
 護衛蝶はエレッテを庇うようにガウェとの間に入ると、ごめんね、と言葉を紡いでそっと後ろへと押し戻した。
「…捕まえた人だから?」
 近づくことを許されなかった一連の流れにアリアが小声で問うてくるから、頷くだけに留めておく。そしてアリアを背中に庇うようにエレッテに正面を向けて、重くなろうとする唇を動かした。
 エレッテは教えると口にしたのだ。ニコルが何者なのか。父は何者で、母は誰なのか。
「…親父のことを教えろ」
 その中にニコルを産んだ母親の話も含まれるのだろうと理解して。
 エレッテはフレイムローズの護衛蝶だけが味方をしてくれる中で怯えるように視線を下に向けたが、数秒を使い呼吸を整えてから再びニコルとアリアに真摯な眼差しを向けた。
「…私がファントムの仲間になったのは四、五年くらい前のことだから全部知ってるわけじゃないし…又聞きのところもあるけど…」
 伺うように前振りを告げて、不安からか一瞬だけ護衛蝶を視界に入れて。
「ファントムがロスト・ロードからファントムになったのは--」
「--え…」
 説明をくれようとするエレッテの言葉がいとも簡単に立ち止まる。後ろ髪を引くように弱い力で止めたのはアリアだ。
「ロスト・ロードって…」
 その名前を知らないものなどエル・フェアリアには存在しない。
 辺境に生まれ育とうがアリアにも例外ではないのだ。
 そしてエレッテにとってファントムがロスト・ロードであることが当たり前であったとしても、他者にはその事実はあり得ないのだと認識を改めたのだろう、彼女は言葉を探すように少し思案の表情を見せてから、やがてアリアにだけ伝えるかのようにまっすぐ視線を上げた。
「…ファントムは、44年前に暗殺されたと言われてるロスト・ロードよ。44年前、ファントムは殺される寸前で命からがら逃げることが出来た。自分の魂を七つに分けて」
 改めて始まる説明は、ニコルにもガウェにも掴めていない真実で。
「その当時の魔術兵団がロスト・ロードを殺す為に追い詰めた…彼が生き延びる為には、膨大すぎる魔力を魂ごと分けて命を散らしたように見せることしかできなかった…そうして何とか逃げ延びたロスト・ロードはファントムと自ら呼び名を変えて、逃した自分の魔力…自分の魂を探し出したの。それが私たちよ」
 過去の物語の始まりに、誰もが息を潜めて。
「私も、パージャも、リーン姫も…みんなファントムが逃した魂を持って生まれたの。なんで私たちが選ばれたかは知らないけど」
 重苦しい口調の最後に、投げやりな態度が混ざる。選ばれたことが光栄だなとど思えないほどの苦しみを味わったのだと、そのか細い全身で告げていた。そして見上げるエレッテが、かすかに微笑んでニコルを目に写した。
「あなたのお母さんは、そのうちの一人。もう調べる中で名前は知ってるんじゃないの?エル・フェアリアから治癒魔術師のメディウム家が消える原因になったガイア・メディウムの名前は」
 ガイア。その名前に息を飲む。
 エレッテの言う通り、ニコルはその名前を、ファントムの過去を知る途中で知ったのだから。
「…兄さん?」
 強張るニコルの背中にアリアの手の温もりが伝わる。
「ガイアはいつもあなたのことを心配してた。手放したくて手放したんじゃないって…でもファントムが許さなかったから離されたの」
「兄さん…ガイアって人を知ってるの?」
 前からはエレッテの声が。背後からはアリアの声が。
 どちらを優先するべきなのか。それとも押し黙り続けるべきなのか。わずかに揺れる気持ちがアリアに傾いだのは、エレッテがアリアを優先するように口を閉じたからだった。
 その流れに従うように、ニコルもわずかに後ろへと振り向く。
「…ガイア・メディウムは…マリラ・メディウム…母さんの妹に当たる人だ」
 母の名前にアリアの身体が強張る。
 ニコルは城下に降りた際に、ビデンス・ハイドランジアから聞かされた。
 闇色の髪を持った赤子が生まれて間もなく、エル・フェアリアからメディウム家は消え去ったのだと。
「ガイアは赤ちゃんの時からファントムと一緒にいた、ファントムが最初に取り戻した“自分自身”なの」
 自分自身。それはファントムが切り離したという魂のことを指してのことだろうが、奇妙な違和感は拭えなかった。その言葉を鵜呑みにしてしまえば、エレッテもファントムであるということになるのだから。
 ニコルの胸中になど気づくことなく、エレッテは静かに言葉を続けていく。
「だからかは知らないけど、私達なんか目に入らないくらいファントムはガイアに執着してて…たぶん、ガイアがまだ赤ちゃんのあなたを抱きしめるのが許せなかったんだと思う」
「…何だよ、そんなもん…」
「ファントムはガイアをがんじがらめに縛り付けてるの。自分から離れないように、ありとあらゆる手段で。だから、何もせず無条件で愛されるあなたが許せなかったんだと思う」
 実子を許せないほどの不気味で奇妙な執着心が、ガイアからニコルを奪った。父にどう思われているのかも、幼い頃からうっすらとわかっていた。わかりたくなかったのは、血の繋がりをニコルが大事にしたかったから。そしてファントムが気まぐれにニコルに会いにきて、気まぐれに可愛がっていたからだ。
「…親父に愛されてないことくらい…とっくに気付いてた」
「そんなことない!!ととさんは兄さんを思ってたよ!!」
 ニコルの呟きに強い否定の言葉が入る。
「ととさんは、いつだって兄さんを気にしてたわ!今だって絶対!!」
 全身で叫ぶようにすがってくれるアリアの手を握りしめて、
「…俺の腹を剣で貫いたのは…親父だ」
 アリアの知らない真実を口にして。
 言葉の意味を理解できなかったのだろう。呆けたアリアの身体から力がわずかに抜けて、ニコルにすがる腕が離れた。
 それでも否定しようとわずかに口を開くが音にはならず、やがて理解が身体に追いついたように瞳が震え始める。
 他の誰かの言葉ならアリアは否定できただろう。しかし傷付けられたニコル自身が犯人の名を口にしたのだ。そしてあの時のニコルの異変を、傷を治したアリアが一番よく理解している。
 誰から受けた傷なのか。
 数日前の記憶がアリアに確信を与えてしまった。
「……うそ」
 震える声が微かに響いて空気に消える。
 ようやく口にしたその言葉は単純に、アリアの胸中が漏れただけだった。
 一連の流れの後に空白のように静かな時間が訪れて、今まで静かに聞いていたガウェが睨みつけるようにエレッテに目を向けた。
「闇色の虹と俺達は呼んでいるが」
 ファントムとニコルの親子関係になど興味の無いガウェらしい質問。ガウェが欲しいものは、リーン姫に通じるものだけだから。
「虹は、ファントムが王家の人間である証拠…闇色に染まったのは、それが憎しみにまみれた呪いだから」
 ガウェを見上げるエレッテはガウェを恐れるようにわずかに護衛蝶に身を寄せた。
 エル・フェアリアではありえないような闇色のその理由は、ファントムの、ロスト・ロードの憎しみの量だけ。
「お前達の狙いは何だ?」
「…私達の“願い”は、この身体にある呪いを消すこと。ファントムの狙いは、私達に宿った自分の魂を取り戻すこと」
 狙いを願いと言い換えて。
 ファントムとそれ以外の違いに、ニコルは眉をひそめた。
「七つの宝具を奪ったのは、その力が無いと私達の身体からファントムの魂を切り離せないから。リーン姫をさらったのは、私達が揃わないと意味が無いから」
 何もかもの真相を。
「…平穏なんて無かった。恨みしかない。リーン姫にだって当てはまるはずよ。恨まずにはいられないくらいの扱いばかりだったもの。解放されるには、ファントムに力を貸す以外に道が無いから」
 ファントムの魂を持って生まれたがゆえに失った平穏。かわりに与えられたものはあまりにも悲しい憎しみばかりだと。
 リーンの十年間を思い言葉を無くすガウェは、誰よりもリーンの悲しみを知っている。
 それと同じ苦痛を味わってきたのだろうエレッテへの眼差しに、同情が静かに加わった気がした。
「…ニコル…あなたには弟もいるよ」
 父の思惑、母の存在。そこに新たに出現する存在に、思考が止まる。
 弟?
 それが何を示すのか一瞬わからず、だが次第に理解が追いついていく。
「その子もファントムの魂を持って生まれてきたの。ルクレスティード。まだ12歳よ」
 まるで自分の愛しい子供だとでも言うように優しい口調になるエレッテに、それだけでどれほど愛されているのか、求められているのかが知れた。
 自分が手に入れられなかった父からの愛情を手に入れているのだろうと。
 ファントムは実の息子であるニコルよりも、魂の片割れであるエレッテを選んだのだ。それだけで、同じように欠けた魂を持って生まれた弟がどういう立場にいるかが知れた。
「その子もあなたのことを思ってて--」
「そんなことは聞いてない」
 自分でも驚くほどの冷めた声に、誰よりも驚いていたのはアリアだった。
「…母親のことはもう聞いた…これ以上は不要だ。次はファントムの居場所を教えろ」
 自分を思ってくれる血の繋がった母という存在がいてくれた。
 その事実が、弟という存在を前に砕け散ったのは確かだ。
 自分でも愚かしく思うほどに、ニコルは会ったこともないその弟に深い苛立ちを感じ始めていた。
 弟は愛情を受けて育ったのだろう。
 ニコルがアリアの母を殺してしまった11歳の年月より長く。
 愛情を与えてくれた人をニコルの無知が殺してしまったより長く、さらにはニコルが欲しかった実父からの愛情をも受けながら。
 パリパリと軽い音を立てて割れるように、薄いガラスが砕けた気がした。
 それは何のガラスなのか。
 ただニコルの胸の奥に響いた音であって、自分以外の誰にも聞こえない音であることは確かだった。
 あまりにも脆い。
 すがる存在などではなかったと、いとも簡単に。
 欲しかったものは、結局本当に欲しいものではなかったのだ。
「…ニコ」
「ファントムはどこにいる?そこにリーン様もいるのか?」
 自分を呼ぼうとするエレッテの言葉を遮って、知りたかった事実が捨てて構わないほどのボロ布であったことに見切りを付けて。
 ガウェと手を組んだのは、ファントムが何者であるのか知るために、そして緑の第四姫を救う為に。
 もはやリーン姫の居場所を知るためのすべでしかなくなったエレッテを、見下すように冷めた声だった。
 ニコルの変化に言葉を無くすエレッテから目を離して、新たに視界に映したものはアリアが大切に抱く礼装だ。
「これがラムタルの土地で作られたということは調べてある。お前達はラムタルのどこにいた?」
 身を強張らせるエレッテも礼装を目に映す様子に気付きながら、考える時間を与えないほどの苛立ちの気配で急かしていく。
「ら、ラムタル…じゃない」
「嘘はやめておけ。ここまでの礼装はラムタルの中でも王都の技術でなければ作れない代物だ」
 はぐらかそうとするエレッテの言葉を遮ったのは、無表情のガウェだった。
 あからさまに顔色を悪くしていく様子にガウェの言葉が正解であると確信するが、それでもエレッテの肯定の言葉は必要なのだ。
 恐らくガウェが口にした王都という言葉はカマをかけただけのものだろうが、エレッテはパージャとは違い上手くはぐらかす術を持たないようだ。
「…知らないわ」
 俯いて苦しくはぐらかすその肩をガウェが苛立ちに任せて掴もうとするが、その乱暴な扱いはフレイムローズの護衛蝶が許さず、エレッテの背中に羽を生やすかのように彼女を守った。
「…フレイムローズ、お前のせいでリーン様の苦しみが長引くことになるんだぞ」
『っっ、ロスト・ロード様はそんなことしない!!』
 エレッテをかばうからガウェの苛立ちはフレイムローズに向かい、フレイムローズは王家に忠誠を誓うからさらにガウェの頭に血が上り。
 埒のあかないやり取りを続けるつもりなどないガウェが歪で残酷な特殊ナイフの魔具を生み出すから、エレッテとアリアが恐怖に息を飲んだ。
「ガウェやめろ!」
 今までニコルの母親などの話に我慢して付き合っていた分だけ、ようやくリーンという本題に入れたからこその焦りに苛まれていることは誰の目にも明らかだった。
 まだ正気でいるだけマシだと思いたいが、それでもその手の中には魔具が握られたまま。 
「どうせ死にはしない。なら締め上げてでも吐かせればいいことだ」
「ふざけんな!そんな事をするためにそいつを外に出したわけじゃないだろう!!」
「リーン様を救い出す為に必要なことだ!!」
 落ち着かせようとしたのに、言葉の荒いニコルでは火に油を注ぐ結果にしか終わらず、ガウェがエレッテを再度睨みつけた瞬間に護衛蝶がガウェの顔めがけて飛びかかった。
「貴様!!」
『落ち着いてよガウェ!!』
 ガウェは邪魔をする護衛蝶めがけて容赦なく特殊ナイフで切り裂くが、元々が膨大な魔力の塊である護衛蝶にそんな単純な技が効くはずもなかった。
 しかし空振りのまま静まるはずもなく、応戦するようにニコルも魔具を出そうとして、
「待って!!」
 声を上げたのは、アリアだった。
 この場にそぐわないはずの女の声だというのに、あまりにも凛と強い音にガウェだけでなくニコルや護衛蝶の動きも止まる。
「……私に話をさせて。その人と、二人で」
 それは聞き入れることなどできない提案のはずだった。
 アリアとエレッテを二人でなど。
「…お願い」
 だというのに。
「どうしても聞きたいことがあるの」
 響きわたるほどの意志強い言葉と眼差しに、誰も逆らうことは許されなかった。

第65話 終
 
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